石碑調査(栃木県限定)と拓本等について(瀧澤龍雄)

石碑の調査(栃木県内限定)を拓本を採りながら行っています。所在地などの問い合わせは不可です。投稿は、実名でお願いします。

2月24日も南河内町へ行きました

2007年02月24日 | Weblog
今日は、朝から寒風が吹き荒れると天気予報で言っていた通り、もの凄い強風が吹き荒れました。だが、折角予定していた石仏巡り日なので出かけましたが、予定していた半分も廻らないで早めに帰宅してしまいました。
それでも、宝篋印陀羅尼経を2基記録してきました。もっとも、全く同じ銘文で、違ったのは紀年銘だけという有様ですが…。その他の石仏類は、これといった面白い物はなく淡々と記録だけ取って総数32基で打ち止めにしました。町史に、青面金剛像とあったので、見に行きましたところ、何とそれは千手観音でした。又しても、南河内町でだまし討ちに遭いました。このようなだまし討ちに何度か遭うと、だんだんとやる気がなくなってしまいます。また、双体道祖神とありながら、見に行けばただの二体仏だったり、なんともはや、と言ったところです。そんな訳で、今回はHPへ掲載する画像がありません。2〜3点だけ申し訳程度に掲載することにします。
そこで、と言うわけではないのですが、今回でもって南河内町の石造物巡りは一段落付けることにしました。3月から、足利市へ入ることにします。それも、主に神社仏閣を訪ね歩くことにします。そして足利となれば、高橋氏と一緒に廻りたく連絡しましたところ、3月3日に行こうということに決まりました。今年初めての、高橋氏との行動です。暫くぶりに、車中での楽しい話しが聞けるものと早くも来週が来るのを心待ちにしています。
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2月17日・栃木県南河内町の石仏巡り

2007年02月18日 | Weblog
2月17日も、南河内町(現・下野市)の石仏巡りに出かけました。相変わらず、南河内町のどこかに隠れているかも知れない、江戸前期までの庚申塔探索です。しかし、予想していたとおりに見つからず、返り討ちにあいました。考えてみれば、そうそう簡単に見つかるはずもないし、元々無いかも知れない庚申塔なのだから、いくら探しても無いものは”無い”のかもしれません。それでも、南河内町の教育委員会の碑塔目録にあった一つ、青面金剛像には思わず笑ってしまいました。何と、六臂馬頭観音しかも坐像像容を、六臂青面金剛像としていたのです。
本当は、今回の南河内町調査を以て、一度南河内町を離れようと思ったのですが、まだ探しきれない、もしかしたらあるかも知れない場所が数カ所残ってしまいましたので、もう一回だけ南河内町へ入ろうと思っています。それはタブン、来週24日になるでしょう。
今回の調査で得られたのは、そのほとんどが十九夜塔でした。また、過去に調査済みの場所へも行ったりして、総数57基の調査記録を得ながらも、その成果は余り良いものではありません。それでも2003年に確認していた面白い碑塔の幾つかを写真に撮ってきましたので、おいおいに掲載してみようと思っています。
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2月10日の石仏巡り画像を掲載しました

2007年02月11日 | Weblog
昨日の栃木県南河内町の石仏巡りで出会った、幾つかの画像を掲載しました。お暇な方は御笑覧下さい。それにしても、昨日と今日では天候が余りにも違いすぎましね!。それでも、夕方に出かけた散歩では沢山のタンポポが咲いていました。我が家のマンサクも今週中には咲き出しそうな大きな花芽をしています。そんな光景を見ると何となく嬉しくなります。
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2月10日は栃木県南河内町の石仏巡り

2007年02月10日 | Weblog
今日は、ホントッ暫くぶりに栃木県南河内町の石仏巡りに行きました。その南河内町の石仏は、まだ全域の三分の一位しか実見していないのですが、何となくこの地区へ入る機会がなかったからです。そこで、小山市の江戸前期迄の庚申塔調査が終わった息抜きとして、暫くぶりに南河内町を訪ねてみました。朝8時半から調査を始め、終了したのは午後3時半まで、昼食を取った時間の20分ばかり以外は、今日の素晴らしい天候に気分良くして碑塔を見ていました。
何しろ今日は、高曇りに加えて風もなく、絶好の写真撮影日と手拓日となり、夢中になって写真を撮り、拓本を取りました。
また、今日は暫くぶりに昭和55年庚申塔に出会いました。まだまだ、探せばあるものだと思いました。しかも、栃木県の昭和55年庚申塔としては最も大きいものでした。また、延文三年と板碑としては古くはないのですが、美しい板碑に出会って嬉しくなり、これも手拓しました。野にある板碑としては非常に満足のいく拓本が取れました。また、今日はものすごい文字数の宝篋印塔に出会い、これも夢中になって書き写しました。その他、今日はなぜか偈頌塔に多く出会えました。もっとも、その結果として拓本を多く取ることになったのですが…。
実は、この南河内町を暫くぶりに訪れた訳の一つに、隣接する小山市には沢山の江戸前期迄の庚申塔がありながら、なぜここには寛文年間の庚申塔が一基しかないのか、そしてなぜそれが栃木県では非常に数の少ない阿弥陀如来像容の庚申塔で、その後の延宝年間の庚申塔造塔が、なぜ見られないのか? もしかして、他のどこかに隠れているのではないかと思って、それを知りたくて訪れた訳です。しかし、残念ながら今日は享保年間までの庚申塔しか出会えませんでした。
いずれにせよ、今日の石仏巡りは自分なりに夢中になりながらも気分的にはのんびりした石仏巡りでしたが、結果的には総数で48基もの碑塔を調べることが出来ました。バンバンザイ!と、言ったところです。明日は、その手拓した拓本の解読と精査に加え、今日の石仏巡りの調査記録紙を清書などして、のんびり過ごそうと思っています。
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栃木県小山市の庚申塔を掲載

2007年02月07日 | Weblog
今2007年1月末日で纏めました、栃木県小山市の「江戸前期まで庚申塔」を、(1)データベース (2)データベースに基づく画像 の2点を年代順に掲載し公開します。
但し、都合によっては掲載を取りやめることがあります。また、印刷などは許可していません。

http://sekibutus-001.hp.infoseek.co.jp/public_html/hitho-mokuroku.html

興味のある方は、御笑覧下さい。
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2月3日は栃木県藤岡町から小山市の石仏巡り

2007年02月03日 | Weblog
本日2月3日は、暫くぶりに栃木県藤岡町へ行きました。目的は、藤岡町の青面金剛塔で唯一写真撮影が洩れていた庚申塔を写真に撮ることです。その場所は、10年以上前に訪れたままだったので、探すのに手間を取ってしまいました。その青面金剛像、昔は民家の生け垣の中にあったので全体写真が撮れなかったのですが、今回行ってみるとその生け垣が取り払われており満足の行く写真が撮れました。これで、藤岡町の全青面金剛塔の写真はget!という次第です。何はともあれ、一人で乾杯です。
その後は、藤岡町寄りの小山市へ入り、実見しながら面倒なので銘文を書き写さなかった宝篋印陀羅尼経の銘文を4基、片づけました。それと、佐野市在住の高橋氏からご教示頂いていた、下生井地区櫻源寺墓地の「合爪」文字を調査してきました。そして同寺観音堂内に祀られている、六臂如意輪観音像の石仏も、今回は誰もいないのを幸いと開けて写真に撮ってきました。延宝年間です。
また、これも高橋氏にご教示頂いていた小山市迫間田地区の薬師堂にある宝篋印塔は、適当に巡ったので薬師堂に行き着くことが出来ず断念しました。まあ、所在地が判っているだけに、そう焦ることもあるまい!。と、相変わらず好い加減な石仏巡りです。何しろ、1日で5基の宝篋印陀羅尼経の銘文写しは”シンドイ”のも事実ですから…。(完全な負け惜しみ、そして言い訳ですネ)

小山市の「江戸前期迄庚申塔調査」が1月末で終了したので、今日は気分的に何となくのんびりしました。しかも今日は風もなく春のような暖かい陽気だったので、下生井の薬師堂にある、寛文銘の十九夜念佛塔の銘文も手拓することが出来ました。めでたしめでたしといった所です。そして今日は、総数で40基に満たない調査数ですが3時少し過ぎに調査は終了として早めの帰宅で、午後4時少し過ぎには家に着きました。

※数名の方に「石仏月報」1月号を発送しましたので、既に入手していると思いますが、標題の「号数」に誤りがあります。それは、表紙右上の「07-01」号となるべき所が、昨年のまま「06-01」号と1年戻ってしまいました。相変わらずの、校正ミスです。笑いながら訂正の程宜しくお願い申し上げます。発送してすぐに気づいたのですが、面倒なので訂正連絡を入れなかったら、早速に東京の犬飼氏より連絡がありました。スミマセン!。
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