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石碑調査(栃木県限定)と拓本等について(瀧澤龍雄)

石碑の調査(栃木県内限定)を拓本を採りながら行っています。所在地などの問い合わせは不可です。投稿は、実名でお願いします。

栃木県藤岡町の「伊勢参宮奉神楽記」の石碑調査案内

2022年01月11日 | Weblog

正月明けから、今度は栃木県藤岡町の「伊勢参宮奉神楽記」の石碑調査内容の清書が終わりましたので、掲載いたします。但し、その中の最後のページは途中で読み下しを放棄しましたので、内容が大体わかる範囲です。漢文の出来る方は、ぜひ全文を正してくださいますことを願っています。勿論、私の石碑調査は、その読み下し等より、銘文が正しく記すことに主眼を置いていますので、当然ながら最後の製本では読み下しは掲載しません。それが私の唯一の安堵するところです。それよりも何よりも、銘文の中の一文字でも間違いないように全神経をそちらに向けています。そして敢えて拓本画像も一緒に添えているのは、その確証となればと実際にはそれを見に行けない方のための資料として御笑覧下さい。
それでは、最初にいつものようにその全景写真、そして作字銘文、拓本の順に掲載しましょう。最後の読み下しは大笑いしながらお読み下さい。間違って入れも、苦笑し手頂くだけで結構です。

 

 

 


足利市福厳寺型・墓塔宝篋印塔調査報告書の一部をご紹介

2021年12月31日 | Weblog

11月から始めた、足利市・臨済宗福厳寺様の境内にある墓塔宝篋印塔調査も終わり、その最終報告書が本日校了しましたので、その一部をご紹介致します。滅多に、このような石造物に興味を示す方はおられないのを承知しながら、こんな纏め方もあると参考になりましたら幸いです。最初の画像がその報告書の表紙です。そして目次やらに始まり、年代順に三基のみのご紹介です。
今日は大晦日、全画像12枚と画像の大盤振る舞いですが、暇に飽かして御笑覧下さい。





 

以上です。明日からの正月は、この報告書を10部ほど印刷・(自家)製本してしまえば、今回の宝篋印塔調査は終了です。今度は、鴎村森先生の碑文の総まとめに入りますが、まだまだ拓本を採ったままの物が机の上に山積していますので、それらが出来上がるのは早くて来年の3月になるだろうと覚悟しています。

 


今回も9月17日以来の記事掲載ですから、1ヵ月近くも新規掲載をサボっていました。今回は栃木市藤岡町の個人遺徳碑です。

2021年10月31日 | Weblog

今年は昨年と違い、今年後半はブログ掲載こそサボってこそいますが毎週のように石碑調査三昧です。が、なんともはや石碑本体の高さが3メートルを超えるものが多くなり、しかも碑面は長年の月日経過で銘文があるのかもわからぬような汚れようで、その掃除だけに多くの日時を費やしています。中には、3メートル以上の巨碑両面に銘文があったりすると、もうその掃除だけで一日は終わってしまいます。特にこの頃は日の入りが早くなり、特に神社境内の大樹の下にある石碑などは暗くなるのが早くて参っています。昨日なども、巨碑のそれも両面手拓をしてきましたが、東風が吹いていたので、梯子の上に登っての画仙紙張りはもう大変でした。加えて少しの風でも、季節柄か画仙紙の表面乾きは早くて、篆額部分の墨入れが終わるまでが特に大変でした。そして帰宅して、その碑表だけの銘文文字数が一行で57字。その行数は詩部分があるとは言え25行で、その文字数を数えると軽く1.200文字を過ぎている。それを原稿用紙に、一字の間違いもなく書き出すかと思うと、その手写とその段階での校正の大変さにガクッと、来てしまいました。
 そこで今回は、その前に今年9月07日に栃木市藤岡町の赤麻地区八幡宮境内で調査した「小教頭千里石川君之碑」という遺徳碑の調査が終了していたので、それを掲載してから、現在進めている栃木市藤岡町の藤岡神社境内に所在する石碑に入ろうと思っている。尤も、それが始まるのは少なくもこれから3週間後になるだろうが…。
今回の「小教頭千里石川君之碑」は、只今取り組んでいる鴎村森保定の撰文である。しかも石川君とは、幼い時に当地で家塾を開いていた小林真斎先生(先生はそのご田沼町に移る)に書を習った竹馬の友である。そんな関係からか、これを揮毫したのは森保定のこれも竹馬の友である山士家左俜(光興)である。
まずは、その画像から、

続いて、銘文とそれを補完するための拓本画像です。2枚とも画像を大きくして掲載しました。


下毛(栃木県)の延喜式神名帳に載っている、藤岡町の大前神社碑(先号は磯城宮)にある銘文について

2021年09月17日 | Weblog

只今は、栃木県藤岡町(今は栃木市と合併)の出身者である森 保定(森 士興・鷗村森etc)の撰文した栃木県内石碑を調査中で、その最終段階として地元である旧藤岡町へ通っています。
そして、タイトルにも一部記しました四角柱の一部にある「大前神社拝殿新築應募諸君姓名抜萃碑をどうにか調査が終わりましたので掲載します。
その前に、この石碑については2003年12月3日付けの「古田史学会報-59号」に「大前神社碑文検討応援記」としてその詳細がパソコンでも見られるようになっていました。今から20年も前に纏めたもので、凄いなと感心しきりです。
銘文は、拓本を採ったりやぶ蚊と闘いながら現地で解読を試みたようで、そのご苦労の程をご察し申し上げます。そして、銘文の一部に不読箇所やら間違い読みが、私の拙い手拓作業でも全文が読めましたので、それも下記のURLをコピーペーストして御笑覧方々、ご検討いただけたらと思います。
http://tochigikenpurunima.web.fc2.com/sekihi/gyousei-betu/tochigi_city/hujioka_oosaki_meibun.pdf

掲載した最初の画像は、全景写真です。銘文はこの写真では裏側にありますが、その面の中央に6行に渡って記されています。勿論、写真撮影では解読するのは非常に困難な状態です。

二枚目、次は私の読んだ銘文とその箇所の拓本です。この拓本では細かいところが読めないかもしれないと、上記に掲載したPDF画像をご覧ください。100%以上に拡大しても見られるようにしてありますので、そちらなら問題なく文字が見えると思います。

三枚目は、この石碑の全面拓本画像です。但し、この面は、現地の配置されている位置からは碑陰に当たります。正面と左右面は、醵金した金額と住まい地とその方の姓名が、小さな文字でびっしりと刻まれているだけです、また、銘文のある面にしてもその面の左右三分の二は同じく姓名等が刻まれていて、銘文はその面の中央に刻まれています。本気になって見ませんと、銘文があるのかさえも判らない状態です。

以上、興味のある方は興味があるのですが、一般の方は全く無視です。ちなみに藤岡町町史でさえ、この石碑は調査が抜けているようです。


一昨日に掲載した内容に、一部不都合な箇所がありましたので、訂正しつつ画像を新しくしました。

2021年09月02日 | Weblog

8月31日に掲載しました「山士家翁碑」の銘文と拓本画像の一部に誤りや気に入らない所等があり、この二つ画像を本日新しくしました。但し、石碑写真はまだ再撮影が終えていないので、今月中には行って来るつもりです。今回は、特に拓本の文字がB5版で印刷すると余りにも縮小率が大きくて拓本文字が読めないことが判りましたので、面倒でも二日間を掛けて画像オペークを行いました。これで何とか読めるようになりました。またその下部にある語彙説明の一部に抜けと文字間違いがありましたので、これも修正しておきました。特に拓本は篆額から銘文最下部迄の高さが現物では236.0㎝あるのに、B5では15.5㎝にしなければならず、その縮小率は0.065です。さすがの拓本文字も、これでは小さくてそのままでは読めないのは当然だと印刷して実感しましたからです。苦笑!なお掲載したブログ画像は、JPGで1,920ピクセルです。


今回は、栃木県藤岡町の江戸末期から明治にかけての教育者、山士家翁の碑文紹介です

2021年08月31日 | Weblog

この江戸末期から明治期にかけての下野都賀郡地区にて最も活躍した儒者は、鴎村・森 保定として異論のないところだが、その森 保定と同郷そして同じ時期に同じ郷師について学び、竹馬の友として一生を共に過ごした今回の山士家翁は、学問は勿論のことだが郷土愛に溢れた人物である。そして故郷を愛する心から地元を始めとして多くの役職を兼務しながら常に学業と産業殖産に尽力した人物である。今回のこの石碑は、その彼が亡くなってからの森 保定の撰文である。篆額揮毫者は、西郷隆盛の弟である西郷従道。そして銘文揮毫者は、彼の金井之恭という内容であり、それを刻したのは地元で名高い高瀬鶴皐という人々によって出来ている。その内容、いつもの森 保定節は余り見られず、いつもらしくない平易な文字使いでその業績などを詳しく紹介している。一人でも多くの人に、山士家翁について記憶に残してもらいたい心からだろうと思う。
しかし、その石碑はいわゆる巨碑の部類に入り、高さは321㎝。幅が116㎝という大きさであり、それを調査し拓本を採るにはさすがの私も難儀した代物である。正直言って、75歳を過ぎた老体独りで、このような大きな拓本を採るには無理がある話である。篆額から銘文最下部まででも236㎝もあるので、早朝の8時からの碑面掃除から始まって、半切用紙で7枚(篆額部分は全紙の三分の二サイズ)と裏面の交名部分の全紙1枚余の手拓が終了したのは夕方の6時半(その間は休みなく昼食もパン類を立ち食いしながら作業続行するという、ここ何年か振りでの精魂・体力を使い果たした作業であった。しかも今回に限って、携帯電話を家に忘れてきたので、帰宅がいつもより大幅に遅れることの連絡も出来ず、結果的には家内に余計な心配を掛けてしまった。
最初に、全景写真を掲載したが、この写真は再度の撮影し直しが必要である。次が銘文を作字文字で掲載したが、夏場は石碑調査にも出かけられないのでじっくりと構えて5日間×8時間作業で成し遂げた。その一見無駄な努力を拓本画像と共に御笑覧下さい。また、拓本をパソコンで取り込むのに、A4サイズで60画面に分けて作業をしましたが、これも結構大変な時間を要する作業でしたが、幸いなことに銘文が素直に読めた分だけ助かりましたが…。今年は、このような巨碑の手拓作業はしたくない気持ちでいたら、何と今度は佐野市内でまたしても森 保定撰文の巨碑に出会ってしまいました。しかもそれは上部が大木の枝に掛かっていて、それを伐採しなければ手拓出来ない有様。嗚呼、どうしようと今から悩んでいる次第です。誰か、助手となって手伝ってっくれる方の出現を心から望んでいる。(笑)

 

 


前回ご紹介の「水戸部翁碑」の銘文、其の後こころを入れ替えまして、書家の文字に準えて作成しました。

2021年07月20日 | Weblog

内容は前回に少し記しましたように、私にとっては碑文調査に対して悩みましたついでに、いつものように銘文清書も単なる現代明朝体で記して掲載しました。しかし考えてみると、これを依頼された書家には何の責任もないことであり、この時代の名を成した書家が揮毫しているのでそうそう無偈にするわけにも行かないと反省し、約5日間を掛けてもう一度初めからやり直して、銘文を書き換えました。やはり、今回の方が見ているだけでも気分が良いです。その後の問題としては、結構な数で異体字を使用しているのでそれをどう処理しようかと思案中です。そのためと語彙説明を加えたにしても、それだけで新たな1ページを使用するのも面倒だと次に進めなくて困っています。いずれにせよ、書家の文字に準えて作成した銘文を御笑覧下さい。


一か月遅れで、栃木県藤岡町の調査済み石碑の内の1基をご紹介

2021年07月13日 | Weblog

藤岡町へは6月に3回入り3基の石碑を調査しましたが、その後は昨年から始めた佐野市田沼町の庚申山調査も終了し、ようやくその報告書作成に入って約3週間、それも先週に終わりました。そして今週から、藤岡町の調査済み石碑の清書に取り掛かれました。今回は、撰文者の森保定を纏めるための石碑調査なので、今回ご紹介する石碑には悩みました。その悩みとは、私の調査すべき石碑の範疇からは遠く外れているからです。直言すれば、私の石碑調査対象外なのです。それでも、撰文者が森保定とあらば彼の石碑を纏め中の私としては無視するわけにもいかず悩んだのですが、その石碑の篆額揮毫者と銘文揮毫者が素晴らしい人なので、その意味で後世に残す価値があると再判断して丁寧に、高い画仙紙を使用して一日がかりで手拓しました。石碑の設置場所が酷く、太陽は全く入らない藪の中なので、やぶ蚊はワンサカ、写真は上手く撮れなくてひどい目にあいました。
一枚目は、全景写真です。
2枚目は、いつものように銘文です。しかし今回の銘文は、いつものように碑面に穿たれた文字形を無視して異体字を除いてはみな、現代明朝文字をそのまま使用してしまいました。銘文書家のことを思うと、いつものように作りたかったのですが、どうにもその作業中に銘文内容の方へ目が行ってしまい、その努力に水を差されてしまう虚しさを感じたからです。
3枚目は、手拓画像です。語彙説明箇所には、撰文者に申し訳ないのですが省略し、書家の使用した異体字を中心にして纏めました。語彙説明も、面白い箇所もあったのですが、残念です。余りにも内容のない銘文だからです。




拓本採りのための恐ろしい碑面掃除に約1時間半!

2021年06月27日 | Weblog


ここの所、旧栃木県藤岡町大前の大前神社へ通い続けています。今回は、その石碑調査のための拓本採り前段階として、朝の8時過ぎから碑面掃除に着手。しかし、高さが三メートルを超えているとなると、私の車に乗る三脚の大きさはしれたもの。二つ折れの三脚を伸ばして碑面に立てかけ、その最上段の踏み台に立って石碑の頂部にやっと手が届く有様。それでも諦めず、片手に水ともう一つの手にタワシを持って見事なまでにヌルヌルしている碑面を丁寧に掃除する。手を抜けば、水張りした画仙紙にはそのノロが付着して酷い拓本になってしまうからだ。それを頂部から始めて側面も綺麗に掃除する。恐らく、他人様が見ていたなら危なっかしい作業に、思わず「三脚を支えていてあげる」と申し出てくれるだろうと思って可笑しくなる。しかし、当然ながら人影は全く見当たらないまま、ついに一時間半を掛けて掃除が終わる。自分でも暫くぶりに無茶な作業をしたものだと呆れながら、こんな拓本採りがあと何年出来るのだろうかと苦笑する。ここで、大休止。すでに、汗と掃除用水と落としたヌメリとで全身びしょ濡れ。そしてすっかり疲れた体と汗が収まるまでの休息時間中に、今度は手拓する画仙紙をどうするかで悩む。兎に角、頂部の篆額部分にどうやって画仙紙を水張するかである。伸ばした三脚の頂部に乗って両手を離しての作業、どう見ても掃除以上に危険なことに変わりはない。そこで全紙を横にし高さを50cm幅に裁断して採ることにする。そして銘文部分は、折角掃除したのだが左右の空間部分は割愛して銘文のみの手拓にしようと決める。その銘文のみの手拓にしても計測してみると、横幅40センチ画仙紙が2枚。半切画仙紙が4枚の計6枚が必要である。そしてもう一つの難問は、木陰で風当たりの無いので、非常に乾きが遅いこと。水張のための水を極力少なくするために、水張は手抜きの刷毛で行うことにする。そして篆額部分から水張を開始したが、いかんせん両手を離しての曲芸紛いの水張作業ゆえに、一回目は見事に失敗して途中で破れてしまう。2回目、今度こそはと先ほどよりはもっと大胆な行動で身を左右にせり出しながら水張りしたが、垂直に近く立てかけた脚立からはやはり手元が見えず、第六感に頼るだけの水張のため、随分と用紙が斜めになってしまった。しかし、採りたい個所はその中に納まっているので良しとしていったん三脚から降りて一息付く。墨入れに適した状態になるまで、待ち時間である。まだ、墨入れするには少し早すぎるが、その後の作業段取りを考えるとそうノンビリともしていられず、またしても三脚上段に乗って両手に墨二つを持って作業するが、その墨入れする墨の追加にはいちいちその度に三脚を降りなければならず、何とも効率の悪い作業である。結局、篆額部分の墨入れだけが終わった段階で、時計はお昼を過ぎていた。急いで即席ラーメンを腹に流し込み、銘文個所の水張に取り掛かるが銘文の上下は190㎝ある。つまり、手持ちの画仙紙では縦に使用するだけで2枚必要。それを三回繰り返さなければならない。どう計算しても、水張から墨入れ迄の待ち時間と、墨入れ作業の時間をプラスすると、夕方までには完了しない計算となる。少なからずあせるが、そうかといって銘文の墨入れでは手抜きする事も出来ない。水張が終わるや、持参した団扇でパタパタと風を送って少しでも早く乾くように、これも汗だくとなってその後は全く休みも採らず採拓に専念する。運悪く、今日に限って携帯電話を忘れてきたので、現在の時間が全く分からない。腕時計を持たない主義の弱点が露見したことになる。銘文手拓の三回目まで進むと、西の空は少しずつ日が傾いているのが分かるが、却って現在の時間が分からない方が良いとばかりに作業に専念し、どうにか手元が見える内にすべての拓本採りが終了する。画仙紙を碑面からはがす前に、まずは車まで戻りエンジンをかけて時計をみれば、既に6時を回っていた。ここで、ドッと疲れが噴出してくる。朝の予定では、拓本までは無理でも碑陰にある交名部分だけでも綺麗に水洗いするつもりだったが、それよりも早く撤収しないと、それでなくても薄暗い場所なのでそれこそ真暗闇になってしまう。びしょ濡れになっている拓本を破らないよう丁寧に何度かに分けて車まで運んでから三脚やらカメラやら拓本道具やらバケツやらを撤収し、それまで履いていた作業用登山靴を運動靴に履き替えて急いで帰宅する。何しろ、携帯電話がないので、いつもの帰宅よりも2時間以上も遅くなることを伝えたかったがそれも出来ぬまま夜の8時近くになって自宅に辿り着く。嗚呼、こんな手拓作業は2007~8年前の矢板市長峰公園以来である。今回の感想としては、もう年なのでこんな拓本採りは止めようと真剣に思う私だった(笑)。


一年半ぶりに、栃木県内の石碑調査に戻りました。

2021年06月15日 | Weblog

先週日曜日から、ようやく栃木県内の石碑調査に戻ることが出来ました。その最初の訪問地は、栃木県藤岡町(今は栃木市と吸収合併して、栃木市藤岡町です)の大前(オオマエ)地区にある大前神社(こちらは読みがオオサキです)である。暫くぶりなのだが、ナビを使用せずにいつものように感覚だけが頼りで適当に車をすすめるが、どうも小山市寄りを走っているようだ。もう少し西側へ行かなければと、相変わらず適当に走って行って、何となく昔の道路に出会って一安心。それでも宇都宮から1時間強も掛かってしまった。神社西側には、昔のままに庚申塔を始めとした顔なじみの石仏がずらりと並んでいるのを目にして、まずはここで一休み。
さて今日の目的は、私の長年の宿題であった江戸末期から明治期にかけて活躍した森保定(森鴎村)という儒学者の碑文調査である。当地には、1基だけは確実に彼の撰文した石碑があることは知っていたが、目の前にあるのは「水戸部翁碑」という初めてその存在を知った石碑。コーヒーカップを片手にしながら眺めると、石碑の大きさは高さが152.0×幅113.0cmある、意外と存在感を持っている石碑。しかも根府川石を使っているので、拓本を採るには最適な石材。当地へ来て、最初に出会った以上はこれを今日の調査対象とすることに決めた。早速いつものように碑面掃除から始めたが、碑面に付いたツタの根に悩まされる。小さなツタの根を爪を使って挟んでは丁寧に取り除いていく。爪でピンセット代わりに挟んでも採れない根は、爪を立てて直接碑面に当ててゴシゴシとコスって取り除く。これをしないと、採拓した拓本はそのツタの根がまともに邪魔してだれがやってもロクな拓本にはならない。そのツタの根採りだけで一時間余を浪費してしまう。そしてやっと手拓作業に入るも、今回は暫くぶりという事もあっていつも使用している特大のタンポ類を持ってくるのを忘れる。加えて、前回までの田沼町庚申山の庚申塔手拓で使ったままの墨は、その墨が使いすぎて息切れしている。さらに今日は曇りで風もない天気予報だったが、南風が意外と強く吹いている。更に、画仙紙は半切しか持ってきていないので、篆額を横張りにして一枚。銘文は縦にして3枚の計4枚を使用しなければならない。水張りするも、風が強いので直ぐに乾いてしまう。まだ、半切用紙だから良いものの、全紙だったら途中であきらめてしまっただろう。そして3時間の苦労の上で何とか墨入れが終わった。従って昼食は午後1時に近かった。暫くぶりの立ち仕事だったので、正直疲れた。その拓本画像等は、まだPCに取り込んでいないが、多分今週中にはここへ掲載できるだろうと思っている。
そんなこんなで、結局は本来の目的であった石碑とは出会わずに昼食後は浮気して、小さな石碑調査をして帰宅する。もちろんこれも、森保定の撰文である。そしてこの石碑には、揮毫者が揮毫間違いした文字が三字あることが記されている。このような揮毫文字訂正碑は栃木県内でも意外と少なく、恐らくこの周辺では多分この石碑だけだと思われる。今回は勉強のために、その内容を拓本画像を添えて掲載してみよう。それにしても、その文字は小さい。直径5ミリのタンポで何とか墨入れしたが、小さい文字であることには変わらない。石碑写真ではまず以て読めないだろう。

ウーム、これでは拓本画像が小さすぎてその訂正文言がよく分からない。そこで、ここにその内容を書き出してみると、「醵誤鐻金下凡字」「強字衍」とあり、その意味は「鐻」の文字は誤りで正しくは「醵」。金の下に「凡」の文字が抜けている。更に(千圓の次の文字「強」の文字は余計な文字(衍字=エンジ)である。と記されている。つまり、誤字に脱字、不要な文字の挿入と、間違いが三つの種類であることが判るだろう。
このように、揮毫するときに不注意で間違うことは誰にも起こりえることで、それを正直にこうしてその石碑に訂正文を乗せることが出来るのは、如何にその人物が人間的にも優れた人物であるかが知れようというものである。


5月連休前の那須町石仏調査ですが、庚申塔台座としては珍しい波乗り兎の絵柄です

2021年06月05日 | Weblog

那須町に、珍しい青面金剛像容の台座に面白い絵柄がついているという話は、今から20年も前に聞いていたので、「それは何とも見たいものだ」とその当時は随分捜し歩きましたが見つからずに今日まで過ぎてしまいました。そんな話を聞いた山口氏が早速にその場所を探し出してくれましたので、出かけてきました。その場所は、行ってみれば何のことはない。かつて馬頭観音の調査の折にその脇を何度も通った道沿いにあった。それが今回掲載した画像である。
さて、そんな調査も台座銘文にある三面の拓本を採ってもまだ昼飯前。そこで、本当に暫くぶりに、高久乙地区の馬頭観音街道を訪ねてみれば、その昔の道の雰囲気は全くなくなり、ただの田舎道。しかもその道路脇には沢山の馬頭観音様が立ち並んでいたが、その雰囲気も全く感じられない。それらしき箇所は、通過しただけだが2か所のみ。かつては、毎年5月の連休といえば必ず訪れてのんびり写真を撮ったりして、のんびり過ごしていた場所へ立ち寄り、早めの昼食とする。この場所だけは、昔の雰囲気が残っていて、沢山ある馬頭観音様の姿もそのまま思い思いに並んでいた。昔の思い出を回顧しながら、ゆっくりゆっくりと食事時間をすごし、暫くぶりに出会えた馬頭観音様の同じ写真を撮影したりして時間を過ごしてから、のんびりと田舎道を選んで宇都宮迄へ帰る。


石造物の拓本採り方の色々とその私の考え方10 佐野市閑馬町の千躰庚申山最後の調査終了。

2021年05月27日 | Weblog

約、調査開始から1年半ほどかけた千躰庚申山の最終確認のために為していた拓本採りも、今回で最終を迎えました。そこで今回は、特別にお世話になった山口氏と共に山へ登り、表口から登る山頂直下の庚申塔で手拓が残っていたものや紀年銘に確信が持てないのを二人で一緒になって拓本採りを行いました。一日をかけて4基のみの手拓と2基の紀年銘確認作業という有様ですが、成果は上々で今までは氏名がありそうだが無視していた庚申塔に紀年銘の存在を確認出来ながらも読めなかったもの、やはり奉納者の名前があるのを確認していながら、独りではどうにも大きくて動かせない庚申塔を、山口氏の力を借りて裏面迄手拓出来ました。全く、ありがたいことです。感謝感激のまま、これで最終回とする庚申山を意気揚々と鶉坂口から下山することにしました。後は、天候などの都合により、行くところが無くなった時には今回の一年半を過ごした庚申山を懐かしんで時々訪れることにしましょう。
 そして、私が今回のこのブログにて言いたかったのは、拓本を採ることの本来の目的は何だったのだるか?という事です。くどくどとは言いませんが、拓本だからこそ出来るアナログ的な最高の複写方法は何のために活用すべきかということに尽きましょう。その技法継承が今や風前の灯です。見てくれだけの手拓方法論や見栄えの良い拓本を採ることだけが、手拓の本来の目的ではなかったはずです。そんな事柄に気付いてくれた方がもしもいらっしゃいましたら、ぜひご連絡ください。また、興味本位でなく本気になって拓本技術を習得したい(特に若い)方からの連絡も歓迎です。

さて、その最終回の庚申山で手拓した第一番目のご紹介庚申塔は、表口から登る山頂直下の西側212番目にある庚申塔です。下部は土中に埋もれているのだが、手拓となるとその下部の埋もれている個所を出来るだけ掘らなければならず、それに結構時間がかかりました。また、その庚申塔の裏面には紀年銘と奉納者名が刻まれているのだが、独りでは動かすことが出来ないが、今回は山口氏が一緒ということで、表面を手拓後に二人で何とか動かしてその裏面も採拓することが出来ました。とは言え、相変わらず自然石の表面を加工せずに文字を彫り込んであるので、それを手拓するとなるとそれはもう大変な作業です。裏面などは特に酷く、何とか山口氏との共同作業で墨入れ迄完了しましたが…。

次は、この表口から山頂にあと一歩といったところにある庚申塔です。高さは70㎝あるのだが、幅は17.5cmという細長さ。加えて表面は全体に細かにひび割れています。所謂、文字だかヒビなのか判読するに非常に難儀する庚申塔ですから、見た目には誰もが文字などあるなど精査出来ぬまま表面の「庚申」という文字だけを読んで終わりにしてしまいます。それを今回は、根性の一言で解読しようと挑戦しました。そして何事も勉強勉強というわけで、墨入れ迄を山口氏に一任して仕上げました。そんな、文字解読に興味のある方は是非に現地で解読に挑戦してみてください。ちなみに、私たちが読んだのは「守田■■右エ門」だけで、二字?は降参しました。


石造物の拓本採り方の色々とその私の考え方09

2021年05月17日 | Weblog

今年は異常気象なのでしょうか? 早くも今週からは毎日梅雨に入ったような天候が続いています。庚申塔などの小さな石造物ではなく、本格的な石碑拓本採りには絶好の、空は曇り空で風もなくこの日を待っていたかのような拓本日和です。その合間に、もう少しで現在進行中の、佐野市閑馬町千躰庚申山の拓本採りが終了予定なので、今回はその中から2基だけですが画像ご紹介としました。
最初は、庚申山表口から登る参道東側12番目にある庚申塔です。サイズは高98.0×幅35.0cmの自然石庚申塔ですが、ご覧のように早くも夏草に背丈が負けそうです。当地では、素直?な庚申塔なのと、天保10年紀年銘塔なので今回最初の拓本として採ることにしました。その手拓前の光景と拓本画像です。勿論その前に周囲の草刈りと、蒸し暑い中での穴掘りで土中部分の箇所をスコップで掘り下げました。

次は、同じ東側の40番目に出てくる庚申塔の手拓です。サイズは高43.0×幅32.0cmと、小ぶりな自然石庚申塔です。しかしこの庚申塔、拓本を採ろうとすると少々厄介なことがあります。それは、中央がすり鉢状に凹んでいることです。素直にそのまま画仙紙を水張しようとすると、必ず数か所に大きなシワ(たるみ)が出来てしまい、そのまま進めると拓本画像としては見られない、酷い状態の仕上がりとなってしまいます。このような自然石の手拓においては、最初の水張の時に中央から始めます。そうすると否応なしに周囲にシワが生まれますので、そのシワ(たるみ)の生まれた個所を手でもって意識的に破ります。勿論、シワの部分となる箇所の画仙紙は余りますので、それを上手く重ね合わせて綺麗に水張します。順次、これをシワの生まれた他の箇所にも施して水張すれば、見た目にはシワのない綺麗な水張状態になると思います。画像2番目をご覧ください。その状態で墨入れを終えた写真です。そうそう、そのシワ部分となる箇所の破き方は、ナイフやハサミ等を使わず、水に濡れた状態の画仙紙をビリビリと画仙紙の繊維が生まれる状態で破って下さい。後で、修復するときに非常に有効な手段ですので…。三枚目の写真は、その墨入れの終わったものを地面に広げて撮影しました。この庚申塔では、少なくも三か所の大きな破れを作っていることが判るでしょう。その代わり、皆様が一般に作ってしまう水張時のシワは一本もありませんので、後で修正すれば綺麗な拓本となります。今回はここまでです。本当なら、こうして文字で書いても、それを実際に行うのとはずいぶんズレが生じます。近くなら、参加できる人には直接手を取って教えられるのですが今の世の中の情勢ではそれも叶えません。


石造物の拓本採り方の色々とその私の考え方08

2021年05月11日 | Weblog

今回も、又しても今までと同じで、拓本など採る必要もなさそうな庚申塔を相手にして過ごしてきました。これこそ、誰も拓本を採ろうと等は思いもしない庚申塔であるが、だからこそ後世に現状を残したいために手拓するのである。2~300年後に一人でも良いから当地の庚申塔に興味を以て調査しようと考えたご仁が現れることを願って!。さて今回は、初めから一枚の画仙紙ではどうもがいても採れないことが判っているので、初めから用紙を半分にしての水張です。そして始めて見れば、それでも用紙が大きすぎてしまい、更にその半分でも大きすぎることを納得しましたが、もう始まってしまったのでそのまま続行。そうそう、今回の庚申塔サイズは、高さが73㎝、幅が43㎝です。高さが足りないサイズの画仙紙を用意してしまったので、下部が一部はみ出てしまいました(笑)。そしていつものことながら、今回も水張りした画仙紙を指で破るために来たのかと疑う位に、石碑本体の歪みと凸凹に合わせて破りまくりましての水張となり、それはもう完全に破れ紙の張り合わせ状態です。加えて、それから更に凸凹箇所の水張ですから、ホントッもう完全に誰が見ても破れ紙同然です。写真では、その破れ箇所全ては見えませんッ!。それを馬鹿丁寧に墨入れしてから同じ作業を下部にも施し、ボリボリになった画仙紙に墨入れが終わった時には2時間半が過ぎていました。今回は更にもう一基、同様な石質状態の庚申塔の拓本を採りました。朝の8時から初めて終わったのは12時半。お腹が空いた以上に、中腰での作業連続で体はクタクタ、休憩用のブルーシートの上に倒れこみ、兎に角一休みでした。
午後の部は、小さく手拓しやすい庚申塔を中心にして作業し、何とか今日一日の成果目標とした9基を連続して夕方5時過ぎまで頑張って達成しました。それでも、帰宅してから見てみれば完全に拓本としてはアウト的な下手な拓本が一基、また左側面の紀年銘等の手拓忘れが一基あり、何ということだと苦笑するだけでした。また折角手拓したのに、その目的のために手拓したものの、肝心な文字の存在を確認しただけで読めない。読めなければ話にならないので、次回もまたこの庚申塔を相手に銘文解読のための戦いを挑むことになりそうである。今回の解読は難しく、かなりの奉納者氏名部分の手拓を何度も繰り返さなければならないだろう。嗚呼、気が重い次回である。

次は、帰宅してから修正して仕上げた拓本画像である。拓本というには、かなり苦しい姿であるが…。


石造物の拓本採り方の色々とその私の考え方07

2021年05月05日 | Weblog

今回も相変わらず普通の拓本趣味の方なら、およそ手拓しようとなど考えもしない庚申塔の手拓画像紹介です。はじめに、その全景写真を掲載してからそれを手拓終えた段階で撮影した手拓写真を掲載しました。この庚申塔を奉納した川田忠衛エ門という方は、当地に三基あるのですが、その3基とも、同質の石材を利用しています。よほど、この石材に関心を持った方だと推察していますが、その庚申塔に刻まれた文字を読まなければならない者にとっては難儀な代物です。そしてそれを拓本にしようとする者は、今度はその細かく無数にひび割れた状態に頭を抱えてしまいます。仕方がないので、直径1センチ程の小さなタンポで時間を掛け、丁寧に丁寧に何度も墨入れしました。そして墨入れが終えた段階で、今回はそれをそのまま写真に採りました。画仙紙の余計な所は全部削除しての写真です。濡れたままの画仙紙を地面に置いての撮影なので、一部にゆがみがはある所はお許しください。今回は、前回に当地の鶉坂庚申塔群中の手拓忘れ庚申塔2基を朝の8時から手拓し、それからこの庚申塔等のある場所へ移動して作業に入りました。今回の予定では、15基の庚申塔拓本を採る計算でしたが、山の中では夕方の4時半までが限度と諦めて終了したので、今回も2基を残しての帰宅となりました。今回は全紙1枚を使っての手拓等と大きな自然石庚申塔があって、建っているままの拓本採り(当然ながら、下部部分はスコップでの掘り出しが必要で、これがまた時間のかかる作業です)が多くなり意外と時間がかかり、前回に続いての2基残しです。それでも、今回のを含めて150基程の手拓が終えたので、帰宅してから未拓本の庚申塔を数えたら残りは約40基程になりました。何とか、今月中に現在進行中の千躰庚申山の拓本採りを終了したいと甘い考えでいます。まあ、いずれにしても先が見えてきたのでここが頑張り所かと思っていますが、毎回夢中でロクな休みを取らずに手拓作業を続けているので体力が持たずに持病の腰痛が始まったようです。と、独りでぼやいています。それでは、今回の私以外には無駄な拓本画像などをご覧になって笑ってください。そうそう、「庚申」文字の左側下に「川田忠右エ門」の文字が読めましたら拍手喝采です。