石碑調査(栃木県限定)と拓本等について(瀧澤龍雄)

石碑の調査(栃木県内限定)を出来る限り拓本を採りながら行っています。投稿は、実名でお願いいたします。

2013年05月25日も結局は鹿沼市の石仏巡りでした

2013年05月26日 | Weblog

鹿沼市の石碑纏め段階で悩んだのが、この上記写真に見る「竣工記念碑」。形状は、円筒形の枡形正面に題が刻まれ、その裏面に銘文があるが、果たしてこれを石碑といえるのだろうか?、と悩んだ。しかし石碑調査といっても、その目的は遺蹟についての碑文調査なのではないかと思い直し、今回は改めてその調査に行ってきた。詳細な銘文内容は省略するが、要約すると大正12年の関東大震災以降にこの地方の農業水源となっていた小倉川が著しく枯渇して農業が出来ない有様に陥った。その為に旱魃が酷く、疲弊した農家を助けるために用水幹線改良工事を行った、その竣工記念碑となっている。なお、竣工は昭和八年五月である。
この調査が終わってからは、鹿沼市内の気になっている石仏類の調査に入る。その一つが、鹿沼市池の森地区共同墓地内にある寛文六年銘の名号塔(内容は四十八夜念仏供養)の拓本採り。尤も、四十八夜念仏供養といっても、実際は「六八夜念佛供養」となっているので、一般の方には理解できない話だが‥。それでも墓地内ゆえにと思いつつも、暑くも無い陽気についルンルン気分で手拓。

 次は、先週に間違って行ってしまった千渡地区の別の地区の薬師堂訪問。上に見る如意輪観音像丸彫りの台座に銘文と紀年銘が「奉供養 十九夜念佛 享保十三年戊申十月十九日 講中四十六人」とある。教わっていたのは、この十九夜塔が鹿沼市の初発塔で紀年銘は享保三年と。明らかに年号数字の読み間違いだし、干支を読まなかった為の誤まりと、二重にミスを犯していた。もちろん、この段階で鹿沼市の十九夜塔初発塔でなくなったのは言うまでも無い。今日の調査はここまでとして、流石に午後になると暑くなった。それでも、最後の仕上げとして薬師堂に下がっている鰐口を念のために見てみると、そこには「寶永」ではなく「寛永」と年号が刻まれている。その次の干支も寛永七年の庚午となっていて、ビックリ仰天。手が届かないのに無理して懸垂して這い上がり写真を撮る。誰かさんの喜ぶ姿を想像しつつ‥。
さて、次回からはいよいよ六月。どこへ行きましょう?、ということでまだ行き先不明だが、天気さえ良ければ次回は少し遠くへ行こうと企んでいる。

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2013年5月18日は、鹿沼市の石仏手拓に行きました。

2013年05月19日 | Weblog

昨日の5月18日は、鹿沼市の教育関係石碑の最終調査報告書を3軒のお宅へ届けることから開始。最後のお宅では、その石碑に刻まれている内容はどういうことなのですか?と、突然質問されて冷や汗ものでした。幸いにも調査してから清書まで時間があったので読み込んでいたので、立て板に水の如くスラスラと読み下しをしながら解説も出来たので、家人に喜ばれ面目も何とか保てた。今まで、誰も読んでくれた人が誰もいなかったので、どういうことが記されているのか初めて知ったと。
さて、そんなお宅訪問も10時過ぎには終わってしまったので、今日は暫くぶりに千手山公園にある承応年間の四角柱念仏塔の手拓に行くことにした。何しろ、鹿沼市の念仏塔としては初発塔となるので、後々のために拓本を残しておきたかったのである。高さは90センチばかりなので簡単に終わると思ったが、始めてみると碑面が荒れていてそう簡単にはいかない。しかも4面を採らなくてはならないので、2時間余かかってしまった。遅い昼食を公園のベンチに座って取り、のんびりしていたら既に午後の2時を過ぎていて、そのあまりにものノンビリ過ぎに苦笑。このまま今日は、帰宅してしまっても良いのだが、まあ帰路の道沿いにある石仏を覗きながら行くことにしよう。それにしてもこの季節の田圃には、それこそ農家の人が全て出ているような状態で、どこへ行っても農家の人と出会って石仏を初めとした四方山話に花が咲き、肝心の石仏調査は少しも進まない。そんな中で、「あれっ、これは初めて出会った石仏だ!」と、喜んで記録を取り写真を撮って帰宅してからデータを検索したら、2002年の4月に調べてあった。また、あそこの薬師堂は訪れただけで調査してないと早とちりして、一生懸命に記録を取りカメラ三脚まで持ち出して撮影したのだが、それも2002年12月に調査済みだった。調査してなかった薬師堂は、その近くの別の場所だったという、何とも情けない話である。そんな間抜けなことばかりして時間を潰し、自宅へ着いたのは5時になっていた。上記に掲載した写真にしても、薄暗い森の中にあった十九夜様だけに既に調査済みなのを思い出せず、大喜びで調査した1基でした。やはり、一つの地域を調査始めたら最後までやらずに、途中で止めるとこういう無駄な事になる好例と身に滲みた一日であった。
そんな訳で、多分次回も今回のリベンジとして鹿沼市へ入る事になるだろう。そんな話を、家内にしたら「あらっ、鹿沼はもう止めたはずじゃないの?」と冷笑される。

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2013年5月11日は、鹿沼市の未了拓本採りです

2013年05月14日 | Weblog

 今回は、調査済みながら天候の具合で採れなかった2基の碑文手拓に、鹿沼市へ行く。昼ごろには、間違いなく雨が降ると承知で出かけたが、その予想はものの見事に的中し、8時半から始めた最初の碑文は何とか雨の降り出さないうちに終了したものの、2基目はダメだった。そこで今回は暫くぶりに雨中の手拓作業となる。石碑にコウモリ傘を差し(実際はガムテープでしっかりと留める)、自分はその傘の中に入らぬ限りびしょ濡れ。個人宅の庭にある石碑だったので、手拓後半は見るに見かねて家人のおばあちゃんが大きな傘を持ってきて差し出してくれていました。おかげで、覚悟していた以上には濡れずに作業を終えることが出来た。感謝しつつ、本日の拓本採りは終了。それからのんびりと川岸へ行き、少し遅い昼食を手拓したばかりのまだ乾かぬ拓本を眺めつつ車の中で取る。雨は、一向にやむ様子もないので、本日の石仏巡り?はここまでとしてそのまま帰宅した。いやはや、何とも締りのない石仏巡りである。といいつつ帰宅して気づいたのは、コウモリ傘を石碑からはずして回収せずに、そのままで帰宅してしまったこと。その家の方は、後でその傘に気づいて大笑いしていることだろう。まあ、来週はその石碑の清書と写真を届ける予定なので、その話で爆笑となることだろう。まったく、何をしてもチョンボばかりしているダメな私である。
 それでも、これでようやく鹿沼市内の石碑調査は採りたい拓本を含めて全て終了。後は纏めるだけだが、それはいつのことになるやらである。ところで、翌日の日曜日は間違いなく晴れるとのことだったので、本来なら石仏巡りなのだが、今回ははその雨後の晴天を期待して夏野菜を植えなければならない。まあ一日かかるわけでもないので、余った時間でその2基の拓本をパソコンに取り込んだり、一枚に張り合わせたり、敗れた箇所の補修作業などで過ごした。それにしても、雨の中の手拓ではその出来はイマイチと言ったところであった。

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2013年5月6日・暫くぶりに鹿沼市を離れて栃木県南部へ石仏巡りに行きました

2013年05月06日 | Weblog

今日6日は、今年の大型連休最終日ということもあり、ここのところの栃木県鹿沼市の石仏巡りから離れて栃木県でも最南端の野木町へ最初に行く。その目的は、長いこと近世宝篋印塔が4基もあることを過去に庚申塔等の石仏巡りで訪れた時に確認していながら、ついつい遠いのでその内と言いながら歳月だけが過ぎていたのだ。もうそろそろ、野木町の近世宝篋印塔の纏めに入ろうとして、今回は本気になって出かけることにした。。その場所は、庚申塔に興味がある方なら一度ならず訪れている法音寺さん。着いたのは朝の8時半と言うこともあって、住職さんものんびりしておられて調査お願いも快諾していただいき、早速に調査開始。何しろ、4基もあるのだから!。1基づつ丁寧に手写していく。その中の1基に、「堕」とすべきところが明らかに「随」となっていて、思わずニンマリ。それでも4基の銘文手写も順調に進んで11時に終わってしまった。
さて、それから向かった先は隣の藤岡町(今は栃木市と合併してしまった)の部屋地区にある円城寺さん。ここにも江戸前期の庚申塔があるので、或いは行った方がいらしゃるかもも知れません。この円城寺さんの無縁石塔群中にも、4基の近世宝篋印塔の一部が納められている。無縁塔群ということもあって、靴を脱いで素足で調査開始。しかしいかんせんにびっしりと並べられた無縁塔の中にあるので、4面の経文を読むのに四苦八苦。しかもそれが4基。つい夢中になりすぎ、昼食時間も忘れて手写に没頭。それでも、この無縁塔の中の4基も午後の2時に調査が終わる。その中に享保年間の近世宝篋印塔に「鬼宿日」の銘を見つけて思わぬ拾い物と、ここでもニンマリしたのは言うまでも無い。その他の1基は個人墓域にあるので、こいつの手写は、ささっと終わってしまう。それから巴波川土手へ行って、本当に遅い昼食時間とする。今日の予定では藤岡町中心部へ行って、藤岡神社にある碑文の手拓をしようと考えていたが、午後ということもあって風が強く吹いている。また、それ以上に一日で9基の近世宝篋印塔の経文手写は初めての事。今までで一日での調査は最高5基だったので、何ともイヤハヤと言ったところで、体力も限界に来ていたので、潔く諦めて帰路に着く。それにしても、今日の走行距離は100キロメートル。車の運転が嫌いな私としては、一日に運転する限界は100キロと言ったところなので、本当に暫くぶりにその運転疲れもありました。ここ数年は、宇都宮市だ鹿沼市だと近場ばかりの石仏巡りに終始していたのでなおさらである。
そうそう、ここへ掲載したのは、最初に訪れた法音寺さんの近世宝篋印塔の一部である。また、次回の石仏巡りは多分鹿沼市に戻ることになるかもしれない。先日5月4日に、鹿沼市の調査済み石碑で手拓がまだのうちの1基を採ってきたので、あと2基が残っている。そいつを片付けない限り、何となくスッキリしないし、一冊に纏めることができないでいるのだから。

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