この石碑は、10数年前に調査済みだったのだが、碑面の毀損している銘文箇所をもう一度確認したくて行きました。前回よりは数文字だけ新たに読めましたが、後はイケマセン。まだまだ、剥離・欠損文字解読の技術&能力が不足していることを実感です。そんな訳で、次回に旧今市市へ行くときは、再度訪ねて改めて解読に挑戦します。三度目の挑戦なら、もう1~2文字が読めるだろうと淡く期待しつつです。(笑)
なお、掲載した拓本画像は時間をかけて文字修正を重ねたものです。この作業、一歩間違えると全く別の文字になってしまうので、余程の経験と漢字知識がない方(勿論、私もその一人ですが…)にはお勧めできません。
ようやく、今市地震関連碑の最後をここに掲載することが出来ました。これで、今年の夏季夏休み宿題がようやく完成です。いままで、ここへ掲載しました今市地震による横死者供養塔は、多分余り紹介されていないので、初めて見る方が多いのではないでしょうか。現在は、去る10月6日に、周囲を覆っていた草や笹を綺麗に刈り取りましたので、平ケ崎から千本木への峠道北側の道路沿い土手上にあるのがよく見えるはずです。ぜひ、今回の今市地震の最後を締めくくる意味でも関心ある方はご覧になってください。
さて、これでひと夏という長い期間かかった今市震災碑から解放されて、一息つけます。と言いつつ、先週13日には、1基は表面文字剥離部分の多い、明治35年9月のいわゆる足尾台風による今市市内の災害碑を調査してきましたが、その剥離部分の銘文推理に手こずりそうです。またもう1基は、文化14年建立の加工なし川原石に刻まれた今市市大室地区の水神塔。こちらは、数か所に難しい文字が刻まれていて、これまた銘文読みに悩みそうです。嗚呼、自業自得の世界にまたまた入り込んでしまいました。そろそろ、今市市から足を洗いたいのですが困ったものです。こうしてグズグズしていると、足利・佐野方面はまたあの嫌な赤城おろしの北西風に悩まされてしまいます。
今回で、昭和24年12月26日午前8時17分に起きた今市大地震の石碑調査は、いよいよ終わりが近くなってきました。旧今市地区は6基。旧日光市は2基の合計8基の震災碑を調査し、ここへ掲載しました。残る1基は、今市市にあるこの今市地震による関連死供養塔のみとなりました。これも前々回に調査済なので、今週中にはここへ掲載出来るかと思っています。それでは以下、ご笑覧下さい。
今日は朝から一日中、溜めていた栃木県旧今市市の今市地震復旧記念碑の清書等をして過ごしました。その為、先月9月23日に調査した旧今市市室瀬地区の震災復旧記念碑の清書が出来上がりましたので、掲載しました。御笑覧あれ。但し、この石碑だけは何としても手拓する気持ちになれず、拓本画像はありません。これでも、写真を撮るだけに一生懸命碑面を洗ったのですが…。普段は、写真はモノクロで掲載するのですが、カラーでないと文字さえ読めない状態ですので、やむなく?カラーで掲載です(笑)
今回の「今市地震」に関する石碑は、あと2基のみです。当然、調査等は終わっているので、後は拓本を画像化したり銘文清書をすれば、何とか今年の夏休み宿題も終了です。多分、来週にはそれを掲載出来るでしょう。
9月23日に調査した今市地震復旧碑の内の明神中原地地区分、遅くなりましたが銘文清書を掲載しました。手拓画像は、タイトルにもありますように当10月4日のブログに掲載してあります。全景写真も同日に掲載済みです。もし、これを見に行く人がいましたら、掲載した銘文上部にある所在地の番地場所を検索してください。地図だけでは、なかなかに説明のしにくい場所にありますので。近くに、人家もありません。
拓本を採ったまま、なかなか銘文清書まで進めなかった栃木県今市市を中心に起きたいわゆる今市地震の復旧碑、今回は旧今市市吉沢地区の磐裂神社境内に建立されている石碑紹介です。銘文文字書体は、この今市地震関連碑に限り、全て現代明朝文字で記してありますことご了承ください。そのために異体字等は全て現代使用文字形で記しています。掲載は、全景写真、銘文清書、拓本画像の順で掲載しました。拓本は、碑陰も採ってあるのですが、吉沢地区各自治会長さんの氏名羅列と建立紀年銘なので掲載しませんでした。銘文を参照してください。
昨日10月6日は、深い霧(雨)の中を旧今市市へ出かけました。前も見えないような深い霧でしたが、田舎道を経由して何とか日光街道へ出たらそれも晴れて一安心。今日こそ、今夏の自分に課した今市地震に関する石碑類調査を完了しようと出かけたわけである。最初の目的地である日光・和泉地区のの磐裂神社へ着いたは良いが、その記念碑はびしょ濡れ。加えていつものように、碑面を水洗いしたので、とてもではないが画仙紙を貼る気力もなくして駐車場へ戻って一休み。コーヒーを飲みながら時間つぶしをするも、全く石碑面からは水分が抜けずに手拓出来る状態ではない。そこで思案し、今日のもう一つの目的である今市市の災害碑調査に加えるために、10年以上も前に調査済みの徳性院へ行くことにする。何よりも、写真撮影を忘れていたからであるが…(笑)。
その、銘文にあるのがここへ掲載した宝珠錫杖持の立像地蔵尊の台座にあるもの。その台座にある銘文は、念仏講による「大正十二年九月一日大地震 惨死者供養記念塔建設」とあり、その他に交名あり。
これはご承知のように、1923年(大正12年)9月1日11時58分頃に発生した関東大地震のことで、南関東および隣接地で大きな被害をもたらした地震災害である。もう一基は、ここから近くのお寺さんにあるが、今回は時間がなくその調査は次回への持越しである。ここでの調査を終えてから、まだ初回の石碑はどうせまだ水気が取れないだろうからと、次の今日の今市地震災害碑の一つである、同震災による横死者の石碑調査を先に済ませるべく行くことにしたが、現地へ行ってみると夏草と笹と雑木の林となっていて、道路からは全くその石碑の姿が見えない。仕方がないので持参した剪定鋏で丁寧に周囲を切り払い、全景を丸出しにする。いや~あ、これには疲れましたし、何よりも時間の浪費である。そしてまたしても綺麗に碑面を水洗いすれば、その石碑は見違えるようになって道路沿いからもはっきり見えるようになった。地元の人が通りがかりに何をしているのかと立ち寄り、地震で亡くなった人々の石碑なのを知って深く興味を持ってくれたのは、何よりも嬉しい事であった。そして地元の人々と雑談しながら拓本を採り、それが終えたときには既に12時を過ぎていた。
それから急いで、最初の場所へ行ってみると、相変わらず碑面は汗をかいたように水分が噴出している。仕方なく乾いたタオルでその碑面を拭いて水分を少しでも取ってから、また駐車場へ戻って、のんびりとした昼食時間とした。
時計は既に午後1時を過ぎている。森林に覆われた神社の夕暮れは早い。グズグズしていると、手拓途中でタイムアウトになりかねない。画仙紙を貼り、その上からもう一枚画仙紙を貼って、その水分を少しでも吸い取ってもらって減らそうと、その上からタオルで抑えながら水分除去。そして何とか、こんな場合に使用する特別に水に強い墨を使って墨入れする。しかし、予定では碑陰にある交名なども手拓するつもりだったが、碑表だけの手拓を終えれば早くも暗くなりだした現場と、やぶ蚊がますます増えてきたのでそれは断念し、三脚を設置して写真撮影による銘文清書として駐車場へ戻る。出発間際になって、その拓本を採った画仙紙を少し離れた本殿軒下に干していたのを忘れ、慌ててまた滑りやすい参道を登って取りに行く。嗚呼、もう少しで大変な目に遭うところだったと胸をなでおろしてから、もう一度身の回りに忘れ物がないかを再確認して帰路に就く。
そして何とか、自分自身に課した今年の夏休み宿題を終了した満足感一杯の気持ちで、車中では次への意欲が生まれてどうせなら今年中に旧今市市災害碑を纏めてみようかと安易に考えている。
前回は写真だけでしたが今度はその銘文清書ですが、今回の様な昭和年代の碑文揮毫文字は面白くもないので、現代明朝文字で作成です。当然ながら、あまり乗り気が無くて進みませんがそうそう調査したまま放置して置くわけにもいかず、今日あたりから銘文作成に入ろうかと思っています。なお、この碑の裏面には工事内容等が記されているのですが、ここでは省略です。勿論、最終的な資料としてはきっちりと作成しますが、まあここはブログですので手抜きです。(笑)