くない鑑

命を惜しむなっ!名こそ惜しめっ!!前へぇ、前へーーーぇっ!!!

江戸の「象徴」

2007年01月02日 | 知識補給
新春恒例,箱根駅伝往路の日。
曇天で無風,体感的には寒かったこの日、両国の江戸東京博物館にてこの日から始まった特別企画展「江戸城」を、たかゆさんと観て来ました。
両国駅西口に11時半に待ち合わせ、まずはだめもとで,両国橋近くにある【まる玉】なる、美味いと評判のラーメン屋へ行ったのですが...
予想通り,4日頃まで休みだったので、(仕方なく)博物館へと向かいました。

矢印に従って辿り着いた1階受付カウンターには、信じられないほどの長蛇の列。
その、一巡せんとする列の最後尾に付いて15分ほどか,漸くチケット(共通)を買って、企画展示室へと向かいました。
しかし...
その入口から大混雑,押し合い圧し合って、漸く展示ケースに辿り着くほど。
通常、こうした混雑は得てして入口付近のみなのですが、この日ここでは違っていて、それが最後まで続いていたことにまた驚かされました。
正月2日なので空いている・・・と思ったのですが、案に相違しての大混雑。
世間が暇なのか、それとも、“江戸”への関心が高いのか...。

ところで、その展示内容についてなのですが...
これが実に素晴らしい!!
まず最初に“出迎え”てくれるのは、江戸城を今から550年前の長禄元年(1457)に築いた、太田道灌(備中守資長)の坐像(複製)。
そして、衣冠束帯姿の神君徳川家康公。
以後,6章構成からなる企画展の第1章は、江戸城の成り立ちに関する、太田道灌や後北条家の史料。
そして、意外にも江戸城近辺から発掘された“古代の遺跡”
思えば、江戸城近辺は海ないし低湿地帯だったので、これらが見つかるのもナルホド納得できます。

続いて第2章では、「天下人と城」と題して、戦国から江戸初期に掛けての種々史料を展示。
その中で特に目を引いたのは、“天下布武”押印の書状で、これは初期の段階ものとして近年発見されたものとか。
他にも...
神君家康公が愛用していた“歯朶具足”(重文)や“征夷大将軍宣旨”,戦国末期の小判など。
中には、ポスターにも載っていた“太閤分銅金”もここにありましたが、それが意外にも小さかったのにも、ちょい驚きまたガッカリしました。。。
また、興味深かったのが、出土品からの見た安土城(安土文化)と大阪城(桃山文化)との違い。
例えば、前者の瓦,意匠部分の凹面に金箔が施され、凸面には無かったのですが、後者にはその逆だったというのです。

続いて第3章では、「徳川将軍の城」と題して、築城から完成後までに纏わる種々史料が展示されていました。
その中で、私的に注目したのは「家忠日記」。
これは、深溝流松平家忠が記した日記で、私が学生時分,授業で取り扱った史料なのです。
この他にも...
まず、この中で一番度肝を抜かれたのが、50分の1で再現された江戸城と松本城。
その規模の違いたるや、ただただ感嘆に尽きます...が、実はこれが3度も建替えられていたという事実には、もはや驚嘆するばかりです。
また、明暦の大火(明暦3.1,1657)で威風荘厳な天守閣諸共焼失した江戸城ですが、以後も、“火事と喧嘩は江戸の華”と言われるほどに火事は多く、幾度と無く江戸城は焼失しています。
今回の展示内には、そうした折に採られた種々儀式や、資金集めに関する史料,または、普請方と作事方との業務分担図などの史料もあって、中々面白かったです。
特に、再建に向けた“寄付金”(上納金)集めに際しては、大名の“格”によって違う金額や、支払いに対する受取証の発行などが、興味をそそりました。

次,第4章は「登城」について。
江戸時代は、礼儀三百威儀三千と言われるほどに先格,格式などの“面目”に拘る風潮にあり、それらは一朝一夕では修められぬほどの煩雑さがあったとか。
諸侯諸士の登城路から刻限,城内での控室、広間での座り位置などは「畳縁から指幾つの所」などと、細かく定められていたとか。
そうした小難しく煩雑な先格の“公儀指南役”として最前線にあった「奏者番」という御役目に関する史料が、幾点もあったのが興味深かったです。
奏者番は、幕閣への登竜門でもあったのですが、史料を見る限り,如何にこの御役目が大変であったかを垣間見ることが出来ました。。。
一方、これを指南される諸侯側の史料にも、気苦労の後を垣間見れて面白かったです。
そしてもう一つ,或る意味、この日一番興味深かったのが江戸っ子の“遊び心”。
その代表格が“双六”のようで、なんでもかんでも双六化されていて、例えば,「御大名出世―」では幕府の役職が,「官位須具呂久」では(朝廷の)官職が双六化されていて、前者は閣僚級にまで昇ると“隠居”に,後者は一部官職に“停職”なる目があったりして、中々容易には上れない仕組みにもなっていて、いまやっても結構面白く(勉強も兼ねて)盛り上がれそうでした。
ただ、後者の仕組みは中々難解そうで、よくよく見ても、容易には上れそうには無かったです。
なお、この後にも“大奥双六”やら(常設展示では)科目履修双六などもあって、これが遊びの範疇を幾分出て、どうやら“勉強道具”の一つだったようにも思いました。

さて、続いて第5章「礼儀-政治の舞台-」では、前章に引き続いて種々儀礼に纏わる史料があり、(こうした展示ではお馴染み?!な)朝鮮国王国書と(源)綱吉公返書なども展示されていました。
この中で一風変っていたのが、虎屋文庫が所蔵する「嘉定私記」と、それから再現された菓子類(嘉定菓子)。
これは、「嘉定の祝」に際して登城した諸侯諸士に対して振舞う菓子について等を記した文献で、その菓子類がサンプルとしてあわせて展示されていました。
ただ、その中で知っているのは羊羹くらい...あとは、見たことも味わったことも無いものばかりで、これを気に,是非に虎屋で復活させて欲しい!(・・・と、思ったら(あるみたい?!)
ちなみにこの「嘉祥の祝」とは6月16日に行われた平安時代からの宮中行事で、現在ではこれにちなんでこの日を“和菓子の日”としているそうです。
なお、菓子に関連してもう一つ,同じく宮中行事からの江戸城中での年中行事として10月朔日に行われたのが「玄猪の祝」。
子孫繁栄などを祈念して催されるこの祝では、登城した諸侯諸士へ鳥の子餅が振舞われました。

そして第6章「大奥と将軍のくらし」では、将軍と大奥の日常を垣間見ることが出来、面白かったです。
その中で興味深かったのが、「江戸城本丸炎上女中衆焼死者一覧」なる史料。
これは、天保15年5月に起きた火災についての記録で、公儀宛か,備に綴られた文献からその被害の大きさと、大奥の規模の大きさを実感しました。

そして最後,展示室を出たところには、江戸城と現代との写真による対比がありました。
幕府瓦解後、京より帝が遷座され宮城となっても、数多の天災人災に苛まされてきた“江戸城”の、その往時を偲ぶことが若干でもあることが、(佐幕な私にとっては)何と無く嬉しく思いました。

ちなみに...
日本近世史の大家,竹内誠江戸東京博物館館長や一部のNPO法人などが、見所の少ない東京の目玉として“江戸城再建”を計画しているとのことです。
実現までには、“天下の王城”ゆえに莫大な資金と歳月が掛かることでしょうが、是非とも成功させて欲しい!計画でもあります。


なお、この機会にとばかりに常設展へも強行突入しましたが、その模様は長くなるので別項にて。

おまけに...
途中,江戸城をリアルに再現したCGを上映していたので見たのですが、まず,その(CGの)精巧さにまず圧巻。
続いて、「なぜ、大広間はL字構造なのか?!」と言う長らくの疑問が解けたのが、嬉しかったです。
ちなみにその答えは、L字の横部分に控える諸侯諸士が、下段の間まで降りて来た将軍と謁見する間だったのです。
ただし、それもほんの僅かな時間ではありますが。。。
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御鈴廊下の向こう側

2006年12月27日 | 知識補給
この日の夜9時より、テレビ東京系にて...
「超歴史ミステリー“大奥2”欲望渦巻く女3000人の園を暴く!!」
...なる番組を、1時間半ほど掛けて放送していたので、ちょい見てみました。

先年,フジテレビで「大奥」がリメイクして以来、映画化されるほどまでに世間の注目と脚光を浴びるようになったこの“大奥”。
しかし、今まであまり学術的面書籍を見かけたことが無く、“表”の世界の一部として垣間見える程度。
ゆえに、今回この放送でどんな話が聞けるのか,楽しみに見たのですが...
それはもう、ただただ驚く内容でした。

番組は、(確か)4,5部構成だったようですが、私が通して見たのは3部ほど。
そのまず一つ目は、元禄赤穂事件,いわゆる“忠臣蔵”についてでしたが...
(番組によると)この事件を“仕掛けた”のは、なんと大奥だと言うのです。
そして、その首謀者が綱吉公御台所信子(浄光院)と甲府宰相簾中煕子だというのです。
・・・して、その動機は?!というと・・・
“刃傷松の廊下”の折に東下した勅使は、新年賀詞への返礼ともう一つ,重要な任を受けていました。
それは、綱吉公生母桂昌院への従一位宣下だったのです。
これに対して、日頃桂昌院らと対立していた御台所と甲府宰相簾中とが結託して妨害しようとして仕組んだのが、この赤穂一件だというのです。
そう聞いても、あまりピンと来ない新説なのですが、では、その論拠は?!と言うと...
▽甲府宰相簾中が父・近衛基煕公が建立した京の西大寺なるところに、吉良邸討入の旧赤穂浅野家旧臣の位牌がある。
▽討入旗頭である大石内蔵助良雄と近衛家は“遠縁”で、しかも京の隠遁地,山科は近衛家領である。
・・・などですが、遠縁ならば位牌があってもなんら不思議ではなく、また、山科の近衛家領は家令の進藤家が管領しており、この分家が芸播両浅野家に仕えていたのです。
しかも、赤穂浅野家に仕えていた源四郎俊式は大石良雄とは親戚関係にもあるのです。
もっとも、源四郎俊式は、仇討の盟約は一度は名を連ねましたが親族などから猛烈な反対を受けて脱盟してしまい、内蔵助を大いに落胆させたとも言われています。
・・・ひょっとしたら、位牌はこの源四郎俊式が納めた・・・としたら、種々納得できるのでは?!
また...
▽京の近衛家蔵“陽明文庫”に残されている「基煕公日記」には、討入のことを“珍事珍事”と喜んでいる。
▽浅野長矩が吉良義央へ斬り付けたのは、卑怯にも背後から,しかも、止めを刺すことが無かった
あまつさえ、御台所付留守居梶川与惣兵衛頼照が(いとも簡単に)止めに掛かれたのが不思議
・・・というもので、ここでは奥向御留守居梶川与惣兵衛頼照の“共犯”説までもが唱えられていましたが、それは如何なものでしょう...。
公家の日記に「珍事珍事」と書いてあることなど、何も珍しいことではなく、また、吉良上野の朝廷に於ける評判は、余り芳しくなかったようです。
また更に,正室の実家である米沢上杉家に於いても、義兄の播磨守綱勝への暗殺への疑念が濃く、半知召上げの処罰を受けた後に就封した弾正大弼綱憲に於いては浪費が激しく、あまつさえ,吉良家への金銭的援助も惜しまず行ったがゆえに、家臣の評判は芳しくなく、表裏別な思いがあったそうです。

また、御廊下で振舞いについては、まず,内匠頭が何ゆえ刃傷に及んだのか、この根本的な問題から解決しかねればならないですが、梶川与惣兵衛の日記にははっきりと「(浅野内匠は)吉良に対して遺恨がある」と言っているので、動機がまずここにある見てよいかと思います。
しかも、与惣兵衛は浅野長矩を取り押さえた事を度々後悔していたようなのです。
・・・これらを鑑みて、まず,大奥が赤穂事件を起こしたなどということは、説としては面白いですけど、“ありえない”かと思います。

ちなみに...
御台所藤原信子の母は、後水尾院女一宮文智女王というが、この女王誕生が徳川和子入内間際だったので公武間で軋轢を生み、母,御與津御寮人共々不遇な生涯を送ることになるのです。
それと...
梶川与惣兵衛は松の御廊下一件の20年前,貞享元年8月に江戸城中にて起こった、若年寄稲葉正休による大老堀田正俊刺殺事件の場にも居合わせていたらしいです。


そしてもう一部は「9代家重公が実は女だった」というもの。
これにはもう、ただただ唖然とするばかりではありましたが、怖いもの見たさと言うか...
やはり、どんな説が展開されるのかに興味があって、(これも)見てみました。
すると...
昭和33年に、(プリンスホテル建築に伴う)増上寺改修時に行われた徳川家廟所の学術調査に於いて、家重公(惇信院殿)から出された遺骨などを調べたところ、女性的な特徴が骨格から多々見られたというのです。
この論証を更に深める為に、法医学的な見地などから説明されていましたが、他にも,家重公の出生について。
病弱でその無事な成長が危ぶまれた家継公の跡目を巡り、紀伊家と争っていた尾張徳川家当主吉通公に男子(五郎太)が誕生したことに焦り、その後出生した子を“男子”と称したというのです。。。
なんだか、可笑しすぎて片腹痛くなってきましたが、論証は更に続いて...
例えば、家重公は中,大奥に引籠もりがちで、滅多に表御座へ出御することは無く、身なりもだらしなく、髭や月代は伸びるに任せて剃られるのを拒んでいたそうですが、それは“女性”だから...
...とか、家重公は時折江戸郊外,小菅御殿にも引籠もる事があったのですが、その道中,小便公方と揶揄されるほど用が近かった家重公を慮って厠が設けられて居たのですが、普通は、袴などの隙間から竹筒を入れて足していたのに、わざわざこれを設けたのは女性ゆえ...
...とか、家重公の唯一の理解者(翻訳者?!)であったと言われる側用人大岡出雲守忠光に於いても、これしか近づけなかったのは、秘事漏洩を防ぐ為...だとか。
ここまで来るともう、可笑しすぎて疲れてしまいますが...一応。
まず、根本的な疑問,10代家治公や清水重好公の父親は誰なのか?!や、正室や側室のことには、一切触れられなかった。
また、現代にまで伝わる肖像画についても、作成に当たっては、特に肖似性が強く求められていたとのことから、凡そ女性とは考えられない。
この他,「厠」についても、江戸中期以降,将軍や大名諸侯の貴族化が見られたことが一因かと。
更に、家重公は恒常的に歯軋りする癖(病気)があったがゆえに言語不明瞭だったと言われており、虚弱というのもこの辺が原因なのではないかと。

尤も...
この論の最初,吉宗公が大奥改革を断行したことは紛れも無い事実であり、そのほか,幕政に大奥が容喙することがままあり、松平定信が老中(将軍後見人)へと進む過程に於いて、「大崎」「高岳」という年寄が暗躍していたことを、(卒論作成時諸文献より)確認しています。
また幕末,家定公後の将軍家継嗣問題で大奥が南紀派を推したのは、一橋慶喜が水戸斉昭の子であるからで、その理由は,大奥解体をも視野に入れた改革断行を唱えていたが為とも言われています。

これらから...
徒党を組んだ女性ほど怖いものは無い,と言ったところでしょうか(笑)
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大和言葉の妙

2006年11月11日 | 知識補給
この日,友達と一献酌み交わす機会を得て、東池袋に在る一軒の飲み屋にて、(仕事を終えてからの)17時頃から3時間半,繁盛しだして追い出されるまで、一所で飲んでました。

この時は、なんだかいろんなことに行き詰まり、テンション堕ち気味で物憂い頃だったので、これを上げるにはとても良く,ありがたい気分転換の機会でもありました。

ところで...
この方は、(以前より)大和言葉とその遊びに通じていて、その作を幾つか拝見して感銘を受けたのですが、こうした思い,切欠を強くしたのは、英語などを話せるようになってからだそうです。
英語など、多言語がカラッキシ苦手な私と違ってこの方は、語学が堪能なのですが、それゆえに、返って大和言葉(日本語)の“良さを知った”というのです。
それは、例えば...
“雨”の英訳は“rain”で、これに繋がる単語は気象用語くらいですが、大和言葉に於ける“雨”には、これに繋がる言葉が数多,煙雨や時雨に膏雨,弾雨や星雨など、擬似としての意味でも用いられる,雨。
また、“あおいそら”に於いても...
英訳では“the blue sky”のみに対して大和言葉では、“あお”一つとっても“青”“碧”“蒼”・・・と、複数の漢字を用い、意味もそれぞれ。

そういう話を聞いて、大和言葉の深さと面白みを、改めて実感した、この日の一献でした。

過日,南北朝時代の一皇族が綴った日記を買い、大和歌には興味があったのですが、この日,友達の詩歌を拝見して...
時折は、自らの想うところ,感慨を詩文にして見たい・・・と、思います。


この飲み屋の食事はどれもこれも美味かったです!が、中でも一番だったのが、この鯛茶漬け!


また、ひれ酒(熱燗)も良かったです。

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歴史のなかの鉄炮伝来・・・完成試射会

2006年11月08日 | 知識補給
総州佐倉にある国立歴史民俗博物館が誇る、鉄炮(砲)の数々とその研究成果を兼ねた、実に貴重な企画展。
“伝来”から“終焉”までを3部構成で、日本屈指のコレクションとその研究成果を、丁寧に解説されており、実り多く,貴重で有意義なものでした。
そして、この日の企画展の“特別イベント”として、(かつては)鉄炮の一大生産地であった江州国友から、古式ゆかしき鉄炮技量を受継ぐ一党が演武を行うとのことで、企画展を一巡し終えた後,その会場へと向かいました。

曇天に、微かに吹く秋風がより寒さを引き立てる,歴博休憩所前に設けられた四角四面の会場の周りには、既に、十重二十重と多くの人が集まっていました。
それゆえ、居場所を探すのも事欠く有様で、漸く見つけた人垣の隙間も、射撃手からは、幾分離れた的近くに。。。
(致し方なく)落ち着いた間も無く、まず、企画展責任者でもあり、鉄炮伝来の新説を立てられた宇田川武久歴博教授の挨拶から。
折角の機会、何ぞ貴重なお話でも・・・と思ったのですが、年期の入ったマイクとスピーカ,しかも、話し手からは遠く離れていたので、よく聞こえず...。
(以後も、司会の女性は滑舌がよく聞き取れたのですが、あとの皆さんは・・・)

今回の鉄砲演武は、国友鉄砲研究会による“能富流(古式)砲術”なるもの。
これは、完成した鉄砲の試撃ちの折の作法とかで、いつも“合戦場”にて観る、米沢の鉄砲衆(稲富流(?!))のような勇ましい出で立ちではなく、羽織袴の古式然としたもの。

ちなみに、江戸後期に出た国友の鉄砲鍛治,国友一貫斎(九代目藤兵衛重恭)は「能富一流目録免状」なる鍛治修業の免許状の中で...
① 技術上達は不屈な精神力によること
② 細工は手厚く丁寧に行うこと
③ 精神集中を怠らぬこと
④ 健康で仕事を行うこと
⑤ 思慮深くあるべきこと
...と述べ、鉄砲製作技術と鉄砲射撃技術の一貫性を説いている点に注目し、上記,5つの精神を砲術上に応用して完成させたもの・・・だとか。

演武は、国友鉄砲研究会と能富流古式砲術の紹介に続いて、まず、会長試射を披露。
それは、正方形の座に着いて淡々と、かつ静かに行われました。
その、至近距離からの轟音に驚いて泣く子供をよそに、これに続いて披露されたのは“立ち膝の段射ち”。
いつも観る鉄砲演武は、立ち姿の者なので威勢あるものなのですが、これは、初めの試射同様,実に淡々とかつ静かに展開。
ただ、次々と放たれる鉄砲の轟音は、相変わらずです。。。

続いては、箸休め的に(か)火縄銃の解説が行われました。

これを、一つ一つ分解して行われたのですが、火縄銃は、時折メンテの為に全てを解体するのだとか。
ただ、ちょい離れた所からの見聞だったのであまりよくは見えませんでした...。

火縄銃の解体説明に続いては、早射ち,立ち膝の一斉(射撃),大筒と披露して、一連の鉄砲演武が終了しました。

何度も触れましたが、いつも合戦場に於ける鉄砲演武は、鎧甲冑や陣笠陣羽織と言った物々しい出立ち。
それに比べてこの演武が、目的が完成後の試射とは言え、羽織袴に胴を身につけただけの(どちらかと言えば)軽装だったのが、ちょい新鮮でもありました。


鉄砲演武は16時に終了。
その後、国友鉄砲研究会に方々による“疑問・質問なんでも解答講習会”が始まったのですが、私はこれに参ぜず、常設展示を観に再び館内へと戻りました。

閉館近い時間とはいえ、常設展示室内は閑散としたもの。

そこで、帰路のことも考え計算しつつ歴博所蔵の名品群を拝見してきました。


帰路,印旛沼湖畔“臼井八景”より見た風景は、実によかったです。

<<<「3弾目」を撃ち直す>>><<<初め:「構え→弾込め」からし直す>>>


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歴史のなかの鉄炮伝来・・・3弾目

2006年11月07日 | 知識補給
総州佐倉の国立歴史民俗博物館にて、3部構成にて開催されていたこの企画展。
その最後,第3部は「幕末の動乱と軍事技術の革新」でした。

18世紀後半から、日本近海へ頻繁に出没するようになった異国船。
時には騒動を巻き起こすこれらに対して幕府は、(当初は)打払い令を発して高圧的な態度で臨む方針を打ち出す。
これによって、俄か海防(国防)意識が高まりだすが、これが、一気に上げ(一時)緊迫せしめたのが、隣国清朝と大英帝国とが戦端を開いたアヘン戦争の勃発。
結果,理不尽な謀略によって開かれた戦端は、南京条約という不平等条約を飲まざるを得なかった清朝の、実質的な敗北に終わるが、これに江戸幕府は衝撃を受けて打払い令を廃し、薪水などを提供する軟化政策に方針が展開する。
その一方で、いざと言う時の為の軍備面に於いても、その危機感が幾許か現れ、天保11年,武州徳丸が原にて秋帆が洋式調練,砲術演習を披露せしめました。
これについては、大学時分,古文書講読の授業で出てきたのですが、企画展に於いても、この模様を描いた絵が展示されていました。
また、第2部の続き的に、和式砲術の“工夫”も見られ、その大砲の切型も展示されていました。
ただ一方で、“2弾目”中,鉄砲の性能よりも装飾に拘る辺りに、今だ現実味を帯びない雰囲気から、危機意識の欠如と、腐っても鯛的な“武士の面子”を感じます。
それゆえに、ペリー来航時以後の混乱を招いてしまった・・・のやもしれません。

ただ、地方にあっては少し趣を異にし、豆州韮山や薩摩,肥前などでは反射炉の築き、大型砲の製造に取り掛かってもいました。
その模様,肥前佐賀鍋島家が築いた“工場”の精巧な絵図面が展示されていました。

また鉄砲に於いても、ペリー来航時は古式ゆかしい火縄銃が主流でしたが、以後,まずは火縄が、起爆剤に燧石,雷汞を用いる銃(ゲベール)へと代わっていきます。
ただ、幕府始め諸藩には今だ数多の火縄銃があり、しかも、長きの年月を経て日本人の体型にあった銃なので、これを、雷管式に改造した銃も多くあったようです。

なお、この頃欧米各国は変動期に真っ只中にあり、クリミア戦争(欧×露:53-56)や普墺戦争(66),米国では南北戦争(61-65)など、各地で衝突が繰り広げられていた。
その副産物として、武器の躍進が顕著となり、それまでの、ゲベール銃のような筒内が滑らかな「滑腔式」から、螺旋状に設えられた「施条式」に、弾込が前装(口込め)式から後装(元込め)式へと変化し、合わせて性能,命中率は飛躍的に向上しました。
展示の中には、とても珍しい(という)大型な“施条製造機”も展示されていました。

こうした波は、勿論,日本にも押し寄せてきて、更に,戦争終結後の余剰銃器も輸入されるようになります。
この流れに早くから乗った薩長などと、出足の遅れた幕府とのその後の成否は、近代への入口,戊辰戦争に於ける薩長連合軍の勝利を以って、結果が示されています。
ちなみにこの折、佐賀藩は虎の子の“アームストロング野戦砲”や四斤山砲を投入して、薩長連合軍と以後の明治新政府を大いに助けるのですが、上野から発掘されたこの“痕跡”が、ここに展示されていました。
杉の木に突き刺さったまま発見されたその“痕跡”は、想像以上に生々しく、また、重苦しいさも感じました。。。

最後に...。
幕末から維新期に掛けて用いられた、短銃含めた多くの銃器が展示されている中、正に、人の一生を左右した銃が一品,展示されていました。
それは、“レミントン二連デリンジャー”という掌サイズの二連発式短銃で、銃把は阿古屋貝が設えてある、この技巧的な銃の持ち主は...
かの大久保利通卿なのです。
卿は、常日頃これを携帯していたそうです。が!石川士族の襲撃を受け、落命してしまった紀尾井坂の変事,生憎、銃は修理にて出していたそうです...。
ゆえに、目の前に展示されているこの銃は、いまもまだ、故障したままだそうです。

運命とは、斯く定まれり・・・と、なんだかぼんやりと思いながら、3部構成を展示を全て見終え、大満足の内に,国友鉄砲会に演武を観に向かいました。

参考:野口武彦『幕府歩兵隊-幕末を駆け抜けた兵士集団-』(中央公論新社)

<<<「2弾目」を打直す>>><<<「演武」を見聞する>>>

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歴史のなかの「鉄炮伝来」・・・2弾目

2006年11月06日 | 知識補給
総州佐倉の城址に建つ国立歴史民俗博物館。
ここで、霜月26日まで開催されている“鉄炮”の企画展,その第2部は、「鉄砲技術の発達と鉄炮鍛治」。
ここを、第1部「鉄炮の受容と定着」に続いて、ギャラリートークに帯同しながら見て回りまわりました。

まず、その最初,1部の最後に見た“ドデカイ”鉄炮や棒火矢の驚きを引きずりながら目に飛び込んできたのは、“鉄炮”用語とその“仕組み”など、基礎知識の展示。
鉄炮に関する用語では、年表風に解説が為されて、仕組みに於いては、実に細かい部品まで、解説付きで紹介されていました。
ちなみに、この反対側には権現様御愛用の鉄炮が展示されていました。
権現様は、鉄炮撃ちの名手だったそうです。

これに続いてあるのは、近江国国友についての展示,紹介。
それまでは不慣れであったこの回の講師,長浜市長浜城歴史博物館の太田浩司副館長の地元,しかも、専門領域とあって、俄然心強く見えました。

第2部の“中核”を為しているこの国友は、鉄炮伝来以来,国内最大の生産地でもあり、その最盛期には、凡そ400人ほどが座を為して鉄炮作りに携っていたそうです。
しかも、規模などの変遷はあるものの、鉄炮(火縄銃)の製造は昭和初年まで行われていたそうで、これには驚きました。
・・・けど、何の為なんでしょう?!多分、狩猟や観賞用だとは思いますが、まさか・・・
実は、大日本帝国陸軍の“武器”として使用されていたりして(爆)

・・・って、話は鉄炮伝来の頃まで戻して・・・

鉄炮が戦力の一つとして注目されるようになると、俄然,国内有数の生産地であった国友への注目度は高くなる一方。
江北の戦国大名・浅井家が滅亡した後,新たに領主(長浜城)となった羽柴秀吉が発給した知行安堵状や、大阪の陣直前,諸家より注文が殺到した模様(堀直之よりの注文状)を記した文書より察せられます。
また更に、国友の名工たちが、それぞれの事情によって諸国へ分散,我が街その“ブランド力”も窺い知ること出来ました。
勿論、房州の要地である佐倉にも「国友」家は居たそうです。

なお、本家たる江州国友は江戸時代,大和郡山藩(柳沢甲斐守家)領であったという初耳の情報に、俄かに驚嘆しました。
私は、てっきり将軍家御料所か近隣の彦根藩(井伊掃部頭家)領だとおもっていたので...。
ところで。
この大和郡山藩主の柳沢家(賜称松平)は享保9年,甲斐府中より15万石を以って入封以後,廃藩置県まで領主でしたが、その初代,甲斐守吉里は、大老格までに昇りつめた美濃守吉保の嫡男。なのですが、実は5代将軍綱吉公の“御落胤”との噂があり、将軍継嗣候補までに上がった程の御方なのです。

ところで。
天下泰平な江戸時代に於いては、鉄砲は利用頻度=需要も低下傾向にありました。
そこで職人達は、その技巧を活かして“細工”モノの製造も行うようになります。
そうした“風潮”は、日本近海に異国船が頻繁に出没するようになる江戸末期に至っても同様で、アヘン戦争のショック覚めやらぬ弘化初年に鋳造された鉄砲の、実用面は二の次,大事(こだわり)は外見の装飾ばかり・・・という鉄砲(井上流)が展示されていました。
また一方で、技巧者の新たな“工夫の結実”も紹介されていました。
それは、“空砲”なる空気銃。
国友からは国友一貫斎,測量家として著名な讃岐の久米通賢,尾張の吉雄常三らは特に有名で、それぞれ技巧を凝らした空砲などを発明していました。
ただ、空砲は数多の空気を“銃床”部分に注入するも、実用性には乏しいものだったようです。
ちなみに、尾張の吉雄常三尚貞は天保14年,後の雷管式銃に用いられた発火薬,雷汞粉製法の実験研究中に爆死してしまいます...。

こうした鉄砲の改良次々と為されるのは、やはり、日本近海に頻出する欧米列強の船舶への驚異の表れ。
これを、一層心胆寒からしめたのは、天保11年に勃発した英清間の戦争,通称“アヘン戦争”と言われるそれ。
結果はこの2年度,英国側勝利で終わるが、この緊迫した情勢下に武州徳丸が原(今の高島平団地)では、洋式軍事演習が行われていました。
長崎出身の高橋秋帆が指揮したこれは、成功裡に終了。
以後、砲術家としての名声を高めた秋帆の下には、幾人かがその門を叩いています。
しかし、洋式軍制については以後の採用は無く、虚しく時を空費,これがやがて、幕府崩壊の遠因ともなるのですが...それは、次,第3部にてまた。

ちなみに,話は鉄炮に戻って...
展示中,火縄銃の“科学的検証”の結果がありました。
そこには、鉄の材質や製造方法,“威力”まで、実に興味深く面白かったです。
その“威力”については、実験は至近距離からだったのですが、3mmの鉄板や9mm
の檜板は貫通し、竹で編まれた“楯”(竹束)も、余り期待ほどの効果は無かったようです。
(FBIでも用いられている“弾道ゼラチン”なるものでも実験してました)

<<<「1弾目」を打直す>>><<<「3弾目」を打つ>>>

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歴史のなかの「鉄炮伝来」:弾込→構え!

2006年11月04日 | 知識補給
先日,新聞にちょい驚く記事が載っていました。
それは、大学共同利用機関法人人間文化研究機構国立歴史民俗博物館教授の宇田川武久先生(近世技術史)が、“鉄炮伝来”に関する従来の説に一石を投じる学説を発見,提唱されたというものでした。

折りしもこの時、宇田川先生が所属されている通称「歴博」に於いて・・・
歴史のなかの「鉄炮伝来」
・・・という特別企画展が催されていたので、折角の機会,その学説の論証を拝見しに、この日行ってきました。

ただ、本当は10月21日(土)か11月11日(土),歴博講演会の日に行きたかったのですが、無念...両日とも出勤日だったので、半ば致し方なく、江州の国友鉄砲研究会の火縄銃演武と落語上演があるこの日にしました。
特に後者は、「幕末の軍制改革と鉄砲の発達」という題目で興味と感心が有ったのですが...無念!

歴博に着いたのは11時半頃。
ちょうど、第一回目の鉄砲演武が終了した直後だったのですが、そのお蔭か,受付カウンター20人程度の人々が列を為し、入館までには10分ほど要しました。
またこんな具合だったので、企画展の、特に入口付近は混んでいましたが、それも、次々と進むにつれて解消し、後はゆっくりと,1時間半ほど掛けて、展示されている貴重な史(資)料の数々を見て周りました。

その後、鉄砲演武まで時間,調整の為に常設展を見てていると、館内放送にて...
「14時からギャラリートークがあります。」
...というのが聞こえました。
これ、実は予想外のことで、前回,「日本の神々と祭り」の時には、目から鱗な情報を大変多く聞けて大収穫だったので、今回も、これ幸い!ばかりに、指定の時間,再び企画展示室へと向かいました。
鉄砲演武と落語のみチェックしていて、このギャラリートークのことはすっかり忘れていたので、勿怪の幸いでもありました(^^ゞ...



総州佐倉国立歴史民俗博物館にて、10月初旬より約一月半に渡って開催されている今回のこの企画展。
各地域,各人より蒐集した、今や日本最大級となったコレクションと、その研究成果を発表するここまでには、約3年ほどの年月を要したようです。

この企画は3部構成で、各展示室毎に分かれて、それぞれのテーマに即した展示,(研究成果)解説が為されています。
それを今回は2度,一度目は展示史(資)料類を間近に見、2回目はギャラリートークに帯同して、その解説などを聞きながら見て周りました。
以後は、それらを絡めながら記していきます。

今回,この日のギャラリートーク(展示解説)は、滋賀県長浜市に在る「長浜市長浜城歴史博物館」の太田浩司副館長が務められました。
ただ本来は、この企画展の責任者で鉄炮伝来に関する新説を提唱している宇田川武久歴博教授が務められているそうですが、別項の通り,この日は鉄砲演武やら落語などのイベントが立て続けにあり、そちらへ出張っている為に太田副館長に、さながら白羽の矢が当たったが如く、代理を務めることとなったそうです。
なお、この時(集合場所:企画展口)集まった人は、多分・・・50人位と大勢耳目を集中させる中、
まずは第一部:鉄炮の受容と定着から、これは始まりました。


<><><><><>一弾目へ続く<><><>
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川中島への道

2006年07月26日 | 知識補給
毎日の日課,首都圏ニュースを見ようとNHKを見ていると、「その時歴史が動いた」の番宣が流れていました。
それによると、この日は双方向企画“歴史の選択”という、投票方式で進める企画で、お題は“川中島の戦い 引き分けの謎”というものだったので、久しぶりに見てみました。

選択内容は、この合戦は“実力伯仲”だったか、それとも単なる“パフォーマンス”だったのか?!を、松平定知アナウンサーと上田早苗アナウンサーがそれぞれ担当し、その主張を展開していました。
その内容,評価については、毎度のことながら、、、だったので、敢えてここでは。
ただ、これに関して、私は今までの「いざ!石和」にて記していますので、もし、ご興味がありましたら、↓↓↓から、ご一読くださると嬉しいのですが...

「真の勝者」
「御大将(竹俣慶綱)の正体」
「御大将の淵源」


この中で、一番驚いたのが、信濃善光寺には、謙信公(不識院殿)と信玄公(法性院殿)との位牌が、一所に、左右に安置されていたことでした。

もう一度、両雄に惹かれて行かねば!善光寺へ。

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「日本の神々と祭り」≪番外編≫

2006年05月09日 | 知識補給
歴博特別展を、ギャラリートークと共に帯同する事2度,展示物を見ることも2度、新谷先生曰く...
是非、本物をみてください。
...との助言にしたがい、隈なく見て周りました。

新谷先生と関沢先生の話は、その何もかもが、目から鱗の話ばかりで、しかも、新谷先生は“名調子”で、何度となくこうした場面に立っているのか、時折面白いことを織り交ぜながら、勉強になるだけではなく、大変に楽しみ、満喫してここを後にしました。

ギャラリートークの最後,新谷先生の『図録』の売り込みに、少々気持ちが揺らいだのですが、2,300円に二の足を踏んでしまい、結局買わずじまいで退館しました。
まぁ、近いので直ぐ買いに来れますしね。

この後、ちょいと佐倉城本丸址などを巡って、再び、もと来た道より、家路へと向かいました。

往復共に向かい風だったので、通常以上の体力を要しましたが、そこは何とか、いいう運動になったようで、翌日にもその副作用が出ず、安心して、その日は、大学時代の先輩,たかゆさんと、東京国立博物館に、また特別展を観に行ってきました。
その模様は、またその折に。

最後の一点。
臼井⇔京成佐倉間,印旛沼に掛かる龍神橋の袂に風車が立ち、その下の畑ではこの時季,チューリップが彩り鮮やかに咲き誇っていて、先の佐倉時代まつりの折は、まだあったのですが、この日,この傍を通りかかったのですが、もう、すっかり根絶やしにされていました。
ちょっと、これを楽しみにしていたので、幾分残念でした。。。

いざ、四・・・京祇園神社へ戻る!<<<<<◆>>>>>最初の目指せ!佐倉城へ舞い戻る!

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「日本の神々と祭り」≪四・・・京祇園八坂神社≫

2006年05月08日 | 知識補給
歴博特別展の最後は、京祇園八坂神社
その最初は、信仰の軌跡について展示(解説)がありました。
そのキーワードは、今は世間の嫌われモノの“杉”でした。
それは、「蘇民信仰」に由来するものだそうで、それによると...
スサノオノミコト(牛頭天王)が旅の途中、裕福な巨旦将来に宿を求めが断られ、その兄で貧窮の蘇民将来は宿を提供してくれた。
すると、スサノオ(牛頭天王)は「これから疫病が疫病を流行らせて皆殺しにする。ただ、あなたとその子孫は、茅の輪を用意しておけば、それから逃れることが出来る」といったとか。
その後、その言の通りに疫病が流行り、弟・巨旦らは死んでしまったが、蘇民とその子孫は、スサノオ(牛頭天王)の言を護って生き残った...。
・・・と、いうのが、蘇民信仰の簡単な紹介と謂れです。

これは、特に平安期に都市部で伝播された信仰で、八坂神社にこれが祀られています。
また、祇園祭の祭神として、この祭の折には、災厄から逃れる為に、蘇民将来の子孫であることを“証明”する為の、護符と“杉”や茅の輪を用意することになったそうです。
そして、“杉”を御守りとする風習は、戦国期の京都を描いた、「洛中洛外図」にも、それらしきものが見られ、そして、今も尚、連綿と受け継がれている・・・と、言うわけです。

更に、八坂神社本殿の裏には、かつて、いわれの解らない杉が3本植わっていたそうです。が、それも、何時の頃かに、無くなってしまったそうです。

また、祇園祭について。
平安京には、様々な国より人が集まり、都,都市として隆盛を誇りますが、一方,その副作用といて、疫病の流行などが上げられます。
ゆえに朝廷は、滝口の武士を設けて、その武術を以って天子様や都を護る役目を委ね、また、(市井にては)祇園祭を開催して、街々に満ちる“疫病神”を払うようになったそうです。
それも、湿気が多く、カビが発生する6月,雨が降ることによって、この祭の意義があるそうです。

また、山車(山鉾)が市中を練り歩くにあたっては、その天辺に、煌びやかな装飾などを設えるのですが、それは、世の男性よろしく,きれいなもの、煌びやかなものに、疫病神が惹かれて、付いて行ってしまうそうです。
そして、山車(山鉾)が市中巡行を終えると、それは速やかに解体します。
さもなけば、折角市中を巡行して掻き集めた不浄の疫神どもが、また猛威を振るう・・・からです。

これは、ひな祭りと同じ発想なのですが、もし、これを観光目的に長らく展示するようなことがあれば、もう、その時点で祇園祭の存在意義が変わってしまう・・・と、新谷先生は仰ってました。なるほどです。

そこで、なお序でに。
いま、“鎮守の杜”というと、鬱蒼と茂った、広葉樹が中心ですが、実は、明治以前は針葉樹,杉や松が主流だったそうです。
これは、展示解説を為さっている新谷,関沢両先生のほか、京都精華大学小椋純一教授などが中心となって調査した結果だそうで、八坂神社に見る、植生の変化について、解説のパネルが展示されていました。
この植生変化の原因は、明治新政府による「鎮守の杜は神聖なる場所,無闇に手を付けるべからず」という、毎度お馴染みの無知無策によるもの。
松は、荒地でも育ち、油脂分も多く、手軽な燃料とされてきましたが、こうしたお達し,更には、より手軽な燃料の入手により、手入れがされなくなった鎮守の杜の土壌は(過度に)肥沃化し、これに免疫力の弱い松は枯れ絶え、変わって、強いクスノキやケヤキなどの広葉樹に取って代わられた・・・と、いうのです。

ただ、私的に思うに、蘇民信仰よろしく,松や杉などの針葉樹には、呪術的要素が含まれていたので、鎮守の杜に多くあったのでは!?と。
また、、これは新谷先生も仰っておられたのですが、クスノキ=南朝の忠臣,楠木正成なのでは・・・と。

そして、展示の最後,出口傍にはこの、祇園祭に用いられる、大きな車輪(源氏車)がありました。
この意図を、新谷先生は...
日本にも、車輪文化があったこと知って欲しい。
...とのことでした。が!最後、先生はなおも興味深いお話をされまいた。
それは、先日同館に東宮,浩宮徳仁親王殿下がお見えになった時のこと。
今回と同じく、新谷先生が解説をされながら巡られたそうですが、ついつい熱がこもってしまい、時間をオーバーしてしまったそうです。
これには、御付の警察などがキリキリしだし、先生も焦りながら、漸く最後,この車のところに来て、この解説をすると、殿下は目を輝かせたそうです。
・・・というのも、いま、東宮殿下は牛車の研究を為さっているそうで、これには、ともて関心を示されたそうです。
これには、新谷先生も、ホッと胸を撫で下ろされたそうですが、先生はこの後,実に興味深い話を殿下からお聞きになったとのこと。
それは...
天皇・皇后両陛下は、御車には乗らず、御簾なのです。
...とのこと。
あっ!そういえば・・・天皇家専属の駕輿丁集団,「八瀬童子」があり、平安末期から続発する山門衆徒との強訴などの担ぎ出されるのも“神輿”ですね

なるほど、納得です!
これに関して新谷先生は...
車を用いることによって、玉体に影響を及ぼしてはならないのかなも。
...と、仰ってましたが、もう一歩踏み込んで,玉体(神)が、地に触れるのを忌み嫌ったのではないのかな・・・と、私的に考察してみました。が、如何でしょうかね。

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「日本の神々と祭り」≪参・・・厳島神社≫

2006年05月07日 | 知識補給
歴博特別展にて、伊勢神宮に続いて展示されていたのは、広島厳島神社

この直ぐ隣,伊勢神宮とは同ブースより続く展示の、一頭最初に有ったのは、厳島神社の模型です。
壮大で精巧に作られたそれは、広島大学三浦正幸教授が監修の下に作成された、仁治2年(1241)の、焼失した社殿の再建普請されたものです。
しかし、残念ながら、私は未だ厳島神社に参詣したことが無いので、詳しくは解らないのですが、この仁治度と現在,社殿の構成や、陸と海上の社殿を繋ぐ橋の長さや傾斜が、違うそうなのです。
そこから読み取れるもの。それは...
前出,三浦先生の研究成果を下に、(伊勢神宮に引続き)関沢まゆみ助教授と、新谷尚紀教授が解説下さったのですが、厳島には、元々これほど荘厳な社殿を構成するものは無く、小規模な、祠のような御社があったとされるようです。
それを、大輪田泊()や音戸瀬戸などの水利土木工事に長けた技能集団を抱えていた(平氏)清盛が、陸地を切開く、さながら龍宮の様な社殿を普請させたのだそうです。

しかし、海上に建つゆえに、維持保存にはそれなりに苦労と工夫がなされており、干潮時には、毎度,海(の生物など)の侵食を受けていないか専門職が調べ、それが見つかれば、“接木”をして、これを補強,修復するそうで、その成果たる,侵食された柱が展示されていました。
ただ、自然の猛威の前には、流石に為す術も無く遭う場合もあり、一昨年秋には、台風の直撃を受けて、甚大な被害を受けています。
その、復興費調達の為の“勧進展示”を、昨春,東京藝大美術館にて観ましたが、その折と同じく、(中国新聞社が空撮した)被災直後の厳島社の写真を、大きく引き伸ばしたパネルや、水害から社殿を必死に護ろうとする神官の写真も、合わせて展示されていました。
そして、天災は海からではなく、背後の聳える山からも、凡そ200年に一度の割合で、山津波が社殿を襲うそうで、近年では、昭和20年の枕崎台風の折、その被害にあったそうです。
そうして、こうした自然災害が、上記,橋の長さや傾斜などに違いに、現れてくるそうです。
ちなみに、こうした自然現象は、勿論出雲でも見られ、対比で展示された、出雲大社を描いた絵図(神郷図)には、江戸初期,沖合いにあった島が、江戸後期にはすっかり砂浜の一部と化したことが、見て取れます。
更に言うとこの島、今は住宅地の一部になっているそうです。

しかし、こうしたことをも予想して、緻密に計算していたのか、本殿に山津波が(極力)及ばないよう、配慮の上で普請されているそうです。
平安末期から鎌倉初期の普請とは言え、そこまでの土木技術があったことに、深い感慨と感嘆を覚えました。

序でに、ある意味,驚愕の事実・・・かもしれませんが、この厳島神社,平家滅亡後に2度の火災(承応元年,貞応2年)に遭うも、この再建普請を実現させたのは、鎌倉幕府3代執権北条泰時でした。
これは、同時期に厳島社へ奉納された太刀の、柄に刻まれた三つ鱗,北条家の紋が、そうと教えてくれたそうですが、これを、有職故実の近藤好和先生と発見した新谷先生曰く...
平氏の北条家当主,泰時が、平清盛を追慕して為した再建普請事業だろう。
...と推測されると、目を輝かせながら、熱く語っていました。
なお、常楽寺殿(泰時)は、翌年59歳にて没します。

この厳島神社は、上記の通り,(特に)平清盛の篤い信仰を得て社運盛大となり、以後、安芸や中国地方,引いては、天下人までもの崇敬を受け、大変多くの奉納物があるそうです、それは、前出,勧進展示の折に観ましたが、此度もその中の逸品,「平家納経」が展示されていました。
この平家納経は国宝ゆえに、取扱も、特に慎重を期さねばらなぬゆえ、これを扱えるのは、(日本で)厳島神社神主と、東京国立博物館の島谷弘幸展示課長のお2人だけとか。
ゆえに、今回は後者,島谷TNM展示課長の全面協力の下、紙背や銅製短冊形の題箋が見えるよう、鏡を配する工夫もなされていました。
この、実に煌びやかな「平家納経」には、この頃伝播した、浄土信仰と末法思想が、色濃く反映されているそうです。
それは、清盛の生前(現世で)の、多くの人を殺めた所業に対する、来世での仕打ちへの恐怖心から発願であり、更に言えば、これは神仏習合の現れでもあるそうです。
また、戦国までの(特に)武人が、死去直前に剃髪するのは、やはり、現世での所業を来世へ持ち込まず、その安寧を願うゆえのこと・・・。
ゆえに、天下泰平の世たる江戸時代の武士が(死去直前に)剃髪しないのは、人殺しをしないから・・・だそうです。なるほど...。

最後に、この平家納経に関して。
この発願には、一門(親族)が連署していますが、その中に、この枠外の人物が数人含まれています。
その1人,清盛随一の近臣であった、左衛門尉(主馬判官)盛国の名があります。
こうした事から、新谷先生曰く...
清盛は、世間に流布する悪者では、決して無かっただろう。
...と、仰ってました。

この他、厳島神社は上記の通り,数多の奉納品があるゆえか、展示品も多く、最後に取り上げるのは、奉納太刀と一量の鎧です。
太刀は、先にあげた北条家奉納太刀など数振りあり、その年代を経るに連れ、反りが大きくなっているのがよく解りました。
新谷先生曰く...
武士の魂が刀などと言ったのは、新渡戸稲造が始めであって、本当の“魂”は、弓箭であり=弓馬の道。
それは、甲冑の仕様からも見て取れる。

・・・とのことだそうです。
確かに、“武家の棟梁の条件”とは、すぐれば弓馬の術が無ければならない・・・と、されているらしのです。
そうしたことから...
厳島神社に奉納されている、平安期の甲冑は、弓箭に対応した、より実践的なもの
...だそうです。
そして、今回展示されていたのは、大内義隆が出雲遠征(尼子征伐)の途時,天文11年に奉納した「黒韋肩赤威鎧」というもの。
しかし、この甲冑の仕様では、(南北朝,応仁役より)歩兵戦にと転化したこの時代,戦国期の戦には不向きなもの。
ゆえに、これは、より儀礼的に設えたもの・・・との、ことでした。
ちなみに。
この甲冑が「天文11年(1541)」と解ったのは、奉納鎧に添えられた古文書があったゆえ。
これは、極めて珍しいことだそうです。

かなり長くなりましたが(^^ゞ 大満足の内に、続いて最後,祇園八坂社の展示へ移ります。

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「日本の神々と祭り」≪弐・・・伊勢神宮≫

2006年05月06日 | 知識補給
歴博特別展に於いて、出雲大社に続いて展示されているのは、伊勢神宮です。
・・・が、展示品は他の三社に比べては少なく、1ケース分のみ。
そこに収められているのは、式年遷宮の折に用いられる、太刀,弓などのご神宝の数々。
これらは、その時折の、最上のモノを作ることの出来る工匠に依頼するそうで、今回展示された品々は、明治の式年遷宮の折に用いられたもの。
それらも、やはり、当時の人間国宝級の、最上の工匠達が作り上げた、最上のモノなのでそうです。

次回,式年遷宮は、平成25年に執り行われますが、その準備はもう、着々と進められています。が!行う諸行事が多いこと多いこと。
パネルにて、式年遷宮に関する諸行事を、年譜にして紹介されていたのですが、どれもこれも大事かとは思いますが、最重要な儀式がどれなのか、私のような凡人には、理解できませんでした。

ちなみに。
式年遷宮に用いられたご神宝は、明治以前は埋めたり、焼却したりしたそうです。
当時の、最高技術の粋を集めて献上されたご神宝を、さも、早々と勿体無いこと・・・かと思いますが、それは逆に、神様の為に用いられた“神聖なもの”,人間が触れるなどは、逆に恐れ多くて勿体無い、という考えだったそうです。
ただ、明治以降は、技巧の伝承との兼ね合いもあって、保存をしているそうです。
更に言うと、式年遷宮を20年毎に行うのも、技巧継承を確実に行う為だそうです。

続いての「厳島神社」は、同じブース内から始まっていました。

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「日本の神々と祭り」≪壱・・・出雲国と大社様≫

2006年05月05日 | 知識補給
歴博にて開催されていた特別企画展。
その、クローズアップされた四社の最初,「出雲大社」のブースで、まず最初に取り上げられているのは、旧出雲国内の遺跡です。
近年,この地の荒神谷加茂岩倉などで、考古学的史料価値の高いものが、続々と発見されています。

まずは、荒神谷遺跡では昭和59年,4列に整然と並べられた銅剣,359本が発見され、一方の加茂岩倉遺跡では、「銅鐸」が、明らかに埋葬されたであろう、横に寝かせた形で出土したそうです。
これに関して、同館民俗研究系の新谷先生曰く...
寝かせてあったという発見,埋蔵状況からして、これは故意に埋めたもの。
それは、敵などから隠す為かも。
...とのことでした。
確かに、発掘当時の写真を見るに、偶然ではなく、必然的に人間が埋めた,と考えるのが妥当、と思える配置でした。

続いて、青木遺跡から発見された「神像」や「琴」などが展示されていました。
「神像」はとても小さく、多少の破損があっても、とても精巧なもの・・・とは言い難い、稚拙な出来上がりでした。
「琴」は、弦などは無く、ただ板木のみだったのですが、先生曰く...
琴は呪術的な要素で用いられた、と考えられるそうです。

そして、次に(漸く)出雲大社中心の展示となります。
その前に...
出雲国には、(かつて)399もの御社があったとされ、「出雲国風土記」には、天平5年(733)時点で、官社184,非官社215、と記録されています。
しかし、その全てに社殿があったとは思われず、(中には)偶像崇拝(木石,自然自体など)の御社なのでは・・・との事です。

その中で、出雲大社は大国主命を祭神として、今の世まで連綿と続いてきており、それを主宰する神官もまた、(南北朝期に分裂した)北島,千家弐家の出雲国造家が就いていました。
これに纏わる展示としてあったのは、国造継承に際して、大変重要な「火嗣式」に於いて用いられた「火燧臼」と「火燧杵」。
これは、千家国造家尊福氏が、継承時の儀式で、実際に用いられたもの。
門外不出級のモノだとかで、大変貴重な品を拝見出来ました。

続いて展示されていたのは、出雲大社(を始めとして出雲国内の御社)と龍蛇神信仰について。
新谷先生は、ここが専門分野とかで、とても熱く解説されていましたが・・・
これ,実はセグロウミヘビなる、その名の通り,背中は黒いが、腹は黄金という、南国海に生息する、毒持ち海蛇に仮託された“信仰”だそうです。
しかし、それが(時折)対馬海流の流れに乗って、出雲近海にやってくるのですが、南国海生れゆえ、冷たいこの海流に乗ると、猛毒持ちも形無しに、人などを襲うことも無いほどに弱るとか。
そして、これを捕らえて出雲大社や佐太神社などに献上すると、御礼を下賜されるとか。
・・・して、そこまで厚遇される要因は・・・
腹が黄金という特徴から来ている・・・と、考えられるそうです。

そして、(序でに)もう一つ。
出雲大社は、縁結びの御社としても崇敬を受けていますが、それは、この龍蛇神信仰が関係しているそうです。
それは、佐太神社の祭神,佐陀大神の誕生に由縁があります。
即ち、佐陀大神は、“金の矢”を受けた枳佐加比比売命(キサカヒヒメノミコト)が、妊娠して産んだ神だとか。
この“金の矢”こそが、先に海蛇なのだそうです。
そして、更に言えば、“矢”は男性に見立てられるそうです。が、これについては厳島神社の折、ちと触れます。


続いて、出雲大社の造営について。
ここには、数々の文献や、模型などを使って紹介しています。
その中で...
壮大な出雲大社。
これを、鎌倉中期までは、3本1組で田字形に9組配したものだとか。
それが、財政難やら、権威低下などで維持出来ず、1本1組に変化したそうです。
また、南北朝から室町期,権威の低下した御社を、尼子経久や毛利元就,そして、豊臣秀頼が支援しそうですが、この間,時代の趨勢もあってか、仏教的要素が高まった造りとなっているそうです。
しかし、江戸幕府が秀頼遺構の排除(破却)と、再建案を提示。
その当初案は、日光宮と同じく、権現造りだったのを、粘り強い説得交渉の成果、「復古調の造り」という、出雲社側の案で一件落着したとか。

その後の、掛け軸などが展示されていましたが、同時に、数百年も経てば当然かもしれませんが、地形なども変化しているのも判り、大変面白かったです。


そして次,伊勢神宮と厳島神社のブースへ(帯同の衆)と移動しました。


ちなみに、出雲大社に関わらず、江戸時代は、久しく太平の世だったゆえに、概ね復古調の時代とかで、これを(民俗学的には)“江戸ルネッサンス”というそうです。

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「日本の神々と祭り」≪零・・・目指すは佐倉城!≫

2006年05月04日 | 知識補給
我が街佐倉城址に建つ、独立行政法人国立歴史民俗博物館にて、7日(日)まで開催中の特別企画展「日本の神々と祭-神社とは何か?-」を観てきました。

この日は、風はあるものの天気は好かったので、家から自転車で、30分ほど掛けて向かいました。

成田街道より佐倉城址らしい急峻でクランクのある坂道を登り切った所,旧侍屋敷町の椎木曲輪址旧陸軍連隊兵舎址)に建つ歴博へ来るのは、覚えていないくらい、久方ぶり。
ただ、その展示史料が多いことは、概観から、そして、以前訪れたときに痛感したこと。
ゆえに、今日は閉館まで居る覚悟でやって来ました。

まず、正面玄関より入,役所的な受付にて拝観料(企画展値:830円)を払ってチケットを得、係員の案内に従って、階下の企画展示室へ。
この入口にて係員にチケットを見せ、いよいよ中へ,待望の企画展内へと進みました。

日本全国津々浦々,数万もあるという神社の内,今回クローズアップしたのは、出雲大社伊勢神宮厳島神社京八坂神社の4社。
それを、(この順序で)4ブロックある展示室内に、それぞれ関連史料を展示して、紹介をされていました。

この魅力的な特別展を、土日祝日に限り,この展示に携られた諸先生が、展示室内を解説されながら巡るという“トークギャラリー”が催されており、折り好く,この日担当で、同館民俗研究系の新谷尚紀教授関沢まゆみ助教授のそれに出くわし、まずはそれに帯同して行きました。
そのお蔭で、目から鱗がボロッボロと落ちるくらい、勉強になる話を、存分に聞けました。
それを織り交ぜながら、まず最初のブース「出雲大社」より参ります。


いざ,≪壱・・・出雲国と大社様≫へ参らん!

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上野の杜に溢れる人

2006年05月04日 | 知識補給
先輩のたかゆ様と、上野の東京国立博物館で開催されていた特別展「最澄と天台と国宝」(と、合わせて平常展)を観て来ました。

レビューは後日完成させますが、この日はこどもの日。
上野動物園が子供無料だったり、国立科学博物館の「ナスカ展」を観るのに長蛇の列が出来てたり・・・と、初夏の陽気に誘われてか、人でも多く、これへ向かう道路は、遅々として進まず、JR上野駅公園口では、出るのに20分など、上野の杜は大盛況でした。

聞けば、東京から郊外へ向かう人より、逆が今年は多かったとか。

あの人の多さを見れば、納得かも。

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