くない鑑

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「日本の神々と祭り」≪参・・・厳島神社≫

2006年05月07日 | 知識補給
歴博特別展にて、伊勢神宮に続いて展示されていたのは、広島厳島神社

この直ぐ隣,伊勢神宮とは同ブースより続く展示の、一頭最初に有ったのは、厳島神社の模型です。
壮大で精巧に作られたそれは、広島大学三浦正幸教授が監修の下に作成された、仁治2年(1241)の、焼失した社殿の再建普請されたものです。
しかし、残念ながら、私は未だ厳島神社に参詣したことが無いので、詳しくは解らないのですが、この仁治度と現在,社殿の構成や、陸と海上の社殿を繋ぐ橋の長さや傾斜が、違うそうなのです。
そこから読み取れるもの。それは...
前出,三浦先生の研究成果を下に、(伊勢神宮に引続き)関沢まゆみ助教授と、新谷尚紀教授が解説下さったのですが、厳島には、元々これほど荘厳な社殿を構成するものは無く、小規模な、祠のような御社があったとされるようです。
それを、大輪田泊()や音戸瀬戸などの水利土木工事に長けた技能集団を抱えていた(平氏)清盛が、陸地を切開く、さながら龍宮の様な社殿を普請させたのだそうです。

しかし、海上に建つゆえに、維持保存にはそれなりに苦労と工夫がなされており、干潮時には、毎度,海(の生物など)の侵食を受けていないか専門職が調べ、それが見つかれば、“接木”をして、これを補強,修復するそうで、その成果たる,侵食された柱が展示されていました。
ただ、自然の猛威の前には、流石に為す術も無く遭う場合もあり、一昨年秋には、台風の直撃を受けて、甚大な被害を受けています。
その、復興費調達の為の“勧進展示”を、昨春,東京藝大美術館にて観ましたが、その折と同じく、(中国新聞社が空撮した)被災直後の厳島社の写真を、大きく引き伸ばしたパネルや、水害から社殿を必死に護ろうとする神官の写真も、合わせて展示されていました。
そして、天災は海からではなく、背後の聳える山からも、凡そ200年に一度の割合で、山津波が社殿を襲うそうで、近年では、昭和20年の枕崎台風の折、その被害にあったそうです。
そうして、こうした自然災害が、上記,橋の長さや傾斜などに違いに、現れてくるそうです。
ちなみに、こうした自然現象は、勿論出雲でも見られ、対比で展示された、出雲大社を描いた絵図(神郷図)には、江戸初期,沖合いにあった島が、江戸後期にはすっかり砂浜の一部と化したことが、見て取れます。
更に言うとこの島、今は住宅地の一部になっているそうです。

しかし、こうしたことをも予想して、緻密に計算していたのか、本殿に山津波が(極力)及ばないよう、配慮の上で普請されているそうです。
平安末期から鎌倉初期の普請とは言え、そこまでの土木技術があったことに、深い感慨と感嘆を覚えました。

序でに、ある意味,驚愕の事実・・・かもしれませんが、この厳島神社,平家滅亡後に2度の火災(承応元年,貞応2年)に遭うも、この再建普請を実現させたのは、鎌倉幕府3代執権北条泰時でした。
これは、同時期に厳島社へ奉納された太刀の、柄に刻まれた三つ鱗,北条家の紋が、そうと教えてくれたそうですが、これを、有職故実の近藤好和先生と発見した新谷先生曰く...
平氏の北条家当主,泰時が、平清盛を追慕して為した再建普請事業だろう。
...と推測されると、目を輝かせながら、熱く語っていました。
なお、常楽寺殿(泰時)は、翌年59歳にて没します。

この厳島神社は、上記の通り,(特に)平清盛の篤い信仰を得て社運盛大となり、以後、安芸や中国地方,引いては、天下人までもの崇敬を受け、大変多くの奉納物があるそうです、それは、前出,勧進展示の折に観ましたが、此度もその中の逸品,「平家納経」が展示されていました。
この平家納経は国宝ゆえに、取扱も、特に慎重を期さねばらなぬゆえ、これを扱えるのは、(日本で)厳島神社神主と、東京国立博物館の島谷弘幸展示課長のお2人だけとか。
ゆえに、今回は後者,島谷TNM展示課長の全面協力の下、紙背や銅製短冊形の題箋が見えるよう、鏡を配する工夫もなされていました。
この、実に煌びやかな「平家納経」には、この頃伝播した、浄土信仰と末法思想が、色濃く反映されているそうです。
それは、清盛の生前(現世で)の、多くの人を殺めた所業に対する、来世での仕打ちへの恐怖心から発願であり、更に言えば、これは神仏習合の現れでもあるそうです。
また、戦国までの(特に)武人が、死去直前に剃髪するのは、やはり、現世での所業を来世へ持ち込まず、その安寧を願うゆえのこと・・・。
ゆえに、天下泰平の世たる江戸時代の武士が(死去直前に)剃髪しないのは、人殺しをしないから・・・だそうです。なるほど...。

最後に、この平家納経に関して。
この発願には、一門(親族)が連署していますが、その中に、この枠外の人物が数人含まれています。
その1人,清盛随一の近臣であった、左衛門尉(主馬判官)盛国の名があります。
こうした事から、新谷先生曰く...
清盛は、世間に流布する悪者では、決して無かっただろう。
...と、仰ってました。

この他、厳島神社は上記の通り,数多の奉納品があるゆえか、展示品も多く、最後に取り上げるのは、奉納太刀と一量の鎧です。
太刀は、先にあげた北条家奉納太刀など数振りあり、その年代を経るに連れ、反りが大きくなっているのがよく解りました。
新谷先生曰く...
武士の魂が刀などと言ったのは、新渡戸稲造が始めであって、本当の“魂”は、弓箭であり=弓馬の道。
それは、甲冑の仕様からも見て取れる。

・・・とのことだそうです。
確かに、“武家の棟梁の条件”とは、すぐれば弓馬の術が無ければならない・・・と、されているらしのです。
そうしたことから...
厳島神社に奉納されている、平安期の甲冑は、弓箭に対応した、より実践的なもの
...だそうです。
そして、今回展示されていたのは、大内義隆が出雲遠征(尼子征伐)の途時,天文11年に奉納した「黒韋肩赤威鎧」というもの。
しかし、この甲冑の仕様では、(南北朝,応仁役より)歩兵戦にと転化したこの時代,戦国期の戦には不向きなもの。
ゆえに、これは、より儀礼的に設えたもの・・・との、ことでした。
ちなみに。
この甲冑が「天文11年(1541)」と解ったのは、奉納鎧に添えられた古文書があったゆえ。
これは、極めて珍しいことだそうです。

かなり長くなりましたが(^^ゞ 大満足の内に、続いて最後,祇園八坂社の展示へ移ります。

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