くない鑑

命を惜しむなっ!名こそ惜しめっ!!前へぇ、前へーーーぇっ!!!

賽はいつか投げられる...?!

2008年10月21日 | 知識補給
週間東洋経済』(東洋経済新報社)の最新号(2008年10月25日特大号/第6170号)を読みました。

今号のメインは“家庭崩壊”。

その誌面の大半,70ページ程を使って組まれたこの特集では、雇用や就労を取り巻く問題点から、子育てや教育、福祉の現状等などを、グラフや様々な参考事例を用いて丁寧にかつ(比較的)判り易く創り上げられていたので読み応えが有り、
「ふむふむ・・・、あっ!な~るほどぉ・・・。」
・・・と関心することが多く、(ちょっと大げさかもしれませんが(^^ゞ)結構目から鱗が落ちました。

“家庭崩壊”という括りの中で、取り上げられたテーマは幅広く、多岐に渡って誌面展開がされていましたが、読む前は、(各テーマが)個々の独立した問題(課題)だと思っていたのですが、否、全てが密接に“繋がっている”ことを、改めて認識させられました。
そして、特集の副題にある「考え直してみませんか?ニッポンの働き方」とは、随分と前から提唱されている様に思うのですが、もしその通りに問題点の改善が進めば、経済も社会も、そして価値観にも幾許かの変化が生じるのでは・・・とも、期待感を込めて感じました。
(所管官庁も厚生省+労働省=厚生労働省になったんですから...。)

この間ちょっと小耳に挟んだ程度なのですが、米国大統領候補の1人,バラック・オバマ氏(民主)は、景気・雇用対策の一つとして、雇用や採用数(枠)に伴う法人税の減免処置を政策の一つとして提唱しているとか。
なるほど...
景気の後退は、遂に実体経済にまで及んだ・・・と言われても、なんだか小難しくてピンと来ず、いま一つ実感が無いのですが、様は、お金は人が使うのであって、これが生きていく為のツールなのです。
だから、人はそれを得る為に働くのであって、その基盤が少しでもしっかりしていれば、安心やゆとりが生まれ、不景気のどん底に陥ることは無いのでは?!と、あくまでも<私的には思います。

それこそ、単純に例えるならば(きっと)...
しっかりした生活基盤←
↓心理的に余裕が生まれ、購買や投資などの経済活動へ意欲が生じ、促進される
↓それで企業や団体に利益をもたらす
→これが従業員へ還元されるし、行政の収入として納められる。↑
...の様に循環するんじゃないのかな?!と。

だから日本も、旧世代的な公共事業様様の景気対策ではなくて、雇用を促進する様な税制対策とか行って、反面、そこで減ったりした分を個人にちょこっと負担を掛けるようにすれば、国庫の損害率も少なくて済むんじゃないのかなぁ・・・と、(あくまでも勝手に(笑))考えています。
ただ...
麻生首相は、この間の参院予算委員会で、雇用などに関する質問に対する答弁で、
「まず景気が回復すれば、自ずと雇用に関する現状も変るだろう。」
みたい!な発言をしていました。

先のトンヅラしやがった2人よりはマシだとは思っていましたが、所詮は旧来型の思考回路なのか・・・と、(更に)幻滅しました。
バブル崩壊後の現状を鑑みれば、それはちょと違うんじゃないの?!と、思うのですが。。。
そんなんだから、景気後退が現実的に懸念されている今こそ、改革の好機!と、(ばかりに)有識者がメディアの舞台を利用して言っているのをよく耳にしますが、およそ今の政治状況や政治家の質や言動を見るにつけ、そうした政策等が打ち出されるとは、到底思えません。
腐りきっても鯛の様に振舞う自民党と、寝ても醒めて政局のコトばっかり考えている様な民主党の、胸焼けするほど「選挙っ!選挙っ!!」とバカの一つ覚え見たく言い続けて、“国民目線”と言い様、裏を返せば媚を売って、与党になることしか考えていない様にしか思えない姿勢には、正直、もう、飽き飽きです。
この他にも、共産党だの国民新党だの社民党だの、ピーチクパーチクと小五月蝿く、針小棒大にしかモノが言えない嘆かわしい現状。
こんな人たちがよくもまぁ、
「国民の側に立って!」「国民の目線で!」
などと判で押したかの様に語っていますが、おこがましいとは思わないのかなぁ...と、思います。
ましてや、どこぞのダイギシさんが、教育問題の諸悪の根源がさも(全て?!)日教組云々などと叫んでましたが、(私観からすれば)予てからの懸案事項である社会保障制度(セーフティーネットの)問題を棚に挙げし、論点をすり替えて、ただ単に反民主の意志で動いている様にしか感じられません。
挙句の果てには、「辞~めた」かと思ったら(ライバルの立候補を聞くと)「やっぱり出る!」と言ったり...。
いろいろと言い書きたいことはありますが、ただ一点,朝令暮改は、政治家として最っ低な行為だと思います。
これほどのKYさんがよくもまぁ、教育のことについて言えたもので(苦笑)
見ててアワレだし、振り回された人達が気の毒なりません。
全く、我等が阪神タイガースの岡田監督の“意志の強さ”を見習えっ!て、言ってやりたいです。

けど、まぁ...
所詮はこんな方々の寄せ集めだから、結局は、小手先の弥縫策に終始しして、せっかくのチャンスを逃しそうでなりません。

こんな調子だと、およそ景気回復など望めませんね...。
それなら「選挙だ!」って言われても、白票がなんら尊重されず、無視扱いされてしまうのが、ホトホト困ります。

以上、雑感です(^^ゞ
読んだら何となくつぶやきたくなったので書いてみましたが、勝手ながら、ちょいすっきりしました(苦笑)
なお、中身は私観で満ち溢れていますので、その辺は、何卒ご容赦の程をm(_ _;)m

そういえば...
誌面の最後の方でモンスターの発生源として触れられていましたが、最近、世間はとかく時間に縛られ、息苦しくなるほど支配されている様な気がします。
コメント (2)
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平氏小栗家顛末記[付]

2008年04月27日 | 知識補給
過日観に行った「小栗判官祭」の主人公,“小栗”判官と聞いて、佐幕派な私としては
どうしても知りたかったのが、幕末随一の能吏,小栗上野介忠順との関係です。
しかし、調べていく内に、次々と面白く,興味深い事が解ってきたので、ここでは[付録]として、2つの家を取り上げたいと思います。

では...

源平合戦の那須与一で有名な那須家の下には、俗に“那須七騎”と称される有力家臣団が居ました。
その中の一家,大関家は、中世より北下野に地盤とし、戦国乱世を生き抜き、江戸時代を通して下野国黒羽を領し、幕末には英邁の誉れ高かった当主肥後守増裕が幕政に参与し、講武所奉行,陸・海両軍奉行を経て若年寄にまで昇進する。
(しかし、大政奉還から2ヵ月後,不可解な死を遂げる。享年31,徳川家期待の星の1人でもあったとか。。。)
この家の興りが、孫五郎満重(判官)の5代祖,遠江守重家の子の文殊丸重行が、小栗御厨内大関郷(旧下館市大関辺りか)を名字の地とした事から始まる・・・とされています。
(これ関連して,他にも、那須家と縁のある与一高清なる者が「大関」と称し、那須へ着た・・・とも。)
しかし、関東は鎌倉幕府崩壊後、いつ果てるとも知らない戦乱状態にあり、全国に先駆けて下克上が成されるほど過酷な激戦区。
それは、大関家でも例外では無く、戦国中期,主家筋の那須家を巻き込んだ派閥争いの過程で、対立関係にあった(同じ那須七騎の)大田原資清に大関家嫡男(増次)を謀殺されてて跡継ぎがいなくなり、大関家当主(美作守宗増)は家名存続の為に、致し方なく備前守資清の子,美作守高増を養嗣子に迎えます。
このことにより、平氏(小栗家)の流れは途絶えて、新たに丹氏大関家として生まれ変わり、現代に至るまで家名を残すこととなります(※)
(※:「源氏」や「平氏」といった「氏」は、男系に継承されるものなので、例えば「源氏」の家に「平氏」が婿養子になると、その家は「平氏」になるのです。
だから、皇統は男系が継承しなければならない・・・というのは、補足として。)


またまた序に,調べていて判ったのが...
「独眼竜政宗」で余りにも有名な伊達家。
その祖は、源頼朝より陸奥国伊達郡と信夫郡を得た中村朝宗とその子,兵部少輔宗村が、伊達(郡)を名字の地としたことから始まる・・・と、されています。
しかし、その前はどこに居たのか?!というと、実は、常陸国小栗御厨の西隣,伊佐郡(旧新治郡から分裂)に在地していたのです。
その中心(居館)は、小栗御厨(小栗城:旧協和町小栗字宮本)から直線距離で6Kmほど南西の、旧下館市中舘(伊佐郡中村か)に在り、伊達宗村が陸奥国へ移転した後も、本家筋に当たる「伊佐家」が、南北朝の動乱の中に没落するまで、(城砦を構えて)領していました。
(もう一説には、直線距離で8Km北西の真岡市中(中村)であったとも。)
そこで、ふと疑問に上がるのがその出自。
伊達家もしくは伊佐家,中村家の祖は、藤原北家房前流の左大臣魚名というのが、通説として有名でしたが、今回初めて,伊達郡へ移る前に居たのが常陸であったことを知り、この通説に対して、俄かに疑問を感じました。
北関東の、特に下野と常陸には、秀郷流藤原氏(結城,小山)、義光流源氏(佐竹,武田)、そして繁盛流平氏(大掾,小栗)の三流が勢力を張っており、その中でも常陸は、平氏大掾家が在庁官人として国内各地に支族を配置しているので、余計に,京下りの受領が入り込む余地が果たしてあったのか?!疑問の残るところです。
そこで出てくるのが、藤原氏の後裔ではなく、実は、近隣諸家と同じ「常陸平氏繁盛流」という説。
その興りは、小栗家祖重義の伯父(常陸大掾維幹の子)に当たる為賢が、新治地方伊佐を名字の地としたことから「伊佐家」が始まった・・・と、されています。
系図の改竄などは、徳川家の例を始め枚挙に暇が無いので、実は伊達家が小栗家と同族であった?!という可能性が、幾分にでもありそうです。
ただそうすると、なぜ伊達家が「平氏」から「藤原氏北家房前流」を称するようになったのか、大いに興味のあるところです。
また、もう一説には、両毛地域の豪族,下毛野氏の後裔とも言われていますが、同じく後裔か?!と言われている宇都宮家も、藤原氏北家の英と称してているところが、実に興味深いです。

しかし、これ以上は...
調べだしたら切が無くなりそうなので、ここまでで(^^ゞ

今回は、公立図書館で配架されている、閲覧可能な史料などから作り上げた片手間の、いわば、趣味の延長線上で。
裏付けが甘く、推論に稚拙なところがあるので、真実味のあるレポ(論文調)にするには、今以上に、史料等を丹念に精査しながら書き上げなければなりません(^^ゞ

けど、家史や系図は面白いもので,ハマると中々抜け出せなくて(^^ゞ
皆さんも、興味と機会があれば(調べて)見てください。
意外な発見があるかもしれません!(笑)

ではでは。

<終>
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平氏小栗家顛末記[結]

2008年04月26日 | 知識補給
常陸介満重に代わって小栗家の主流となって弾正忠重弘の裔は、碧海郡筒針に居館(城砦)を構えて土着するが、目と鼻の先の安祥城や矢作川対岸の額田郡岡崎城(2.5Km)は、松平家の拠点であったので、松平衆との繋がりは次第に多くなる。
弾正忠重弘の来孫である左京進正重は、三河国上野城主酒井将監忠尚の養女に出した妹婿に、額田郡岩津城主松平市郎忠吉(?~1538)を迎え、この間に生まれた仁右衛門吉忠に「小栗」の名跡を与えて一家と成す。

改めて,「小栗」に改称した仁右衛門吉忠(1527~90)は、松平広忠の頃から合力するが、文武に優れていて数多の勲功を重ね、子息の庄三郎忠政もまた軍功多く、特に槍の使い手として名を馳せ、家康公から「又も忠政が一番槍」から“又一”という名を賜る栄を受けます。

江戸幕府が成ってからは、上野や武蔵などに2,550石もの采地を得、以後,上級旗本として連綿と続き、又一忠政から数えて11代目の上野介忠順へと繋がるのです。
彼の功績は、ここで今更披露するまでも無く多くの方々に知られており、幕末随一の能吏であり、近代日本の礎を築いたといっても、過言では無いかと思います。
ゆえに...西軍の処断には、残念無念であり、大いに悔やまれるところです。。。

なお、又一忠政の子,仁右衛門正信(信由)は柔術に優れていて、その技は小栗流和術として一派を為し、その技は、土佐国主山内家に仕えた高弟の朝比奈丹左衛門可長が能く受継ぎ、幕末まで土佐山内家の主流となる。

この他にも,左京進正重には男子が無く、疋田家より迎えた男子も小栗家を継ぎ、江戸時代には旗本として280石の采地を受継ぎ、代々大番入りをして、名門に恥じぬ処遇に得ています。

最後に。
説教浄瑠璃の一つとして広まった「小栗判官伝説」は、現代に於いても歌舞伎などで取り上げられて、世に知られていますが、そのきっかけは、政争に翻弄されて滅んだ小栗家の人々の怨霊を鎮める巫女が時宗僧と係りを持ち、道場(遊行寺)の在る藤沢にそれが伝わり、更にここから全国へと伝播したと・・・言われています。
ちなみに、説話中に登場する「照姫」とは、巫女たちのことであろうと考えられるそうです。

そうえいば...
徳川家の始祖は、応永年間に三河国松平郷に流寓土着した時宗僧の徳阿弥なるものと言われていますが、単なる偶然にしては、なんだか面白い繋がりです。

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平氏小栗家顛末記[転]

2008年04月25日 | 知識補給
鎌倉府内部の拭い難い政権抗争から勃発した「享徳の乱」以後,関東は30年近くも干戈の絶えない騒乱状態に陥り、全国に先駆けて戦国時代に突入します。
こうした渦中に呑み込まれてしまっ小栗常陸介満重ら一党は、父祖伝来の(名字の)地を失い、常陸よりも退去して三河へと落ち延びます。

しかし、ここで思うのが、なぜ三河なのか?!ということ。
これには、国内に領地が有ったから・・・だとされていますが、いま一つ,三河は足利家と縁深い国である,ということです。
この起源は鎌倉の初期,左馬頭義氏が、承久の乱後に守護職と所領を得て後、多くの一門(吉良,今川,細川など)を国内に配し、地盤を固めた重要な拠点であったので、京都御扶持衆として将軍家と近しかった小栗一党を受け入れ易かったのではないのかな・・・と、思います。
(徳川家康公が今川家から独立をし、三河一国を掌中に治めて後,「源氏」に改姓して三河守になったのも、足利源氏を意識してのこととされています。)

常陸から流転した小栗一党も、漸くここに腰を落ち着けますが、「小栗判官伝説」の主人公である常陸介満重は表舞台を去り、子の小次郎助重も京へ上って絵師に転身をしたので、主流は弾正忠重弘へと移ります。

なお、京へ上って絵師に転身をした小次郎助重は、入道して名を宗丹(宗湛:1413~1481)と改めるが、その作品の優秀さを時の将軍義政公の認められて御用絵師に取り立てられ、東山文化の担い手の1人として活躍。
後に、「小栗派」という一派を成すにまで至る。

ちなみに、越後騒動で処断された越後小栗家は、この助重の末裔(四世孫)とのこと。
(大六小栗家:家康公に仕えていた大六重国が、結城秀康の傅役に付されて以後、越前松平家嫡流に上士として仕えるが、上記の通り,越後高田城主松平越後守家の御家騒動で美作守正矩と子の大六長治が切腹に処されたことで、断絶してしまう。)

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平氏小栗家顛末記[承]

2008年04月24日 | 知識補給
将軍家と鎌倉府との「政争」に巻き込まれ、応永年間に3度挙兵した反鎌倉府勢も、所詮は多勢に無勢。
鎌倉府勢に攻め立てられた常陸国小栗城は8月2日に落城し、与同した諸将は悉く没落し、城主の常陸介満重も行方を眩ませ、自害したとも思われました。

しかし、実のところ三河まで落ち延びていたのです。

その後,将軍家(足利宗家)と鎌倉府との対立は、青蓮院義円が前代未聞の籤引によって将軍職に就いた(足利義教)ことによって更に悪化。
両者の間に入って関係改善に努めていた関東管領上杉憲実も、鎌倉殿持氏から疎まれて疑念を抱かれ、(半ば一方的に)対立が激化し、鎌倉を追われた挙句、軍勢を差し向けられるに及んで、遂に抜き差しなら無い事態に発展。
この機とばかりに将軍義教は、上野に落ちた上杉憲実からの救援要請に応えて討伐令を発し、周辺諸国の諸勢力に加えて京都からも、朝廷(後花園院)より極秘裏に得た綸旨と錦御旗とを付与して軍勢を差し向ける。
(治罰綸旨と錦御旗は、同時多発的に起った反将軍家の勢力を討つ為の、言わば窮余の一策として持ち出されたが、これが与える影響を考慮し、鎌倉勢討伐軍に与えたことすらも、特に畿内では極秘にされました。)
この時、三河から京都に出ていた小栗常陸介満重は、かつて与同した上杉禅秀の子,中務少輔持房の軍勢に加わって関東へ出陣。
鎌倉殿勢の討伐に功を成して、念願の旧領,常陸小栗城(領)を回復します。

しかし、小栗家の安定は長くは続かず,またもや(同じ構図の)政争の渦中に巻き込まれてしまいます。

永享の乱から8年後の文安4年。
鎌倉府は再興され、敗死した左衛門督持氏の子,永寿王丸が擁立され、この2年後,8代将軍義成(のちの義政)から偏諱を受けて左馬頭成氏と名乗り、5代目に就任。
そして、幕府は関東管領に上杉憲実を就けようとしたが、当人は「永享の乱の当事者」であることを懸念して強く固辞し、返って隠居願を表す。
しかし、幕府はこれを許さず、再三再四就任を要請するも、本人の頑な意思は変わらず、遂には朝廷をも利用し、前代未聞の就任要請と隠居不可の綸旨(天皇の命令)を発して翻意を促したが、これでも本人は受けずに出家してしまう。
この為、幕府(や上杉家家臣団)は長子の竜忠を還俗させて左京亮憲忠とし、これに就ける。
(憲実は、これににも強く反対していて、意に反した憲忠を義絶してしまう。)

これで、一応の決着を見て安定するかと思われた関東情勢も、新鎌倉殿成氏の、上杉一門への恨みは深く、両者(派)は次第に疎遠となり、就任の翌年には、早くも関東管領派が鎌倉殿を襲撃する事態にまで発展する。(宝徳2年4月,江ノ島合戦)
この騒動は、一旦幕府の仲裁で和解をするが、対立自体は収まらず,享徳3年師走に鎌倉殿成氏が上杉憲忠を誘殺するに及んで、(またもや)遂に抜き差しなら無い事態に発展。
翌年の正月早々,両勢力は武蔵国分倍河原で干戈を交える。

この合戦は、鎌倉殿勢の奇襲が功を奏して関東管領勢が総崩れとなり、数多の武将が討ち取られる。
その中で、新関東管領上杉房顕や騒動の切欠を作った山内上杉家家宰の長尾景仲が敗残の兵を集めて常陸国小栗城へと落ち延びてくる。
予てより上杉勢に加担していた小栗満重は、敗残の兵を受け入れて小栗城に拠って、再び鎌倉殿勢と争うべくを迎え撃つが、足利成氏自らが大軍を率いてこれを取り囲み、閏4月には陥落させる。
これに及んで、籠城の諸将は(再び)城より落ち延びて諸方へ逃れ、小栗常陸介満重もまた,子の小次郎助重等と共に三河へと落ちていく。

この後,小栗城には宇都宮方の小宅景時が「小栗蔵人」と称して入るが、隣接する結城家との争いは絶えず、両家争奪の場へと変る。

一方、鎌倉殿討伐令を発した幕府は、合わせて(今度は公然と)朝廷より治罰綸旨と錦旗を得、今川範忠[駿河守護職]や小笠原光康[信濃守護職]などを関東へ差し向け、遂に6月,武田右馬介信長(上総武田家祖)が守る鎌倉を、難なく落として占領する。
この為、鎌倉殿成氏は鎌倉へ戻ることが出来なくなり、出陣先の下総古河城に拠る事を余儀無くされ、以後,ここを御座所とすることとなる。(古河公方の始まり。)

なお,三河へ落ち延びたとされる小栗家の行方については、また次項にご紹介します。

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平氏小栗家顛末記[起]

2008年04月23日 | 知識補給
今回,予てから噂に聞いていた「小栗判官まつり」を観に行きました。
主役の「小栗判官」については、諸説紛々ありますが、一応、室町の中頃に実在した地元(常陸国)の住人(武将)です。
しかし、度重なる政争と戦乱の中で、室町の中頃に城領を失って没落をしてしまいます・・・が、実は、ここから落ち延びた(と言われる)平氏小栗家の末裔が徳川家に仕え、その裔が、一時世間の耳目を集めた徳川埋蔵金伝説にも深く関与した人物へと繋がっていることを知ったのです。
そうとあっては、佐幕な私にとっては放っておけず,ここからは観祭記の番外編として、小栗家の軌跡をば、(またもや)性懲りも無くここに書き記して見たいと思いますので、暫しお付き合いの程を。

小栗家は、平氏繁盛流(常陸平氏大掾家支流とも)の一族として、常陸国真壁郡小栗御厨(伊勢神宮内宮領)を名字の地とし、平安末期から居館を構えて以後,約300余年に渡って同地を領し、同族の大掾家(嫡流)や真壁家等と共に、一定の力を以って鎌倉時代や南北朝の動乱を乗り切りました。

しかし、室町時代に入ると状況が一変。
その発端は、小栗家が「京都御扶持衆」に任ぜられたことによります。

京都に幕府を開いた足利宗家は、平安の頃から長らく東国の拠点として,また、武都として栄えた鎌倉を重要視し、建武期の鎌倉将軍府に引き続いて鎌倉府を設け、この長(鎌倉公方)に将軍家連枝を就けて、東国武士の統率と支配の強化を図りました。
しかし、鎌倉府はこの思惑に反して将軍家との関係が疎遠となり、時に反抗的で独立の気運さえ見せ始めます。
これに対して将軍家は、東国の有力国人衆と結び付きを強化すべく、「京都御扶持衆」なる幕府派勢力を形成して鎌倉府を牽制する手段に出るのですが、その中で小栗家は、将軍家に(その実力を)見込まれてか,御扶持衆の一員に組み込まれることとなります。

しかし、こうした動きを鎌倉殿が快く思わず、特に将軍家に敵愾心を抱いていた左馬頭持氏(4代目)の疑念は強く、政敵と化した前関東管領上杉禅秀(氏憲)とその与党を討った(1416-17/上杉禅秀の乱)後は、「扶持衆」勢力への攻勢を強め、対立が次第に深まっていきます。
こうした情勢下,時の小栗家当主常陸介満重(孫五郎)は、一貫して反鎌倉府側に立ち、上杉禅秀勢に加担て鎌倉殿と戦い、この2年後にも兵を上げる。
しかし、そのいずれも鎌倉方に敗れ、、孫五郎満重の、鎌倉殿への反抗は容易に拭い難かったようで、その4年後の応永29年,三度目の兵を起こします。
この時は、これに同じく京都扶持衆の宇都宮持綱[上総守護職]や結城氏朝,真壁秀幹などが同心。
世に“小栗満重の乱”と呼ばれるこの騒動は、小栗勢が討伐に出張ってきた鎌倉府勢を敗北せしめる程の勢いが一時あったが、目障りな御扶持衆を掃討する好機!と読んでか、鎌倉殿持氏自らが常陸国結城まで出陣。
そして、前線には近在の小山泰朝,結城基光[下野守護職]や上杉憲実[関東管領]等の率いた軍勢を差し向けて大いに攻め立てたので、小栗城は翌年8月2,終に落城する。
与同した宇都宮持綱は、一門の塩谷駿河教綱に討たれ、真壁秀幹は領地を追われ(一時)没落し、首謀者たる小栗満重は自害したとも、西方へ落ち延びたとも言われ、行方は知れなかった。

そして、ここから「小栗判官」の伝承が始まるのです・・・が、ここではそれに触れず,小栗家の今後について、引き続き書き記して参ります。

なお,時の将軍足利義持は、一連の騒動に対して大いに“御不興”で、小栗城陥落から9日後の11日,今川範政[駿河守護職]に鎌倉殿の追討を命じ、合わせて関東周辺にも幕府軍を集結させて圧力を掛ける。
こうした動きに鎌倉殿は驚き、慌てて軍勢を収めて陳謝の意を表したことにより、兵戟は漸く終結し、鎮静化していきます。

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「羽柴家」死すとも「豊臣氏」は死なず

2007年12月05日 | 知識補給
いま,CSの時代劇専門チャンネルでは、7年前に放送されていた大河ドラマ「葵 徳川三代」を朝と夜に放送しています。
このリアルタイム時,私は日本近世史を専攻する大学4年生で、ゼミ中でもちょっとした話題になっていました。
しかし、尊敬する我が師はこれをバッサリと「正月早々合戦とは何事か,つまらない」と仰っていました。。。
ただ、恩師には申し訳無いのですが、その仰せを無視して,私は観続けました。
キャストに「熟練者」を多く起用していたので、若干の無理や古臭さがあったのは否めませんが...。
それを今,再び放送しているので、折角の機会と観改めています。

先日は中盤の山場,大坂冬の陣と夏の陣が終わり、越後少将忠輝候が改易となり、今日は大御所家康公が身罷られました...。

ジェームス三木は、比較的史実に基づいて物語を展開させるので、幾分安心してみて入られるのですが、ここまでで2点ほど,ど~しても合点の行かない事を見つけてしまいました!
その、まず一つ目。
「源氏で無ければ征夷大将軍に為れない」と、言っていたのですが...
これは大いなる誤り!です。
歴代の将軍を見,“平氏”の織田信長が、甲信平定後に朝廷から受けた三職推任の一つに征夷大将軍があり、信長の意向が将軍就任にあったことで、源氏云々が就任条件では無いことは明白かと思います。
そうしたら、征夷大将軍の任官条件とは何か?!というと...
「関東平定」にあるのです。
ゆえに、信長は甲信平定後も滝川一益を関東管領として西上野に侵出させ、秀吉は小牧長久手で徳川勢に敗れたことによって、東国支配の目論見が頓挫したが為に、朝廷の権威を借りる事ととなったのです。
ちなみに...
足利幕府最後の将軍,足利義昭は、死去する間際まで現職の“征夷大将軍”でもありました。
(ゆえに、落ち延びた備前国鞆の御座所より“鞆幕府”と称する事もあるとか。)

そして、もう一つが...
「豊臣家の滅亡」
大坂冬の陣と夏の陣にて、幕府軍10万余の大軍に囲まれた大坂城は落ち、右大臣秀頼や生母の淀の方に近臣衆が、こぞって城と運命を共にしました。
これをもって、世間的には「豊臣家滅亡」としているようですが、実はそうではなく、「豊臣」氏は、今も連綿と続いているのです。
これは、何も“右大臣秀頼の遺児,国松丸の落武者伝説”などという、真偽の程が不明な話に非ず。
歴とした外様大名として版籍奉還まで、備中国足守と豊後国日出の領主を務めていました。
その領主とは、太閤秀吉の正室,高台院の実家である「木下家」でした。
すなわち,足守と日出には、太閤秀吉の義兄である中納言家定と、甥の右衛門大夫延俊の系統が(主として)「豊臣」氏を受継いでいるのです。
▽備中足守家は、忠臣蔵での赤穂城収城使として,また、木下流槍術の宗家としても(幾分)有名です。

しからば、秀頼は?!・・・豊臣姓の「羽柴家」なのです。

世間一般的に、太閤秀吉は「木下」から「羽柴」,「豊臣」へと改称していったかのような印象を持たれがちですが、然に非ず。
「木下」や「羽柴」は、「織田」や「徳川」と同じく苗字であり、秀吉も秀頼も生涯これを称しているのです。
一方,「豊臣」というのは天子様から賜った氏姓で、「源氏」や「平氏」といったものと同じものなのです。
ゆえに、大坂の陣にて滅んだのは豊臣姓羽柴家なのです。

なお、苗字とは「“家”という社会組織自体」であり、氏姓とは「天子様から賜る公的な名前」であり「父系制的な血族原理」によって継承されていくものなのです。
それゆえに,この原理原則から言うと「女系」若しくは「女性天皇」というのは、凡そ有り得ない・・・と、いうことになりますし、エリザベス女王とエジンバラ公の関係も成り立たないことになります。

私も,このことを知ってから「目から鱗」がボロッボロ落ちました(笑)
これは、皇學館大学の岡野友彦教授『源氏と日本国王』(講談社現代新書)を参照に記しまいたが、この他にも,「氏姓」や「源氏」の謂れについて、面白い!話がふんだんに得られますので、ご興味ある方は、是非一度ご一読なさってみてください。
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日本史を読見直す!(下)

2007年10月13日 | 知識補給
我が街の図書館自慢から展開した「日本史を読見直す!」第参段は、今まで借りて読んだ中から印象的だった本を(僭越ながら)何冊か,幾分簡略にご紹介を致したいかと。

藤田達生謎解き本能寺の変』(2003,講談社現代新書))
これは題名の通り,本能寺の変に付いて論説されているのですが、明智光秀が織田信長を討つに至るまで経過が丁寧に論証され、諸説紛々する“原因”を的確に論じられており、「なるほど...」と納得すること多く、とても面白くて読み応え十分の一冊です。

福田千鶴御家騒動-大名家を揺るがした権力闘争-』(2005,中公新書
これは、江戸幕府の大名統制について紹介している一冊ですが、従来言われている「御家騒動=大名潰し」を否定し、幕府は逆に,最後まで「御家存続」方針であって、取り潰しは「最終手段」であることを、種々事例を挙げて論証されていて、とても面白く,読み終えてから「なるほど納得!」出来ました。
前期と中期以降,最上騒動や越後騒動と前田騒動を見比べれば、お解り頂けるかと。
そして、これに関連してもう一冊。
大森映子『お家相続-大名家の苦闘-』(2004,角川書店(選書))
これも、各家の事例を参照に紹介されていましたが、出生と成長の率がが低い中で「如何にお家を残すか!」に奔走する人々の様子や事情が窺い知れて、またこれも,実に興味深くて面白かったです。

山本博文参勤交代』(1998,講談社(現代新書))
今まで、知ってはいたけど実態を知らなかった「参勤交代」について紹介をした一冊ですが、これを読んで,これが如何に大変であったかや、社会や経済に及ぼした影響,はたまた武家同士の儀礼などについて、改めて知ることが出来る面白い一冊です。
ちなみに,参勤交代の目的は幕府の“権威”を知らしめるものであって、従来言われている「大名の(資金)力をそぐ為」などではなく、逆に,幕府は再三に渡って「質素倹約」と行列の「簡素化」を各大名家に申し渡していました。
しかし、各大名家は“見栄を張って”その申し渡しには容易に応じませんでした。

管宗次京都岩倉実相院日記-下級貴族が見た幕末-』(2003,講談社(選書メチエ))
これは、今も京都市左京区に在る門跡寺院・岩倉山実相院を舞台にした日記。
その筆者は、明治維新まで「坊官」として社務を担っていた松尾刑部卿法印親定という一応お公家さんで、幕末の洛中に於ける見聞を、時には挿絵を交えて事細かく日記に書き留めておられたとか。
残念ながら、幕末の一番人気「新選組」には余り触れられてはいませんが、日々刻々と変化する京洛の情勢が生々しく記されており、中々興味深かったです。

西沢淳男『代官の日常生活-江戸の中間管理職-』(2004,講談社(選書メチエ))
徳川幕府の地方行政官として、全国に点在する幕領(御料所)の経営を担っていた“お代官様”。
しかし、戦国以前は軽んじられ、徳川幕府に於いても役高150俵と最下級の職。
これは、現代の国の行政機構に合わせると課長級の職なのです。
けど、時代劇では“ワルモノ”の代名詞として登場する一方で、“神”として崇め奉られたり顕彰され、評価が天と地(以下)程に分かれる、なんとも不思議な職でもあります。
それゆえに、(専攻分野との絡みもあって)前々から興味があったのですが、これを読んで、その悲喜交々な実情を知ることが出来て大変面白く、有意義な一冊でした。
箱館戦争にて旧幕方として活躍し、初代の中央気象台長を務めた荒井郁之助顕徳についても、父の清兵衛顕道が代官だったので、少し触れられています。

田口英爾『最後の箱館奉行の日記』(1995,新潮選書)
これについては、既にご紹介しておりますので、そちらにてご一読ください。

中には一風変った一冊も。それが...
『江戸藩邸物語-戦場から街角へ-』(1988,中公新書)
これは、氏家幹人国立公文書館専門官の著書で、大名家(1)と旗本(2)の記録を参考に、江戸中期の武士の実像を紹介しています。
そこからは、“面子”に一喜一憂する武士の姿が垣間見られました。
中でも驚きだったのが、14歳の武士の切腹。
これは、奥州二本松城主丹羽右京大夫(秀延)が家臣の子が、同輩の門前で半ば“抗議”の意を込めて行ったのですが、その原因は、蝉の抜け殻を取られたことを恥じたがゆえ...というもの。
これを聞けば、昨今流行の少年事件など驚きもしません...(苦笑)
一方で,著者は江戸の“エロス”についても多く執筆しており、中盤以降は、男色などについて紹介されています。
尤も,私は全く興味が無いので読み飛ばしましたが...。
(1)水戸徳川家の連枝で陸奥守山領主松平大学頭家の記録(「守山御日記」)
(2)三千石取の御旗本天野長重の備忘録(「思忠志集」)


これらに挙げたその何れもが,目から鱗が落ちまくる内容(論説)ばかりで大変に面白く、興味深いものばかりですが...
今谷明『室町の王権-足利義満の王権簒奪計画-』(1990,中央公論新社)や『武家と天皇-王権をめぐる相剋-』(1993,岩波新書
岡野友彦源氏と日本国王』(2003,講談社(現代新書))
藤田覚『遠山金四郎の時代』(1992,校倉書房
...などなどは、借りた後に自分で買ってしまう程に感銘を受けた書籍です。
これらについては、何れまた,詳しくご紹介したいと思います。
尤も、いつになるやらわかりませんが(苦笑)...

こうして、興味のある書籍を試読出来るのも図書館の有難いところ。

そこで...
さあ皆さんも!
読書の秋でもありますから、地元の図書館へ行かれてみては如何でしょうか?!
なんぞ、良き発見があるやもしれませんよ(笑)

但し!借りた本はきれいに返してくださいm(_ _)m
最近は不心得者が多いようで,借りた図書への扱いがかなり無礼で乱雑のようですから。


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日本史を読見直す!(中)

2007年10月12日 | 知識補給
「日本史を読見直す!」続編として、以下の2冊をご紹介します。
まず1冊目は...
同志社女子大学特別任用教授朧谷寿藤原氏千年』(1996,講談社現代新書))

題名の通り,平安時代から明治維新まで、常に廟堂の中心にあった藤原氏を取り上げた書籍。
中臣鎌足から始まり、幾度かの危機と政変を経,天皇家を巻き込んで廟堂を支配していった経緯が丹念に解説されています。
また、「望月」の欠けだした平安末期,律令制の崩壊と武家の台頭で凋落し、五家に分裂した“宗家”のその後も、頁数は少ないですが解説されており、好奇心を満たすのに十分たる,読み応え満点な一冊でした。

そして、2冊目は...
日本中世史の大家,林屋辰三郎 京都大学名誉教授中世の開幕』(1976,講談社(現代新書))

この本は、日本中世史を知る上においては最もスタンダード“入門書”的一冊。
平安末期から鎌倉時代の閉幕まで。
受領国守を担った中下流の公家や王氏系武士団の台頭/平氏の台頭から鎌倉幕府の成立/鎌倉源氏の断絶と北条家の台頭/蒙古襲来と両統迭立/鎌倉幕府の滅亡...とを丹念に,かつ実証的に論じられています。
その、一章一節毎に記されている論説の一つ一つが興味深く面白いのですが、中でも“目から鱗”的だったのは、「北条氏の位置」という節の中...
「日本の政治のあり方には、つねに主権者が親政するのではなく、その輔弼機関がこれを代行する慣習がある。主権者には権威があればよく、輔弼者が権力を行使する。日本の律令制もまた同様であるが、執権政治はまさにその典型であった。そして輔弼者の性格が法的根拠をもつか否かによって、その権力の内容に相違が生まれる。」
...という一文。
思い起こせばなるほど...
平安期の摂関家や鎌倉幕府の北条家があり、室町時代には幕府に三管領家,各国守護の下には守護代が、正しくこれに該当。
また、江戸幕府にても“官僚機構”が発達し、譜代門閥家によって形成された閣老による合議制で政権運営が為されており、この中に将軍の“御意向”を組み入れるのは容易なことに非ず。
それゆえに、こうした閉塞感を打破して風穴を開けるべく誕生した職が“側用人”(御側御用取次)であり、柳沢吉保や間部詮房,加納久通と有馬氏倫,田沼意次など、非門閥家の人々が任ぜられたのです。
こうしたことからも、なるほど論説には納得出来、非常に感銘を覚えました。

勿論この他にも,“中世(史)の実情”が書中ふんだんに論説されているので、同時代に興味のある方,もしこの本を見つけられたら是非手にとって,ご一読以上されることをオススメします。
ちなみに,私はもう、五読くらいしましたよ(笑)

また、これ以外に何冊も度々借りては読み漁っています(笑)・・・いるので、その簡略な紹介はまた別に行いますm(_ _)m

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日本史を読見直す!(上)

2007年10月11日 | 知識補給
我が街の図書館は、多種多様な書籍を実に多く所蔵しており、その中には、既に絶版となって古本屋でも見つけることの出来ない貴重な書籍もあって、大変に重宝しています。
また逆に,出版されたばかりの高価な専門書も、県内の図書館ねとワークを駆使して借りることが出来、思い起こせば10年前...
卒業論文作成に際しては、大いに手助けとなりました。
なにせ、専門学術書は出版部数が少ないので高価か、もしくは絶版してしまっているので...。
この時借りた書籍中,東大史料編纂所教授藤田覚『近世政治史と天皇』(1999年,吉川弘文館)は、ハードカバーで内容も非常に充実していて、目から鱗が落ちること甚だしかったのですが、お値段は8,000円弱...。
後々考えれば、生涯持っていても悔いは無い一冊ではありますが、学生には高すぎます。。。
そこで、一か八か,我が街の図書館へ行って相談(検索)をしたところ、県立図書館で所蔵していたので、そこから取り寄せて頂いて借りました。
ちなみにこの書籍,この数ヶ月前に発売されたばかりだったのです。

大学の図書館にも無かった本を所蔵している公立図書館の“実力”と“有り難味”を、この時ほど痛感した時は無かったですよ,ホントに。

また、藤田覚先生の著書は他にも何冊か,参考文献として用いましたが、
幕末の天皇』(1994年,講談社選書メチエ))という本も、やはり書店に大学の図書館でも見つからず、まさか...と思って当たってみた我が街の図書館にありました。
この本もまた,目から鱗がボロボロと落ちる、非常に興味深くて面白い本(※)ですが、灯台下暗し...とでも申しましょうか,この時にもまた、改めて我が街の図書館の“魅力”に気付き、惚れ直した次第です。
※平安から江戸後期,光格天皇以前の帝には“天皇”では無く“院”という称号が用いられていたそうです。
ですから、厳密に言うと後醍醐“天皇”は後醍醐“院”と言わなければならないよう・・・です。

加えてもう一冊。
『松平定信』(1993,中公新書)は、題名の通り,奥州白河城主久松流松平越中守定信について書いた一冊で、この頃(江戸中期)の朝幕史や対外感を知る上ではとても参考になる,俊逸な一冊です。

さて、話は(我が街の)図書館に戻して...
自宅から3キロ程のところに在る図書館には、「吾妻鏡」や「徳川実紀」を収めた『国史大系』が全巻。
日本史辞典のバイブル『国史大辞典』も全巻。
藩政史を調べる上で重宝する『藩史大辞典』や『藩主人名事典』『陪臣事典』なども全巻。
他にも、『日本史総覧』や『公卿人物事典』等も書架されており、日本史(近世史)に興味のある私にとってはもう,垂涎の品揃え!!

ゆえに、私はこの街から離れられないのです...。

その,我が街の図書館から借りた内から2冊を次に,簡単にご紹介をしていきます。

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歴博企画展「西のみやこ 東のみやこ」(下-3)

2007年05月07日 | 知識補給
総州佐倉国立歴史民俗博物館にて、5月6日(日)まで開催されていたこの企画展。
その第3部は「三つの港町-長崎・堺・横浜-」
その中の長崎は、今回ギャラリートークをされている久留島浩歴博教授が専門とされているところなので、特に熱く解説して下さりました。

長崎は江戸時代,鎖国体制下にて唯一の外交窓口でした。
その様子を描いたのが、六曲一双の「寛文長崎図屏風」です。
長崎貿易は正徳年間,厳しい統制令が出され、阿蘭陀とは出島を,清国とは唐人町を介したものとなりましたが、それ以前は市中での自由な交易が為されていたとかで、屏風内のあちらこちらで唐人の姿を見つけました。
また、海上にもアジア諸地域のジャンク船が描かれています。
しかし、当初はこれがいつ,どこの都市を描いたものなのかは、解らなかったそうです・・・が、それを解く鍵となったのが、やはり行列(様子)でした。
それが、長崎諏訪神社の祭礼として有名な“くんち”でした。
その中では、流鏑馬やいまはもう行われなくなった能を、桟敷席で揃って見物する長崎奉行の姿が描かれています。
ちなみに,江戸幕府に於ける奉行職は複数名おり、この長崎奉行(遠国奉行)も長崎詰と江戸詰の2人おり、これが各々1年毎に交代して任務に着きます。
それがこのくんちの季節,9月で、この時ばかりはオランダ人も出島を出て見物することが許されるそうです。
そして祭礼後に帰国する商館長(南蛮船の出航)を見送る・・・と、いうことです。

この他,長崎関連では取って置きの“史料”が先行展示されていました。
それは、“シーボルトが残した記録”なるもの。
実はこれ,現在リニューアル工事中の第三常設展示室(江戸時代)の目玉の一つで、シーボルトが書き残した日本に関する楽曲を、当時のピアノと調律で演奏したものを聞ける!と、いうもの。
ただ、久留島先生が余りにも自慢気に紹介されたが為に人だかりが出来、残念ながら聞けずじまいでしたが、来年には再開されるので、是非その時には聞きに行きたい!と、思います。

ちなみに久留島先生は、長崎市が旧唐人町を通る道路計画に対して、この保存と計画とを過日銃撃されて横死した伊藤一長前市長に訴えていたそうで、そのことを少し寂しげに語っておられました。。。

続く堺関連の史料では、元禄2年に堺町奉行所と町方とが協力して作成した「元禄二年境大絵図」なる堺町の地図の一部(1枚)が展示されていました。
ただ、これが大きいこと大きいこと,人の背丈以上はあるかという大きさにはたまげました、それが他9枚もあることを知り、更におったまげました!
しかし、それだけの大きさがあってか、精細な仕上がりの様で、さながらゼンリンの住宅地図の原点を見たかのようでした。

続いては横浜ですが、ここは黒船来航後に拓けた街。
何度も直に訪れたことがあるのでサラッと見て行きましたが、一点だけ,「なるほど」と思ったのが遊郭の存在。
街が形成されると、必ず遊郭が生まれるそうで・・・人間(というか男?!)の煩悩の深さを感じた気がします(苦笑)

そして最後,第4部は「描かれたみやこで遊ぼう」では、洛中洛外図屏風や江戸図屏風のレプリカがあって、パズルやクイズ形式で間近に見ることが出来ます。
また、江戸時代に流行った“判じ絵”をクイズ形式で学べることが出来、絵が描かれたパネルを開けるとそこには答えがと解説が書いてあります。
中々洒落っ気たっぷりで、江戸っ子の遊び心に触れられて面白かったです。
そして、江戸の遊びと言えば双六ですが、勿論ここにもありました。
奥に江戸図屏風があるそこは座敷になっていて、休むことも出来ました。

また他にも、江戸の写真をパノラマで観る事が出来たりと、結構楽しく締めて帰って来ました。


その史料の殆どが歴博所蔵の品ということを聞いて、まず圧巻と驚きがあったのですが、展示の仕方にも随所に工夫が凝らされていて、面白楽しく知識補給が出来ました。
歴博の今後の企画展,なお、楽しみです!

歴博企画展の最初へ<<<<<<< 戻る <<<<<<<
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歴博企画展「西のみやこ 東のみやこ」へいざ!(下-2)

2007年05月06日 | 知識補給
国立歴史民俗博物館で5月6日(日)まで開かれていた企画展「西のみやこ 東のみやこ
この第2部(第二展示室)は「大江戸名所案内」
その目玉は、色彩鮮やかで絢爛豪華!な「江戸図屏風」です。
これは寛永17年,世に知恵伊豆として名高い大河内流松平伊豆守信綱が、主君たる3代将軍家光公の為に制作させたものとか。
その保存状態は極めて良好で、ギャラリートークにて展示解説を務められた久留島浩歴博教授曰く...
「これは、家光公が伊豆守信綱邸へ御成の時に、お持て成しの一つとして披露された・・・のでは?!」とのこと。
現に・・・この屏風には、実に20余箇所で家光公が登場,その内18箇所余で東照宮に参詣しているそうで、如何に家康公を崇敬していたかが伺えます。
また、屏風と言えば・・・先に上げた通り,行列がキーポイントなりますが、ここでも勿論,2種類のが描かれています。
まず一つが山王祭の祭礼,そしてもう一つが朝鮮通信使が江戸城へ入る場面です。
この場面からは、江戸の賑わいと繁栄は元より,幕府の御威光が、国内のみならず海外にまで及んでいることを表している・・・と、言う事を描いています。
この他にも、日本橋や上野,浅草や愛宕等々・・・活気溢れる江戸の様子が、見事に美しく,活き活きと描かれています。
今の東京とオーバーラップさせながら観るのもまた、面白かったです(笑)
勿論?!江戸と言えば・・・“富士山”もしっかりと描かれています。

ただ一方で...
少々きな臭い場面も描かれています。それは...
左雙第一扇上に描かれている駿河大納言徳川忠長邸と、その左斜め上に在る邸の様子。
前者の邸門は、他家とは異なり囲いがされていて、邸内の障子なども固く閉ざされている様子で、そうした只ならぬ気配を感じた人々が集まっています。
この後,周知の通りに大納言忠長卿は改易され、翌年,蟄居先の高崎城内にて自刃(寛永10年)しますが、後者,2丁の駕籠が有る邸では、この処分に関する内談が為されていた?!と、久留島先生は解説します。
その,御三家邸と軒を連ねる邸の主を久留島先生は「春日局」と推察されています。

ちなみに...
研究者諸士の間では、誰がこの制作を命じたのかが不明確だったそうです。
その謎を解く鍵に成ったのは、金雲(の随所)に施されていた蝶の紋。
これには2種類,丸に蝶が1羽と2羽とがあり、これがより、悩むところだったそうですが、見方を少し変えて,1(羽)と2(羽)を足してみて...!!
3連蝶の家紋を有す大河内松平家の伊豆守信綱を割り出した・・・と、いうことのようです。
それともう一つ,
近年この補修作業が為されたそうで、これによって、制作当時の史料(紙背文書)が出てくることを期待したそうですが、出てきたのは大正時代に修復したという証くらいだった・・・そうです。

この他にも,この第2部には見所満載!
特に、近世史を中心に学んでいた私にとっては垂涎の史料ばかり。
「江戸図屏風」の次に目を見張ったのは、弘化4年に制作された「江戸城途上図屏風」。
これはその題の通り,大手門前での光景が描かれており、大名行列や登城時の成り,大名が登城して城内にいる間の供揃えの有り様などが描かれていて、これらを当て込んだ出店(屋台)が出ていたり、博打に興じる者・・・などなど、その当時を様子を垣間見ることの出来る、実に興味深い屏風でした。
ただ、屏風中には参勤年次の違う大名間が描かれている・・・そうです。
また、これに関連してあったのが、江戸詰めの大名家士が遺した日記などの史料。
その主は、奥州は八戸南部家で御納戸役を勤めた遠山屯(たむろ:150石取,1861年没)
それには、例えば勤務,早出(8-14)⇒休息⇒泊(18-8)⇒休息⇒跡(14-18)⇒非番・・・という、今で言うならシフト制だったようです。
その内,屋敷から出掛けることは余り無かったようで、私事での外出で一日可なのは月3日(夏は5日),洗湯出は2~4日以内と厳しく制限されていたようです。
ただ、出掛けるにあたっては、国元から受けた日用品の買出しや、近隣での御開帳を観に詣でたり、物見遊山をしたりする・・・こともあったようです。
そういえば,以前読んだ氏家幹人著『江戸藩邸物語』(中公新書)でも、同じような事が書かれていた・・・と、記憶しています。

お江戸は幕府開闢以来,“武家のみやこ”として発展してきたので、上記,大名行列や各家の武家屋敷なども“名所”だったようです。
そうした、御府内の様子を“泥絵”という技法で描かれた史料が幾点か展示されていました。
それらは、先の江戸図屏風の“価値”に比べれば、出来具合も然程・・・なので、何十分の1か何百分の1程度のものらしいのですが、歴史的価値は(歴博的には)ある!見込んで、積極的に収集し所蔵しているそうです。

また、江戸時代は町人が“文化”の担い手となった時代でもあり、それを描いた浮世絵や歌舞伎の様子,世に名高き料亭「八百善」の紹介なども合わせて展示されており、こうしたところからも、江戸が如何に繁栄し、活況に呈していたかを垣間見ました。

第三部「三つの港町-長崎・堺・横浜-」と第四部「描かれたみやこで遊ぼう」はこのあと(下-3)にて。
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歴博企画展「西のみやこ 東のみやこ」へいざ!(下-1)

2007年05月05日 | 知識補給
総州佐倉城址に建つ歴史民俗博物館
ここで5月6日(日)まで開催されている表題の企画展,
西のみやこ 東のみやこ-描かれた中・近世都市-」を、これから2週間前程前の土曜日に観てきました。
ちなみに...
歴博では(大体)企画展期間中の土曜日,その手の専門家による展示解説が行われますが、その日に行ったのはこれ,尚且つ、予々存じ上げていた日本近世史(地域社会)が専門の久留島浩歴博教授されるので行ってきました。

歴博には10時前に着き、まず、予習も兼ねて一頻り観てから11時からのギャラリートークに帯同しました。

企画展示室の最初,プロローグは「京図・所領図・名所図」
これらの多くは、権力や支配の象徴として作成されたとか。
ゆえに、実証性が必要で、所領図には街道や宿場(塔中)などが細かく記されています。
展示史料の一つ,「相模国浄光明寺境内絵図」には、赤線で囲まれた寺領域と、それを安堵する証としての花押が(朱線の上)随所に記されています。
ちなみに...
絵図が作成されたのは鎌倉幕府と北條家が滅亡した後,バックボーンを失った浄光明寺が次に庇護を求めたのが鎌倉府執権の足利直義(左馬頭)。
但し、花王の主はその従兄弟で関東廂番として鎌倉に居た上杉重能(直義派)だそうです。



さて次,プロローグに続いてあるのが第1部「洛中洛外図屏風とその周辺」へ...
・・・と行く前に,まずここで簡単に屏風の解説(見方)をば・・・

屏風は6面1組(六曲一雙)から成り、(1)面を“扇(せん)”と言い、右から左に第一扇から六扇へと構成されています。
そして、この屏風にとって欠かせないものが“2つ”あります。
まずは、その一つ目が・・・“金雲”です。
これを描くことによって“異時同図”即ち,六曲一雙の屏風の中で、正月から大晦日までの歳時を、時間と空間を飛んで書き描くことが可能になる・・・と、いうことなのです。
(私も)前々から「これは一体何なんだろう?!」と思っていたのですが、この日,漸くその疑問が解け、正に目から鱗の気分でした。
そしてもう一つが・・・行列です。
これは、描かれた街の賑わいや繁栄を表しているそうです。

ここで話を「洛中洛外図屏風」に戻して,こうした視点で見てみると、面白さも倍増します。
例えば...
歳時で観ると、京都の代表的な疫病除けの祭「祇園祭」が描かれている一方で、正月の風物詩・左義長が描かれていたりします。
行列面では、祇園祭はここでも“町衆”の代表であり、方や為政者側では、天皇の二条城行幸が描かれており、そのことによって“権力”を表すことが出来る・・・と、いう構図のようです。

さて,この「洛中洛外図屏風」に関してもう一つ。
この屏風,左右二雙で完全版なのですが、それぞれ描かれている世界がすみ分けされており、左雙には武家,右雙には公家の世界を中心に構成されています。
これらは、解説を聞いて初めて知りました(^^ゞ...

なお、この第1部にはこの他にも―――
江戸末期に作られた「京都名所図屏風」は、名所以外の殆どは眩い金雲に覆われています。
まぁ、これはこれである意味見事!でした。
そして、私的に目を見張ったのが「修学院御行御道筋図巻」。
これは文政7年,幕府(徳川家斉)によって修復された修学院離宮へ光格天皇が御幸された際の“道筋”描いたもの・・・ですが、まず,天皇が御所を出て御幸したことにまずびっくり!
ただ昨秋,新史料から江戸期の朝廷の実像が明らかに!・・・については、また後日。
続いて、御幸される道に“白砂”が敷かれていることにびっくり!!しました。
実は昔,高貴な御方が通る際には白砂を敷いたそうで、まき砂,もり砂ともいうとか。
初めて知りました!(爆)
なお、道に敷かれる白砂は鴨川から採って来たそうです。
また、この絵図には人が一切描かれていない(そう)ですが、その代わり,白砂のこと含めて“警備”の様子も細かく書かれていて、篝火や(高)堤燈の位置までが朱丸などで指示されていました。

第二部「大江戸名所案内」以降は(下-2)へ・・・>>>>>>> 続く >>>>>>>・・・

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歴博企画展「西のみやこ 東のみやこ」へいざ!(上)

2007年05月04日 | 知識補給
以前に少しご紹介とオススメをしましたが...
4月21日(土)のこと,総州佐倉城址に建つ人間文化研究機構国立歴史民俗博物館(歴博)へ行って来ました。
その目当ては、3月27日(火)から5月6日(日)まで開催されている表題の企画展
パンフから想像するに、屏風など絵図ばかりが展示されている地味な企画展...
...というが最初の印象だったのですが、よくよく見ると近代以前の“みやこ”や“都市”に特化した、以外にも珍しい企画展。
しかし、ただ独りで観るだけでは如何にも勿体無い!とも思ったので、毎週土曜日に行われるギャラリートークに,それも、知っている先生が担当される日に照準を当てて、その日に行ってきたのです。
(ギャラリートーク:企画展示分野に精通した研究者が、その企画室内を巡りながら展示解説をしてくれます。)

ただ、ギャラリートークでは多くの人がこれに群がってしまい、しかも、解説を聞くのに手一杯になってしまうので満足に展示品を観ることが出来なくなってしまうので、まずは予習を込めて、展示室内を一通り観て周りました。

今回の企画展は4部構成で、まず第1部は“西のみやこ”の京都を「洛中洛外図屏風」を中心に展示。
第2部は“東のみやこ”の江戸を、「江戸図屏風」を中心に“名所案内”と題して展示。
続いて第3部は“三つの港町”として長崎,堺,横浜に関する絵図や屏風を展示。
そして、最後の第4部は“描かれたみやこで遊ぼう”と題して、体験学習型の展示がされていました。

まず目を見張るのは、各屏風が大きく,また鮮やかであること。
ガラス越しであれ、それらは圧巻でしたが、実は・・・というか当然ながら、それぞれに“意味が有る”ことも今回解りました。
その細かいことはまた後で触れるとして...
まず、最初に予習を込めて独りで観て回っている時に「面白い!」と思ったのが第1部に在りました。
それは、「洛中洛外図屏風」を左右に配置して、その間の床面に現在の京都市図を配するというもの。
これによって、現在と過去の京都をパノラマ的に照らし合わせて観ることが出来るのです。
今までに、何処の誰もした事がないこの試み,私的には“画期的”と思いました。

また、歴博は屏風などのデジタル化にも積極的に取り組んでいるそうで、「洛中洛外図―」と「江戸図―」を、タッチパネル式の専用画面で細部までズームして見ることが出来ます。
その鮮やかさ,鮮明さには、過去の技法と現代の技術双方にただただ驚くばかりです。。。

さぁ、そこのあなた!
6日までに「何処行こっかなぁ...」と迷っているならば、歴博のこの企画展に行ってみてください。
特に5日(土)はギャラリートークが,しかも、2人の先生がされるのでお得でいいですよ(笑)
ちなみに、今回展示されている各種史料の殆どは歴博所蔵のもの。
中でも「洛中洛外図屏風」や「江戸図屏風」など貴重な史料群は繊細で光などに弱いので、この期間中が実物展示の限界!とか。

もう、ひょっとして金輪際実物を観ることは出来ない・・・かも。


ではこの次に,
ギャラリートークに帯同しながら私が見聞してきたことをつらつらと、暫く書き留めて参ります...>>>>>>>( )に続く>>>>>>>


※私は、別に歴博の回し者ではありませんので,一応(^^ゞ
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目指せ!御目見えの身へ。

2007年02月09日 | 知識補給
読売朝刊の文化面は、日替わりで違う特集を組んでいて、金曜日は「歴史」の特集となっています。
その中で、今から一月ほど前に取り上げられていたのが、古老の在野史家が長年掛けてコツコツと調べ上げた「徳川幕府の人事登用」の実態。
日本近世史(政治史)専門で著名な笠谷和比古国際日本文化研究センター教授をして「貴重」で「驚いた」と言わしめるほど、他に類を見ない,地味で骨折りな作業の成果の賜物。
史家は、御公儀が編纂した「家譜」や「柳営補任」など,“人事”に関する史料を丁寧に調べ上げた、その結果判ったのが...
公方様への御目見えが出来ない(現代に置き換えると国家公務員Ⅲ種級の)御家人が、御目見えの許される旗本(国家公務員Ⅱ種級)へ積極的に登用(昇級)されているという事実。
その数,幕末までに1000家を越えるとか。
その多さに興味と感心がいったのですが、そういえば,なるほど確かに...
思いつくだけでも幾人か。
そのほとんどが、勘定所を経て出世していっているのです。

例えば川路左衛門尉聖謨。
彼は、寺社奉行吟味物調役(出向中)の時に担当した仙石騒動(但馬出石城主仙石家の御家騒動)での働きが評価されて勘定吟味役に昇進。
以後、全領一揆で荒廃した佐渡の再建で辣腕を振るって更に転進。
遠国奉行や勘定奉行を歴任,黒船来航後は対外交渉でも活躍する。
ちなみに、井上河内守清直は左衛門尉聖謨の実弟(実父は豊後日田代官所属吏の内藤吉兵衛歳由)で、同じく対外政策で頭角を現して町奉行まで昇進する。
また、名判官との呼声高いのが根岸肥前守鎮衛。
彼もまた、勘定所に於いて浅間山大噴火や寛政の御所再建にての働きが田沼意次や松平定信の評を得、最後は町奉行(北町)まで昇進する。
更には、以前紹介した杉浦兵庫の祖父・久須美佐渡守祐明も御勘定での働きが評価されて昇進を重ねて勘定奉行となるが、就任時はもはや74歳。
しかし、それとも感じさせない精勤振りには皆舌を巻くほどだったとか。

こうした,御家人が多く旗本へと(登用)昇格した背景には、武断政治から文治政治へと政策が転換,武士が“官僚化”が進んだことあるかと思います。
特に、逼迫した幕府財政の再建が眼目だった享保改革以後,勘定所から多くの人材が輩出され、田沼時代には多くの“経済官僚”化した旗本・御家人が登用されています。
4代家綱公の死去を以って徳川宗家の嫡系が絶えた後、養子家の家臣(館林派・甲府派・紀州派)が新たに幕臣として召抱えられて新旧入り混じる幕府内。
こうした中で、特に田沼意次は積極的かつ柔軟な人事登用をい、例えば上記,根岸肥前のほかにも、後代“名代官”との誉れ高い早川八郎右衛門正紀なども活躍します。

御家人が旗本へ昇格する,武士が(実務型)官僚化したということは、長年支配者層に在りながらも武断的性格が濃かった武士が、文治に傾いて、漸く“為政者に相応しい”身分となった証・・・なのかもしれません。

以上,自分の卒論を参考にしながら...。

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