くない鑑

命を惜しむなっ!名こそ惜しめっ!!前へぇ、前へーーーぇっ!!!

甲州石和の上杉方、鮎川摂津という御方

2013年06月04日 | 参陣記
今年、3年ぶりに参陣した甲州石和の川中島。
そこで今回私が付いたのが、“鮎川摂津守清長”という御方。

果たして一体どういう御方なのかというと、、、
出自は、下越地方に勢力を張っていた揚北衆の一家で、平氏秩父流本庄家の支族で色部家とも同族。
鎌倉期に、本庄家本貫地の越後国岩船郡小泉荘内で分かれたようですが、勢力は一土豪の域に過ぎなかったようです。
しかし、室町中期以降は越後も他国同様に政情が安定せず、守護の上杉家と守護代の長尾家、そして国人衆との争乱や離合集散が繰り返されます。
そうした戦国期の情勢の中で活躍したのが、今回我らが大将である“摂津守清長”。
信濃守とも称する清長が史料等に散見されるようになるのは享録年間の頃から。
国内は元より、同じ揚北衆内でも繰り返される離合集散を経て、平三景虎公、のちの謙信公が家督を継いだ上越の府中長尾家(守護代)の勢力が伸長して国内をまとめ出すと、他の国人や揚北衆に続いてこれに合力。
この下で、今回模された第4次川中島合戦を含めた諸陣に参じ、勲功に励んでいます。
そして、永禄11年に同族の本庄繁長が謀反(武田方に呼応して挙兵、本庄繁長の乱)を起こした際にも、謙信公方としてその鎮圧に尽力します。
しかし、このことから本庄方との対立が激しくなり、清長はこの争乱の中で没してしまったようです。
清長亡き後、鮎川家は子の孫次郎盛長が継承。
謙信公亡き後、上杉家の家督を巡って起きた御館の乱では、当初、三郎景虎方に与したが、(攻められて降った後は)喜平次景勝公に合力。
鮎川の家を何とか守るも、この論功行賞が引き金ともされる新発田重家の乱ではいずれにも与せず静観したことで没落してしまいます。
この後、鮎川家は越中新川郡上熊野城主二宮左衛門大夫長恒の子の秀定が継いで命脈を保ちますが、上杉家を離れて加越に入った前田家に仕えます。
ただし、主計秀定に跡目を継ぐ子が無く没してしまい、鮎川家は途絶えてしまいます。
それから40有余年後の寛永21年正月28日、上杉家から鮎川の主筋たる本庄家の左兵衛信重(※1)に対して鮎川の名跡を継ぐことが命ぜられて名を掃部信重に改め、ここに、鮎川家が復活します。
禄高は、既に掃部信重が本庄家から別れて得ていた500(上杉家減封後は250石)石と侍組(上士/※2)身分もそのまま引き継ぎ、明治維新を迎えるまで10代に渡って命脈を保っています。
再興された鮎川家は、米沢上杉家家臣としてその終焉まであり、初代の掃部信重と次の孫次郎高長(千坂安芸高治2男/忠臣蔵に出てくる千坂兵部高房の叔父)が御役屋将(城代のこと)、10代目の春次寿長が同じく御役屋将から屯田兵隊頭まで勤めていますが、あとは、侍組に入るだけで大した御役にも就かずいたようです。
ただ、無役だったというワケでなないようで、その証が、現在の米沢市城西3丁目(御廟所裏手、米沢城西郵便局近く)に遺されています。

それが、番正町というかつて地名です。(米沢城西郵便局も、かつては米沢“番正”郵便局といってました。)

ここにはかつて辻番(所)と管理する家があったので(一説に)この地名となったそうですが、その管理する家、番正こそが鮎川家でした。
同心36人を従えて警衛していたそうで、享保年間の城下絵図に“鮎川左平太(亮長)”の名が見えます。


正に、この看板の在る辺りに鮎川家の屋敷が在ったのです。
その面影は一切ありませんが、成嶋町や萬霊山松原寺に至る道との交差は、絵図と全く同じでした。
そう思うと、感慨深げです。。。

武田方は、主家が滅んでしまったので離散してしまっていますが、上杉方は、米沢に来ればついこの間までの足跡を辿ることが出来る。
贔屓としては、そこが嬉しいです(笑)

※1:鮎川掃部信重
本庄主馬長房の嫡男で、摂津守清長と晩年争った本庄大和守繁長は祖父(3男)。
父の主馬は、一度直江山城の養子となったが、実子の竹松丸(平八景明)が誕生したのでこれを解消。後に、同じく養子となっていた本多安房守政重と共に上杉家を出奔して前田家に仕え、大坂の陣に参陣。ここで勲功を得て総計2,300石取となる。
しかし、上杉景勝公からの再三帰参を促され、寛永14年に上杉家に復帰する。
※2:侍組
藩執政部を構成する上士層。
謙信公または景勝公と共に戦った、主として越後や信濃の国人衆から成り、分領家13、高家衆4、平侍を含めて約95家ある。
鮎川家は平侍に属し、斎藤家、水原家、樋口家、大国家などの他に、上泉家、春日家、高坂家、高梨家も平侍に属する。
なお、この中で一番家格が高いのは分領家で、白井長尾家や千坂家、毛利安田家、中条家の他に、鮎川の主筋にあたる本庄家や同族の色部家、かつて私が属した竹俣家などがここに属する。
高家衆は4家と少ないが、甲斐武田家、能登畠山家と同属の二本松家、越後上杉家傍流の山本寺家などの旧大名家から成る。
侍組は、藩機構の内、奉行(国家老)3名,江戸家老2名,侍頭5名,中老1名,御小姓頭2名,御城代1名,御傅役1名,支候(米沢新田藩)御家老1名,奥お取次2名,御役屋将(陣屋を統率。鮎貝、荒砥、小国,糠野目,中山の5か所。5代綱憲公の時に城代から変更。)5名などに就く。
俸禄は知行取で合計や約4万石で、藩石高の1/4を占めている。、


▼▼▼本編(上杉方鮎川摂津勢の川中島!)に戻る▼▼▼
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上杉方鮎川摂津勢の石和川中島!

2013年06月03日 | 参陣記
甲府盆地を桃色に染める桃の花が咲き誇る卯月4月の中頃。
その旺盛な笛吹で開かれる“桃の花まつり”で盛大に挙行される“川中島合戦絵巻”に、今年、久しぶりに参陣しました。
実に、3年ぶりです。
一昨年は、かの大震災後でそれどころではなく、まつり自体も中止。
昨年は、身内の祝い事で長野へ行っていて参陣できませんでしたが、ちょうど合戦が終わった頃に中央道の釈迦堂で一休みしていました。

この時、ちょうど見頃を迎えていた桃の花を見て、機会在ればまた石和の戦陣に・・・と思っていましたが、それが今年叶いました(笑)

参陣の基本はグループでの申込み。
今は浪々の身の私を、前回同様濃尾の方々にお声掛けいただき参陣しました。
所属は上杉方、鮎川摂津守清長隊です。

なお、このお方については、別に立てて記します。

さて、甲州石和といえば有名な温泉地
毎回参陣に際しては前日入りして、温泉と石和までの観光と集った方々との宴会を楽しむのを基本としているんですが、今回は、思いがけずも前日出勤に、、、。
しかし、合戦当日に乗り込む気にはなれなかったので、車で出勤し(て、近くのコインパーキングに止めておいて)、終業とともにささっと支度して(石和へ)向かいました。

この日の天候は生憎の雨。
都県境の雨脚や中央道に入るまでの渋滞で難儀しましたが、出発から1時間半程で石和の宿に到着。
残念ながら、食事は皆さんとご一緒出来ず、部屋に持ち込んでいただきました。
それから暫くして、前入りした隊の皆さんが一部屋に集い、大将と副将決めに入りました。
濃尾衆の皆さんは、両将を籤引き(黒髭危機一髪)で行いますが、幸い、今回も私は当たらず!心より望んでいた足軽になりました(_ _)v
・・・いや、畳鎧の足軽は身軽で自由が利くのでいいんです!

引き続き、有名なパテシエの作ったロールケーキなどを食して軽く宴をし、三々五々、お開きとなりました。

時刻は22時30分過ぎ。
仕事にも行ったので、一っ風呂浴びて一日の疲れを流そうと浴場へ行ったら、祭友にばったり遭遇!
(一っ風呂浴びた後)その人達が集う部屋で2時間ほど滞在してあーでもないこーでもないと話して(^^ゞ
25時過ぎに、自分の部屋に戻って休みました。。。

まつり当日、起床は6時。
朝湯に浸かりたくてこの時間に起きたのですが、外は・・・前日来の雨が、止まずにしっかりと降り続いてましたorz、、、。
石和は雨天でも決行!
昨年の米沢、そして、数年前の石和でも雨の中で合戦が決行されましたが、これ、結構大変で(^^ゞ
参ったなぁ・・・と思いながら粛々と、予定通り朝湯に浸かり、身支度を整えて宿を出ました。

今回は上杉方からなので、陣所が置かれた石和南小学校へ。

あっ、ついでに。石和南小学校についてはコチラで(^^ゞ

さてさて、陣所には9時過ぎに入りましたが、身支度場の体育館内は、合戦を控えた武者達で賑やかでした。
ここで、久方ぶりにお会いする方達とご挨拶などして合戦の準備を整え、表で謙信公と記念撮影してから各隊毎に整列。
諸注意の説明を受けてから1時間程練兵しました。

謙信公の激励と上杉必勝の陣形を会得してから、昼食に入りました。

近年は、弁当まで冷遇されていた上杉方ですが、参加費が値上げされた分、今年は些か豪華に(笑)
しかし、武田方の弁当は包装紙から歓迎ムード。
待遇の差は、まだまだあるようです((爆))

40分の、ちょっと短い休憩をまったりと過ごした後、12時50分に呼集が掛かり、全隊縦列集結してから、いよいよ出陣の号令が!!

上杉方総勢で気勢の勝鬨を上げ、各隊、朝礼台におわします謙信公に辞儀を、我等は勝ち鬨を上げて、笛吹川原の“合戦場”へと向かいました。
以前は、途中で北小の陣を出た武田方と鉢合わせしていたのですが、後で聞いたところによると出陣が遅くなったということでそれはなく、順調に、笛吹川原に(武田方に先んじて)到着。

武田方も、上杉方に続いて参着。
いよいよ本番です!


何年か前、今川義元が板輿に乗って参陣していましたが、今年は、信長と権現様と直江山城殿が参陣していました。
それぞれお値段別料金とか。
・・・・・私は、足軽(畳鎧)がいいです(^^ゞ


両勢参着後、諸儀式と鉄砲の撃ち合いを経て、いよいよ、攻めの合図が!

まず手始めに、車掛りの陣で武田方の中央を割らせ、一息置いて、両総掛かり!!
ただこの時、総勢競って敵の総大将を狙って駆けて行くので、本陣、即ち我等が総大将の護りが手薄になってしまうので、陣所出立前、此度の謙信公より「我を護るべし!」とのお達しが上杉方全将兵にあったので、それに呼応して、1度目と2度目は謙信公の周りにいて遊撃。
謙信公直々のお願いが功を奏してか、将兵が十重二十重と、正に車掛りの陣を敷いて謙信公を守護。

寸分の隙もない鉄壁の護りだったので、3度目は、武田方に勇躍攻め込みました!

私は信玄公まで迫りませんでしたが、我等が謙信公の護りに較べて手薄だったようで、上杉方の猛攻の前に敢え無く・・・との話も。。。
私は、先の総掛かりで土を付けられたら我等が大将・鮎川摂津様の敵を討ち取ることに夢中だったので(笑)
その時は気が付きませんでしたが、よくよく思い返すと、確かに、武田方本陣に将兵は少なかったと・・・思います。
ちなみに、敵は確かに取って参りましたm(_ _)m
この他、幾人かを討ち取って、本陣に戻りました。


陣所出立から、約3時間。
車掛りと3度の総掛かりを終えて、隊伍を整え、両勢の健闘を讃えて陣所へ戻りました。

ここで武装を解き←この時の解放感が堪らないんです(爆)
宿に戻って(宿の方のご好意で)温泉に入れていただき、合戦の汗を流しました(*´▽`*)

ここで暫し休息してから、帰路に就きまた。
朝方雨が降っていて出足が鈍かったか、心配された中央道の渋滞もなかったので、高速に入る前、地の物を・・・と思い立ち、石和市街の「小作」でほうとうを平らげていきました。
石和を発ったのは19時30分頃。
渋滞にもハマることなく、交通法規を咎められることなく順調に、千葉まで2時間程で帰り着きました。

前日からの雨が夜が明けても強く降っていたので、雨に降られることを覚悟していましたが、予報通り、午前中、陣所に着いた頃には雨が止み、陣所のグランドも合戦場の河原にも泥濘などなく、合戦には何の支障も、返って、砂埃など上がらず快適でした。

久しぶりの石和、とても楽しかったです!
また来年、縁と機会があれば!!

ところで、今回の御大将である鮎川摂津守清長殿については、別して記しますm(_ _)m

▲▲▲「甲州石和の上杉方、鮎川摂津という御方」に行く!▲▲▲


本文の手直しと鮎川摂津殿に関しては別に立てて再掲載しています。
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東海道中久しぶり[往路:とよはし時代まつり]

2012年09月17日 | 参陣記
ちょっと前まで「敬老の日」だった9月15日。
愛知豊橋で今年初めて挙行される時代祭(とよはし時代まつり)にお呼ばれされたので、参陣してきました。
当日の集合は午前10時なので、都内を朝5時半に出立。
祭友の方の車にご好意で同乗させていただき、東名道を突っ走って9時過ぎに豊橋に着きました。
都内や横浜までは多少混んでいて、心中(実はお互いに)3連休初日の大渋滞に巻き込まれるのでは・・・とヒヤヒヤしていましたが、次第にそれも無くなり、概ね順調に着きました。
方や、新東名は結構混んでいたそうで、新旧東名の流れが解って面白く、また参考になりました。

メイン会場の豊橋公園の端に車を止め、向こう端に在る市民館(今回の陣所)で着甲の手伝いと自分の身支度を整えてここを出立。
一歩外に出ると、暦の上では秋なのに、それには程遠い暑さが待ち構えていました、、、。

身支度を整え終えたのは10時半過ぎ。
行列は14時からなので、それまでは、、、
此度一緒に参陣された武者2人が、南奥の城下町の武将隊と関係があり、午前中は復興支援御礼を兼ねてステージに登壇。
そこに私も手伝いで登壇しました(^^ゞ
私に課せられたのは、縦長の大きな幟持ち。
先に参陣した仙台青葉まつりで間近に見て、こりゃすげー・・・と思ったものを、まさか自分が持つことになるとは思いもよらず(^^ゞ
10分程度でしょうか、時折強い風が吹く中何とか堪えて、任務を遂行しました。
前日のつぶやきで告知されたにも関わらず、会場には(私でも見覚えのある)ご贔屓さんが何人か来ていました。すごいですね、、、。

この後、参陣者一同に呼集が掛かり、その中から、私も含めて幾人かが呼ばれて移動しました。
任務は、ズバリ宣伝。
フリマやテントブース、城下へ出向いてチラシを配り、愛想を振りまいて宣伝してきました(笑)v
そして、その序に昼餉となりました。
場所は・・・弁当と聞いていたんですが、なぜか、連れてこられたのは調理師専門学校
誘導のスタッフさんに誘われて中に入り、指示通り着席すると、豊橋及び東三河の特産を使った御膳3品が供されました。

全く以って、初めての経験です。

味は・・・決して悪くはありません。けど、そこは・・・調理師の卵たち。不器用で荒削りなところがあったのは否めません(^^ゞ
実習の一環なのでしょうが・・・自分の仕事柄、ふと自分の業務のことを思い出し、ちょい、他人事とは思えませんでした。

昼餉を兼ねて調理師専門学校で40分ほど休憩し、行列の出発地・松葉公園に移動しました。

出発地の松葉公園で、武者さん達と再開。
ここで昼餉の事情を交換してみると・・・他の皆さんは、同じ調理師専門学校生が作った弁当だったとか。
道理で続いて来なかったワケで、ここで昼餉を取ったのは、私含めて10名程度でしたから。。。
なぜ我々がその昼餉に与れたのかが不明なうちに、行列は、神輿2基を先頭に旧東海道を豊橋公園に向けて出発しました。

私は、当初の予定だと銅鑼持ち・・・だったそうなんですが、着甲の手伝いをして振り返ってみると、残っていた装束は鉄砲武者のだけ・・・だったので、それを着て参陣。
神輿のすぐ後ろ、行列の先方として、銅鑼持ち武者さんの前に配されて進軍。
前後に配された銅鑼の調子に「(私が)銅鑼だったらフルボッコだ(笑)」というのを聞いて心中命拾いした・・・と思いながら、鉄砲持ちに徹し、途中、他の鉄砲持ちさん2人と一緒に、沿道でカメラを構えている人を撃つなどに興じて進みました。
中には、取材に来ていた地元テレビや中日新聞の(女性)記者さんも狙いましたが、中日さんは特に、こちらの期待する(驚きの)リアクションして、やった甲斐がありました(笑)

旧東海道吉田宿本陣近くの松葉公園を出発した行列は、途中、休憩と大小交わる道の信号に阻まれながら、2時間ほど掛けてか、豊橋公園に入り、ここで一旦休憩後、今行列の主人公・池田輝政公が馬上の人となって、僅かな距離ですが、吉田城鉄櫓下まで進み、ここで終了となりました。

この後、ここで記念撮影をして、多少遊んでから(笑)
武将隊と共に登壇したステージに移動して正式な解散となりました。

解散宣言後、三々五々陣所に。
方や武将隊(関係)のお2人は、贔屓の人々に取り囲まれていました。

時代祭で一番至福の、武装解除した後、暫し余韻に浸り・・・打ち上げの場へと移動しました。

打ち上げは、この日泊まる宿(【大黒屋旅館】)の大広間。
15人程の方々が集まって宴をしましたが、私(達)は、どっかと座った場所からほぼ一歩も動かず、仲間内で大盛り上がりしていました。
内容?!えーっと・・・思い出せません(^^ゞ

宴は2時間ほどで終了。
この後、祭と宴の余韻に暫し浸りつつ、、、
宿のご主人のご好意でいただいた蟹の沖漬けに武者振り付きながら、お話を聞いたりしていましたが、、、
実は、(気が付けば)起床後24時間以上も経過して、ちょい限界が近づいていて...(^^ゞ
同宿の祭友さんの助け舟もあって散会し、床に就きました。。。

けど、話の中身は興味深く、若干体がゆらゆらしていましたがしっかりと聞いていました。

今回が初めてだった「とよはし時代まつり」。
初めてにしては滞りなくいったのでは・・・と思いますが、ただ一つ、地元警察がこうした警備(計画)に慣れていないのか、チグハグな面が目目立ちました。
例えば、警官通しの連携が巧くいっておらず、あーだこーだと若干もめているところが。。。
他にも、脇道から車が入ってきて、それを見付けた警官が必死で追っかけている・・・とか。
2回以降の開催となれば、ここは改善されている・・・と、期待している。

復路」に進む|◆◆◆

※デジカメを持って行ったんですが、、、今回、画像は一切ありません。何分、ブログは想定していなかったので・・・いま思うと、痛恨事でした。
コメント (2)
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米沢から会津に、いざ!会津の悲運を観に、、、。

2012年06月27日 | 参陣記
上杉まつり参陣後、飯豊連峰を抜けて喜多方経由で会津に入り、学舎日新館、武家屋敷と巡って会津の悲運を見て来ました。
その都度、はっきり言って佐幕派な私は落涙せずにはいられませんでした。。。
そして次に、歴代の会津公が眠る【松平家廟所】へ行きました。

武家屋敷から廟所までは歩いて5分ほど。
案内板に従って住宅街の路地を進んで行くと、廟所入口に辿り着きます。

しかしそこは、人の立入を拒んでいるかのように木々が鬱蒼と茂る山なんです。

会津へ来た新撰組副長の土方歳三が局長の近藤勇を葬ったとされる天寧寺へ行ける看板はありましたが、もはや獣道のよう。
俄かには信じられません(苦笑)

伊勢霧山城の二の舞は避けたかったので、(時間的制約もあって)行きたくても行けませんでした(汗)
廟所まで続く道はなんとかありますが、さながら登山道。

道標がなければ、きっと迷ってしまう人がいると思います。

一応階段らしきものがあるんですが、整備が不良で崩れているところもあって段差がまちまちで、返って不便です。
前日来の雨でぬかるんでいて、道が川と化しているところもありました。

荒れている・・・というか、忘れ去られて廃れてしまった感じ、雰囲気がします。

この日の昼頃には式典があったようですが、訪れたのは夕方。
帰り道で老夫婦一組とすれ違いましたが、それ以外は人っ子一人もいません。
山を切り開いて造られたここは、とてもひっそりとしていて、聞こえてくるのは、鳥の囀りや風の音くらい。
まるで忘れ去られたかのような印象を受けるほど、荒れている・・・いや、残念ながら廃れてしまったかのようです。
ここには、2代正経公以降、9代容保公までと(一部)妻子が眠っています。

2代正経公は仏式ですが、3代正容公以降は神式で埋葬。

それゆえなのか、亀を模った礎石の上に、とても大きい石柱のような墓誌が乗っかっています。


途中、拝殿なる建物がありました。

そういわれなければ、倉庫と見紛いそう(^^ゞ
昼間、ここで式典が挙行されていたようですが、薄暗く、人をあまり寄せ付けない雰囲気。

かつては各墓所に拝殿が建っていたのか、礎石らしき趾がありました。

しかし、朽ち果てたか、はたまた会津戦争で失われたか...
何れにしても、先に見た米沢の上杉家御廟所や仙台の瑞鳳殿などとは全く違う在り様に、会津と松平肥後守家の悲哀を感じ、落涙せずにはいられませんでした。。。

ここ、国の史跡にも認定されているのに...。

この時の時刻は17時過ぎ。
この日の夜は栃木の親戚宅に泊まることになっていたので、ここから真っ直ぐ向かおう・・・と思ってましたが、やはり、鶴ヶ城を見ずして会津は発てぬ!と思い、(城に)立ち寄りました 。

この日の公開は既に終了していたので、外観のみでしたが、白亜に、葺き替えられた赤瓦が映え美しかったです。
震災と原発事故の風評被害も遭って観光客の減に悩んでいるとのことですが、震災直後に仕上がった赤瓦の鶴ヶ城は一見以上の価値があります。
私は、デジタルのエネルギーがここで尽きて十分に撮れなかったのでまた来ます。
茶室「麟閣」でもおもてなしを受けたいですしね。

多分(実は)10年ぶりにやって来た会津若松を短時間で巡りましたがそれなりに存分楽しんで、この日泊まる関東平野の縁に在る栃木県内の親戚宅へ向かいました。
会津若松から親戚宅までは、磐越道東北道を使えば短時間で行けるんですが、今回は敢えて一般道で。
再び国道121号線を通って日光周りで向かいました。

かつて、会津公や下越の諸侯が参勤に利用した会津西街道に沿って通る国道は、会津鉄道野岩鉄道東武(鬼怒川)線とも並行して走ります。
山道なのでトンネルが多くて随時視認できませんが、夜の峠道は滅多に車が通らないので(ナビはありますが)有り難い道しるべでした。
途中、芦ノ牧湯野上、三依、湯西川鬼怒川などの温泉街を通過しますが、駅が在ることによって、特に芦ノ牧温泉は19時前に通過したので温泉街らしい賑わいを少し感じることができました。

時間が有れば、、、
大内宿や平家の落人に纏わる地、または、会津西街道は戊辰戦争の激戦地でもあります。
その軌跡を辿って見たかったんですが・・・それはまた次回の楽しみとしました。
あっ!あと上に挙げた温泉も!!

デジカメのえねるぎーも切れていたので(^^ゞ

途中の休憩は湯西川の道の駅だけ。
ここではトイレと深呼吸と、温くなった足湯に浸かっていきました。
ここには温泉が併設されているので、足だけといわず、頭の天辺まで浸かっていきたかったんですが・・・時間との兼ね合いで、回れ右して目的地へ。
会津若松から5時間ほど掛けて辿り着きました。

久しぶりの米沢参陣。
そして、会津地方を抜けて帰路に着きましたが、存分楽しかったです。
いろいろな人にもお世話になりました。
この場を借りて御礼を<m(_ _)m>

また今度、いずこかへ。

▼いざ、 会津の武家屋敷へ ▼◇▲ 米沢参陣へ、いざ ▲


そういえば。
来年の大河は会津出身で同志社を創立した新島襄の妻、八重が主人公(八重の桜)とか。
地元会津では静かにこれを応援している雰囲気がありましたが、、、はてさて、どうなることやら。
佐幕な私としては、序盤だけは見たいです(笑)
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米沢から会津にいざ!会津の武家屋敷へ!!

2012年06月26日 | 参陣記
2年ぶりに参陣した上杉まつりを終え、喜多方経由で会津に入り、まずは藩校日新館を見学。
会津武士を育てたここは、不思議と身が引き締まり、凛とした雰囲気がありました。

このあと、やはり中心街から少し外れたところにある【会津武家屋敷】に行きました。

ここには、会津松平家で代々顕職を歴任した西郷頼母家(上士、1,700石)屋敷や、白河領米精米場、中畑陣屋(松平軍次郎領)などが復元・移築されています。

見学順路の最初は、西郷頼母家屋敷です。
屋敷表門前には、9代近悳の養子で“姿三四郎”のモデルとなった西郷四郎が豪快に技を決めています。

そして、その前を通って屋敷表門を潜り、屋敷内へ入ります。

保科姓と九曜の紋の許しを得ていた西郷家に相応しい、立派な門構えです。
その先に在る、格式を感じさせる式台(表玄関)。

ご丁寧にも、お出迎えがあります。けど、上がれません(苦笑)


会津公の御成が有ったのか、屋敷内には御成の間が設けられています。

そこから見える庭は、小ぢんまりとしてはいますが、季節の枝垂れ桜がよかったです。


会津のご城下は、残念無念で理不尽極まりない会津戦争で大きな被害を受けたので、西郷頼母家屋敷も日新館と同じく復元された建物ではありますが、それとはあまり感じない、往時よりここに建っていたかのような佇まいがあります。

ただ、惜しむらくは屋敷内に上がれないこと。

上がることの出来る機会はあるようですが...
保存・管理の面で難しいかとは思いますが、外から見るというのはちょっと物足りなさを感じました。

さて、9代近悳は西軍への恭順を説いていましたが、家族は西軍の会津若松侵入に際して自刃して果ててしまいました。

敵に辱めを・・・という論理からですが、中には幼い子供も含まれていたとか。

落涙せずにはいられません。。。
この時の様子は、この先の順路の途中にある資料館で解説しています。

武家屋敷内には、先に触れたように頼母屋敷以外にも建物が3棟あります。
資料館の先に在った蔵の様な建物は、隣国白河領に在った水車を利用した精米所。

結構な迫力があります!


順路通りに屋敷裏門から出、屋敷の片長屋に沿って行くと茅葺の屋敷に辿り着きます。

表門の途中でもあるこの建物は、白川郡内に設けられた松井流松平軍次郎家領(公儀寄合、5000石)の代官屋敷。
今の西白河郡矢吹町からここに移築し、重文にしていされているとか。
ここも、勿論上がれません...。

その隣には、かつて鶴ヶ城内に建てられていたという茶室が在ります。

これは、蒲生氏郷が城主の時に千利休の子・少庵が造ったとか。
小ぢんまりとしていて、侘び、さびを感じ・・・ます。

けど、ここは上がるどころから間近に寄れなかったのが難点です。

ちなみに、ここでも弓道体験が出来ます。
会津、いいところですね!

武家屋敷には、米沢の【上杉城史苑】のような施設が併設されています。

中心から離れたところではありますが、こういう施設があるのは有り難いですね。
この一画で、地の銘酒会津中将」の試飲が出来たんですが・・・車を運転しなければならなかったので、極めて無念な涙を呑んで、ここを後にして、この近くに在る【松平家墓所】(院内廟所)に向かいました。

▼ いざ、学舎日新館へ ▼◇▲ 会津と松平家の歴史を観に、いざ! ▲
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米沢から会津に、いざ!学舎日新館へ

2012年06月25日 | 参陣記
2年ぶりに参陣した上杉まつり。
翌日の復路は、米沢市中を巡ったあとに南進。
大峠道路を通って飯豊連峰を抜け、会津へ向かいました。

途中、熱塩温泉の足湯に浸かって癒しとまどろみの時を過ごし、喜多方の【はせ川】でラーメンに舌鼓を打って行ったので、会津には14時過ぎに着きました。

まず最初に行ったのは、会津若松の中心から少し離れたところに在る【會津藩校日新館】です。

その名のとおり、家中の子弟を教育する藩校として寛政10年に企画され、享和3年に鶴ヶ城の西隣に成って開学しました。
[5代目当主・肥後守容頌公治世期。家老・田中玄宰が企画。]

往時の日新館は、極めて無念で理不尽な会津戦争によって灰燼と化してしまいましたが、それから120余年を経た昭和末期、今の地に復元されました。
そう知ると、どうなんだろう?!
往時を無視して現代に迎合した造りになっていないか?!と疑いますが...
いざ中に入ってみると、往時からここに在ったかのような風格と趣きがあります。
雨ゆえか、それとも不便ゆえか(苦笑)
人が疎らだったことも幸いして、とても落ち着きのある雰囲気でした。


入館してすぐ見えるのは「戟門」。時を知らせる太鼓がありました。
順路はこの左手、映写室から始まり、まずは日新館の概要などを見ることになります。
けど、ちょっと見て次へ(^^ゞ
戟門の右側に在る東塾から始まります。
中はいくつかの部屋に仕切られていて、素読、講釈の授業が行われていました。

日新館は、会津戦争の悲劇の象徴として取り上げられる白虎隊の士達が(ちょうど)学んでいたこともあって、それぞれの部屋に、隊士たちを模した人形と解説がありました。

ここでは学問だけではなく、武術の鍛錬もできます。
これはその一つ、泳ぎの鍛錬も為されていました。

権現様も、逃げる時は己の力で為さねば成らぬ!と、子達に水練を学ばせたと・・・聞きます。

ここは大成殿。

この大成殿は、儒学の祖である孔子を祀っています。

日新館の中核的建物であり、入って正面、戟門の向こう側に威風堂々と建っています。

大成殿より戟門を望む。

ここでは弓道体験が200円で出来ます。

憧れの弓道を初体験し、指南役には「筋がいい」と誉められておまけに射させてもらえましたが、中々どうして、真ん中は射ぬけませんでした(汗)


日新館の一画に設けられている天文台より。
入った時は気が付きませんでしたが、瓦の色が、噂に聞く、鶴ヶ城と同じ赤でした。
不思議と背筋が伸び、凛とした雰囲気、印象を感じました。
復元された日新館は、会津盆地の北側,河東の高台に建っているので、ご城下が一望できます。

大気が雨で洗われて、くっきりと見合わせたました。
ただ、、、
先に述べましたが、雨天の為か郊外だからか、訪れている人は疎らでした。
駐車場も広々としていて結構な容量がありますが、疎ら。
震災の影響か、はたまは原発事故の余波なのか、実に、実に勿体ないです。
はせ川の賑わいを見た後なので、余計に感じました。


このあとの予定もあって少々駆け足で見て回り、次、会津武家屋敷へ向かいました。

▼ いざ、喜多方の【はせ川】へ ▼会津の武家屋敷へ、いざ! ▲

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米沢から会津に、いざ!喜多方の【はせ川】へ。

2012年06月24日 | 参陣記
前の記事からまた1週間ほど空いてしまいましたが(^^ゞ...
2年ぶりに参陣した上杉まつり。
翌日の復路は、会津を目指して大峠道路を南下。
途中、熱塩温泉の足湯に浸かって癒しとまどろみの時を過ごし、いざ、会津・・・の前にもう1ヶ所立ち寄ったのが、喜多方郊外に在る【はせ川】というラーメン屋です。
喜多方は“蔵の街”として有名ですが、近年はラーメンでも知られるようになっています。
ちょっと前ですが、福島物産展が開催されていた船橋東武喜多方ラーメンを(一度)食しましたが、その時の美味さが忘れられず、今回立ち寄りました。
行く店を選ぶにあたっては、私に喜多方ラーメンの美味さを教えてくれたお店でもよかったんですが、せっかく車で行っているので、車だからこそ行ける店をと思って行ったのが、喜多方の郊外に店を構える【はせ川】でした。
熱塩温泉から喜多方市街へ行く途中に在ったというのも選んだ一つですが、何より「美味い!」と評判で、調べた限りで好評価だったのが(やはり)最大のポイントでした。

熱塩温泉からはせ川までは車で10分ほど。
長閑な田園地帯の中に在る小規模な住宅街の一画に店を構えています。
米沢参陣の前に最新情報にしたナビの指示で進むと、車の列と交通整理をするおじさんが一人いました。
はて、何だろう?!と思ったら、はせ川目当ての列でした(汗)
最後尾に付けて待っていると、ほどなくしておじさんが近付いて来て「名前は書いた!?」と語尾が上がる福島弁で話掛けてきました。
私が「まだです」と答えると、おじさんが軽く衝撃的な言葉を返してきました。
それは...
「1時間40分くらい待つことになるけど、いい?!」
・・・列や店先にいる人々を見て、ある程度覚悟はしました。
しかし、まさかそんなに待たされるとは思いもよりませんでした。
震災やら原発の風評やらで人出が遠のいている・・・と聞いて少ないかと思ったんんですが、
ここまで来て、食べずに退くわけにもいかず、(勿論)「待ちます。」と答えました。

店先の名簿の34番目に名前を記し、おじさんの指示で車を空き地に止めて、その時を首を長ーーーくして待っていました。最初のうちは、初めての店なので店先に居ましたが、家族連れなどばかりで、単身は私だけ。
ゆえに、車でテレビとこのあとの予定を考えようと思って籠っていると、おじさんがやって来ました。
そして、また軽く衝撃的なことを教えてくれました。
それは...
「独りだと早く呼ばれかもよ。」
それは大変と思い、おじさんにお礼を行って店先でつぶやいたりして待っていたら、呼ばれました、私。
実に20人抜きで(^^ゞ
ホンのちょっとだけ複雑な感じでしたが、大半は、食べられる喜びと時間を空費せずに済んだ安堵充ちていました。

ラーメンのメニューは基本醤油で、チャーシューが無しか、半面か全面か。
あとは、ご飯モノと餃子くらい。

こんだけ並んでるんだったらガッツリ行こう!かと思ったんですが、朝、たらふく食べた効果がまだ残っていて(^^ゞ
チャーシューの半面盛りだけにしておきました。
席に着いて注文してから10分ほどして、待ってましたお品がきました。

まずは一口目、スープから。

うん、美味いです!
包み込むような円やかさと、あっさりはしているんですが深みとコクがあるんです。
魚だしのあっさり感と、肉だしのまろやかさとコクがよかったです(^^)v
二口目は麺のは...

茹で加減は程よく、もちもちとしていました。
三口目のチャーシューですが...
これがまた絶品!
豚バラを使ったこれは、平面積は広いんですが、厚みはないです。
けどそれが、口の中に入れると溶けてしまうような味わいと食感を演出してくれます。
これはもう、旨いです。
普通盛を頼んでしまったので、あっ!と言う間に食べ干してしましいました。

私が訪れたGW期間中は、開店を30分早めて10時半から暖簾を出していましたが、3時間後には完売して終ってました。
これ、私が店に入った直後でしたが、少し遅かったら、もうダメでしたね。
あまりの盛況ぶりに、お土産で代用とする人も結構いましたが、それも完売気味な様子でした。
大震災と原発事故で喜多方ラーメンは閑古鳥・・・なんて聞いていたんですが、見事にそれを裏切らました。
けど、ちょい嬉しい裏切りでした(笑)

大満足のラーメンを食した後、いよいよ、会津若松を目指して行きました。

▼ いざ、大峠から熱塩温泉へ会津の日新館へ、いざ!▲

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いざ、米沢から会津へ!大峠越え→熱塩温泉

2012年06月23日 | 参陣記
2年ぶりに参陣した上杉まつり。
生憎の雨天決行となりましたが、武役を無事に果たしました。
この後、夜は地の酒肴に舌鼓を打ち、翌朝は米沢城址(上杉神社、松岬神社、春日神社、上杉博物館、上杉城史苑)と御廟所に参じ、米沢上杉家の歴史にしっかり触れてから米沢を発ちました。
ただ...
このあとどうするかは事前にいろいろ考えていたんですが、米沢が余りにも楽しくて魅力あり過ぎて、予定を1時間オーバー(汗)
しかし、会津にはどうしとも行きたかった!ので、一路、会津を目指して大峠道路(米沢街道、国道121号線)を南に下って行きました。

大峠道路はよく整備されていてとても走り易く、八谷街道ともいわれる山形側は鬼面川に沿って飯豊連峰へ向かって緩やかなカーブを幾度が駆使しながら登って行きます。
先日来の豪雨で水かさが増して濁流となっていた鬼面川ですが、芽吹きだした新緑の木々の下を流れる光景は美しかったです。
また、初夏を迎えたというのに未だ多くの雪が残る飯豊連峰の山々も見事で、自然美を堪能できます。

前を走るのは会津から来ていたレトロなタクシー。会津と米沢を、お客さんを乗せて往復していたようですが・・・どんだけ掛かるのか、気になりました(^^ゞ
飯豊連峰を貫いて山形と福島を繋ぐ大峠トンネルを抜けて福島側に入ると、今度は橋とトンネルの連続です。

トンネル好きの私には恰好の道です(笑)
交通量もさほど多くなく、峠道の割には急峻はところはないので、ドライブには最適です。

このまま快適な大峠道路を走り尽くしたかったんですが、会津に向かう途中で2ヶ所、どうしても立ち寄りたかったところに行きました。
その1ヶ所目が、北会津の熱塩温泉です。
会津公も湯治に訪れたことがあるというこの湯に、出来れば日帰り湯でとっぷりと浸かって行きたかったんですが、、、
着いたのは昼前。
このあとのことを考えるとそうも行かないので、足湯にだけ浸かって行きました。

昼間の温泉街は、お客さんがほぼいないエアーポケットのような時間。
しかも、交通の便がいいところではないので余計に、静かでゆったりとした時を過ごしました。

熱湯の源泉が出ています。

塩味がすると聞いていたので舐めてみようと触りましたが・・・とっても熱かったです。
けど、味は僅かに、塩味を確認することが出来ました(^^ゞ

つかの間の陽射しと足湯であったまった身体を、時折そよぐ風が心地よく冷やしてくれて、諸々の疲れが一気に吹き飛びました。
足湯のすぐ近くに在る曹洞宗の示現寺は、熱塩温泉を発見した僧侶が開いたお寺さんです。


熱塩の湯に癒され、近くを流れる押切川の勢流に力を得て、、、

次なる立ち寄り地へと向かいました。

▼いざ、米沢御城下へ▼喜多方の【はせ川】へ、いざ!▲

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いざ、米沢!→米沢御城下

2012年06月22日 | 参陣記
随分と、先の日記と間が空いてしまいましたが(^^ゞ

とても楽しかった(けど、しんどかった(^^ゞ)上杉まつりから一夜明けた朝。
早くに起きて宿大浴場でサッパリした後、レストランで朝食(バイキング)。
米沢の伝統工芸品・笹野一刀彫に使われる?!うこぎの芽を交ぜて作ったおにぎりなどを食べて腹を満たし、身仕度を整えてから宿を発ちました。

雨は止んでいましたが、どんよりと曇っていて、いつまた降り出してもおかしくない空模様。
その中を、まず最初に向かったのは、米沢城址に建つ上杉神社
昨日の戦勝と我が武勲をご報告し、心静かに今後のことを祈願。

御堀端の桜は既に散り、水面を桜色にしていました。。。

ただ、境内の枝垂れ桜はいまが盛りでした。


続いて、私が敬慕する元徳院殿様が家督を継がれた時に誓詞(当主の心構え)を納めた春日社(上杉神社左手奥)。

そして、元徳院殿様とその御改革を支えた竹俣美作当綱、莅戸九郎兵衛善政と師・細井平洲が祭神として鎮座します松岬神社に参詣。

境内の枝垂れ桜がまた、とてもきれいでした。。。


この後、久方ぶりに上杉家御廟所に向かいました。

林立した木々に囲まれている御廟所は、前日来の雨を含んでか、より一層沈静とした雰囲気に包まれていました。
また、比較的早い時間で人出が少なかったので、心置きなく穏やかに参拝することができました。
御廟所正面におわします不識院殿様(上杉謙信公)。

左列には不識院殿様から数えて偶数、2代覚上院殿様(中納言景勝公)から10代元徳院殿様(弾正大弼治憲公)と夭折した瓊林院殿(直丸顕孝公)、12代俊徳院殿様(弾正少弼斉定公)まで。

右列は同じく奇数、3代大上院殿様(弾正大弼定勝公)から11代享徳院殿(弾正大弼治広公)までが眠っています。

ここでふと目に止まったのは、奉献石塔。
これには、いつ、誰が奉献したかが記されていて、とても興味深いんです。
特に興味深かったのは、5代樹徳院殿様(民部大輔吉憲公)の廟前に献納された2基の石塔。

▲黒井半四郎忠寄が献納。

▲丸山平六蔚明が献納。
2人は治憲公、次君治広公の御世にその才覚を見出されて立身し、いずれも国政に大きく寄与しています。
(丸山平六は、最終的に禄高が10倍になっています。)
ちなみに、よく見ないと解りませんが、しっかりと氏(黒井半四郎も丸山平六も源氏)を付けています。

御廟所の参拝を終えた後、再び米沢城址へ。
この一画に在る上杉博物館に入りました。

ここでこの時「上杉鷹山の財政改革~国と民のしあわせ~」という、実に興味深い企画展が開催されていたので、見て行きました。

この後の予定も考慮して幾分駆け足で見て回ったのですが、もう、大満足です!
図録も買っちゃいました。

私が学生の時にあれば・・・と、ちょい悔しく思いました(笑)
ちなみに、毎年上杉まつりに合わせて展示されている「洛中洛外図屏風」もしっかり、特に室町御所の場面を確認してきました。
この他にも、常設はいろいろな遊び心や工夫がなされていて、いままで来なかったことと、この日満足に楽しめないことを後悔しました。。。

この後、向かいの【上杉城史苑】でお土産を買い、次の目的地へ向けて米沢を発ちました。

▼いざ、合戦の後の一杯!大峠越えて熱塩温泉へ、いざ!!▲


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鍛錬の仙台青葉まつり

2012年05月28日 | 参陣記
自分で言うのも何ですが、それなりに健脚な性質だと思ってました。
しかし、久しぶりに階段の上り下りにちょい難儀する筋肉痛になりました。
それも、月火の2日間。
それに至らしめたのが、この前の日曜日に挙行された“仙台青葉まつり”です。
今回、杜の都大路を練り歩く武者行列に馳せ参じる白石市の片倉衆に、御付人として参陣しました。

青葉に馳せ参じたのは2回目。
前回は震災の前の年で、この時は見学で行ったのに、いつの間にか片倉鉄砲隊に帯同してました。
今回の御付人は、その時の動きがよかったから・・・かな(マテ)

さて、今回の仙台参陣は日帰りで。
有り難くもチバラキの武者友さんとご一緒させていただきました。

千葉を出立したのは午前3時前。
各道ともスムーズに、途中2回の休憩を挟み、仙台城址に7時頃着きました。
東側、大崎の東照宮方面を望む。

西側、瑞鳳殿の在る経ヶ峯を望む。

ここで、在りし日の仙台城に思いを馳せてから、ここが集合場所の武者友さん達と別れて、参陣衆陣所の仙台市役所本庁舎へ向かいました。
4キロ弱の道のりをゆっくりと、1時間程掛けて歩いて行きました。


仙台城とご城下を結ぶ大橋。

その途中から仙台城址を望む。
天険の要害であることが容易に判ります。
この先の道は、先の大震災で石垣が随所で崩落していて通行止め(歩行者は一部可)になっています。

復旧には、あと2年掛かるようです。・・・先人の苦労が偲ばれます。。。


仙台には何度も来ていますが、あまり歩くことがないので新鮮でした。
特に、広瀬通は街路樹の翠緑に満ちていて心地よかったです!

陣所の仙台市役所本庁舎には9時頃着きましたが、既にツワモノ達で一杯。
玄関前では大崎市の岩出山伊達衆から参陣される武者友さん達とお会いし、これに付いて庁舎内へ。
一緒に身仕度も整えたかったんですが、皆さん女性なので無念にも(マテ)

白石の片倉衆が勢揃いしたのは10時頃。
各々身仕度を整えて11時前に庁舎玄関前に展開。
ここで出陣式を執り行い、先陣より杜の都大路へ進んで行きました。

片倉組は、雲一つない陽光が煌めく蒼天の空へ向けて高々と組幟を先頭に掲げて進軍。

威風堂々としており、観衆の皆さんの人気や声援も大きかったです。


昨年は大震災の影響で中止となったので、2年ぶりの開催と仙台青葉まつり。
その鬱屈と渇望からか、沿道には大勢の人々がいました。
私はあくまでも御付人(黒子)ですが、それでも晴れがましくて気持ちがよかったです(笑)
行列は、市役所本庁舎を出立し、長大なアーケードが繋ぐ商店街(一番町)を抜けて青葉通に入り東二番丁通に。
この東二番丁通で伊達宗家御当主の泰宗様が行列に加わります。

仙台随一の大通りを進み、勾当台公園()から定禅寺通を入って市役所本庁舎へ戻ります。
アーケードは観衆の皆さんのすぐそばを進むので親近感が、大通り(青葉通や東二番丁、定禅寺通)は片道だけでも2車線以上なので、行列が一番映えてカッコよく見えます。
しかも、観衆が十重二十重と居るので(^^ゞ

白石片倉衆の後備の片倉組は市民広場での演武が控えていたので定禅寺通に入って直ぐ隊伍を離れましたが、前備の鉄砲隊は伊達様や他衆と共に春日町交差点を折り返して市役所本庁舎に着きました。

一旦陣所に戻った後、出店が密集している市民広場へ繰り出しました。
けど、、、
楽しみにしていた牡蠣は見当たらず、南三陸の出店でかき氷を、白石の出店では玉こんにゃく頂きました。
舞台上では片倉組などが演武を披露していましたが、出店は歩くのもやっとなほど殷賑を極めていました。

このあと、片倉組や伊達武将隊、人心一新が図られた(痕跡は見ました、上杉まつり参陣で)米沢置賜武将隊が仙台城址にて会談をする・・・ということで、所用も兼ねて行きました。
それぞれの隊の見せる、楽しませる心意気と熱心なファンがいることに、改めて驚かされました。

小十郎重長殿がこの日参陣をする姿を見て泣いている人もいましたから(^^ゞ

それぞれの一仕事(以上)を終えて仙台を発ったのは17時過ぎ。
途中、常磐道阿武隈高原SAで地元の名物のとんかつを喰らったりして、帰路に着きました。

2年ぶりの仙台青葉まつり。
昨年は大震災直後ということもあって無念に中止でしたが、今年は復興にかける心意気!力強さ!!を、沿道の大観衆と賑わいから感じることができました。
職場は震災直後から全力を挙げてその支援に取り組んでいますが、私個人も、こうした形で支援の一助となっていればな・・・と、思わずにはいられませんでした。

-----------------------------------------------------
いや、しかし、ちょっとだけ(^^ゞ
段取りがどうもイマイチでして...
特に行列は止まったり進んだりの繰り返し。
一番疲労溜まるパターンに、青葉まつりの世話役さんさえ辟易としてました。
動きがないと、行列は魅力ないですからね(^^ゞ
それと、給水は配付途中に切れてモスで貰ったとか(笑)
来年は・・・よりよいまつりとなっていることかと<m(_ _)m>
----------------------------------------------------
あっ!そうそう、
筋肉痛はここで走り回ったりしたお蔭でなりました。
全く、日頃の鍛錬が足りない!ということで(^^ゞ
筋肉痛が2日間残ってしまったのは予想外ですが、翌日に出るのはまだ若い証拠・・・ですよね(爆)
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日常のリトマス紙

2012年05月27日 | 参陣記
先の「米沢参陣記」が途中ではありますが...

21日(月)は、土曜出勤の振替休を取りました。
残念ながら、楽しみにしていた金環日食は雲に覆われて見ることが出来ませんでしたが、曇っていた分か、幾分暗くなったのは判りました。
いや、しかし、、、
日食の瞬間はNHKで見ましたが、いつも仕方なく見ているめざましテレビは、日食の映像にSMAPたちが画面下に小画面で出ていて、とても残念な映像でした(苦笑)
しかも、女子アナどもがうるさいうるさい...。
それでも視聴率はよかったとか。。。
あまりのくだらなさに、録り貯めていた番組を見ながら朝食を取り、軽く身仕度を整えて、この間っから痛みのあった右耳を診てもらいに耳鼻科へ行きました。
大したことはないと思っていたんですが、何かと差し障りがあったので行ったんですが、やはり、大したことはありませんでした。
検査なんかしたので結構な値段しましたが、まぁ、安心料と思えば(^^ゞ

この日は天気がよかったので、田植えが大方終っている水田地帯をゆっくりと、サイクリングをして帰りました。


水田の一画にお花畑が。

6月頃にはラベンダーが一面に咲きます。

平日の休みっていうのはいいもんですね。
病院にも、銀行にも行けます。
また、土日とは違った静けさがあって、サイクリングした甲斐がありました。

家に帰ってからも堕・・・いや、のんびりと、昼寝などして平日休を満喫しました(笑)

ただ一点、筋肉痛ということを除いては、、、。

◆筋肉痛の原因はコチラ◇>>>>>
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いざ、米沢!合戦の後の一杯!!

2012年05月16日 | 参陣記
雨の中の行軍のち合戦となった今回の上杉まつり
いかに体力がまだまだある私でも(爆)
今回は堪えました(^^ゞ
武装解除した時のあの解放感たるや、堪りません!でした。
この後、共に戦った方々等と上杉勢勝利の祝杯を上げる約束をして一旦宿に行ったのですが、チェックインをして部屋に入ったら疲労感がどっと出たので、宿の大浴場でそれらを洗い流し、身仕度を整えて向かいました。

今回祝杯を上げるのに選んだのは、米沢駅近くに在る【成ル】というお店。
2年前に参陣した折にたまたま入ったんですが、提供される酒肴の旨さに感動!
滞在中2夜連続で行った名店で、米沢で夜を明かすならば必ずここ!と決めていたので、この機会に仲間を誘ってここで祝杯を上げました。

先の事情で30分程遅参してしまいましたが(汗)
スタートは17時半。
地の名物銘酒に舌鼓を打ちながら、一席を囲んだみなさんとの語らいを楽しみました。

天元豚のホルモンすき焼き。
最初来た時はてんこ盛りだったキャベツも、煮立ってくると...

ぺったんこ。
しかし、旨味を吸い込んだキャベツの旨いこと旨いこと!
もっと欲しかったです。

地酒がとっても豊富な成ル。
いろいろあってとてもワクワクするも迷ってしまいます。
片っ端から飲めるのいいんですが、それほど、好きなんですが酔ってしまうので、これは!という一杯に絞って選んだのが、新藤酒造店謹製「雅山流」。

少し辛口なこれはとっても香り豊かでフルーティー。
この美味さには唸ってしまいます。
ただ、これ以上に美味いらしいのが「“裏”雅山流」なんですが、これ、滅多にお目にかかれない・・・とか。

気が付けば21時頃。
足掛け3時間半程経ってました。
楽しい時とはあっ!と言う間です。
入った時は小降りだった雨も、出た時は滝の様に降ってましたが、これがよい酔い醒ましになって、宿に帰ってから一杯!
米沢駅のコンビニで買った“さくらんぼの酒”を飲んで眠りにつきました。

行軍のち合戦をして一っ風呂浴び、【成ル】で酒肴を楽しめて大満足です!
けど...
ただ一つ。
前回あった牛刺しが無かった、否、無くなっていたのが残念で残念でなりません。

これ、回転寿司でしか食べたことのない大トロの様な脂の乗りと旨さがあります。
刺しは今後ご禁制になるかもしれませんので、食せるときにしっかりと頂きました。


▼いざ、合戦の鬨!!米沢御城下へ、いざ!▲

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いざ、米沢!合戦の鬨!!

2012年05月15日 | 参陣記
誰が降らせたのか(笑)
関係者も記憶にないほど珍しい雨の中での挙行された上杉まつり
一部の行程が変わっていたようですが、兵共は予定通り!
まちの広場から米沢駅経由で行軍後、松川岸で行厨を取っていざ!合戦に!!

上杉勢全衆に陣触れがなされたのは13時前。
雨が相変わらず降りしきる中、各衆が隊伍を整えて、まずは練兵。
勝鬨や合戦時の立ち位置、討って出る時など、合戦にて遅れをとったりしないように(軽く)確認し、出陣の時を迎えました。

時は14時頃か。
全衆集結の号令を受け、観客側に向かって隊伍を整えてて出陣前の諸式を見届けた後、合戦の陣形に整列。
先触の衆より討って出てましたが、後押の我等(甘糟隊、松本隊)の出番は合戦の後半なので、それまで暫く高見の見物。

出陣式に続き、合戦においても雨天の中で号砲を轟かせる米沢鉄砲隊の業に感心し、青と赤が入り乱れて繰り広げられる合戦を前にして、(雨で)下がるどころかますます高ぶる士気の中、我等への下知を、いまや遅しと待っていました。


そして、待つことしばし・・・で、漸く我等の出番がやってきました!
甘粕近江隊が迎え討つのは、渡河し終えたばかりの高坂弾正隊。
ここで1分半(程度)、松本伊豆隊、直江大和隊の援兵を得るまで激闘!
手加減を知らない異国人の前に負傷する同士もいましたが、何とかこれを凌ぎ、退けの合図で本陣へと戻りました。
ちなみに、高坂弾正隊は対岸から渡河をして合戦に加わるのですが、この日は雨。
それも、各地で被害を出している程の強雨が米沢地方(特に山間部)で降っているので、松川はこんな感じ。

これではとても、、、。

対岸から渡河して来るのは無理でしたが、それでもなお、岸辺近くの浅いところに入って“渡河して来た”雰囲気を出してたのには感心しました。

俄か渡河を敢行した高坂弾正隊との激闘後、退けの合図で本陣に戻りましたが、息着く間もなく、今度は総掛かりの御下知!
踵を返して、直ぐさま乱戦の中に飛び込んで、とりあえず、手傷を負って苦しがってる異国人など2,3人討ち取りました。
ただ、悪天候による甲冑保護のために“倒れてはならぬ、立ち(生き)続けよ!”との御達示があったからか、兵共は一向に減らず。
両勢が激突した地点が武者溜まりと化していました。
その混戦の中を抜けて武田本陣を見てみると、信玄公を護るのは数人の大将格の武者だけ。
正に、信玄公を討ち取る又とない機会!だったんですが、見えない壁があってか容易に近付けず(苦笑)
苦慮と逡巡を繰り返しているうちに、退けの合図であって、無念にも第一の勲功を上げることは出来ませんでした。
尤も、大人の判断としては賢明だった・・・かもしれませんが(苦笑)

雨天の中、練兵含めて3時間近くの激闘も、この総掛かりで終結。
あとは両勢が隊伍を整えて余興めいた終結の諸式を行って、三々五々、陣所へ引き上げて武装解除しました。

着陣から、着甲して武装解除までのおよそ9時間に渡った上杉家と米沢へのご奉公を終えました。
まつりの範としている第四次川中島合戦も、濃い霧が立ち込んで雨が降っていた・・・と聞いたことがあるので、今回はそのひそみに倣った・・・と、私的に解釈して、納得させました。
まぁ、いろいろと呼んでるし、桟敷席も売っちゃってますしね(苦笑)

いやしかし、武装解除した時の解放感は、いつになく堪らずに気持ちよくて快っ感・・・でした(照)

▼いざ、出陣!! 合戦の後の一杯!! へ、いざ▲

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いざ、米沢へ!出陣!!

2012年05月14日 | 参陣記
米沢市より届いた1通の封書をきっかけに、2年ぶり参陣することとなった上杉まつり
前回はGWの谷間も休みだったので前日に、物見遊山をしながら米沢に入って武示帝式見届けることできたんですが・・・今回は、残念ながらカレンダー通り出勤。
ゆえに、米沢には3日の早朝、夜も明けぬ2時半に出発して向かいました。

天気は雨。
2日の昼過ぎから降り出した雨は、予報通り一向に止む気配がない。。。
常総で強かった雨が福島に入った時には弱くなっていたので、現地米沢の天候に期待を持ったんですが・・・万世大路に入ってからは一貫して大雨。
その勢いは、栗子峠を越し下って米沢市街に入っても同じで...。
少雨決行なのは承知していましたが、ここまで本降りだと中止も止む無し。
その場合は、米沢含む置賜遊山でもしよう・・・と、半ば開催を諦めていました。
・・・いや、正直観光に気持ちがかなりの傾斜度だったので、開催しないでほしい・・・と思っていました。
しかし、その思いは参陣者の指定駐車場となっている米沢商工会議所着いてみて打ち砕かれました。
車を止めるのに一苦労するほど、駐車場ぎっしりに止まってました。
これは・・・と思い、今回の陣所である市立興譲小学校へ行ってみると、既に甲冑姿に成っている兵共でごった返していました。

・・・ええ。
上杉まつりは予定通り決行されるようで(--ゞ
受付を済ませてくじを引き、引き当てた甘粕隊の甲冑類が置かれているところまでスタッフさんに案内を受けて身支度を開始しました。

時刻は9時過ぎ。
スタッフさんの手助けを得て身支度を整え終えて待っていると、(私が属する)甘粕隊と松本隊がスタッフさんに誘われて移動を開始。
向かった先は、閉鎖されたビルの1階。
行列の出発地は、この向かいの“まちの広場”なんですが、開始直前まで雨宿りとして入ったそこは、2年間は陣所であった米沢ポポロ館
今年の3月末に諸般の事情で閉館していました。
(ゆえに今回は興譲小学校が陣所となっていたのですね。)
ここの1階には【戦国の杜】が在ったんですが、それも閉館。
ただ、中には閉店及び山形おきたま愛の武将隊の解隊式に使われた?!セレモニーの時の看板が掲げられたままになっていました。
同士の方々との濃い話に夢中で現場を撮り損ねてしまいましたが(^^ゞ
何だか、哀愁感じました。。。

閉館して2ヶ月とはいえ、若干埃っぽい米沢ポポロ館(1階のみ)で雨宿りをすること30分ほど。
各隊に続いて我等も呼集されて、雨降りしきる外へ出ました。
呼集されて隊伍を整えたのは、ポポロ館の向かいに在るまちの広場。
ここで、簡単に勝鬨の練習をしてから、出発式に移行しました。

それはもう、驚くくらいスムーズに(苦笑)

謙信公が着していたとされる飯綱権現の前立を付した風折烏帽子の兜に 身を包んだ安部米沢市長が登壇。

妙に熱い挨拶をした後、馬上の人となって出発。
それに続いて前備衆から順次出発して、式はサラっと終了。
後押の我等も、各備に続いてまちの広場を出発して米沢市街を進軍しました。

後々知りましたが、雨天で鼓笛隊などが参加しなかったお陰か?!
まちの広場から米沢駅を経由して合戦場となる松川岸まで、よく言えばとてもスムーズに、悪しく言えば淡々と進んで行きました。

松川岸に着いて、合戦までの間は小休止。
噂の牛肉ど真ん中弁当ではない!!残念な弁当を少し食し(オイオイ)
テントの中で雨宿り。

空は一面雨雲に覆われていましたが、薄いところがあるのか、薄日の期待ができるところもありました。
けど、雨は相変わらず。
強弱を繰り返しながら降り続いていました。
高坂隊が渡河する予定の松川もこの有様。
これで士気も衰える・・・どころか、逆に高まってきました(笑)
まぁ、ここまで降り続いたら開き直るしかないです。

松川岸に着いて30分ほどか。
全隊集結の時となり、いよいよ!
上杉まつり最大の見せ場である、川中島合戦の時となりました!!

▼いざ、参る!!合戦の鬨!!へ、いざ▲

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いざ、米沢へ!参る!!

2012年05月13日 | 参陣記
きっかけは、1通の封書でした。
差出人は米沢市
内容は、「上杉まつりの武者行列に参陣されたし!」といった内容でした。
この封書が来たのは、確か・・・3月中旬。
上杉まつりが今年は例年通りに開催されると聞いて気にはなっていましたが、それを知ったのは3月に入って暫く日が経ってから。
ゆえに今から上杉軍団の一士として参陣の名乗りを上げることは適わないだろう・・・と、思っていました。
そこに、思いがけずも米沢市から参陣を促す封書が届いたのです。
東北地方は、かの大震災以後、様々な風聞によって人出が少ない・・・とは聞いていますが、まさか上杉まつりにまでその余波が?!と(勝手に)憂慮。
合戦前日の2日は平日で通常通りの出勤日だったので、多少逡巡しましたが、、、
これは、天が我に参陣せよ!言っているのだ!!と言うのは少々大袈裟ですが(^^ヾ
これも何かの縁。この提案に乗らずばなるまいて!と考えて、早速指定の期限内に参陣を申し込み、見事許可を得て、2年ぶりに米沢へ参陣しました。

5月の勤務を考えるとき、2日は休みにしようかと思いました。
けど、あれやこれやとやることがあったので、やむを得ず出勤として、米沢へは合戦当日の3日2時半過ぎに家を発って向かいました。
米沢までは、ざっと350km=凡そ5、6時間掛かります。
移動は車、即ち自力なので、2日は残業を極力控えて帰路に着き、帰りの電車内と夜食を省いて何とか4時間半の睡眠を確保して休めました。
けど、出立の身支度は若干手間取って予定より30分以上遅く家を出ました。

米沢までは、から常磐道に入り、磐越道経由で東北道福島飯坂まで行き、そこから万世大路(国道13号線)を通って向かう予定でした。
旅程の最初の最初は、2年前と同じく三春瀧桜などを観ていくつもりだったんですが、すでに葉桜となったと聞いて変更。

これを期待して観に行くつもりだったんです。。。
米沢まで真っ直ぐ行くこととしました。
常磐道に入ってすぐ、まだ夜明け前の3時、しかも生憎の雨天だというのに東北道の下り線・上河内付近で10キロ以上の渋滞が生じていると知って、行ける所まで休憩せずに行こう・・・と思ったんですが、途中、常磐道の関本と磐越道の阿武隈高原(仮眠と給油)で休んで行きました。

家を発って4時間後に東北道に入りましたが、そこでもすで渋滞が。
↓こんな感じ(2年前の東北道上り福島トンネル内)。

ただ、全く動かなくて二進も三進も行かない・・・というものではなく、断続的に、動いたり止まったりの繰り返しだったのがせめてもの救いでした。
(原因は、交通集中のほかに事故も遭って、難儀をしました。。。)
ただ、福島西まで着た時にその先がパタリと動いていない様子を見て、急遽(福島飯坂の)一つ手前の福島西で降りて向かいました。
私には、福島市内の土地勘は全くないので、どこをどう走っているのか全く解りませんでしたが(苦笑)
一応最新のナビのおかげで、何とか万世大路(国道13号線)に合流でき、米沢へ向かうことができました。
(途中、奥羽本線笹木野駅近くやスポーツ施設中野不動尊大正寺なるところ近くの急峻な坂とヘアピンカーブを通過したのは、覚えてます。)

米沢に着いたのは8時半ごろ。
参陣者指定駐車場の米沢商工会議所に車を止め、そこから今回の陣所である市立興譲小学校で受付を済ませたのは、参陣者着到受付開始から45分も経っていました。

渋滞に巻き込まれたときはどうなるか・・・と思いましたが、何とか、何とか各隊の行動開始前に着くことができました。


◇▲ いざ、出陣!!▲

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