くない鑑

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御鈴廊下の向こう側

2006年12月27日 | 知識補給
この日の夜9時より、テレビ東京系にて...
「超歴史ミステリー“大奥2”欲望渦巻く女3000人の園を暴く!!」
...なる番組を、1時間半ほど掛けて放送していたので、ちょい見てみました。

先年,フジテレビで「大奥」がリメイクして以来、映画化されるほどまでに世間の注目と脚光を浴びるようになったこの“大奥”。
しかし、今まであまり学術的面書籍を見かけたことが無く、“表”の世界の一部として垣間見える程度。
ゆえに、今回この放送でどんな話が聞けるのか,楽しみに見たのですが...
それはもう、ただただ驚く内容でした。

番組は、(確か)4,5部構成だったようですが、私が通して見たのは3部ほど。
そのまず一つ目は、元禄赤穂事件,いわゆる“忠臣蔵”についてでしたが...
(番組によると)この事件を“仕掛けた”のは、なんと大奥だと言うのです。
そして、その首謀者が綱吉公御台所信子(浄光院)と甲府宰相簾中煕子だというのです。
・・・して、その動機は?!というと・・・
“刃傷松の廊下”の折に東下した勅使は、新年賀詞への返礼ともう一つ,重要な任を受けていました。
それは、綱吉公生母桂昌院への従一位宣下だったのです。
これに対して、日頃桂昌院らと対立していた御台所と甲府宰相簾中とが結託して妨害しようとして仕組んだのが、この赤穂一件だというのです。
そう聞いても、あまりピンと来ない新説なのですが、では、その論拠は?!と言うと...
▽甲府宰相簾中が父・近衛基煕公が建立した京の西大寺なるところに、吉良邸討入の旧赤穂浅野家旧臣の位牌がある。
▽討入旗頭である大石内蔵助良雄と近衛家は“遠縁”で、しかも京の隠遁地,山科は近衛家領である。
・・・などですが、遠縁ならば位牌があってもなんら不思議ではなく、また、山科の近衛家領は家令の進藤家が管領しており、この分家が芸播両浅野家に仕えていたのです。
しかも、赤穂浅野家に仕えていた源四郎俊式は大石良雄とは親戚関係にもあるのです。
もっとも、源四郎俊式は、仇討の盟約は一度は名を連ねましたが親族などから猛烈な反対を受けて脱盟してしまい、内蔵助を大いに落胆させたとも言われています。
・・・ひょっとしたら、位牌はこの源四郎俊式が納めた・・・としたら、種々納得できるのでは?!
また...
▽京の近衛家蔵“陽明文庫”に残されている「基煕公日記」には、討入のことを“珍事珍事”と喜んでいる。
▽浅野長矩が吉良義央へ斬り付けたのは、卑怯にも背後から,しかも、止めを刺すことが無かった
あまつさえ、御台所付留守居梶川与惣兵衛頼照が(いとも簡単に)止めに掛かれたのが不思議
・・・というもので、ここでは奥向御留守居梶川与惣兵衛頼照の“共犯”説までもが唱えられていましたが、それは如何なものでしょう...。
公家の日記に「珍事珍事」と書いてあることなど、何も珍しいことではなく、また、吉良上野の朝廷に於ける評判は、余り芳しくなかったようです。
また更に,正室の実家である米沢上杉家に於いても、義兄の播磨守綱勝への暗殺への疑念が濃く、半知召上げの処罰を受けた後に就封した弾正大弼綱憲に於いては浪費が激しく、あまつさえ,吉良家への金銭的援助も惜しまず行ったがゆえに、家臣の評判は芳しくなく、表裏別な思いがあったそうです。

また、御廊下で振舞いについては、まず,内匠頭が何ゆえ刃傷に及んだのか、この根本的な問題から解決しかねればならないですが、梶川与惣兵衛の日記にははっきりと「(浅野内匠は)吉良に対して遺恨がある」と言っているので、動機がまずここにある見てよいかと思います。
しかも、与惣兵衛は浅野長矩を取り押さえた事を度々後悔していたようなのです。
・・・これらを鑑みて、まず,大奥が赤穂事件を起こしたなどということは、説としては面白いですけど、“ありえない”かと思います。

ちなみに...
御台所藤原信子の母は、後水尾院女一宮文智女王というが、この女王誕生が徳川和子入内間際だったので公武間で軋轢を生み、母,御與津御寮人共々不遇な生涯を送ることになるのです。
それと...
梶川与惣兵衛は松の御廊下一件の20年前,貞享元年8月に江戸城中にて起こった、若年寄稲葉正休による大老堀田正俊刺殺事件の場にも居合わせていたらしいです。


そしてもう一部は「9代家重公が実は女だった」というもの。
これにはもう、ただただ唖然とするばかりではありましたが、怖いもの見たさと言うか...
やはり、どんな説が展開されるのかに興味があって、(これも)見てみました。
すると...
昭和33年に、(プリンスホテル建築に伴う)増上寺改修時に行われた徳川家廟所の学術調査に於いて、家重公(惇信院殿)から出された遺骨などを調べたところ、女性的な特徴が骨格から多々見られたというのです。
この論証を更に深める為に、法医学的な見地などから説明されていましたが、他にも,家重公の出生について。
病弱でその無事な成長が危ぶまれた家継公の跡目を巡り、紀伊家と争っていた尾張徳川家当主吉通公に男子(五郎太)が誕生したことに焦り、その後出生した子を“男子”と称したというのです。。。
なんだか、可笑しすぎて片腹痛くなってきましたが、論証は更に続いて...
例えば、家重公は中,大奥に引籠もりがちで、滅多に表御座へ出御することは無く、身なりもだらしなく、髭や月代は伸びるに任せて剃られるのを拒んでいたそうですが、それは“女性”だから...
...とか、家重公は時折江戸郊外,小菅御殿にも引籠もる事があったのですが、その道中,小便公方と揶揄されるほど用が近かった家重公を慮って厠が設けられて居たのですが、普通は、袴などの隙間から竹筒を入れて足していたのに、わざわざこれを設けたのは女性ゆえ...
...とか、家重公の唯一の理解者(翻訳者?!)であったと言われる側用人大岡出雲守忠光に於いても、これしか近づけなかったのは、秘事漏洩を防ぐ為...だとか。
ここまで来るともう、可笑しすぎて疲れてしまいますが...一応。
まず、根本的な疑問,10代家治公や清水重好公の父親は誰なのか?!や、正室や側室のことには、一切触れられなかった。
また、現代にまで伝わる肖像画についても、作成に当たっては、特に肖似性が強く求められていたとのことから、凡そ女性とは考えられない。
この他,「厠」についても、江戸中期以降,将軍や大名諸侯の貴族化が見られたことが一因かと。
更に、家重公は恒常的に歯軋りする癖(病気)があったがゆえに言語不明瞭だったと言われており、虚弱というのもこの辺が原因なのではないかと。

尤も...
この論の最初,吉宗公が大奥改革を断行したことは紛れも無い事実であり、そのほか,幕政に大奥が容喙することがままあり、松平定信が老中(将軍後見人)へと進む過程に於いて、「大崎」「高岳」という年寄が暗躍していたことを、(卒論作成時諸文献より)確認しています。
また幕末,家定公後の将軍家継嗣問題で大奥が南紀派を推したのは、一橋慶喜が水戸斉昭の子であるからで、その理由は,大奥解体をも視野に入れた改革断行を唱えていたが為とも言われています。

これらから...
徒党を組んだ女性ほど怖いものは無い,と言ったところでしょうか(笑)

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