くない鑑

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「日本の神々と祭り」≪四・・・京祇園八坂神社≫

2006年05月08日 | 知識補給
歴博特別展の最後は、京祇園八坂神社
その最初は、信仰の軌跡について展示(解説)がありました。
そのキーワードは、今は世間の嫌われモノの“杉”でした。
それは、「蘇民信仰」に由来するものだそうで、それによると...
スサノオノミコト(牛頭天王)が旅の途中、裕福な巨旦将来に宿を求めが断られ、その兄で貧窮の蘇民将来は宿を提供してくれた。
すると、スサノオ(牛頭天王)は「これから疫病が疫病を流行らせて皆殺しにする。ただ、あなたとその子孫は、茅の輪を用意しておけば、それから逃れることが出来る」といったとか。
その後、その言の通りに疫病が流行り、弟・巨旦らは死んでしまったが、蘇民とその子孫は、スサノオ(牛頭天王)の言を護って生き残った...。
・・・と、いうのが、蘇民信仰の簡単な紹介と謂れです。

これは、特に平安期に都市部で伝播された信仰で、八坂神社にこれが祀られています。
また、祇園祭の祭神として、この祭の折には、災厄から逃れる為に、蘇民将来の子孫であることを“証明”する為の、護符と“杉”や茅の輪を用意することになったそうです。
そして、“杉”を御守りとする風習は、戦国期の京都を描いた、「洛中洛外図」にも、それらしきものが見られ、そして、今も尚、連綿と受け継がれている・・・と、言うわけです。

更に、八坂神社本殿の裏には、かつて、いわれの解らない杉が3本植わっていたそうです。が、それも、何時の頃かに、無くなってしまったそうです。

また、祇園祭について。
平安京には、様々な国より人が集まり、都,都市として隆盛を誇りますが、一方,その副作用といて、疫病の流行などが上げられます。
ゆえに朝廷は、滝口の武士を設けて、その武術を以って天子様や都を護る役目を委ね、また、(市井にては)祇園祭を開催して、街々に満ちる“疫病神”を払うようになったそうです。
それも、湿気が多く、カビが発生する6月,雨が降ることによって、この祭の意義があるそうです。

また、山車(山鉾)が市中を練り歩くにあたっては、その天辺に、煌びやかな装飾などを設えるのですが、それは、世の男性よろしく,きれいなもの、煌びやかなものに、疫病神が惹かれて、付いて行ってしまうそうです。
そして、山車(山鉾)が市中巡行を終えると、それは速やかに解体します。
さもなけば、折角市中を巡行して掻き集めた不浄の疫神どもが、また猛威を振るう・・・からです。

これは、ひな祭りと同じ発想なのですが、もし、これを観光目的に長らく展示するようなことがあれば、もう、その時点で祇園祭の存在意義が変わってしまう・・・と、新谷先生は仰ってました。なるほどです。

そこで、なお序でに。
いま、“鎮守の杜”というと、鬱蒼と茂った、広葉樹が中心ですが、実は、明治以前は針葉樹,杉や松が主流だったそうです。
これは、展示解説を為さっている新谷,関沢両先生のほか、京都精華大学小椋純一教授などが中心となって調査した結果だそうで、八坂神社に見る、植生の変化について、解説のパネルが展示されていました。
この植生変化の原因は、明治新政府による「鎮守の杜は神聖なる場所,無闇に手を付けるべからず」という、毎度お馴染みの無知無策によるもの。
松は、荒地でも育ち、油脂分も多く、手軽な燃料とされてきましたが、こうしたお達し,更には、より手軽な燃料の入手により、手入れがされなくなった鎮守の杜の土壌は(過度に)肥沃化し、これに免疫力の弱い松は枯れ絶え、変わって、強いクスノキやケヤキなどの広葉樹に取って代わられた・・・と、いうのです。

ただ、私的に思うに、蘇民信仰よろしく,松や杉などの針葉樹には、呪術的要素が含まれていたので、鎮守の杜に多くあったのでは!?と。
また、、これは新谷先生も仰っておられたのですが、クスノキ=南朝の忠臣,楠木正成なのでは・・・と。

そして、展示の最後,出口傍にはこの、祇園祭に用いられる、大きな車輪(源氏車)がありました。
この意図を、新谷先生は...
日本にも、車輪文化があったこと知って欲しい。
...とのことでした。が!最後、先生はなおも興味深いお話をされまいた。
それは、先日同館に東宮,浩宮徳仁親王殿下がお見えになった時のこと。
今回と同じく、新谷先生が解説をされながら巡られたそうですが、ついつい熱がこもってしまい、時間をオーバーしてしまったそうです。
これには、御付の警察などがキリキリしだし、先生も焦りながら、漸く最後,この車のところに来て、この解説をすると、殿下は目を輝かせたそうです。
・・・というのも、いま、東宮殿下は牛車の研究を為さっているそうで、これには、ともて関心を示されたそうです。
これには、新谷先生も、ホッと胸を撫で下ろされたそうですが、先生はこの後,実に興味深い話を殿下からお聞きになったとのこと。
それは...
天皇・皇后両陛下は、御車には乗らず、御簾なのです。
...とのこと。
あっ!そういえば・・・天皇家専属の駕輿丁集団,「八瀬童子」があり、平安末期から続発する山門衆徒との強訴などの担ぎ出されるのも“神輿”ですね

なるほど、納得です!
これに関して新谷先生は...
車を用いることによって、玉体に影響を及ぼしてはならないのかなも。
...と、仰ってましたが、もう一歩踏み込んで,玉体(神)が、地に触れるのを忌み嫌ったのではないのかな・・・と、私的に考察してみました。が、如何でしょうかね。

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