くない鑑

命を惜しむなっ!名こそ惜しめっ!!前へぇ、前へーーーぇっ!!!

先人の成果の賜物

2006年04月27日 | 知識補給
1年前のこの時季,東京竹橋の国立公文書館では、江戸幕府より引継いだ、数多の貴重な史料の特別公開展「将軍のアーカイブス」を観に行き、大変感動的で、勉強となりました。

そして今年,同館では、徳川将軍家を支えた諸大名家の残した、数多の貴重な史料を見る事が出来る特別展「大名-著書と文化-」が、今日まで開催されていたので、仕事さっさと切り上げて、帰りに立ち寄りました。

地下鉄東西線竹橋駅に着いたのは、日もとっぷり暮れた18時45分頃。
駅上の毎日新聞社下,竹橋交差点より平川濠沿いに、車の交通量が格段に減って、街灯が眩しい首都高代官町ランプ(江戸城坂下門)方面へ、歩くこと5分ほど。

都心の割りに、周囲の光量が少なく、人影も疎ら,しかも、門を入って真っ先に目に入ったのは、警備員が傘立てを仕舞っている様な仕草。
なので、慌てて行ってみるも、何のことはない、下調べの通り,閉館までまだ、1時間の余裕があったので、ホッと一安心して、受付で目録冊子を頂いて、史料を堪能し始めました。

受付直ぐに展示されていたのは、ある意味,日本近世史のバイブルたる、『寛永諸家系図傳』と『寛永重修諸家譜』,それと、新井白石が甲府宰相時代の徳川家宣に命じられて編集した『藩翰譜』など。
その中で、一番興味深かったのは、『寛永譜』の編纂総裁を務めた、野州佐野城主で若年寄の堀田摂津守正敦が、収集した資料を基に編集した『譜牒余録』と『干城録』という、二つの史料。
前書は、『御実紀』(『徳川実紀』)の編集材料にもなった程に俊逸な資料。
後書は、堀田候が個人編集事業として始めた幕臣伝記。
書名に、将軍家への守護を期して始めた編纂も、老疾ゆえに、これを林大学頭述斎と昌平黌が引継ぎで、幕府の手による公的編集事業として完成した、ある意味,驚きの書。
更に驚きは、この編集員に加わっていた、1人の幕臣。
その人は、戸田氏栄という、5千石取の大身旗本。
その、何が驚きかというと、この人,かの嘉永6年夏の黒船来航時,浦賀奉行の職に在り、同役の井戸弘道と共にこれに対処し、翌年来航時に締結された、日米和親条約に於いては、幕府全権として交渉に当たった人物なのです。
しかし、数々の役職を歴任していることは知っているも、こうした事業に携わっていたとは、どこにも紹介されておらず、初めての知る貴重な情報を、思わぬところで収穫でました。

なお、『干城録』の完成は天保6年ですが、堀田候は、この3年前,75歳で没してしまい、その完成を見ることはありませんでした。


続いて展示されている史料は、各大名の“名君録”ともでも言うべきもの。
江戸初期、戦国の気風未だ強い頃の大名,酒井忠勝の記録『酒井空印言行録』からは、家臣との、人情味溢れる結びつきが見て取れます。
その後、時代は下り、その気風も収まった頃。
会津候保科正之の『千年の松』や、名君中の名君として有名な、銀台候細川重賢の『銀台遺事』からは、為政者として手腕,名将から“名君”を求めた時代背景が感じられます。
それは、次の展示,“大名の教訓”にも、如実に現れていました。

尾張公徳川宗春の代表的な著書で『温知政要』や会津候松平容頌の『日新館童子訓』,“大岡裁き”(大岡政談)の手本ともされる、烏山候板倉重矩の『自心受用集』,昨年末に明大博物館観知った奥州平候内藤義泰の『内藤左京大夫義泰家訓』・・・などなどです。
・・・が!その中で、一番感動し、興味深かったのは、米沢藩士小田切盛淑が文政13年に編集した、『南亭余韻』という書。
これは、我が敬慕して止まない、米沢城主上杉治憲(鷹山)候の“教訓集”。
この中には、隠居する際に、次代,中務大輔治広へ宛てた「伝国の辞」や、「老が心」などが収められており、“名君中の名君”との誉れ高い元徳院殿様と、その時代を偲ぶことの出来る、貴重な史料を目の当たりに出来た、正に、感動的な時でした。


武断から文治へと世が移り変わってくると、様々な分野に長けた大名などが、それを筆に認めて残すようになる。
その内訳は、戦記や歴史書,有職故実書,文学書(詩集)に儒書(教養書),地誌から博物書,更には随筆・・・などなど、実に多岐に渡っています。
特に、有職故実書や博物学書などは、図説入りで、実に精巧で、かつ色彩鮮やかに描かれていて、つくづく感心しきりでした。
その中で、実に興味深かったのが、『泰西図説』という書。
これは、福知山候朽木昌綱が記した、いわば“ヨーロッパ地誌”。
展示では、パリの市街図が開いていましたが、実に精巧に仕上がってました。
・・・が、よくもまぁ、鎖国の時分に仕上げたものだ・・・と、一方で感心してしまう書。
ちなみに、この著書である朽木昌綱は、多芸で向学心旺盛で、(当時としては)西洋被れの“蘭癖”大名として有名(私の好きな田沼意次候とも交流があったとか)で、上記の他,精巧な図説入りの『西洋銭譜』なるものも、展示されていました。
予てより、噂に聞きし殿様なのですが、その“蘭癖振り”が実際に見ることでき、またまた良い収穫でした。
なお、朽木家は近江源氏の名門。
鎌倉以来,同家が保有していた多くの文書は、いまや国の重要指定文化財「朽木家古文書」であり、これが合わせて展示されていましたが、昌綱候の業績とは全く正反対の、貴重な史料を見て、とても不思議な感じがしました。

“大名の著書”の中では、この他に、平戸候松浦清(静山)の有名な著書『甲子夜話』の“続編”や、白河候松平定信の『花月双紙』などもあり、私が卒論の題目とした田沼意次候と、その時代(以降)を感じ取る、貴重な史料も見る事が出来ました。


仕事帰り,閉館まで1時間ゆえに、じっくりと見聞する事が出来なかったのが残念ですが、同館のアンケート用紙には・・・
「こうした展示をもっと多く、出来れば頻繁に行ってください」
・・・と書いてきたので、また、近々開かれるであろう次回展示に期待しつつ、頂いた目録冊子をずっと、帰りの電車内で読み耽って行きました。

追記:
今回の展示史料中,『寛政譜』の編纂総裁を務めた、若年寄で佐野候堀田摂津守正敦に関連する史料が、大変に多かった。
これには、大感謝申し上げると同時に、佐倉堀田家とは縁戚,しかも、佐野とは私的に所縁ある地。
なんだか、とっても誇らしいいですね。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

明大の至宝

2005年12月13日 | 知識補給
初めての明治大学博物館で、目当は特別展のみだったのですが、出て左手にあった常設展示室もなんとなく気になったので、ちょっと寄って見ました。

2層構造の上階,B1Fは大学史
けど、明大には然程憧れも関心も無かったのでサクっとスルーし、下階,B2Fへ。
階段を降りて最初にあるのは、工芸品の数々。
名工たちの巧みの技さえまくる数々が展示されていましたが、正直、どこでも見られるのでサクっと見て次へ。
次のブースは、大変気になったので、一番最後に見るとして・・・次に見たのが考古学ブース
明大の研究成果なども見られる、恐らく貴重なブースかと思いますが、これらは東京国立博物館でよ~く見たことありますし、然程に興味が無いので、ここもサクっと見て次へ。
工芸品ブースと考古学ブースの間にあるそれは、刑事部門
正に、“明治法律学校”として出発した明大の、アイデンティティが詰まったブース。
そこには、かつて“政府広報”としての機能を有した“高札”や“法律集”、江戸時代の逮捕から判決至る様々な品・逮捕道具や法令集,拷問の様子から執行される刑事罰,磔や晒し首の、明治初年に撮影された“写真”までありました・・・。
この他にも、ヨーロッパや中国の刑事史料,中にはかの有名な“ギロチン”まであり、流石は明大!と思うほどに充実したものでした。
しかも無料!とあっては、また来るしかありませんね・・・。
(熱心にメモを取っている学生風の男性も居ましたし...。)

けど、拷問関係に関するものが多かったのが妙に気になります・・・。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

内藤家の至宝

2005年12月12日 | 知識補給
九段下駅から神保町の書店街を巡りつつ、30分ほど掛けて辿り着いた明治大学博物館。
この日は明大の父母会が行われていたようで、その会場の一つでもあったアカデミーコモンにも、多くの関係者でごった返していましたが、それを掻き分け掻き分け、エスカレーターにて地階へと向いました。
エスカレーター正面にあった特別展への入場に際しては、300円を払う必要があったのですが、それは入口にある受付では無く、そこから更に左へ行ったところにある事務室で支払い、引き換えに貰ったチケットを入口に呈示して観てきました。
流石は大学系博物館・・・か、何と無く、他人事には思えなかったです。。。

今回展示されている貴重な史料の数々・・・
その提供者は、九州・宮崎県がかつて日向国と呼ばれていた頃,北部の延岡城主だった内藤家
三河以来の徳川家譜代で、延岡太守となっていたのは内藤家嫡流,家長・政長の裔だった。
天正18年,徳川家が関八州を領有するに当たり、弥次右衛門家長が上総佐貫に2万石を得るが、関が原の合戦の前哨戦である伏見城攻防戦にて討死。嫡子・左馬介政長がこれを継ぎ、父の勲功含め1万石増で3万石を領する。
更に左馬介政長は、江戸幕府成立後も数々の功労を認められ、元和8年に磐城平へ,7万石を領するようになる。
この地を6代125年に渡って治めてきたが、元文3年に勃発した百姓一揆の事実上“責め”を負って延享4年,日向延岡へ入り、以後明治維新までの120余年,8代に渡って治める。
こうした転封に際し、出入それどれの家へ引継書類を作成するのだが、今回特別展に於いてその貴重な史料が展示されていた。
こうした史料が残っていることは少ないそうで、その一部,見開きの2頁しか見ることが出来なかったが、その冊子の分厚さから、かなり詳細な情報が載っているのだろうな・・・と思いつつ、その煩雑な引継作業が察せられます。

展示室に入って最初にあったのは口宣案2通。
これは、朝廷から発給される“官職任命書”で、1通は豊臣政権下のものだが、太閤秀吉から見れば陪臣に過ぎない内藤家に対して発給されていることにまず驚き、更に“豊臣姓”を以って与えているところに更に驚いた。
これはちと想像力を豊にし過ぎでしょうが、小牧長久手の合戦に破れて東国支配=征夷大将軍就任の夢破れた秀吉が、徳川家の切り崩しを狙ったのでは・・・と。
この斜向には内藤家系図,そして内藤家長夫婦の肖像画や、彼が散った伏見城攻防戦を描いた伏見戦記などが展示されていました。
この中で目から鱗だったのが、束帯の色が位階によって違うこと。
弥次右衛門家長は五位だったので、緋色の束帯を。
左馬介政長、四位まで昇ったので黒の装束にて、それぞれ描かれていました。

為政者たる内藤家は(当然ながら)“武家”なので、武具も多く展示されていましたが、戦乱の世が遠のいた時代のものは、何処に於いても豪華絢爛で、“実用”というよりは“装飾”という面が強調されていて、いわば御家の“見栄”を具現化したもの。
ゆえに、内藤家の紋・下り藤を多くあしらえ、拵えの豪華な武具が多く、中には実戦に用いると大変だろうな・・・と思う、日の丸をあしらった鉄製軍配などもありました。
なお、これら武具を管理する台帳「御召御武具台帳」も展示されていて、“武家の誇り”を維持するための苦労を垣間見ました。
江戸時代に為政者たる武士は、戦乱の世が遠ざかるにつれて“刀”から“筆”に持ち替えた・・・といわれ、数多くの文書を残すようになります。
ただ、その保存には大変苦労したようで、今回展示されている文書類の多くが、食欲旺盛な虫どもに、無残にも食い荒されていました。。。
それでも貴重なこれらの多くは、明治大学に寄贈されてこの時代を知る上で、貴重な史料となっています。
幕府に於いては、書物奉行が文書管理を厳重にしています。(詳細はコチラから

為政者たる武士は一流の文化人であり、(表裏に渡って)その担い手でもありました。
(展示中)武士の嗜みにであった能に纏わる至宝(能面など)もとより、特に延岡内藤家は“俳句”に熱心で、これによって一国を傾け、延岡を“終の棲家”とした所以でもあります。
当主自ら句集を作り、その中にはかの俳人,松尾芭蕉も名を連ねています。
こうした大名展にて「句集」を見ることがなかったので、その珍しい嗜みがちと面白かったです。

然程広くない展示室でしたが、その中身は中々濃く充実したものでしたが、折角大学の博物館で、しかも、貴重な史料の宝庫たる「内藤家文書」類を所蔵し研究してきた明治大学としての“成果”を見たかったです。

ゆえに、それを出入口付近に“閲覧用”として置いてあった図録に求めたのですが、残念ながら・・・1,000円と然程高くないものでしたが古文書の注釈,解説などが無かったので買わず、そこを後にしました。


けど、出て左手にまだ常設展示室があったので、折角だから・・・と立ち寄ってみました。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

学生気分

2005年12月11日 | 知識補給
きっかけは前月下旬,法城寺殿より「飲もう」と新宿に誘われた折、待合せ時間まで間が空いていたので、駅南口から線路西側,サザンテラスを通って高島屋タイムズスクエアへ行く道すがらに在った、宮崎県サテライトショップに貼ってあったポスターでした。
この日まで、2ヶ月間に渡って開かれていた明治大学博物館で開かされいた「江戸時代の大名-日向国延岡藩内藤家文書の世界-」展は、日向国,即ち現在の宮崎県は延岡の城主だった内藤家に関する特別展で、明大コレクションの展示でもあったようです。

最終日であるこの日、曇天の中,久しぶりに九段下から神保町を経由して御茶ノ水の明治大学博物館へ向いました。
大学時代九段下が乗換駅だったので、ついでに・・・と、よく下車しては歩いた界隈で、休日とあってひっそりとはしていましたが、久しぶりに古書街や三省堂を巡れて楽しかったです。
ただ残念!洋食の【キッチン南海】や天麩羅屋の【いもや】が開いていれば昼でも・・・と思っていたのですが、いずれも休みでした。

神保町を徘徊して後、明大に着いたのは昼過ぎのこと。
日曜日ゆえ静かなキャンパス・・・と思いきや、この日は“明大父母会の日”だったようで、明大のシンボル・リバティータワーやその他の棟、明大博物館も同じくとても賑わっていました。

以前、明大が内ゲバで揺れる前までは、リバティータワーへよく物見遊山に行っていたのですが、明大博物館の存在を知ったのは、特別展のポスターが初めて。・・・のはずか、随分と近代的で目新しいビル,アカデミーコモン地階にあるそこへは、ちょっと目立たず解り辛い看板の通り向いました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

1200年前の足跡

2005年08月24日 | 知識補給
上野の恩賜公園を抜けたところにある、東京国立博物館
いまは独立行政法人国立博物館所管となったここへは、魅力的な特別展がある度に、ここに(非常勤にて)勤務していた大学時代の同期に頼んで無料の“招待券”を融通して貰っていたのですが、残念ながらこの4月、別の独立行政法人へ異動となってしまい、その道が絶たれてしまったのですが、、、蛇の道は蛇、とでもいいましょうか、今現在開催中の特別展「遣唐使と唐の美術」の無料“招待券”を、とある伝を頼って入手出来たので、行きたがっていた碧雲斎を誘って行って来ました。

昼前,11時に落ち合って湯島天神下のラーメン屋「大喜」にて腹ごしらえし、上野の杜,恩賜公園を、途中ヘブンアーティストの芸に足を止め、陸軍元帥小松宮彰仁親王殿下に拝し、抜けて向かいました。
のんびりとして昼の上野公園は、ホント良かったです...。

特別展の会場,平成館へは正門より入って左奥。
その2階,左手特設展示室の入口にてチケットの半券を切ってもらい、いざ中へ。
まず、入って直ぐのところには“遣唐使”に纏わる品々とその紹介,そして、その次に、先日中国内陸部でかつては王朝時代の都が度々置かれた西安で、一つの墓誌,遣唐使ながらも遠く異郷の地にて没した「井真成」のそれが展示されていました。漢文を読むことに果敢に挑戦しながら、しっかりと、それがあることをこの目で確認しました!“日本”という文字を。
異郷の地にて、最古の“日本”を確認できるとは、更に実に感慨深かったです...。

そのあとも、唐代の文物の数々が展示されていましたが、その中で一際目についたのが“三彩”と呼ばれる陶器の色づけ。
これらは主として唐期(7C~10C)に流行したものらしいのですが、これがまた、(素人目には)実に趣味が悪く、どこと無くおどろおどろしい感のある陶器たちで、正直、私にはその良さが全く解りません。

今回の特別展は、いつもの半分だけ,きっと品集めに苦労したんだと思います・・・で、もう半分のスペースでは「模写・模造の日本美術」という特別展が開かれていたので、ついでだから・・・と見てきました。
まず、入って最初に出迎えを受けるのは、寺社の立像の数々。
その全てが“複製”なのですが、とてもそれとは判らない、威厳に満ちた驚きの出来栄え。
原品は、それより推して知るべし・・・といった域に達した先人達の技芸には、ホトホト感服いたします。
そのほか、もちろん立像だけではなく、書画,屏風,絵巻物などなど、さまざまな“複製”が展示されていましたが、そのどれもが完成時の輝かしく在りし日の姿が復元されていた(と思います)。
かつて、国立歴史民俗博物館教授が「複製とはいえ侮る無かれ、再現する、伝えることが大事であり、重要な研究
複製だからといってがっかりしないでください」と仰っていたのを、ふとこの時思い出しました。

この展示室の第2ステージ「親子で学ぶギャラリー うつす・まなぶ・つたえる」では、書道では定番の“敷き写し”や“フロッタージュ(こすり絵)”の体験コーナーがあったので、息抜きがてらやってきましたが、敷き写しを終えた後にそれを見たボランティアの兄ちゃんが小声で「うめぇ~・・・」って言ったのを、私は聞き逃しませんでした。自分ではそう思わないのですが・・・

ここも一巡してから、1階のドリンクコーナーで休憩・・・
なんとなく体力回復を感じてから、折角だから...と、まず本館から観に行くことにしました。

ちなみに、画像の刀は本館1階武士の装いに展示されているものです。
法城寺殿ならばお判りになるかもしれませんが、残念ながら如何なる名の刀か忘れてしまいました(--ゞ・・・
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

龍顔を拝せず!無念...

2005年08月24日 | 知識補給
特別展を観た後に...
何ヶ月ぶりかのTNMですが、若干展示位置と品を変えたのか、「確か見たよな、ここで・・・」というものが無かったりしました。
それでも見所満載の、静寂な館内に於いては不似合いなシャッター音が・・・。
見れば外人が平然と、さも当たり前の様に展示品の写真を撮りまくっているではありませんか!
この、目を疑う理解し難い行動!係員は何をしているんだ!?と思いきや、常設展示室ではなんと!フラッシュ,三脚などを使用しなければ、写真撮影OKらしいのです。
なもんで、私も持ってきたデジカメで試みましたが、如何せん、室内が暗いのでフラッシュ無しだと手ブレが・・・なので、最も良く撮れたものだけ載せてます、「1200年前の足跡」に。
ホントは甲冑の画像を!と思ったのですが、そんな調子で(^^ゞ

本館で、時折若に講釈しながら2時間程周った後、閉館時間迫る中、東隣東洋館を足早に周ってからミュージアムショップにて品定めをし、遂に閉館時間となったのでここより出て帰ろうか・・・と思ったとき、入館時持ち込むことの出来ずに、平成館入口脇の鍵式傘置きの置いてきた傘のことを思い出し、取りに向って行こうとすると、その先には結界が。
不自然な・・・と思いつつ、そこを乗り越えようとすると、職員が血相変えてやってきて「どちらへ?!」と問われたので「傘を取りに」と言って進もうとする私を制止しつつ、「平成館の傘立てはどこ?」と大声を出すと、本館入口に居た警備員が「ここに!」と返ってきたので、それに促されるまま行って確認すると、確かにありました、傘が。
ここでホッと胸をなでおろして帰ろうとすると、正門から白バイ2台に先導された黒塗りの車3台が入場し、結界の向こうを平成館へ向って走っていくではありませんか。その真ん中、黒塗りのセンチュリーには、その時は判らなかったのですが、高貴な御方が乗車していることは明らかでした。
誰なんだろう・・・と思い巡らせていると、正門にいたおばちゃんが職員から聞き出したのが漏れ聞こえてきたのですが・・・ななななななんと!天皇陛下
閉館後の方が、ゆっくりと静かに周られるでしょうが、是非に開館時間に御越しいただき、御龍顔を拝し奉りたかったです...。

あの時、傘に固執しなければ、もそっと近くで龍顔を拝せたものを・・・ガックシ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

それはヒ・ミ・ツ

2005年05月18日 | 知識補給
本年4月より施行された「個人情報の保護に関する法律」通称,個人情報保護法。
波乱含みの成立、施行されたこの法律は、大変デリケートな個人情報を取扱っている我が職場にも、密接に関わってくる法律。
そこで、法人担当が主催してこの日夕方、顧問弁護士の先生をお招きしての研修会があり、公私の勉強を兼ねて出席しました。
この日は2回目で、前回の質疑応答集とレジュメが各自に手渡されました。
それらに則って、まずは弁護士先生からこの法律に関する説明,解説がなされました。
その補足的要素も兼ねて、その後質疑応答の場が設けられたのですが、我々の業務に知識と理解が少ない弁護士先生に対する係長の、ある意味頓珍漢な質問に弁護士先生は混乱と困惑し、係長の質問をアシストしたつもりの大幹部の発言は、弁護士先生を更なる混迷の場へと落としてゆきましtら。見ていて大変気の毒に思いました...これは、法人担当の職務怠慢!に間違いない。
弁護士先生の解説とレジュメを見れば、その質問への解答は一目瞭然なのに。。。
その後も質問の中には、目から鱗のものもあり、例えば・・
施行の前の名簿を元にDMを送付する場合、今後DMが要か不要かを受取者に意思表示させねばならない。
また、住所,氏名などを当初の目的外に使用する場合、それを本人へ通知、もしくは予め断っておく必要がある、とのこと。
よって、DMの受取りを拒否することも出来ます。

この法律は個人に対してではなく、法人=個人情報取扱事業者を対象としたもの。
罰則規定は無く、今後もそうした動きは起こらないだろうとの弁護士先生の見解でしたが、この法の趣旨に反した場合、監督官庁からの指導や改善命令がなされるとの事。よって
また、上記の通り、この法には罰則規定がない即ち、個人情報保護法違反で逮捕!なんて無いので、もしこの法の趣旨に反して個人情報を取扱った場合、その被害者は民事裁判という形で加害者たる個人情報取扱事業者へ制裁を加えなければなりません。

またその取扱も、個人情報取扱事業者が事業推進上、組織内で適切に個人情報を取扱えばよいのですが、それを本人の同意無く外部へ持ち出すなどした場合は、この法の趣旨に反し、訴えられる可能性が高くなる・・・そうです。

この法律施行によって、むやみやたらとダイレクトメールが来る事は無くなる・・・そうですが、なんとなく窮屈に感じてしまうのは、私だけでしょうか...。

ちなみに、個人と言えども、大量の個人データをデータベース化しているようであれば、個人情報取扱事業者となり、この法の対象者となるそうです。
けど、ようは個人情報・・プライバシーは何人であれ、しっかりと管理し、保護されるべきものということですね。

この研修会、なんだか久しぶりに法学の授業を受けているみたいで、大学時代を思い出し途中でうとうとしてしまいました^^;が、新鮮で面白く、ためになりました。
あとは、配られたレジュメをしっかりと読んで、復習することですね。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

厳島神社の重宝

2005年04月29日 | 知識補給
環境汚染や地球温暖化などの影響で、世界規模での異常気象が報告されている昨今、日本もその例外ではなく、昨夏は観測記録を塗り替えるほどの大雨が各地で降り、多くの歴史祭が中止に追い込まれた・・・ほか、観測史上最多,10個もの台風が接近,上陸して列島各地に甚大な被害を及ぼし、多くの人命と財産を奪い、また貴重な文化遺産をも破壊しました。
その一つが、世界遺産,安芸宮島に鎮座する厳島神社です。
世界的にも大変珍しい、海の上に鎮座する御社は、その場所的に今まで幾度と無く風水害の被害に遭っているそうですが、昨夏列島を襲った台風18号による被害に遭い、国宝左楽房の倒壊などがあって、復興までに凡そ2年,費用が8億程度も掛かるという甚大な被害を受けました。このことから、厳島社では復興費用の捻出の為、関係諸方の協力の下、秘蔵の重宝(国宝)を全国数箇所の博物館,美術館に於いて、特別展をもようされいます。
この日はその一つ、
上野の東京藝術大学美術館で開かれていた台風被害復興支援厳島神社国宝展について、藝大関係者の方から無料招待券を頂いたので、大学の先輩,たかゆさんをお誘いして観に行って来ました。

上野駅前に11時に待ち合わせ、祝日の昼間の恩賜公園へ突入。
桜の季節は綺麗だった...であろう並木道を抜けて動物園に差し掛かった時、遠くの方から近づいてくる笛の音。怪訝に思っていると、、、その正体が判明。公園内を巡回して、鳩に餌をやっている人を注意し回る係の人だったようで、菓子を鳩にやっている人達が注意されていました。
東京都は、烏の次に鳩の平和的な減少策に乗り出したそうで、いまのところ成果を挙げているようです。

閑話休題・・・
上野駅から歩くこと10分ほど。藝大の門を入って直のところです。
外は暑かったので、館内の涼しさに感動しつつ、順路に従ってエレベーターで展示会場へ。
厳島神社は、今年の大河ドラマ「義経」の主人公,源義経ほか源氏の宿敵,平家の信仰篤く、所縁の御社なので、祝日と天候も手伝ってか館内は大勢の人で賑わっていました。
展示室正面に座る狛犬の前を通って、まず視界に入ったのは、紺縅の大鎧ほか,平安から室町(南北朝)までの4領です。
いずれも、凡そ500年前以前の甲冑とは思えないほどに、縅の色が鮮やかで、立派な甲冑でした。
大鎧の1領は、鍬形と台が1枚の鉄板から出来ているようで、そうであるならば大変珍しい、平家の栄華と実力を推し量ることの出来る、実に見事な出来栄えでした。
その隣には、7点ほどの大刀,小刀が展示されていました。
大刀は、これもまた凡そ今から800年をも昔に作られたものとは思えない、鏡面のような輝きと綺麗さがあり、思わず見惚れてしまいました。
また、鞘の拵えも立派で、螺鈿の輝きは決して衰えが見られない、実に見事で綺麗な、作り手の技をも感じさせるものでした。
螺鈿って、どうやってできるのでしょうか・・・これもちと、疑問でした。
その先には、安徳天皇が御使いになられていた檜扇、生き馬の如く活力を感じる馬の彫刻(儀式などに用いる?!)、平安末期の安芸国司,佐伯景弘の書状、社領関係の発給文書など展示されており、いずれも興味が惹きました。
檜扇は、生では初めてみたので、ちと感動しました。
面に書かれている絵などは、はっきりと、きれいに残っていました。

その先には、今回この展示の副題目,売りでもある平家納経の数々が展示されており、展示品中紺紙金字法華経の見事さ,不仲だったとされる平清盛・池大納言頼盛兄弟が法華経文の写経、、、などがありましたが、一番圧巻だったのは銅製経箱。
雲龍紋の拵えは実に見事で、本当に800年前のものなのか・・・と疑いたくなるほど、精巧で見事,重厚な作りでした。

その次の順路の先には、神楽,能,狂言などに使われていた面や衣装、実際の奉納神楽のパネルなどがあり、その精巧さ,鮮やかさにまた感動しました。
そして、神楽のパネルの並びには、台風などから社殿を必死に護る神官たちの模様と、上空から、甚大な被害を出した直後の社殿の写真がありました。
これには、一言の言葉もありませんでした。。。ので、思わずその直横に置かれていた募金箱に、“寸志”を入れてきました。

会場最後にあった厳島神社の年表を見て、御社の勉強をしてからこの場を後にしました。
平家没落後の厳島社の置かれた状況も、この年表から再確認しました。

その後、手持ちの券で常設展示も観られるということなので、地階に下りて観てきました。
ここには、近現代画家の絵が展示されていたので、サクッと観てきました。

時間は既に13時半頃だったので、たかゆさんオススメの安くて行列覚悟の寿司屋,かっぱ寿司へ行って、太良腹食ってきました。

たかゆさんとは、この後銀座線に乗って溜池山王まで一緒に移動し、次の約束,大学時代のサークル連中との飲み会に参加すべく、渋谷へ向いました。
たかゆさんは、そのまま帰宅して寝る間を惜しんでビデオ消化に勤しんだそうです。。。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

先人の苦労の賜物

2005年04月24日 | 知識補給
江戸城北の丸,坂下御門外にある独立行政法人国立公文書館。
ここで、4月5日からこの日まで開催されていた特別展「将軍のアーカイブス」を見に行って来ました。
今回のこの特別展は、その名の通り,徳川幕府の官文庫,紅葉山文庫に収蔵されていた書籍,文献の数々の展示会で、開場は同館1階をぐるりと囲う感じで設けられていました。
同館への最寄駅,地下鉄東西線竹橋駅に着いたのは10時半頃でした。
暫く地下に潜っていたので、久しぶりに出た地上の陽射しは眩しく、初夏を思い起こさせるような暑さでした。
同館までは、地上に出て竹橋を渡って3分ほど。
玄関を潜って正面にあった受付へ行こう・・・とした、大音響のブザー音。
一体全体何事?!と思いきや、無料の音声ガイド機を持った人が館外へ出たので、その警告音でした。
当の本人は、ただ携帯に入電があったので外で話そうと思っていただけかと思うのですが・・・そういう機能が着いていたとは、、、勉強になりました。
改めて...玄関潜って正面,エレベーターホール前に設けられた受付へ行くと、そこで手渡されたのは、冊子になっている今回の展示史料の紹介(目録)でした。
私も、今までに大きいものから小さいものまで、数多くの展示会へ行って来ましたが、斯くも立派なレジュメ風の物を貰ったことは無かったので、ちと感動しました。これによって、帰ってから復習も出来、更には暫く経ってからブログの執筆に掛かるときに大変重宝しました(笑)
しかも、文献紹介の文末に請求番号,巻末には参考文献まで載っていた丁寧さには、ほとほと感服しました。

今回展示された書物は、上にも記しました“紅葉山文庫”という江戸城内に設けられた公文書館に収蔵,保管されていたもので、その創設者は初代家康公です。
『吾妻鏡』『帝鑑図説』『貞観政要』などの、治世での“参考文献”となる書籍のほかに、『文選』『伊勢物語』などの教養での“参考文献”となる文学的な書籍などがありました。
他にも家康公は、各地に散逸している文献,書籍の収集と複製(書写)、そして戦国末期に伝来した印刷技術を利用した出版に事業に尽力したとのことです。
その後、歴代将軍のこの文庫より様々な文献,書籍を取り寄せて、治世の鑑としたようですが、その中で特にここを“利用”したのが、幕府中興の英主,8代吉宗公です。
紀伊徳川家当主より宗家を相続した直後、早々に紅葉山文庫の蔵書目録を提出するよう、管轄である書物奉行に命じているほど、ここに関心があったようです。
吉宗公、治世での参考文献から医術書まで、幅広く文庫から取り寄せており、それらは側近の学者は言うに及ばず、自らも読み漁って研究し、政策面での参考としていたようで、紅葉山文庫は公によって更なる充実が図られたそうです。

こうした“利用記録”は、管轄の書物奉行の留蝶にしっかりと記録されていて、公開された同書には将軍よりの請求に瞬時に、また細かい報告内容まで記されています。
また、同時に公開されていた『日記』には、日々の業務についてのほかに、蔵書の管理の難しさにも触れられており、先人の苦労が垣間見えるないようでした。
また、彼等のこうした苦労が無ければ、今日こうして見ることが出来ないと思うと、改めて敬意を表したいです。

このほか、儒学を奨励した5代綱吉公にまつわる文献,書籍、将棋マニアとして著名な10代家治公にまつわる文献,書籍などは、上記とは少し変わったものとして、大変面白かったです。
また、国図,郷帳なども合わせて展示されていて、興味をそそられました。
(これらは同館サイトで見られるようです)


今回のこの特別展。
貴重な文献,書籍を丁寧な解説とともに見れただけではなく、ケース上にはパネルがあって関連事項の紹介があったり、大変に見やすくて面白いものでした。
また、中でも多かったのは中国からの文献,書籍。
当時の日本が、如何に彼の国を手本とし、学んでいたかを改めて知りました。なのに・・・ね。

途中、その解説に目を奪われてメインの史料に目が行かなかったり、じっと見すぎて渋滞の原因となっていりしましたが、、、実に有意義でした。
また、こうした展示会があればいいのですが...。

ちなみに、同展示の最後のおまけとして、同館の紹介展示がありました。
先帝の勅書などありました中で一つ、(確か)昭和62年の法令文書に関する資料で驚くべきものが!
なんと、竹下内閣の各閣僚(全て国務大臣)の署名の下に捺印ではなく“花押”があったのです。
中には、当時運輸大臣だった現東京都知事石原慎太郎のものも。
今現在も、これが用いされているのか定かではありませんが、少なくても20年ほど前までは使われていた、、、ということですね。
こうなったら、自分も何か花押を考案して・・・みようかな。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする