1年前のこの時季,東京竹橋の国立公文書館では、江戸幕府より引継いだ、数多の貴重な史料の特別公開展「将軍のアーカイブス」を観に行き、大変感動的で、勉強となりました。
そして今年,同館では、徳川将軍家を支えた諸大名家の残した、数多の貴重な史料を見る事が出来る特別展「大名-著書と文化-」が、今日まで開催されていたので、仕事さっさと切り上げて、帰りに立ち寄りました。
地下鉄東西線竹橋駅に着いたのは、日もとっぷり暮れた18時45分頃。
駅上の毎日新聞社下,竹橋交差点より平川濠沿いに、車の交通量が格段に減って、街灯が眩しい首都高代官町ランプ(江戸城坂下門)方面へ、歩くこと5分ほど。
都心の割りに、周囲の光量が少なく、人影も疎ら,しかも、門を入って真っ先に目に入ったのは、警備員が傘立てを仕舞っている様な仕草。
なので、慌てて行ってみるも、何のことはない、下調べの通り,閉館までまだ、1時間の余裕があったので、ホッと一安心して、受付で目録冊子を頂いて、史料を堪能し始めました。
受付直ぐに展示されていたのは、ある意味,日本近世史のバイブルたる、『寛永諸家系図傳』と『寛永重修諸家譜』,それと、新井白石が甲府宰相時代の徳川家宣に命じられて編集した『藩翰譜』など。
その中で、一番興味深かったのは、『寛永譜』の編纂総裁を務めた、野州佐野城主で若年寄の堀田摂津守正敦が、収集した資料を基に編集した『譜牒余録』と『干城録』という、二つの史料。
前書は、『御実紀』(『徳川実紀』)の編集材料にもなった程に俊逸な資料。
後書は、堀田候が個人編集事業として始めた幕臣伝記。
書名に、将軍家への守護を期して始めた編纂も、老疾ゆえに、これを林大学頭述斎と昌平黌が引継ぎで、幕府の手による公的編集事業として完成した、ある意味,驚きの書。
更に驚きは、この編集員に加わっていた、1人の幕臣。
その人は、戸田氏栄という、5千石取の大身旗本。
その、何が驚きかというと、この人,かの嘉永6年夏の黒船来航時,浦賀奉行の職に在り、同役の井戸弘道と共にこれに対処し、翌年来航時に締結された、日米和親条約に於いては、幕府全権として交渉に当たった人物なのです。
しかし、数々の役職を歴任していることは知っているも、こうした事業に携わっていたとは、どこにも紹介されておらず、初めての知る貴重な情報を、思わぬところで収穫でました。
なお、『干城録』の完成は天保6年ですが、堀田候は、この3年前,75歳で没してしまい、その完成を見ることはありませんでした。
続いて展示されている史料は、各大名の“名君録”ともでも言うべきもの。
江戸初期、戦国の気風未だ強い頃の大名,酒井忠勝の記録『酒井空印言行録』からは、家臣との、人情味溢れる結びつきが見て取れます。
その後、時代は下り、その気風も収まった頃。
会津候保科正之の『千年の松』や、名君中の名君として有名な、銀台候細川重賢の『銀台遺事』からは、為政者として手腕,名将から“名君”を求めた時代背景が感じられます。
それは、次の展示,“大名の教訓”にも、如実に現れていました。
尾張公徳川宗春の代表的な著書で『温知政要』や会津候松平容頌の『日新館童子訓』,“大岡裁き”(大岡政談)の手本ともされる、烏山候板倉重矩の『自心受用集』,昨年末に明大博物館で観知った奥州平候内藤義泰の『内藤左京大夫義泰家訓』・・・などなどです。
・・・が!その中で、一番感動し、興味深かったのは、米沢藩士小田切盛淑が文政13年に編集した、『南亭余韻』という書。
これは、我が敬慕して止まない、米沢城主上杉治憲(鷹山)候の“教訓集”。
この中には、隠居する際に、次代,中務大輔治広へ宛てた「伝国の辞」や、「老が心」などが収められており、“名君中の名君”との誉れ高い元徳院殿様と、その時代を偲ぶことの出来る、貴重な史料を目の当たりに出来た、正に、感動的な時でした。
武断から文治へと世が移り変わってくると、様々な分野に長けた大名などが、それを筆に認めて残すようになる。
その内訳は、戦記や歴史書,有職故実書,文学書(詩集)に儒書(教養書),地誌から博物書,更には随筆・・・などなど、実に多岐に渡っています。
特に、有職故実書や博物学書などは、図説入りで、実に精巧で、かつ色彩鮮やかに描かれていて、つくづく感心しきりでした。
その中で、実に興味深かったのが、『泰西図説』という書。
これは、福知山候朽木昌綱が記した、いわば“ヨーロッパ地誌”。
展示では、パリの市街図が開いていましたが、実に精巧に仕上がってました。
・・・が、よくもまぁ、鎖国の時分に仕上げたものだ・・・と、一方で感心してしまう書。
ちなみに、この著書である朽木昌綱は、多芸で向学心旺盛で、(当時としては)西洋被れの“蘭癖”大名として有名(私の好きな田沼意次候とも交流があったとか)で、上記の他,精巧な図説入りの『西洋銭譜』なるものも、展示されていました。
予てより、噂に聞きし殿様なのですが、その“蘭癖振り”が実際に見ることでき、またまた良い収穫でした。
なお、朽木家は近江源氏の名門。
鎌倉以来,同家が保有していた多くの文書は、いまや国の重要指定文化財「朽木家古文書」であり、これが合わせて展示されていましたが、昌綱候の業績とは全く正反対の、貴重な史料を見て、とても不思議な感じがしました。
“大名の著書”の中では、この他に、平戸候松浦清(静山)の有名な著書『甲子夜話』の“続編”や、白河候松平定信の『花月双紙』などもあり、私が卒論の題目とした田沼意次候と、その時代(以降)を感じ取る、貴重な史料も見る事が出来ました。
仕事帰り,閉館まで1時間ゆえに、じっくりと見聞する事が出来なかったのが残念ですが、同館のアンケート用紙には・・・
「こうした展示をもっと多く、出来れば頻繁に行ってください」
・・・と書いてきたので、また、近々開かれるであろう次回展示に期待しつつ、頂いた目録冊子をずっと、帰りの電車内で読み耽って行きました。
追記:
今回の展示史料中,『寛政譜』の編纂総裁を務めた、若年寄で佐野候堀田摂津守正敦に関連する史料が、大変に多かった。
これには、大感謝申し上げると同時に、佐倉堀田家とは縁戚,しかも、佐野とは私的に所縁ある地。
なんだか、とっても誇らしいいですね。
そして今年,同館では、徳川将軍家を支えた諸大名家の残した、数多の貴重な史料を見る事が出来る特別展「大名-著書と文化-」が、今日まで開催されていたので、仕事さっさと切り上げて、帰りに立ち寄りました。
地下鉄東西線竹橋駅に着いたのは、日もとっぷり暮れた18時45分頃。
駅上の毎日新聞社下,竹橋交差点より平川濠沿いに、車の交通量が格段に減って、街灯が眩しい首都高代官町ランプ(江戸城坂下門)方面へ、歩くこと5分ほど。
都心の割りに、周囲の光量が少なく、人影も疎ら,しかも、門を入って真っ先に目に入ったのは、警備員が傘立てを仕舞っている様な仕草。
なので、慌てて行ってみるも、何のことはない、下調べの通り,閉館までまだ、1時間の余裕があったので、ホッと一安心して、受付で目録冊子を頂いて、史料を堪能し始めました。
受付直ぐに展示されていたのは、ある意味,日本近世史のバイブルたる、『寛永諸家系図傳』と『寛永重修諸家譜』,それと、新井白石が甲府宰相時代の徳川家宣に命じられて編集した『藩翰譜』など。
その中で、一番興味深かったのは、『寛永譜』の編纂総裁を務めた、野州佐野城主で若年寄の堀田摂津守正敦が、収集した資料を基に編集した『譜牒余録』と『干城録』という、二つの史料。
前書は、『御実紀』(『徳川実紀』)の編集材料にもなった程に俊逸な資料。
後書は、堀田候が個人編集事業として始めた幕臣伝記。
書名に、将軍家への守護を期して始めた編纂も、老疾ゆえに、これを林大学頭述斎と昌平黌が引継ぎで、幕府の手による公的編集事業として完成した、ある意味,驚きの書。
更に驚きは、この編集員に加わっていた、1人の幕臣。
その人は、戸田氏栄という、5千石取の大身旗本。
その、何が驚きかというと、この人,かの嘉永6年夏の黒船来航時,浦賀奉行の職に在り、同役の井戸弘道と共にこれに対処し、翌年来航時に締結された、日米和親条約に於いては、幕府全権として交渉に当たった人物なのです。
しかし、数々の役職を歴任していることは知っているも、こうした事業に携わっていたとは、どこにも紹介されておらず、初めての知る貴重な情報を、思わぬところで収穫でました。
なお、『干城録』の完成は天保6年ですが、堀田候は、この3年前,75歳で没してしまい、その完成を見ることはありませんでした。
続いて展示されている史料は、各大名の“名君録”ともでも言うべきもの。
江戸初期、戦国の気風未だ強い頃の大名,酒井忠勝の記録『酒井空印言行録』からは、家臣との、人情味溢れる結びつきが見て取れます。
その後、時代は下り、その気風も収まった頃。
会津候保科正之の『千年の松』や、名君中の名君として有名な、銀台候細川重賢の『銀台遺事』からは、為政者として手腕,名将から“名君”を求めた時代背景が感じられます。
それは、次の展示,“大名の教訓”にも、如実に現れていました。
尾張公徳川宗春の代表的な著書で『温知政要』や会津候松平容頌の『日新館童子訓』,“大岡裁き”(大岡政談)の手本ともされる、烏山候板倉重矩の『自心受用集』,昨年末に明大博物館で観知った奥州平候内藤義泰の『内藤左京大夫義泰家訓』・・・などなどです。
・・・が!その中で、一番感動し、興味深かったのは、米沢藩士小田切盛淑が文政13年に編集した、『南亭余韻』という書。
これは、我が敬慕して止まない、米沢城主上杉治憲(鷹山)候の“教訓集”。
この中には、隠居する際に、次代,中務大輔治広へ宛てた「伝国の辞」や、「老が心」などが収められており、“名君中の名君”との誉れ高い元徳院殿様と、その時代を偲ぶことの出来る、貴重な史料を目の当たりに出来た、正に、感動的な時でした。
武断から文治へと世が移り変わってくると、様々な分野に長けた大名などが、それを筆に認めて残すようになる。
その内訳は、戦記や歴史書,有職故実書,文学書(詩集)に儒書(教養書),地誌から博物書,更には随筆・・・などなど、実に多岐に渡っています。
特に、有職故実書や博物学書などは、図説入りで、実に精巧で、かつ色彩鮮やかに描かれていて、つくづく感心しきりでした。
その中で、実に興味深かったのが、『泰西図説』という書。
これは、福知山候朽木昌綱が記した、いわば“ヨーロッパ地誌”。
展示では、パリの市街図が開いていましたが、実に精巧に仕上がってました。
・・・が、よくもまぁ、鎖国の時分に仕上げたものだ・・・と、一方で感心してしまう書。
ちなみに、この著書である朽木昌綱は、多芸で向学心旺盛で、(当時としては)西洋被れの“蘭癖”大名として有名(私の好きな田沼意次候とも交流があったとか)で、上記の他,精巧な図説入りの『西洋銭譜』なるものも、展示されていました。
予てより、噂に聞きし殿様なのですが、その“蘭癖振り”が実際に見ることでき、またまた良い収穫でした。
なお、朽木家は近江源氏の名門。
鎌倉以来,同家が保有していた多くの文書は、いまや国の重要指定文化財「朽木家古文書」であり、これが合わせて展示されていましたが、昌綱候の業績とは全く正反対の、貴重な史料を見て、とても不思議な感じがしました。
“大名の著書”の中では、この他に、平戸候松浦清(静山)の有名な著書『甲子夜話』の“続編”や、白河候松平定信の『花月双紙』などもあり、私が卒論の題目とした田沼意次候と、その時代(以降)を感じ取る、貴重な史料も見る事が出来ました。
仕事帰り,閉館まで1時間ゆえに、じっくりと見聞する事が出来なかったのが残念ですが、同館のアンケート用紙には・・・
「こうした展示をもっと多く、出来れば頻繁に行ってください」
・・・と書いてきたので、また、近々開かれるであろう次回展示に期待しつつ、頂いた目録冊子をずっと、帰りの電車内で読み耽って行きました。
追記:
今回の展示史料中,『寛政譜』の編纂総裁を務めた、若年寄で佐野候堀田摂津守正敦に関連する史料が、大変に多かった。
これには、大感謝申し上げると同時に、佐倉堀田家とは縁戚,しかも、佐野とは私的に所縁ある地。
なんだか、とっても誇らしいいですね。