くない鑑

命を惜しむなっ!名こそ惜しめっ!!前へぇ、前へーーーぇっ!!!

歴史のなかの「鉄炮伝来」・・・2弾目

2006年11月06日 | 知識補給
総州佐倉の城址に建つ国立歴史民俗博物館。
ここで、霜月26日まで開催されている“鉄炮”の企画展,その第2部は、「鉄砲技術の発達と鉄炮鍛治」。
ここを、第1部「鉄炮の受容と定着」に続いて、ギャラリートークに帯同しながら見て回りまわりました。

まず、その最初,1部の最後に見た“ドデカイ”鉄炮や棒火矢の驚きを引きずりながら目に飛び込んできたのは、“鉄炮”用語とその“仕組み”など、基礎知識の展示。
鉄炮に関する用語では、年表風に解説が為されて、仕組みに於いては、実に細かい部品まで、解説付きで紹介されていました。
ちなみに、この反対側には権現様御愛用の鉄炮が展示されていました。
権現様は、鉄炮撃ちの名手だったそうです。

これに続いてあるのは、近江国国友についての展示,紹介。
それまでは不慣れであったこの回の講師,長浜市長浜城歴史博物館の太田浩司副館長の地元,しかも、専門領域とあって、俄然心強く見えました。

第2部の“中核”を為しているこの国友は、鉄炮伝来以来,国内最大の生産地でもあり、その最盛期には、凡そ400人ほどが座を為して鉄炮作りに携っていたそうです。
しかも、規模などの変遷はあるものの、鉄炮(火縄銃)の製造は昭和初年まで行われていたそうで、これには驚きました。
・・・けど、何の為なんでしょう?!多分、狩猟や観賞用だとは思いますが、まさか・・・
実は、大日本帝国陸軍の“武器”として使用されていたりして(爆)

・・・って、話は鉄炮伝来の頃まで戻して・・・

鉄炮が戦力の一つとして注目されるようになると、俄然,国内有数の生産地であった国友への注目度は高くなる一方。
江北の戦国大名・浅井家が滅亡した後,新たに領主(長浜城)となった羽柴秀吉が発給した知行安堵状や、大阪の陣直前,諸家より注文が殺到した模様(堀直之よりの注文状)を記した文書より察せられます。
また更に、国友の名工たちが、それぞれの事情によって諸国へ分散,我が街その“ブランド力”も窺い知ること出来ました。
勿論、房州の要地である佐倉にも「国友」家は居たそうです。

なお、本家たる江州国友は江戸時代,大和郡山藩(柳沢甲斐守家)領であったという初耳の情報に、俄かに驚嘆しました。
私は、てっきり将軍家御料所か近隣の彦根藩(井伊掃部頭家)領だとおもっていたので...。
ところで。
この大和郡山藩主の柳沢家(賜称松平)は享保9年,甲斐府中より15万石を以って入封以後,廃藩置県まで領主でしたが、その初代,甲斐守吉里は、大老格までに昇りつめた美濃守吉保の嫡男。なのですが、実は5代将軍綱吉公の“御落胤”との噂があり、将軍継嗣候補までに上がった程の御方なのです。

ところで。
天下泰平な江戸時代に於いては、鉄砲は利用頻度=需要も低下傾向にありました。
そこで職人達は、その技巧を活かして“細工”モノの製造も行うようになります。
そうした“風潮”は、日本近海に異国船が頻繁に出没するようになる江戸末期に至っても同様で、アヘン戦争のショック覚めやらぬ弘化初年に鋳造された鉄砲の、実用面は二の次,大事(こだわり)は外見の装飾ばかり・・・という鉄砲(井上流)が展示されていました。
また一方で、技巧者の新たな“工夫の結実”も紹介されていました。
それは、“空砲”なる空気銃。
国友からは国友一貫斎,測量家として著名な讃岐の久米通賢,尾張の吉雄常三らは特に有名で、それぞれ技巧を凝らした空砲などを発明していました。
ただ、空砲は数多の空気を“銃床”部分に注入するも、実用性には乏しいものだったようです。
ちなみに、尾張の吉雄常三尚貞は天保14年,後の雷管式銃に用いられた発火薬,雷汞粉製法の実験研究中に爆死してしまいます...。

こうした鉄砲の改良次々と為されるのは、やはり、日本近海に頻出する欧米列強の船舶への驚異の表れ。
これを、一層心胆寒からしめたのは、天保11年に勃発した英清間の戦争,通称“アヘン戦争”と言われるそれ。
結果はこの2年度,英国側勝利で終わるが、この緊迫した情勢下に武州徳丸が原(今の高島平団地)では、洋式軍事演習が行われていました。
長崎出身の高橋秋帆が指揮したこれは、成功裡に終了。
以後、砲術家としての名声を高めた秋帆の下には、幾人かがその門を叩いています。
しかし、洋式軍制については以後の採用は無く、虚しく時を空費,これがやがて、幕府崩壊の遠因ともなるのですが...それは、次,第3部にてまた。

ちなみに,話は鉄炮に戻って...
展示中,火縄銃の“科学的検証”の結果がありました。
そこには、鉄の材質や製造方法,“威力”まで、実に興味深く面白かったです。
その“威力”については、実験は至近距離からだったのですが、3mmの鉄板や9mm
の檜板は貫通し、竹で編まれた“楯”(竹束)も、余り期待ほどの効果は無かったようです。
(FBIでも用いられている“弾道ゼラチン”なるものでも実験してました)

<<<「1弾目」を打直す>>><<<「3弾目」を打つ>>>

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 歴史のなかの「鉄炮伝来」・... | トップ | 歴史のなかの鉄炮伝来・・・... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

知識補給」カテゴリの最新記事