精神療法家 増井武士のブログ・バリ島日本人自殺予防ヴィラオーナー(レンタル可)

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少し分かりかけてきました。

2019-12-10 20:45:09 | 日記
・庭の築山の気がかり

 患者さんが回復に向かおうとしている時、よく部屋の整理やアルバムの整理や女性の場合はオシャレや服装のこだわりが見られます。
私は約2か月前辺りから、少しずつ、庭の奥の築山の無駄な広さが気になりました。今から思うと心のとても深いところから突き動かされるようにです。
それで、庭の築山を切りとる為に、シャベルで土を掘り起こして一輪車に載せ、土を別の庭に移す作業を黙々としたくなりました。仕事が無いとき、毎日のように、何かに憑かれたように、やりたくて仕方がありませんでした。

・少しずつわかってきた事

 最近徐々にわかってきた事は、その作業は、自分なりに心の奥深いところをもっと綺麗に整理して、より、きちんと生きたいと深く思っている、私の内面と平行しているように思うとぴったりくるのです。

・人格の象徴としての家と庭など

 私はとくに、精神分析的な象徴論者ではありません。しかし、臨床経験的に、来談者の人格構造をもっと知りたい時、来談者が住みたい家の場所とか造りや部屋の様子を空想で、丁寧に聞く時があります。その来談者の方の心の構造を良く知る必要がある時です。
場合によって空想や願望でなく、事実、今、住んでいる庭を含めた家全体の作りや構造を絵にして貰う事もあります。中井先生も、同じような面接をよくされる様子です。
例えば、家を取り巻く塀の様子などは、その来談者の外界との関係のあり方の深い希望などを知る1つとなり、来談者の望む関係のあり方を知る1つの資料となります。
ある方の好ましい家の様子を聞く事は、その方の好ましい人としての有り様を知る大事な資料としています。

・ユングの石と家へのこだわり

 先のブログの「只今煩悶中です」へのコメントに、ユングがフロイトとの決裂の後で石をしきりに積み上げたりした、と言うコメントに興味を惹かれ、調べてみました。
 すると、ユングは石自体が大好きで、自分でも石材、石功士の資格をもち、そのギルドにも入っている程でした。
彼は住みたい場所に拘り、選びに選び、結局、ある湖に面した土地に決めたようです。多分石造りと思います。
 また、自分の考えや瞑想や書き物の為の書斎の場所も選びに選んだらしいのです。結局、その書斎も湖のほとりで、自分の好きな石を選び、自分で積み上げ造ったらしいのです。
私からみると、ユングはよほど深く、自分を大切にした人だと思います。自分のやりたい事を深く聞く事は、即座に行動する事になると思います。

・私なりの土地や家についてのこだわり

 私も自分の家を建てて住む場所を決めるのに随分時間をかけ、あちこち探しました。
最初は、人里を少し離れた薮の中にある大きな池を埋めたてた場所が気に入りました。周りは大きな池で、他の家はなにもありませんでした。
しかし、亡くなった妻がその土地を怖がったので止めました。
本当はビーチかウォーターフロントに住みかにしたかったのですが、なかなかそのような土地はありませんでした。
それで、やや妥協的に、気の通りのよい、医科大近くの普通の住宅地の角土地の2区画に決め、予約金まで払っていました。1区画が80坪でしたが、どうしても隣と密接しているのも嫌だし、広いところにも住みたくて、少し経済的には負担が掛かりますが、お金は、そのしたい事をするために使うという元来からの考えで、2区画購入する予定でした。
 そして、その話を亡くなった妻の父親にすると、昔は芋畑で、義父のお寺へ寄進された土地が1反あり、「そこなら極めて静かだし、研究も進むから、そこにしてはどうか?」との提案でした。
そして現地を見ると、メインストリートから少し私道のような道に入ると、周りは山に囲まれた所で、何よりも1反で3百坪と言う広さと、周りの広い緑の自然が持つ特別な静けさが魅力でした。そこはまだ、野狐やモグラ、フクロウがいて、冬になると真っ白い綺麗な渡り鳥が飛んでくるような所でした。
幸い予約した住宅地のキャンセルも事情を話すとわかって貰えましたので、今の土地と家になりました。
元の妻は、私が哀しむ暇もなく、びっくりするほど、予想外に早く亡くなりました。
そして、縁あって、再婚した直子が言うには、この家は、「何よりもこのしんしんとした静けさが最高の贅沢」と言うほどの静けさです。
多分私は、ざわざわとした現実から少し距離を置き、自然溢れる広い自分になりたかったのだろうと思うと、しっくりいくのです。
 また、メインストリートから入り込んでいるから不便な感じがしましたが、結構バス停まで歩いて5分のようなところで、近くにスーパーなどあり、さほど不便ではありませんでした。
この土地は、亡くなった妻の実家の寺とは車で数分のところで、また勤め先にも車で10分ぐらいのところでした。亡くなった妻は、古いお寺の長女で、おっとり、のんびりしている割には働き者で、義父さんも近くに置いておきたかったのかもしれません。

・築山のさらなる整理と私の整理

 話はそれましたが、そのような広い庭の奥端にある、なだらかな築山を整備するためには、随分の土を掘り起こして、別の小さな庭に一輪車で運ぶという作業をしたくて仕方ない気持でした。
先のブログにも書いたように、私の家は好きで苦労して、もともと好きなように設計して建てた家です。だから、もっと自分の好きなようにしたかったのでしょう。
今から思うと、それは、あたかも、もっと好きな自分にしたいという心の深い衝動が自分の身体を動かしているように思います。
毎日、仕事の無いとき、築山の土を掘っては一輪車で別なところや別な庭に運ぶという作業を、繰り返し繰り返しました。それは、私にとって、当たり前の自然な作業で、とくに楽しみでもなく、たんたんとしたものでした。ただ、最後に綺麗に芝生ををはった、より気に入った庭の完成が何よりも楽しみでした。

・出版した本と私の怒りについて

 私は、先に出版した、「来談者の為の治療的面接とは」の中で、もっと来談者の事態を考え、その事態に沿った試験を考えないと、今のような公認心理師試験では、心理臨床的な面接の質とサービスが確実に低下する懸念を示しました。
また、最悪の場合には、そのような試験をクリアしても、治療的な面接と言う実感やその事態さえも判らない面接者が確実に増加して、歴史的には日本の心理臨床の質を確実に低下させる懸念を示しました。
それは、ある意味で、ずっと思っていた、今の多くの心理臨床の主たる者の、心理臨床の原点を忘れた、ないしはその原点さえも判らない指導的な人間に対する怒りだったとも言えます。
そしてその本の出版後に、より敏感になったのは、心理臨床としての大切な来談者の気持も考えられない者がいかに多く、自らの社会的立場にしがみつこうとする、馬鹿らしさや理不尽に対する怒りの感覚がより鋭敏になった事でした。
そして、また私は、頭では解決できない、本来怒りではケリが付かない問題であると言う、自分の分かりと理不尽な者への強い怒りとが、私に強い葛藤を引き起こし、言葉にならない混沌とした気持のただ中に漂っていると思えます。その葛藤に振り回されていて、何とも言えない気分になっていたのだと思えるのです。

・取り付かれたような読書の特徴

 だから、毎日のように、三島由紀夫と大薮春彦の本などのような、人間の原点と現実との葛藤や人や社会についての怒りにをテーマにした書物を、取り付かれたように、読みあさっていたのだと思えてなりません。
三島由紀夫については皆さんご存じだと思いますのであれこれ説明はしません。
 大薮春彦と言う作家は、「野獣死すべし」がデビュー作です。また、彼の作品の1つが、あの昔の三億円争奪事件の筋書と全く同じなので、検察局より、事件の参考人として頻繁に呼び出された作家と言う方が解りやすでしょう。
彼の作品は、特に女性には、お勧め出来ないほど性的記述が露骨です。また、彼の作品のテーマは本人が語るように、怒り、です。それを自分なりの目的の為に殺人や性的行為や、詰まらない日常性の極端な否定や、犯罪の精緻な計画とその実行の描写が繰り返されています。ある目的達成の為の暴力、殺人、車やバイク、銃器、などについてのしつこいほどの説明などが彼の作品の特徴です。彼の作品はこのテーマの姿を変えた限りなき繰り返しであります。
ある過去を背負った青年が、世界的なオートレーサーになるまでの「汚れた英雄」などの4部作は、私の随分昔からの愛読書で、それを2回もまだ読んでいます。
社会は彼の作品は品の悪い、ハードボイルド小説と簡単にカテゴリー分けをされています。しかし、その作品のもっと深いところでは、生きる悲しみや日常性の虚しさへの限りなき反抗と怒りがあり、現実への挑戦やその感情への深い、素直な理解とその描写が、私は好きです。
 三島由紀夫は、自分の起源的な衝動とそのつまらなさの間の葛藤であがき苦しんだようです。そして、そのうつろさへの決別が、彼の最後の切腹までの心境だったと思います。
最近の私は、昔の若い頃の学生運動についての「東大落城」とか、「それでも日本人は戦争を起こした」など、闘争を主題にした書物などばかりを読みあさっています。あたかもそれは、私の中の闘争を読むようにです。

再び築山の整理

 築山の整地も終わり、多量の芝生が必要で、近くのホームセンターに冬場に売っていた大量の芝生をすべて買いたいと直子に言わせると、6割引きにしてくれたようです。私が行くとそうならないと思います。
約400枚の芝生の植え付けが終わっても、私の中の整理は、まだ少し時間が係るようです。
しかし、やっと私の中の混迷に近い心境や、原点に原点にと言う気持が少し分かりかけてきました。

公認心理師問題について

公認心理師の資格認定問題について、どのようにアピールしていくかを考えると、次々に方法が浮かび挙がり過ぎて、頭と心が忙しくなりました。この急がしさは、今のところ、逆にひとつひとつ実行する邪魔になっております。
多分、まだ、その問題についての怒りや感情が未整理なので、私の中で自動的にストップがかかっているように思います。まだ少し時間がかかるように思います。

混迷の効用か?

 私の中のこの収まりつつある混迷は、何故か解りませんが、閉じ籠りの患者さんへの寄り添いとか、一緒にいることが、前より随分自然と楽になりました。そして、不思議なことに、閉じ籠りの患者さんの動きがどんどん出てきています。一人でなく、ほとんどの患者さんの動きが出てきているのが分かるのです。
そこには、明確な理論が次々に出てきているのではなく、逆に何の理論もなく、ただ、少しの混迷感があります。
けれど、それは不快な混迷感でなく、居心地が良いひどく自然な感じです。ですから、臨床的には、とても楽で患者さんの為には役に立っているようです。バイスも同じようです。
多分、そのような、少しした私の混迷は、患者さんの気持を余り色づけなく、そのままに近い状態が解りやすくしているのかもしれません。
そこには、理論があり、来談者があるのではなく、来談者が理論を持って来てくれるのような感じです。少なくとも私の場合はそのようにあるようです。

・終わりに

 前のブログの「ただいま煩悶中です」についての、私の混迷に近い最近の心境や状態についての報告でした。そして、ずいぶん心配されているようなコメントやメールをいただきました。しかし、もともと煩悶するのは、当たり前の自然な事でもあり、それが個人を成長される種にもなると思います。また、このブログを載せた方が良いかと直子に相談した時、いろいろと悩んだり落ち込んだりしている人達のために、是非載せてほしいと言われたこともあり、ブログに載せました。それに、世界旅などの話を載せる心境では決してなく、あまりに何も載せないと、何か寂しいような気がして、あのようなブログになりました。

 また、途中経過報告するかもしれません。このブログを最後まで読んだ方は、変な講義を聴くより、とても豊かな話を聴いたと思ってくれると嬉しいです。