武井武雄をあいする会

童画家武井武雄が妖精ミトと遊んだ創作活動の原点である生家。取り壊し方針の撤回と保育園との併存・活用を岡谷市に求めています

現存する高島藩の武家住宅

2013年03月22日 05時12分04秒 | 生家の価値
武井武雄をあいする会の設立趣旨入会申込み生家の保存・活用を求める署名生家保存・活用のための募金

 高島藩の武家住宅で現存しているものは、3軒だけです。
 そのうち2軒が岡谷市内にあります。
 武井家住宅のほかは次の2軒です。
 武井家住宅にも、武家住宅の様式である長屋門、主屋、土蔵がセットで残されていましたが、土蔵については、平成24年秋に老朽化して危険であることを理由に取り壊されてしまいました。


【志賀家住宅】(諏訪市指定有形文化財 平成16年12月1日指定)


 志賀家住宅は安政2年(1855年)に建てられ、諏訪市内に唯一残された高島藩の武家住宅です。長年の経過により、外観は手が加えられましたが、内部はほとんど改造がなく、高島藩の武士の生活を物語る貴重な建物です。
 主屋は本棟造りともいえる切妻造妻入り(きりつまづくりつまいり)の主屋とその後ろに入母屋造(いりもやづくり)の梁間(はりま)を主屋の3分の1にした奥の間を二間付加した造りで、諏訪の武家住宅の特徴が現れています。また、道路に面して建つ長屋門、主屋、そして奥の土蔵と三棟が揃って残されている例は県内でも少なく、この点でも大変貴重な建築物です。
諏訪市教育委員会






【渡辺家住宅】(長野県宝 平成5年8月12日指定)

 渡辺家は代々諏訪高島藩に仕えた散居武士(城下町でなく在郷の村々に住んだ藩士)の家でした。安政年中(1854年~)の「家中分限帳」(武士の身分や禄高を記録したもの)によると、「郡方下役外様御徒士(こおりがたしたやくとざまおかち)18俵2人扶持」であったことがわかります。
 住宅の規模は、間口7間半(約13.5メートル)、奥行5間(約9メートル)で、外観は茅葺き・寄棟造りで内部には土間と炉の間があり、また居間に中床(ちゅうどこ)があります。
 この住宅の創築年代については、記録や墨書などは残されていませんが、南側の居間と台所の戸口が袖壁をつけた閉鎖的なものであること、柱の風蝕程度などから18世紀中ごろに建てられたと考えられます。その後、天保12年(1841年)から嘉永年間(1848年~1854年)のころまでにかけて改築工事をして、現状のような間取りになりました。現存する武士の家が全国的に少なくなった現在、この渡辺家はたいへん貴重なものです。
 この一家からは、3人の大臣が出ており、渡辺千秋(1843~1921年)宮内大臣と、渡辺国武(1846~1919年)大蔵大臣の兄弟はこの住宅で育ち、渡辺千冬(1876~1940年。千秋の三男で、国武の養嗣子)は、司法大臣になりました。
岡谷市教育委員会


最新の画像もっと見る

コメントを投稿