(後半、行きます!)
後ろ髪引かれつつも花火と別れ、
いよいよホーストレッキング開始。
相棒になってくれたのは、
仔馬の花火に比べるとだいぶ大きなどさんこで、名前はジローちゃん。
中学生のとき飼って可愛がっていた
パンダウサギの名前と同じで、一気に親近感(笑)。
乗ったら視界がグンと高くなり、最初はかなり緊張したものの、
次第にだんどん慣れていき、右折左折もスムーズ化。
山の土と草の匂いに包まれながらポックリポックリ、
馬にまたがってただ進んでいるだけなのに、
なんだか無性に楽しくて嬉しくて、思わずニヤニヤ。
何でこんなことがこんなに楽しいんじゃろ~???
でも、とにかく楽しくて嬉しくてタマンナ~イ!!!
も~ずっと降りたくないよ~!
……と、心の中でバイザイダンスを踊りつつ、
川原さんの後ろをニヤニヤついて行く私。
「馬は基本的に人間を乗せるのはキライで、
非常に敏感で臆病な動物でもありますから、
何かを察知して怯えて暴れたり、
突然走り出したりすることもあります。
いつ何が起きても大丈夫なように、常に脇を締め、
手綱を引いておいてくださいよ」
と川原さん。
「ハイッ!」
と元気よく返事しつつも、あぁ~…ニヤニヤが止まらない。
・両足を通じて伝わってくる馬の温もり。
・生きものとくっついている安心感と、心地よい揺れ。
・体の各部が、凛と研ぎ澄まされつつ統合されてゆく感覚と、
ほどよい緊張感。
・呼吸するたびに血液が澄んだ緑になっていきそうな、
森の匂いと山の風景……
はぁ~ シアワセ……
大失恋から世界一周、戦地体験、交通事故リハビリ、札幌移住……
自分の数々の歴史の先端として今ここにいられる奇跡をフイに想い、
ニヤニヤしつつも胸いっぱいになって涙がポロリ……。
いやいや、なんのこっちゃ~(笑)
長年ウマ年生まれをやってきたワタクシなれど、
これまでの人生で馬に乗ったのは、
①小さい頃の馬事公苑乗馬体験
②世界一周旅のモンゴルでの草原疾走体験
(乗ったらたちまちお尻が痛くなり、開き直って
武豊気分で立ち乗りで馬を駆り、輝く湖まで馬旅しました)
③ペルーでの1日ホーストレッキング体験
の、3回のみ。
ちなみにコチラ ↓ は、モンゴルでお姫様の衣装を着て馬と撮った写真な~り。
コチラ ↓ は、モンゴルのゲルの前で、民族衣装姿でパチリ。
ひゃ~ 懐かしや~!(ぷっちんぷっちんしてて若い!笑)
だけどそうだ!
私が生まれて初めて馬を見たのは、
まだ茅葺屋根だったころの長野のおじいちゃん宅で、
土間の片隅にあった馬小屋で、だったっけ……
昔は馬と人間が、フツーに同居してたんだよな~
……などと、時空も超えてあちこち旅しつつ、
心地よい緊張のうちに、約3時間のホーストレッキングが終了。
ジローちゃん、ありがとう! お疲れ様でした~
川原さんは、
馬具を外し、餌をやり、ひとしきり馬たちの世話をして、
山小屋の使い方を説明してくださったあと、
「ここは鹿も来るし、キツネも来るし、
熊がそこのスモモを食べに来ることもありますが、
マァこちらが何もしなければ
悪さをしてくることもないので大丈夫でしょう」
とニッコリ言い残し、車で下山。
馬をはじめ、いろんな動物たちが棲む
広~~~~~~~~~~~い山の夕暮れに、
人間は私だけが、ポツ~ンと一人 残されました。
電話でこのことを予告され 札幌で想像していたときは、
「ちょっとコワイかも……」と緊張していたけれど、
実際は、山小屋に一人残されても、
なーんてことなく、とっても安らかな気持ち。
そのことを頭は不思議がっているようで、
心と体は、頭の懸念などどこ吹く風ですっかりリラックス。
どちらも自分なのにね(笑)
真っ暗な夜になってしまう前に何となく外に出たくなって、
持参したおにぎりと、川原さんにいただいたトウキビで
軽く夕食を済ませたあと、
心地よい疲れと眠気を感じながら、私はひとり、
夜が降りてくる直前の夕暮れに、山小屋の外へ出ました。
姿は見えないけれど、馬たちの気配を遠くに感じつつ、
初秋の山の牧場の一角に立ち、グルリと景色を見渡せば、
遠くの山々も、向こうの森も、
私を見下ろす木々のシルエットも、
足元に続く一面の牧草じゅうたんも、
濃淡を折り重ねつらなる、青、蒼、藍……
足元から空へ360度、果てしなく広がる、
無数の青のグラデーションの世界……
あまりの美しさに、私は思わずその世界全部に向かって
ゆっくり グルリと
「アー リー ガー トー ……
アー リー ガー トー ……」
と一語ずつ声を放ったら……
その一音ずつが 木霊みたいに
蒼い世界の向こうの方まで 一つずつ響き渡って
それぞれの青の中に吸い込まれて行きました。
……と、次の瞬間、
姿は見えないけれど、獣の気配が遠くの木立の手前を
私を中心にしてグルーーーンと回るのを感じました。
具体的に獣がいる、というのではなくて、
濃密な息遣いというか、気配のカタマリのようなものが、
遠巻きに私を見据えながら周った、という感じ。
総毛立つような、でも、何だかものすごく安心するような、
不思議な感覚で、全身の毛穴がシュワシュワ~ッ……!
と、今度は突然、
空、山々、木々、足元の草、そこにいる虫たち、風……など、
私を取り囲む全ての生きものの気配が、
グン! と 近くに迫ってきたのです。
まるで、
自分の周りに張り巡らされていた分厚いガラスが、
サッと一気に取り払われたかのように。
周りにいる自然の一つ一つの息遣いが
突然3Dみたいにグワンと迫ってきたので
本当にビックリしたけれど、
いちばんビックリしたのは、
その気配が、ひたすら優しかったことでした。
私を見下ろす空の視線、木々の視線、草のそよぎ……
そのすべての気配が、あまりにも優しくて、温かくて、穏やかで……
私は思わず、子どもの獣のように、
オンオン大声を上げて泣いていました。
いつもこんな優しいまなざしで
私たちを見守ってくれていたなんて…
地球はこんなに、安らぎに満ちてたなんて…
気づかずにいてごめんなさい……
自分たちのことしか見えてなくて、ごめんなさい…
勝手に不安にかられて、
いちばん大切なあなたたちを見ようとしないまま、
傷つけてきてしまって、ほんとうに、ごめんなさい……
安らぎと、驚きと、畏敬と、幸せに包まれながら、
青のグラデーションが濃紺の闇に溶け込んでゆく山の牧場で、
私はいつまでもいつまでも、
あふれる気持ちを止めることが出来ぬまま、
動物の子っこみたいに 声を上げて泣き続けました。
★ ★ ★
後日 この晩のことを思い返しながら、
これまでにも何度か、このような体験をしたことがあったなぁ…
と思い出しました。
最初は、メキシコで幻覚サボテンを食べたとき。
二度目は、ペルーでマチュピチュのふもとの山を見渡したとき。
三度目は、エジプトでシナイ山に登った帰り道。
四度目は、一時帰国しているとき、実家の近くで。
五度目は、交通事故のリハビリ中。
六度目は、札幌で、宮の森の一軒家に住んでいるとき。
こんなに何度も教えてくれてたのに、
私はずっと、ピンと来てなかった。
そういう体験を、日常とは隔てて考えてしまってた。
(このような体験はことさら特別なことではなく、
慣れれば、誰でも、いつでも、ドラッグなんかなくたって自力で、
フツーに体感できるんだと思います。
自然とともに暮らしていた昔の人たちは、
みんな日常的に感じていた感覚だと思うけど、
自然と離れて暮らすようになった現代人は、
きっと自分を人工的な有害物から守るために、
自動的に感性にバリアをして生きるようになったから、
自然界の様相を察知する能力も鈍っているんだと思います)
でも、今回の体験で、はっきりと自覚しました。
人間は地球の子どもで 地球は人間の親だから、
きっと人間の親やそれ以上に、いつでもどこでも地球にいる限り、
自分の子どもである私たちを、限りない愛で包んでくれているんだ!
って。
不安なんてものは本当は存在しなくて、
ぜんぶ人間が勝手につくり出した幻想なんだな~
って。
戦争も、略奪も、お金第一主義も、
環境破壊も、殺人事件も、自殺も、病気も……
この世で人間が生み出しているすべての問題の根源をたどってゆくと、
そこには「不安」がある気がします。
だけど本当は、不安なんて存在しない。
自然の中に入り、自然をちゃんと見つめてみれば、
いつだって与えてくれてるものだらけで、
生きていくのに足りないものなんて、ほんとは何もない。
自然と離れ、自然と自分を切り離し、
自然を薄め、解体し、不自然と化したモノばかりに
囲まれて暮らすようになってしまったから、
ヒトは不安にかられるようになっちゃったんじゃないかなぁ……
と、牧場シュワシュワ事変のあと、
しみじみ今の生活を振り返りました。
自然=「自ら」の「然るべき」姿
自分=「自ら」を「分けた」もの
馬と一緒に、自然の中で暮らしたい!
ヘナチョコな現代人の私に、
どこまでできるか、やってみたい!
そんな想いが丹田に芽生えた、秋の芽室の旅でした。
(「新得・共働学舎の旅」につづく……)
後ろ髪引かれつつも花火と別れ、
いよいよホーストレッキング開始。
相棒になってくれたのは、
仔馬の花火に比べるとだいぶ大きなどさんこで、名前はジローちゃん。
中学生のとき飼って可愛がっていた
パンダウサギの名前と同じで、一気に親近感(笑)。
乗ったら視界がグンと高くなり、最初はかなり緊張したものの、
次第にだんどん慣れていき、右折左折もスムーズ化。
山の土と草の匂いに包まれながらポックリポックリ、
馬にまたがってただ進んでいるだけなのに、
なんだか無性に楽しくて嬉しくて、思わずニヤニヤ。
何でこんなことがこんなに楽しいんじゃろ~???
でも、とにかく楽しくて嬉しくてタマンナ~イ!!!
も~ずっと降りたくないよ~!
……と、心の中でバイザイダンスを踊りつつ、
川原さんの後ろをニヤニヤついて行く私。
「馬は基本的に人間を乗せるのはキライで、
非常に敏感で臆病な動物でもありますから、
何かを察知して怯えて暴れたり、
突然走り出したりすることもあります。
いつ何が起きても大丈夫なように、常に脇を締め、
手綱を引いておいてくださいよ」
と川原さん。
「ハイッ!」
と元気よく返事しつつも、あぁ~…ニヤニヤが止まらない。
・両足を通じて伝わってくる馬の温もり。
・生きものとくっついている安心感と、心地よい揺れ。
・体の各部が、凛と研ぎ澄まされつつ統合されてゆく感覚と、
ほどよい緊張感。
・呼吸するたびに血液が澄んだ緑になっていきそうな、
森の匂いと山の風景……
はぁ~ シアワセ……
大失恋から世界一周、戦地体験、交通事故リハビリ、札幌移住……
自分の数々の歴史の先端として今ここにいられる奇跡をフイに想い、
ニヤニヤしつつも胸いっぱいになって涙がポロリ……。
いやいや、なんのこっちゃ~(笑)
長年ウマ年生まれをやってきたワタクシなれど、
これまでの人生で馬に乗ったのは、
①小さい頃の馬事公苑乗馬体験
②世界一周旅のモンゴルでの草原疾走体験
(乗ったらたちまちお尻が痛くなり、開き直って
武豊気分で立ち乗りで馬を駆り、輝く湖まで馬旅しました)
③ペルーでの1日ホーストレッキング体験
の、3回のみ。
ちなみにコチラ ↓ は、モンゴルでお姫様の衣装を着て馬と撮った写真な~り。
コチラ ↓ は、モンゴルのゲルの前で、民族衣装姿でパチリ。
ひゃ~ 懐かしや~!(ぷっちんぷっちんしてて若い!笑)
だけどそうだ!
私が生まれて初めて馬を見たのは、
まだ茅葺屋根だったころの長野のおじいちゃん宅で、
土間の片隅にあった馬小屋で、だったっけ……
昔は馬と人間が、フツーに同居してたんだよな~
……などと、時空も超えてあちこち旅しつつ、
心地よい緊張のうちに、約3時間のホーストレッキングが終了。
ジローちゃん、ありがとう! お疲れ様でした~
川原さんは、
馬具を外し、餌をやり、ひとしきり馬たちの世話をして、
山小屋の使い方を説明してくださったあと、
「ここは鹿も来るし、キツネも来るし、
熊がそこのスモモを食べに来ることもありますが、
マァこちらが何もしなければ
悪さをしてくることもないので大丈夫でしょう」
とニッコリ言い残し、車で下山。
馬をはじめ、いろんな動物たちが棲む
広~~~~~~~~~~~い山の夕暮れに、
人間は私だけが、ポツ~ンと一人 残されました。
電話でこのことを予告され 札幌で想像していたときは、
「ちょっとコワイかも……」と緊張していたけれど、
実際は、山小屋に一人残されても、
なーんてことなく、とっても安らかな気持ち。
そのことを頭は不思議がっているようで、
心と体は、頭の懸念などどこ吹く風ですっかりリラックス。
どちらも自分なのにね(笑)
真っ暗な夜になってしまう前に何となく外に出たくなって、
持参したおにぎりと、川原さんにいただいたトウキビで
軽く夕食を済ませたあと、
心地よい疲れと眠気を感じながら、私はひとり、
夜が降りてくる直前の夕暮れに、山小屋の外へ出ました。
姿は見えないけれど、馬たちの気配を遠くに感じつつ、
初秋の山の牧場の一角に立ち、グルリと景色を見渡せば、
遠くの山々も、向こうの森も、
私を見下ろす木々のシルエットも、
足元に続く一面の牧草じゅうたんも、
濃淡を折り重ねつらなる、青、蒼、藍……
足元から空へ360度、果てしなく広がる、
無数の青のグラデーションの世界……
あまりの美しさに、私は思わずその世界全部に向かって
ゆっくり グルリと
「アー リー ガー トー ……
アー リー ガー トー ……」
と一語ずつ声を放ったら……
その一音ずつが 木霊みたいに
蒼い世界の向こうの方まで 一つずつ響き渡って
それぞれの青の中に吸い込まれて行きました。
……と、次の瞬間、
姿は見えないけれど、獣の気配が遠くの木立の手前を
私を中心にしてグルーーーンと回るのを感じました。
具体的に獣がいる、というのではなくて、
濃密な息遣いというか、気配のカタマリのようなものが、
遠巻きに私を見据えながら周った、という感じ。
総毛立つような、でも、何だかものすごく安心するような、
不思議な感覚で、全身の毛穴がシュワシュワ~ッ……!
と、今度は突然、
空、山々、木々、足元の草、そこにいる虫たち、風……など、
私を取り囲む全ての生きものの気配が、
グン! と 近くに迫ってきたのです。
まるで、
自分の周りに張り巡らされていた分厚いガラスが、
サッと一気に取り払われたかのように。
周りにいる自然の一つ一つの息遣いが
突然3Dみたいにグワンと迫ってきたので
本当にビックリしたけれど、
いちばんビックリしたのは、
その気配が、ひたすら優しかったことでした。
私を見下ろす空の視線、木々の視線、草のそよぎ……
そのすべての気配が、あまりにも優しくて、温かくて、穏やかで……
私は思わず、子どもの獣のように、
オンオン大声を上げて泣いていました。
いつもこんな優しいまなざしで
私たちを見守ってくれていたなんて…
地球はこんなに、安らぎに満ちてたなんて…
気づかずにいてごめんなさい……
自分たちのことしか見えてなくて、ごめんなさい…
勝手に不安にかられて、
いちばん大切なあなたたちを見ようとしないまま、
傷つけてきてしまって、ほんとうに、ごめんなさい……
安らぎと、驚きと、畏敬と、幸せに包まれながら、
青のグラデーションが濃紺の闇に溶け込んでゆく山の牧場で、
私はいつまでもいつまでも、
あふれる気持ちを止めることが出来ぬまま、
動物の子っこみたいに 声を上げて泣き続けました。
★ ★ ★
後日 この晩のことを思い返しながら、
これまでにも何度か、このような体験をしたことがあったなぁ…
と思い出しました。
最初は、メキシコで幻覚サボテンを食べたとき。
二度目は、ペルーでマチュピチュのふもとの山を見渡したとき。
三度目は、エジプトでシナイ山に登った帰り道。
四度目は、一時帰国しているとき、実家の近くで。
五度目は、交通事故のリハビリ中。
六度目は、札幌で、宮の森の一軒家に住んでいるとき。
こんなに何度も教えてくれてたのに、
私はずっと、ピンと来てなかった。
そういう体験を、日常とは隔てて考えてしまってた。
(このような体験はことさら特別なことではなく、
慣れれば、誰でも、いつでも、ドラッグなんかなくたって自力で、
フツーに体感できるんだと思います。
自然とともに暮らしていた昔の人たちは、
みんな日常的に感じていた感覚だと思うけど、
自然と離れて暮らすようになった現代人は、
きっと自分を人工的な有害物から守るために、
自動的に感性にバリアをして生きるようになったから、
自然界の様相を察知する能力も鈍っているんだと思います)
でも、今回の体験で、はっきりと自覚しました。
人間は地球の子どもで 地球は人間の親だから、
きっと人間の親やそれ以上に、いつでもどこでも地球にいる限り、
自分の子どもである私たちを、限りない愛で包んでくれているんだ!
って。
不安なんてものは本当は存在しなくて、
ぜんぶ人間が勝手につくり出した幻想なんだな~
って。
戦争も、略奪も、お金第一主義も、
環境破壊も、殺人事件も、自殺も、病気も……
この世で人間が生み出しているすべての問題の根源をたどってゆくと、
そこには「不安」がある気がします。
だけど本当は、不安なんて存在しない。
自然の中に入り、自然をちゃんと見つめてみれば、
いつだって与えてくれてるものだらけで、
生きていくのに足りないものなんて、ほんとは何もない。
自然と離れ、自然と自分を切り離し、
自然を薄め、解体し、不自然と化したモノばかりに
囲まれて暮らすようになってしまったから、
ヒトは不安にかられるようになっちゃったんじゃないかなぁ……
と、牧場シュワシュワ事変のあと、
しみじみ今の生活を振り返りました。
自然=「自ら」の「然るべき」姿
自分=「自ら」を「分けた」もの
馬と一緒に、自然の中で暮らしたい!
ヘナチョコな現代人の私に、
どこまでできるか、やってみたい!
そんな想いが丹田に芽生えた、秋の芽室の旅でした。
(「新得・共働学舎の旅」につづく……)