『ノルウェイの森』を観てきた。
この原作である村上春樹の作品を読んだのは、中学三年の冬だった。よくよく覚えている。
印象的な赤と緑の上下二冊の本。
誰が買ったのか分からないけれど、本棚の片隅にあったのを何となく手にとって読んだ。
ザラザラとしていて、硬質な手触り。けれど、その感触とは裏腹に暖かさがあった。
そして、それまで読んだどんな本よりも、確かな質量を感じたのを覚えている。
すごく抽象的な感想だけど、それがこの本の感想だった。
悲しいとかそういう感情は一切なかった。
映画の感想としては、原作ほどの質量を感じることはなかった。
個人的には、頭の中でイメージしていた世界が映像になっていて驚いたけれど、なんだか物語の不連続さが気になって仕方なかった。
原作では間として成立している不連続さが、映像になった途端に違和感に変わった。
物語の最後の方で、”僕”とレイコさんと結ばれるシーンがある。
俺にはどうしてもこの行が消化しきれない。
どうして、そうなる必然性があったのか?
人はパンのみで生きるわけじゃない。つまり、必然性だけで生きているわけじゃない。
言い換えれば、冗長と言われるものになるんだろう。
この物語の”僕”は、シンプルに生きているようでとても冗長性に溢れた人物だ。
”僕”とレイコの関係は冗長性に属するものなんだろうか?
違う気がする。
どうやっても俺の中で収まりが悪い。
レイコは”僕”にとっての直子の代わりなのか?
それとも、レイコの現世に戻るための通過儀礼だったのか?
この原作である村上春樹の作品を読んだのは、中学三年の冬だった。よくよく覚えている。
印象的な赤と緑の上下二冊の本。
誰が買ったのか分からないけれど、本棚の片隅にあったのを何となく手にとって読んだ。
ザラザラとしていて、硬質な手触り。けれど、その感触とは裏腹に暖かさがあった。
そして、それまで読んだどんな本よりも、確かな質量を感じたのを覚えている。
すごく抽象的な感想だけど、それがこの本の感想だった。
悲しいとかそういう感情は一切なかった。
映画の感想としては、原作ほどの質量を感じることはなかった。
個人的には、頭の中でイメージしていた世界が映像になっていて驚いたけれど、なんだか物語の不連続さが気になって仕方なかった。
原作では間として成立している不連続さが、映像になった途端に違和感に変わった。
物語の最後の方で、”僕”とレイコさんと結ばれるシーンがある。
俺にはどうしてもこの行が消化しきれない。
どうして、そうなる必然性があったのか?
人はパンのみで生きるわけじゃない。つまり、必然性だけで生きているわけじゃない。
言い換えれば、冗長と言われるものになるんだろう。
この物語の”僕”は、シンプルに生きているようでとても冗長性に溢れた人物だ。
”僕”とレイコの関係は冗長性に属するものなんだろうか?
違う気がする。
どうやっても俺の中で収まりが悪い。
レイコは”僕”にとっての直子の代わりなのか?
それとも、レイコの現世に戻るための通過儀礼だったのか?
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