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MARUMUSHI

映画とかTwitterとかとか。

『アリータ: バトル・エンジェル(Alita: Battle Angel)』。

2019-03-20 22:20:48 | 映画日記
『アリータ: バトル・エンジェル(Alita: Battle Angel)』を観てきた。
#アリータ降臨 #Alita #アリータ

サイボーグが、人と心をつなぐという物語は大好き。
そして、身体の機能の拡張という実用サイボーグの可能性も興味あるし、この作品はマッドな面のサイボーグを描いてるのもいい。身体はあくまでも装具で、そのパフォーマンスを発揮するにはトレーニングがいるというのも面白い。つまりアリータはトレーニングでいくらでも強くなれるということ。ただのサイボーグ化とは違って『マルドゥルック・スクランブル』のバロットに近い者なのかなと思う。

でもね、これだけの才能を持ったアリータちゃんはアレかな?ダメンズなのかな?
アリータちゃんはダメンズ好きなのかな?
300年の眠りから覚めて、アリータが出会った青年ヒューゴ。
これがポンコツでポンコツで…。足引っ張りすぎ。

サイボーグを襲い、気絶させて部品を奪うという通り魔的な強盗を繰り返して金を稼いでいたのに、それがアリータに見つかりたくないから組織を抜けると言い始める。そのせいで友人は真っ二つにされて殺され、自分も逃げ惑いながらアリータに助けを請い、アリータは自分も絶体絶命にいるのに彼を助けに行く。
もうこの時点でかなりのだめんずっぷりよね?
結局、ヒューゴは腹を突き刺されて瀕シ。アリータの心臓と繋げてもらうということで、首から下は完全サイボーグになっちゃうけど命を救ってもらい、アリータがこれ以上彼を襲わせないために組織を壊しにいったら、その空きに彼のいる施設に手を回されて、一緒にいたイドたちと逃げればいいのに、ケーブルの上歩いて勝手に上に行こうとして、またアリータの手を煩わせ、挙げ句落ちてシぬって…。

俺がサイボーグになっても人と心臓つなごうとはなかなか思えへんで。
アリータがどれだけ愛を持っていたか、ダメンズだったかがわかるよ。そういう意味でPG12なのかな?と思うもん。

アリータは可愛い!強い!
でも、ダメンズ好きという問題点を抱えてる!
どうか続編では男運が良くなっていますように…。



『真っ赤な星』

2019-03-18 19:52:22 | 映画日記
『真っ赤な星』を観てきた。
#真っ赤な星

青。
空の色。抜けるような色。爽やかだとか、清々しいとか言われる色だけれど、冷たく何もないを感じさせる色。だからきっと「空」に与えられた色だと思う。
赤。
血の色。危険を知らせる色。発情の色。生命の色。ギュウギュウに畏怖を詰め込まれた色。

この物語は失い続ける二人の物語。
失ったものがなにか。
大きなものを失くすと、全てを捨ててしまいたくなることがある。
でも、人はギリギリのところで自分の生は捨てない。

パラグライダーは地から足を離し、何もない空に飛び込んでいく。落ちれば死ぬ。ゆっくり落ちるから死なない。ギリギリまでシに近づく。そうやって生を感じる。
だから、弥生はそれを止めた。男のとの関係を絶つためじゃない。セックスでは足りない。パラグライダーでも足りないから止めた。もっと確実にシに近づかなければ、生の実感をもてなくなったから。
陽は、弥生を追いかけ続ける。でも、弥生に近づきたくて、汚れを知りたくて、身体を売ったんじゃない。初めての記憶を上書きして、くだらない、つまらない行為なんだと思い込むために売った。
陽がどの時点でそれに気づいたかはわからないけれど。
陽は弥生がいるから生を感じている。ずっとそばにいる、という言葉に偽りはない。他に好きな人は出来ない。大事な人は出来ても、弥生以上に好きな人はできない。

「せつないよ」

人は身体という邪魔な殻をこえて魂を結びつけることは出来ない。
陽が欲しているのは、弥生との魂の結びつき。心よりももっと強いつながり。
青と赤が一つに混ざることは出来ない。

弥生と陽がこれからどこに行くのか。わからない。
きっと二人がいた元の場所には戻らない。どこか遠くの望遠鏡がある町に行くのだろう。
たしかに言えることがある。
陽はもっと料理が上手くなる。
弥生は煙草を吸わなくなる。
そして、彼女たちはこれからも失い続ける。


『大仏廻国』。

2019-01-26 22:47:47 | 映画日記
#大仏廻国
『大仏廻国』を観た。

低予算で頑張ったなぁ、という感じ。
BGMに物凄い熱量を感じるね。凄いよ。
特撮映画でありながら、精神的というか超自然的な世界の描写が多い。

大仏は生とシの両方の間にいて、時に人の生シの境目に割って入ってくることがある。
生きるべきだった人がシに、シんだほうが良かったほうが生きる。
特に自然災害でそれは起きる。
そして、シんだ方には愛を、生きた方には苦難を残す。
巨大大仏の廻国はその作業なのだろうか。最後に自分の姿を見せ双方に、一瞬の、魂の安定を与えるため。
作中に登場するプロダクションの男は、生きる側に残された。
彼は、なぜ自分が生きる側に残されたのか、分かっている。ただの瓦礫と化した国で、下らない番組を完成させようとするのが証左だ。でも、それは向こう側になにもいない空虚な作業だ。
彼は少しずつその出来事の、時代のテラーとなっていくのだろう。


原作であり消失してしまった『大仏廻国』の監督 枝正義郎。
1934年。日本が少しずつ戦時色を強めていった時代。数年後には226事件が発生している。
彼は、その世界に少しでも警鐘を鳴らしたかったんじゃないだろうか。
この道を進めば、残るのはただの空虚な終わり。
宝田明が語るように、科学は寄与と弊害を常に生じさせる。特撮映画とはそれを語り継ぐためにあるのだ、と。
そういった観点からもオリジナル『大仏廻国』が消失してしまったことは残念に思う。



『はいからさんが通る-後編 花の東京大ロマン-』。

2018-10-21 15:19:16 | 映画日記
#はいからさんが通る#早見沙織 #宮野真守
『はいからさんが通る-後編 花の東京大ロマン-』を観てきた。

恋のダブルバインドというのがピッタリ来るのかなぁ?
ハーレクイーンシリーズにはよくあるのかも知らんが…。
でも、どんな恋模様だとしても紅緒という女性が、独り立ちを常に魂に持っていないと出来ない生き方だと思う。
フラフラしているように映るけども、女性の地位がまだ低い時代に、すべてのことを自分で決めて、行動するというのはなかなかできるものではなかったと思う。

彼女が生きた大正時代というのは、動乱と言うか騒乱と言うか、15年間しかないのにとにかく出来事が多い。
忍と紅緒を引き離してしまったシベリア出兵。
結婚式を、そして東京のすべてを壊してしまった東京大震災。
作中だけでもこれだけ出てくる。
作品の背景には、格差社会であったことや、労働運動や米騒動と言った社会の労働者の抗議活動、文論雑誌の増加やラジオ放送がはじまり、マスメディアが力を発揮し始めた時代であることなどもあるような気がする。
大正時代ともうすぐ終わる平成時代は割と似たところが多い。天災、社会の様相、政治。
全てが似ている気がする。
『はいからさんが通る』はハッピーエンドで終わる。
でも、悲しいことにそれから20年と経たないうちに大東亜戦争がはじまる。その前には日中戦争や2.26事件もある。
紅緒たちが生きていく時代の先はそれほど明るいものではない。
「暗いことを言うなよ。どうせ創作だし」と言われそうだけど、より作品を楽しむにはそのあたりのことを頭においておく方が良いと思うのだ。『はいからさんが通る』は花村紅緒と伊集院忍の恋の物語だ。そして、同時に花村紅緒の生き様を描いた物語だ。
大正時代に紅緒と同じような立場の女性はいたはずだ。紅緒と同じような考え方をしている女性もいたはずだ。紅緒はあの時代に“いなかった”女性では決してない。そう思ってスクリーンに映った紅緒の姿を見ると、より楽しめる作品だと思う。



『教誨師』。

2018-10-07 21:51:27 | 映画日記
『教誨師』を観てきた。
#教誨師

僕はタヒ刑廃止を支持する側だ。
いや、正確にはちょっと違うけれど、まぁ、ここではそのまま進めよう。
タヒ刑は文字通りタヒぬことが刑罰だから、本来作品に出てくるような拘置所に閉じ込めることは出来ない。ただ、「逃亡の恐れがあるから」という理由でタヒ刑囚たちはそこに閉じ込められている。家族や弁護士、そして教誨師などごく一部の人間としか会えない(故宅間守氏が獄中結婚したのはその女性と会いたいからだったと言われている)し、手紙のやり取りも出来ない。すべてタヒ刑囚たちの心の安定のためだそうだ。
タヒ刑は確定してから6ヶ月以内に執行することが定められている。でも、そんなスピード執行を見たことがない。平均で5年程度は閉じ込められたままになる。
タヒ刑が確定した時点で大衆はもう満足する。それ以上の先を見ることはない。見る必要もないと言いかえられるかもしれない。
みんな、タヒ刑が必要だと本当に思っているのか?
執行されるまで、タヒ刑囚は生きているのだ。でも、タヒ刑判決が出た時点で満足しているのはなぜだ?
このおかしな執行システムでタヒ刑存置に意味があるのか。

「被害者遺族の感情をお前はなんだと思ってるんだ?」「廃止なんて言っているが、お前は家族が殺されたら、相手を殺したいと思わないのか?」
OK、答えよう。「遺族と僕は他人だ。僕が彼らと一緒にタヒ刑を叫ぶのはおかしいと思う」「家族が殺されたら、タヒ刑を望む。それどころか僕がやってやる」
ダブルスタンダードだというのはわかっている。でも、他人と当人とは違う感情を持つのが当たり前だ。そして、他人は被害者も加害者も冷静に見ることが出来る唯一の立場だ。
今度は僕から聞こう。「被害者と同じ立場に加害者を落としたとして、被害者は何を思うと思う。【よかったな。加害者をお前と同じ目に合わせてやったぞ】と言われて何を喜ぶのだ?」

教誨師の佐伯は、タヒ刑囚たちに聖書を読ませたり賛美歌を歌ってみたりと、彼らの罪は神に許されますよ、と説く。
それで喜ぶものもいれば、もっと即物的な考えを持つものもいる。そして、反論してくるものも。当然の反応だと思う。
いくら神に祈っても、神に赦しを請うても意味はない。
罪は赦されてはじめて償ったことになる。
タヒ刑はその赦しの機会を永久に奪ってしまう。
請うべき相手は、大抵の場合、もうこの世にいないのだが、願い続けることが出来る機会さえ奪ってしまう。
そう、タヒ刑囚にとって神はさほど重要ではないのだ。
兄に気付かされた佐伯は、神を口にしなくなる。
教誨師に自分のことを知ってもらい、その中で自分の罪を見つめ直す。
教誨師はタヒ刑囚のことを理解しながら、彼らの罪に寄り添う。
それが教誨師とタヒ刑囚なのだと思う。


大杉漣さん。
同じテーマの『休暇』では刑務官を演じておられました。
『シン・ゴジラ』ではちょっと間抜けな総理を。
『蜜のあわれ』では少女に翻弄され、気持ちまで奪われるというちょっと気持ち悪い作家を演じておられました。
『ネコナデ』では厳ついサラリーマンが可愛い子猫を隠して飼うという子供っぽい姿を、あれが素なのかな?と思って観ました。
主演作以外ではまだスクリーンで観ることが出来るようなので楽しみにしています。
どうぞ、やすらかに。