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MARUMUSHI

映画とかTwitterとかとか。

『交響詩篇エウレカセブンハイエボリューション1』。

2017-09-19 21:40:17 | 映画日記
『交響詩篇エウレカセブンハイエボリューション1』を観てきた。

#エウレカ #エウレカセブンハイエボリューション

ちょっとでもストーリーを知ってないとキツイ。
テンポが速すぎて、目が回る。
音楽がなければ、多分耐えられない。。。

ハイエボリューション2までの布石ということで。。。


『散歩する侵略者』。

2017-09-18 01:34:11 | 映画日記
『散歩する侵略者』を観てきた。


地球を侵略するためにやってきた3つのなにか。
彼らは人間から概念を得る。その結果、その人間は概念を失う。
概念。
概念ってなんだろう?
彼らは人間だけしか概念を奪えない。犬はダメだった。
家族、とは?
所有、とは?
自分、あなた、とは?
彼らはそれを奪う。

奪う?
奪う、とは?
誰かから何かをとってしまう事。
とる、何を?
なんでもいい、物でもお金でも、恋人でもなんでも。
つまり僕が持っていなくて、誰かが持っているものを、僕の物にしてしまう、ということかな?
なるほど、良いね。じゃぁ。それをもらうよ。

成海と桜井は、偶々侵略者たちのガイドをすることになった。
侵略者のガイドだけれど、人間の側にいる。でも、眼の前に居る彼、彼女らをただ見ているしかない。
時に買い物を手伝い。
時に人探しを手伝い。
時に倒れた彼らに肩を貸し。
時に彼らを叱る。

僕はどうしても、バカバカしいぐらいに、侵略者を人間とみて接する姿が好きだ。
眼の前の彼らは子供で、だから、人殺しをしてもそれはいけないことだ、と諭すように怒る。眼の前で人間を射殺する彼らに平気で近づき、その銃を奪い取る。「これはやってはいけないんだ!」と。
彼は侵略者を呼ぶための信号を送る装置の設置を手伝いだす。電源コードを引き、ブレーカーを上げる。
侵略される人間が侵略者の手伝いをする?

死に直面する侵略者。桜井は、このスイッチを入れてくれないか?、と頼まれる。そんなことできるわけないだろ、と断る。
「だから、俺の中に入れ」
人類を殺すことは出来ない。
でも、眼の前で死んで行こうとする侵略者を助けたい。
人はたくさんの人を救うことは出来なくても、目の前の誰かのためなら救おうとする。
そして、彼らは侵略のシグナルを発する。

成海は真治に愛を与えようとする。
愛は、全ての物を許すことであり、与えることであり、救うことである。
愛は概念が広い。広すぎて定まらないぐらい。
真治は愛を成海から奪うことを拒む。
愛は、与えること。

侵略が始まる。世界中が破壊されていく。
まるで畑に鍬でも入れるように、地表をひっくり返していく。

桜井は不恰好に身体を壊され、ニタニタと笑う。
彼は身体を与えたのか?それとも侵略者を飲み込んだのか?
でも、満足そうに彼は爆風の中に消えていく。

真治は、成海を身を挺して守る。
愛は、救うことである。

侵略は止んでしまう。
色々な概念を奪いすぎて、侵略者たちは人間に馴染みすぎたのかもしれない。
利他的な行動をとる人間を愛していたのかもしれない。
愛は、概念ではないから。

「いろんな問題を世界は抱えていたでしょう?それが侵略者のおかげでやり直すことが出来る」
そのとおりだ。浅はかに過ぎるきらいはあるが。どうせすぐに問題は発生する。時間の問題で、それほど遠い先のことじゃない。
真治はそのことを知っている。今、彼は誰よりも人間の姿をした侵略者だから。
誰よりも、成海に愛を与えることが出来る侵略者だから。


人間の姿をし、概念という漠然とした空気を身に纏う。
尊大で、一見、無謀とも思える行為をする。
そして、愛を欲する。理解したいと思う。与えたいと思う。
極めて人間に似ている。

そう、僕たちはきっと。

散歩する侵略者。


『DUNKIRK(邦題:ダンケルク)』。

2017-09-10 01:35:22 | 映画日記
『DUNKIRK(邦題:ダンケルク)』を観てきた。
#ダンケルク

観ていて気分が悪くなってきて、泣いた。

グロテスクな場面が多かったわけじゃない。
もちろん、酷い出来で気分を害したわけじゃない。
IMAXで観た所為もあると思うけれど、常に緊張感にさらされる映画だからだ。

前触れもなく撃たれ、仮に前触れがあったとしても遠くに見える爆撃機を見て、なすすべなく、弾丸を打ち込まれ、爆弾を投下される。
眼の前で人が倒れていく、爆弾で吹き飛ばされる。
轟音が不安という壁を作る。僕ならそれだけで気持ちが押しつぶされると思う。

確か去年の冬頃だったと思う。ネットニュースで読んだ。
新幹線浜松駅の近くのJRの敷地で不発弾が出てきた。大きさは120cmだったと思う。
それを移動させるために、半径500mの範囲の区域を立ち入り禁止に、新幹線も一時運転を取りやめた。
たった一発の不発弾のために、だ。
たった一発の不発弾を動かすためだけに半径500mを無人にした。

戦争は逆だ。
爆弾は人が沢山いるところに落とすのが正しい。
同じ世界で、同じ人間で、なぜそんなに差ができるんだろう。

敵機を落として、自国の船を護り、英雄となる。
それは正しいのか?敵の機体には人が乗っていたのだ。
自分の命をかけて戦地に小型船舶を出す、兵士でない者たちの行動は勇敢なのか?ただのヒロイズムに浸る愚者ではないのか?
「二度と、ダンケルクには行かない!舟をイギリスに向けろ!」と大人気ないまでに主張する兵士は間違っているのか?僕には正しいように思う。

40万人の内33万人を助けた?
7万人はどうなった?
その命の選択は誰が行ったんだ?

Never, never, never, never give up.
(絶対に、絶対に、絶対に、絶対にあきらめるな)
とチャーチルは言った。
言葉は力を持つ。でも、それが大多数と圧倒的な現実に希釈されてしまえば、空虚という言葉に置き換わる。
国民などというとんでもない単位にチャーチルの言葉は本当に心打つものだったんだろうか。

ダンケルクの浜にいた兵士たちにその言葉は響いたんだろうか。


今、北朝鮮が日本側にミサイルを向けている。
Jアラートが上手く作動しないとか、なったら建物の下に隠れろとか言ってるけど、核弾頭でも積んでいたらもう終わりだ。
打ち上げと同時に打ち落とす準備が出来ている?
一度も打ち落としたことがないのに、どうしてそこまで信用しきるんだろう。
そんな空の下で僕たちは普通の日々を過ごしている。朝起きて、仕事・学校に行く。帰ってきて風呂に入って寝る。
牧歌的な毎日だ。平和ボケだという人もいるけれど、こうでもしないと、何をすれば良いか分からないだけだ。僕もそうだ。
本当に戦争になればこんな生活は出来ないのだ。不安と圧迫感とに押しつぶされる。それが戦争の前線の姿なんだ。
この作品はそれを教えてくれる。

映画の最後。
故国にたどり着いた少年兵は、ダンケルクの記事を読み、仰仰と書かれた大撤退の成功の記事を目にする。
そして、彼は何も言わず、違和感の残る表情を浮かべる。

If we win, nobody will care. If we lose, there will be nobody to care.
(私たちが勝ったなら、なんということもない。ただ、負ければ、誰からも相手にされないだろう)


『三度目の殺人』。

2017-09-09 23:53:00 | 映画日記
『三度目の殺人』を観てきた。
#三度目の殺人
推理モノでも、法廷モノでも、猟奇モノでもない。

人は人をどこまで理解できるんだろうか。
親子。友人。彼氏彼女。隣人。
僕らはどこまで理解しているんだろうか。理解できないということをどこまで理解して、それと折り合いをつけているんだろうか。
わからない。

殺人者とその弁護士。
彼らの人生上の接点はほとんどない。
殺人者は人を殺しそれを浄化し慈悲を与える。一方的に。
弁護士は彼を弁護することをビジネスとし、彼のことは「理解する必要はない」と断じる。
でも、2人は根本的なところで似ている。
弁護士はそれに気付いていない。
殺人者はそれに気付いている。
なぜ少女は殺人者に惹かれたのだろうか。
本当の父というものに憧れたからだろうか。

アサーティブに人間関係を築く能力は著しく欠ける僕でも、35歳ともなれば、人が人を完全に理解できることは出来ないということはわかる。
この”人”には二人称でも三人称でも、一人称でさえ当てはまる。
「殺人犯の言うことなんて、信じちゃいけない」
そうやって、殺人者は距離を置く。

結局、誰が正しくて何が正しくて、誰が悪くて誰が間違っていたのか。
ぼんやりとした真実を重ね合わせて勝手に浮かび上がらせた「事実」。
全てはわからないまま、それを「事実」として法廷という場でそれを確定する。
文章の最後でEnterキーを押すように。
その後には何も続かない。一文字も入らない。
命は誰が選別しているんだろうか?
そしてなぜ、選別しなければならないんだろうか?

各々の真実を事実と思い込みながら、彼らは生きていく。
殺人者だけを「事実」の檻に閉じ込めて。


『きみの声をとどけたい』。

2017-08-27 20:47:54 | 映画日記

#きみの声をとどけたい #キミコエ #映画キミコエ

『きみの声をとどけたい』を観てきた。

なにこれ。
スゴい良いやん。。。


言霊、なるものがあるかどうかは分からないけれど、言葉は力を持っている。それは間違いない。

100年以上も前からラジオは存在し、テレビがあろうがインターネットがあろうが、常に声をとどけつづけている。とっくに無くなっても良いのじゃないか?と思うけど。
ラジオを放送するのは、とても大変だ。場所も機材も当然金もかかる。メディアとしてはテレビよりは容易かもしれないが、影響力は貧弱。インターネットと比べると影響力も分が悪いし、資金はそれこそ桁違いでインターネットに軍配があがる。

それでも人はラジオで声をとどける。
テレビのように見えないからこそ伝わるもの。
インターネットのデータのように残らない、一度だけの声だからこそ伝わるもの。

言葉は力を持っている。
力だからかなうものには限界がある。でも、力だから足しあわせることも出来て、それだけかなうものが大きくなる。
きっと、人はそれを奇跡と呼んでいるんだと思う。





それにしても、なんでこの時期に公開したん?夏休みが舞台やのに。。。
『銀魂』と逆にするべきやろ。『銀魂』なんて季節関係ないし、オマージュとパクリとチンコで出来てるからいつでも当たるやろ。小栗くんがシャクレてくれればそれで大丈夫やろ。メ○ヴェで元気ですかー、で全部OKやんか。サガミオリジナル製“元気があれば何度でもできる”を装着しとけばなんとかなるよ。

『きみの声をとどけたい』は夏休みやからこその映画やん!
だから、観に行くなら夏休みが終わる前が良いと思うぞ。