鶴岡法斎のブログ

それでも生きてます

漫画ボンの小説

2006-12-14 17:20:52 | 原稿再録
※こんな小説が連載されている漫画ボンは毎月25日発売です。


「大好きなお父さん…」
 そういいながら彼女は荷物を整理していた。今年から会社員となって、はじめての里帰り、傍から見れば実家に戻って父親に再会することを楽しみにしている女性にしか見えない。
 しかし彼女がカバンに入れているものを見ると、とてもそうとは思えない。
 ナイフ、金槌、毒薬、ロープなどの禍々しい物体が多数、カバンにしまわれていく。
「大好きなお父さん…」
 彼女の父は周囲の人間から見たら、子煩悩ないい父親に見えていたのだろう。しかし彼女は幼少の頃の記憶を覚えていた。
 父親による性的虐待。
 夜、彼女が眠ろうとすると父親のゴツゴツとした手が彼女の胸や股間の花弁を触ってくる。当時の彼女にとってそれは「どこの父親でもやること」だと勝手に思い込んでいた。
 しかしある時間を経て、それが父親、彼が自分を性的対象として扱っていたのであったという事実を理解してしまった。
 最初は中学時代に学校の友達と話しているうちに「自分は変じゃないのか」と思った。その当時ですら彼女は父親と一緒に風呂に入っていたのだ。
 そしてここ最近、一人暮らしをはじめて彼女は過去のことをどんどん思い出していた。父親に陵辱される自分。憎しみだけが静かに増幅されていく。
「大好きなお父さん…」
 何度も呪文のようにその言葉を繰り返す、そして、
「あの人を殺さなくては、私は前に進めない…」
 決意は固かった。父親殺しをしなくては自分の深い記憶に刺さっているそれは取り除くことができない。完全犯罪なんて必要ない。ただ殺せればいい。そのあと刑務所に入ってしまおうが、父親がこの世にいないとわかっているなら、どんな場所だって快適だと思えた。
 父親をどう殺そうか。そんなことを考えている彼女の口元に笑みが。そんな一瞬で殺すようなことはしない。何度も身体を刺して、吹き出す血のなかで、彼女に懺悔しながら、助けとほしいと哀願している父親。それを見つめながらトドメを刺すことを考えると興奮してくる。
 まるで子供が遠足の前にリュックのなかの荷物をいちいち確認して悦に入るように、彼女は刃物や凶器をうっとりと眺め、それをカバンにしまっていった。
 その恍惚の作業を続けている最中、彼女の携帯電話が鳴った。母親からだ。
「もしもし、お母さん。どうしたの?」
「落ち着いて聞いて…」
 そういっている母親の声がまったく落ち着いていない。
「お父さんが…、お父さんがね…」
 脳卒中だったそうだ。前触れもなく、死んだ。
 彼女は徒労感に包まれた。
 自分はいままで何を準備していたのだろう。本当に殺したい人間は勝手に肉体的な死を迎えてしまった。いままで父親を憎しみ続けた自分は何だったのだろうか。無駄な努力なのか。
 カバンのなかには邪悪な道具が大量に入っている。明日という日を楽しみにして、ここまであちこちの店で買ってきた物だというのに。毒薬は園芸専門店で買った農薬だった。ナイフはキャンプ用品の店で買い、包丁や金槌などもあちこちの店を探して選んだのに。
 血まみれで命乞いをしている父親の命を奪うという彼女の復讐。一生賭けた目的は、脳卒中という病気によって消滅した。彼女の人生で最大の挫折だった。
「本当に殺したかった人が…、殺せなくなった」
 誰にいうでもなく、自然とその言葉が出てきた。
 父親の葬式ではそんな殺意など表にも出さずに、彼女は父親を失った娘としての芝居を親戚縁者の前でしていた。そのときに流した涙の意味は周囲の人間が思っているものとはちょっと違うものだった。
 数週間後、中年男性ばかりが狙われる通り魔事件が相次いだ。
 警察は彼女を逮捕した。遺留品のなかに彼女のものがあったらしい。取調べに対して彼女は何のためらいもなく、冷静にこういった、
「本当に殺したい人が殺せなかったんです。だからその人に年齢が近い人を見つけて殺していました」と。

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