鶴岡法斎のブログ

それでも生きてます

おとこのトラウマ けもの道

2006-12-05 13:22:52 | 原稿再録
04年の春頃に二見書房のボーイズラブ雑誌「シャレード」に掲載。
雑誌に載せられる範囲で、ということで書いた。
まー、この他にもいろいろグチャグチャしたことがあった。しかし当事者のほとんどがまだ生きているので書くのにはいろいろ勇気と気配りが必要だ。



今回の話はトラウマとかそういうものの話題がメインなので苦手な人は読まないでください。自分が潜在的に同性愛的なのはどうしてなのか、と自問自答した結果ですので。
 まだ小学校に上がる前だった。自分の生い立ちはちょっと奇妙だ。
 母親は俺の出産後に育児ノイローゼになったので祖母に育てられた。両親は二十歳。若い結婚だった。
 で、父親は婿養子。祖母がこれまた病弱だったらしく何度も何度も流産した挙句に生まれたのが俺の母。当然のようにこの母親も病弱。父親は大家族。十人兄弟の八人目。ちなみに元々は地主だったらしいがその父親、つまり俺の父方の祖母がギャンブル(花札)にのめりこんで一家は凋落。父親はその関係からかすぐ働くようためにするために中卒。いまでも学歴コンプレックスは異常に強い。そして自分の家がギャンブルで滅んだくせにギャンブルは好きだ。
 で、19で結婚して生まれたのが俺。母親は一人娘だったので鶴岡家的には半世紀ぶりの男子だった。だからさぞかし大事に育てられたのかというとそうでもなかった。
 まず祖母はことあるごとに自分の娘であり、そして俺の母親である人間の悪口をいっていた。とにかく僻みっぽいのか何だか知らんが親戚だろうが近所の人間だろうが陰口をいう。小学校に上がる前の俺に対してだ。
 母親は育児ノイローゼで睡眠薬ばっかり飲んでいたのでとくに印象はない。いつも寝てた。父親はまだ若かったからかもしれないがとにかく遊びたかったらしい。ある日、モデルガンを買ってきた。プレゼントかと思ったら自分用だった。そして試し打ちで俺が打たれた。まだ三歳とかだ。それで泣いたら、
「玩具のピストルで撃たれたくらいで泣くのは男らしくない」といって殴られた。
あと記憶にはないが俺の左手にある火傷のあとは父親によるものらしい。
 また家庭内は当然の如く揉め事の連続だった。祖母は見合い結婚でその相手、つまり俺の祖父に対して愛がなかったのかもしれない。そういう愚痴も聞かされた。小学校に上がる前にな。子供に話すな、そんな話題。
 母親が育児ノイローゼで祖母が近所の人間を大嫌いなので当然近くには友達はいない。
 虫や犬猫と遊んでいるか、本やテレビを見ている記憶しかない。
 三代続いた虚弱体質は当然俺にも遺伝した。
 いつも病気。高熱はやたらと出していた。
 そして五歳のある日、あんまり仲良くなかった父親に突然外に連れ出された。自分はなんか不思議だった。一緒に遊ぶという記憶があまりなく、父親は酒を飲むかパチンコをするかしか休日を過ごさない人だったからだ。
 途中である人と合流した。化粧の濃い女だった。誰だろう。
 ステーキハウスで食事をした。俺はハンバーグを食べた。父親が突然こんなことをいった。
「この人がお母さんだったらどうする」と。
 いまになって思えばその人は父親の不倫相手だったのだろう。その時はかなりパニック状態になってハンバーグが食えなくなった。
 最近になって育児ノイローゼも完治した母親(そりゃ完治するだろうよ)に確認してみたところ、ほぼ不倫相手に間違いないということ。
 そしてその時、実は失踪する予定だったのだという。婿養子って立場が何か辛かったのかね。
 しかし俺を巻き込むな。おいこれ、誘拐みたいなもんだそ。
 そんな元誘拐犯とも最近は一緒にビールを飲んだりするんだから俺も心が広いな、と思う。今度父親の誕生日プレゼントを買いに行く。俺は買ってもらった記憶はない。
 俺はファザコンだ。どこかで理想の父親を探し続けている。

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