鶴岡法斎のブログ

それでも生きてます

小説「俺の蜘蛛」

2007-08-23 20:26:10 | 原稿再録
※漫画ボンでの読みきり連載の一編。実はノンフィクションの部分もある。

 いつの頃からだろうか。蜘蛛が生活に密着している。
 だがそれは世でいう幻覚の類であるので自分にしか見えない。
 茶色い、剛毛に被われた猫ほどの大きさの蜘蛛が自分の周りを何匹もいる。それがうろうろして、自分の身体にまとわりついた時などは痒いようなくすぐったいような奇妙な感覚になるのだ。
 蜘蛛の存在はそれ以上でもそれ以下でもない。ただ自分にだけ見えている。そして自分のまわりをウロウロしている。それだけだ。中学生の頃に医師に相談したことがあったが、処方される薬を飲んでもただ普段から眠たくなったりするだけで蜘蛛の存在を消すことにはならなかった。
 一時期、その蜘蛛の頭目なのだろうか、異常に大きいのが姿を現すこともあった。腕を広げると畳二枚分はあるだろうという大きさだった。自分が布団で寝ていると、八本の足で自分を囲むようにしていた。目を開いてジッと奴を見ると複数のビー玉のような瞳が鈍く輝いていた。そこから何をするわけでもなかった。ただいるだけだ。
 だが自分は奴が自分の真上にいる時、あることを考えていた。このまま奴が眠っている自分を喰ってくれたらここで自分の人生も終わりだろう。幻覚の蜘蛛に食われて死ぬのもいいかもしれない、と。
 しかしそんな期待に応えることなく、奴はいつも自分の上にいた。そしてここ数年はその姿を見ていない。
 小さい蜘蛛(といってもやはり普通の蜘蛛よりかははるかに大きいのだが)はその後も相変わらず自分の周囲にいる。
 読んでいる人には自分がこの幻覚と仲良くやっているように思われるかもしれない。しかし自分はこの連中をよく殺したりする。何しろ身体を歩かれると痒くてかなわないのでそのまま握って地面や壁に叩きつける。そこには奴らの体液が黒いシミを作るのだが幻覚だけあって気がついたら消えている。その亡骸もしばらくはそこに落ちているがやはり気がついたら消えている。
 自分は現実では動物を殺すなんてことは怖くてできない。生きた魚をさばくのも考えだけで怖くなってしまう。おそらく一生やらないだろう。しかしそんな自分は魚が大好物なのだから人間というのは勝手なものだ。
 自分は蜘蛛に対して、その自分にしか見えない彼らを自分の肉体、というより精神の一部なのだと思っているのだろう。実際幻覚として存在しているのだから自分の深層心理のようなものが蜘蛛のカタチで現出しているだけなのだろう。だから時によって冷酷なまでに彼らを殺す。それは自分の精神を攻撃しているようなものなのだろう。それがいいことなのか悪いことなのか自分にはわからない。ただ快不快の二元論だ。不快だったら殺す。自分に対して、こんな蜘蛛との共存生活を作り上げてしまった自分の心の深いところにいる「何か」に対して半ば怒りと、そして同時に奇妙な愛着を感じながら蜘蛛を地面に叩きつける。断末魔に脚をしばらくピクピクさせながら死んでいく。そしてしばらくすると消えている。しかしそれが完全に消えることはない。何匹殺してもまた新しいのが現れて(ひょっとしたら殺したのが蘇っているのかもしれない)、自分のまわりをうろうろしている。
 自分が女の家にいるときも奴らは平気で現れる。自分が女の肉体を求めている時も自分のまわりをうろうろとしている。
 彼女にはこのことを話そうかと思ったこともあるが、一笑に付されるか、気味悪がられるかのどちらかでしかないだろうと考え、何も話さないままにしている。
 ある夜、彼女と二人で眠っていた時だ。自分がふと目を覚ますといつも通り蜘蛛がいた。もう慣れたものなので特に気にすることもなく自分は便所で小用を足し、冷蔵庫にあったミネラルウォーターを飲んでから彼女が寝ているベッドに戻ろうとした。するとどうしたことだろうか。自分のまわりを徘徊しているだけだと思っていた蜘蛛が彼女の身体にまとわりついている。彼女は寝苦しいのか、
「う、ううぅん…」と唸っている。
 自分はいままで見せたことのない勢いで蜘蛛たちを殺しまくった。いままで彼らを殺すのは自分の精神に対する自傷のようなもので、どこがダラダラとした遊戯性があった。しかし今回は違う。
 俺に対して何かするのはいい。俺も同じようにオマエらに対して好き勝手やる。だがこれは違う。彼女は俺じゃない。
 そんなことを呟きながら(実際は叫ぶくらいの気持ちだったが眠っている彼女を起こしてはいけないと思っていた)自分は蜘蛛を殺し続けた。ベッドの近くの壁はいままでにないほどに大きな黒い斑点が並んでいた。
 疲れ果てて自分はいつの間にか眠っていたらしい。先に目覚めていた彼女から、
「怖い夢でも見たの? うなされていたけど」といわれた。
「そうかもな。でも覚えていない」
 自分はつまらないウソをついた。妙な痒さがあるので足元を見たら布団のなかに潜んでいた蜘蛛が自分の脛にしがみついていた。

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