鶴岡法斎のブログ

それでも生きてます

バチェラー連載「黄色新聞」最終回の原稿

2006-12-13 03:52:36 | 原稿再録
※今年の春、バチェラーでの連載最終回の原稿。

 さてこの連載、周囲の知り合い2人くらいに惜しまれつつも今回が最終回です。だいたい5年、四捨五入すれば(するな)10年やっていたこの連載ですが、スタート当初からまあいろいろ書いていき、この期間のなかで公私ともにいろいろあったりして。自分の興味の対象も気がつけばいろいろ変わっていたのだなあ、と思うことしきり。まあ連載中に国立大学の講師とAV監督という本来なら水と油というか、大河の彼岸同士に存在することをやれたというのは自分でも快挙だったか、と。しかしそんなことをいったって学者だって誰だってインポではないかぎり勃起するし、勃起しなくても欲情はするという人だってたくさんいる。拒食症ではないかぎり人間はいつだって食べたいものが食べたいのであって、不眠症の人間は眠りたいけど眠れないのだ。人間の欲望には際限がなく、その欲望に調子に乗らせたり、抑制したり、はたまた暴走してしまって周囲は大混乱したりということをひたすら続けていきながら人間の文化文明は日進月歩していきながらも、結局はどうでもいいことばかりなのではないか、と改めて痛感するのだ。自分は「禁欲的な快楽主義者」とちょっとキザな立ち居地を模索し、何とかその理想に近づければいいと思いながらのチャネリング。その結果としての原稿がここにあるのだから、まあこの連載も無駄ではなかったかな、自負。まあ無駄なことしか書いていないんだろうけど。しかしそこの無駄なゴミ山こそが宝の山ではないかと思っているわけ。
 それにしても、だ。自分の命を守るために動いた行動の前に善悪の二元論は無力ではないのか、と思ったりもする。極論では、事故で遭難した時に人間の死骸を食うとか、船で難破したときにボートの同乗者を殺してしまうとか。じゃあ芥川の蜘蛛の糸はなんだろうか、と考えると、その極限状況においても善、というか正義の存在を信じていたかったのではないのだろうか。その結果、混乱して自殺となってしまったのではないか、と考えると納得しつつもこれも妄想の域を出ていない。
 ただいえるのはその妄想と信念がグルグルと渦巻いて混乱した先に生まれたのがこの「黄色新聞」だった。いまだからいえるが精神的に最悪で、もうこの仕事をやめようか、と思っていた時にも続けられた。まあその時の原稿の内容が優れているかどうかは別として。いや別にするなよ。いいもの書けよ。
 だから黄色新聞は自分が生きていくために必要なものだった。それこそ地獄にいた自分にとっての蜘蛛の糸だったのかもしれない。じゃあ連載が終了したから死ぬのか、といえばそうではなく、自分は「黄色新聞」的なものを連載なのか、単発なのか。はたまた単行本なのか、マンガ原作なのかはさっぱりわからないが、これからも続けていくだろう。いや続けていきたいし、続けるしかないだろうと思っている。
 だからどういうカタチになるかは全くいまはわからないが、このテイストのそれはいつかまたどこかで再会できるでしょう、と思うわけだ。
 いままでこんな妄言、戯言に付き合ってくれた読者のみなさん。そしていつも軽快な煽り文句を入れて、さらに打ち合わせでは泥酔したり無駄話をしたり、おっぱいパブで騒いでくれた担当のヘルペス田中氏には非常に感謝している。
 本当、みんなありがとう。

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