おはようございます。守破離カイロプラクティックの長田です。
最近記事の端々に空手という単語がちらほら登場する機会がありまして。
今日は改めて空手の事について書いてみようかと思います。
このブログの最初のほうの記事の自己紹介でも書きましたが、二十歳~三十路手前まで極真空手をやっていました。
空手にもいろんな流派があるんですが、極真は素手素足で直接叩き合う、いわゆる直接打撃(フルコンタクト)を基本としたルールで試合をする空手です。
当時はその稽古の厳しさ、過激さから‘喧嘩カラテ’等と言われていました。
そして二十歳のときにドMの心 男の魂に火がつき、道場の門をたたきました。
稽古はまさに、血と汗をながし骨身を削るというのを地で行くような、壮絶極まる修羅場の世界が毎日展開され、生傷が絶えませんでした。
でもそういった厳しい稽古で共に汗を流す 世代、職業を超えた仲間も出来、またその苦しい稽古を乗り越えたときの爽快感、達成感、そして日に日に肉体的にも強くなっているのが実感でき、どんどんはまっていきました。
結局アキレス腱を切ってジ、エンドになるんですが。でもこの空手をやってた十年間の経験で得たものは正に自分の血となり肉となっており、自己を形成する根幹になっていることは間違いないです。
なんかこれだけだと極真空手の印象に誤解が生じそうなので、最後にこの極真会館の創始者、故 大山倍達の言葉で極真会館の理念にもなっている言葉を紹介して締めたいと思います。
頭は低く、目は高く、口を慎んで心広く、孝を原点として他を益す
←瓦を割るようなつもりで、気合入れてぇ、オリャ!(ポチッ)
最近記事の端々に空手という単語がちらほら登場する機会がありまして。
今日は改めて空手の事について書いてみようかと思います。
このブログの最初のほうの記事の自己紹介でも書きましたが、二十歳~三十路手前まで極真空手をやっていました。
空手にもいろんな流派があるんですが、極真は素手素足で直接叩き合う、いわゆる直接打撃(フルコンタクト)を基本としたルールで試合をする空手です。
当時はその稽古の厳しさ、過激さから‘喧嘩カラテ’等と言われていました。
そして二十歳のときに
稽古はまさに、血と汗をながし骨身を削るというのを地で行くような、壮絶極まる修羅場の世界が毎日展開され、生傷が絶えませんでした。
でもそういった厳しい稽古で共に汗を流す 世代、職業を超えた仲間も出来、またその苦しい稽古を乗り越えたときの爽快感、達成感、そして日に日に肉体的にも強くなっているのが実感でき、どんどんはまっていきました。
結局アキレス腱を切ってジ、エンドになるんですが。でもこの空手をやってた十年間の経験で得たものは正に自分の血となり肉となっており、自己を形成する根幹になっていることは間違いないです。
なんかこれだけだと極真空手の印象に誤解が生じそうなので、最後にこの極真会館の創始者、故 大山倍達の言葉で極真会館の理念にもなっている言葉を紹介して締めたいと思います。
頭は低く、目は高く、口を慎んで心広く、孝を原点として他を益す
