哲学者か道化師 -A philosopher / A clown-

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町田康『きれぎれ』

2006-05-21 | 小説
 町田康の芥川受賞作である表題作を含む短編集『きれぎれ』(他、『人生の聖』所収)を読了。…最近、小説の読書ペースがものすごく遅くなってる。もともと速いほうではなかったが、最近小説を読む時間自体がとれず、まさに激減状態。小説を読むことは、単なる趣味でも実益でもなく、ライフワークのようなものなので、まずいなあと思いつつ。

 さて、『きれぎれ』と『人生の聖』である。特に物語がどうのこうのというのではなく、文体くらいに話を絞ろうとおもうので、まとめて扱ってしまっても問題はない。やはり特徴的なのは文体である。いっけんめちゃくちゃに見えるが、その実一寸の隙もないくらい「出来上がった」文体である。前に紹介した『くっすん大黒』ではまだ物語に頼っている部分があって、読後の感想は「ちょっと変わっているけれども、生真面目なほどの日本文学」であったけれども、『きれぎれ』は、まったくといっていいほど町田康のオリジンで形成されている。はっきりいって、何を書いているのかよくわからないところがあるが、別にそんなことはいいのである。単純な文体の快楽、妙、粋というようなものが、そこに存在しているからである。解説の池澤夏樹にならって、ある部分を引用してみよう。

「やはりこの王国の現実の民草というものは大多数が愚民で、口当たりのよい言説はなんでもこれを食らい、紋切り型のロマン、月並みのファンタジーに酔い痴れる馬鹿豚が多く、あの船が馬鹿馬鹿しい、と思う人は実は少なくて、そういうことを云っていると偏屈と嘲られ嗤われ、孤独と絶望のなかで窮死するも知らんのだ、と思うからで、しかし馬鹿馬鹿しいものはやはり馬鹿馬鹿しいし、それに第一、あんな船を素敵などという馬鹿豚新田富子を妻にしたらどうなるんだろうか? 家庭内はありとあらゆる紋切り型・月並みの展示会場と化し、テレビを見て二人で笑い、近所のレストランで愚劣ランチ、珍乱弁当を食べるのだ。俺は絶対にそんなのは厭だ」

と、こういう具合である。
 なんでこんな文体が要請されたかといえば、現在の文学の行き詰まり、閉塞感を挙げねばならないだろう。まあ、端的には文学をどうやればいいのか、誰もが迷走している感がある。そのために、村上春樹や龍なんかは社会的なコミットメントをそれぞれの方法で説き、よしもとばななは不倫ネタばかりを再生産し、などなどの状況があるのだが、ある意味では文学のネタは単純なはずだ。すなわち、文学は文学を書けばいいのである。文学は文学を書けばいい、という言明は単純なトートロジーで、「文学」という主語は「文学」という述語から何の規定を受けていないため、論理的には無意味である。だが、その無規定性、無意味さこそ文学の一つの強みであったはずである。文学は文学である、だから文学である限り何をやってもよい。何をやってもいいとなれば、なにが文学を特徴付けるかといえば、結局のところ言語であり文字である。文学は何をやってもいい、ただしその媒介でありツールであるところのものは、つねに言語である。だから、文学をやるときの王道(ここで王道というのは、その周りには無数のわき道がありうるからである)は言語を鍛えること、ということになる。
 そういうわけで、『きれぎれ』の何がすごいかというと、この作品では言語であり文学であるところのものしか書いていないからなのである。言葉がすごい、ただこれでいいのである。
 が、である。町田康流の文学が、文学という領域においてメジャーになれるかというと、まずなれまい、とは思うのである。もし、この方向を突き詰めていったならば、きっとほとんど誰にもわからないような小説になってしまう。それは、文学者たちには受け入れられるものかもしれないが、より多くの圧倒的に多くの一般読者にはついていけないものになる。それはそれで、文学を貧困にさせてしまう。だから、『きれぎれ』は新しさと理解不可能の間、微妙なバランスの上に立つ小説だと、筆者は思う。はたしてその後町田康はどこに向かったのか/これから向かうのかを見てみたくはあるが、しばらくは町田康を離れ、他の小説を読んでいたいと思います。

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