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「わたしの言ったことが、大袈裟だとお思いなのですね。それは間違っていらっしゃいます。女の子にとって、外見は他人をかなり圧倒できることなのですよ。どんなに頭がよかろうと、才能があろうと、そんなものは目に見えやしません。外見が優れている女の子には、頭脳や才能など絶対に敵いっこないのです」(上、P92)
桐野夏生の代表作『グロテスク』を読んだ。だいぶ前に人に勧められて読み始めたのだが、途中事情で長い中断が入り、今日ようやく読み終わった。でも、再開してからは下巻を2~3日で読んでしまったから、内容も文体も読みやすいし読み進められるものだと思う。
『グロテスク』は現代の女性の生きにくさを描いた小説、と言うと間違ってはいないが正確でもない気がする。ハーフでありながら容貌に恵まれなかったが、「怪物的」な美貌に恵まれた妹をもち、妹にコンプレックスを抱き続けた女の手記に、彼女の同級生二人、妹、そして妹らを殺したというチャンという中国人の手記が載せられる。描かれるのは、女主人公らの幼少期から40歳までの長期間の物語である。様々な意味で、重層的な大小説と言って過言ない。しかもこの小説は、実際に起こった、名門校をで一流企業に勤めていたOLが夜は娼婦の二重生活を送った末に殺された「東電OL殺人事件」に取材し、90年代の社会を横断するように描くという力の入れようである。
小説の全体像は、なんらかの意味でエリート(よりすぐり)である女性たちが、エリートである故に怪物と化していくものである。特に下巻では主人公たちが娼婦になり、あるいはなっていく姿を描いていく。昔、どこかの小説かエッセイで「娼婦になりたいと思わない女はいない」という文章を読んだ覚えもあるが、正直男の僕には安易には理解しにくい世界である。男社会に対する鋭い視線も含めて。また、ガンダムの富野監督がこの小説を薦めていて、「萌えアニメとか見て女に幻想を抱いている男は、この小説を見て考えを改めろ」というようなことを言っていたが、これはさすがに別の幻想(実は女はもっと怖い…)ではないかと思う。特に富野監督の場合、趣味がちょっと特殊でいらっしゃるし。
全体的な印象としては、間違いなく面白い、エンターテインメントの傑作だと思うが、文学的な水準で見てみると、(加藤典洋先生が、この小説か桐野氏の他の小説の書評で書いていたと思うが)雑な感じは否めない。特に第三章の「生まれながらの娼婦」というタイトルは、この小説に時々出る紋切り型の代表である。この小説は、三面記事的な紋切り型の印象をときにうまく利用し、ときに利用し損ねているところがあると思う。そして一流企業に勤めるOLが娼婦との二重生活を送るに至った経緯には桐野氏の大胆な解釈が行われているが、そこまで意外ではない上、解釈自体に僕は疑問を感じざるを得ないところもあった。さらに、第五章の「私のやった悪いこと」のチャンの手記は、脇道ではないかと。しかし、小説のクライマックスにあたる第七章の「肉体地蔵」は、ある意味で一番不快な章であるが、文学としても評価できるのではないかと思う。
個人的に気になるのは、この小説は単純に言えば男社会につぶされる女たちが描かれているのだが、彼女たちの破滅というのは彼女たち個人の「心の闇」に圧縮されたもので、局所的に止まっていることである。たとえば、ドストエフスキーの『悪霊』は、共産主義革命の機運が「悪霊」と形容され、人を狂わせ社会を覆う様子が描かれているが、『グロテスク』の狂気は局所に止まるのである。おそらく桐野氏の時代診断は正しい。先の秋葉原通り魔事件にしたって、個人の憎悪が暴発したものであり、機運とでも呼ぶべき広がりを持っていない。おそらくは、今後はこうした社会的にはほとんど無意味と言わざるを得ない憎悪が個人の内にたまり散発的に暴発し、それを止める手段は社会にほとんどないという状況になるのではないかと思う。
ながながと、そしてちくちくと書いてきたが、この小説は傑作だと思う。でももっぱら僕の趣味や考えとマッチしないので、僕にとっては褒め称えるということはしにくい小説だとも思う。やっぱり良くも悪くもエンターテインメント色の強い小説かな。書きたいことは結構あるけど、これ以上書くとこちらの文章の方が破綻してしまうからこのくらいで。
「あなたもあたしも同じ。和恵さんも同じ。皆で虚しいことに心を囚われていたのよ。他人からどう見られるかってこと」(下、P228)