『舞-HiME 運命の系統樹 修羅』をやっていて気になったのだが、『舞-HiME』(アニメ原作は2004年の放送)シリーズを始め、TYPE-MOONの『Fate』シリーズ(2004年~)、『ローゼンメイデン』シリーズ(アニメは2004年から、マンガは2002年から)と、2004年以降のアニメやゲーム作品で、犠牲を伴った召喚によるバトルロワイヤルものが目立っている。さらにバトルロワイヤルに勝者には願いをかなえる力が与えられるというところまで一緒である。『舞-HiME』では、自分の大切な人の命と引き換えにチャイルドという化け物を召喚し(チャイルドが死ぬと大切な人も死ぬ)バトルロワイヤルを繰り広げる。『Fate』ではサーヴァントという英霊を召喚するのだが召喚中は魔力を消費し、ヘタをするとサーヴァントにマスターが殺されてしまうこともありえる。『ローゼンメイデン』シリーズでは、ローゼンメイデンという生けるアンティークドールの活動を維持するにはマスターたるミーディアム(ただし、この名称は原作のマンガでは登場しないらしい)が体力を消費する。しかも、どれも召喚されたものは基本的には召喚者よりも強い、というところまで一緒である。
とまあ、こんなことに気づいたので、なんで2004年に出された作品にこういうモチーフが多いのか調べてみた…のだが、あっさり答えが見つかってしまった。とりあえず、Wikipediaで調べたのだが、リンクで辿った『仮面ライダー龍騎』の項でまんまの記述を発見したのである。これらの作品のモチーフは確かに2002年に放映された『仮面ライダー龍騎』に影響されている。『龍騎』は僕は見ていないので、概要しか知らないのだが、13人のライダーがモンスターを召喚しながらバトルロワイヤルして(ちなみに、モンスターに食われてしまうライダーもいたと思う)、勝ち残ったものの願いが叶えられるという、まんまなモチーフである。『ローゼンメイデン』のマンガ原作以外の作品の2004年発表というのは、2002年にこれを見て、企画し、2003年いっぱいくらいで製作したということなのだろう。これを知って、安易なのかなあとか、年代ごとの作品のテーマやモチーフの趨勢にはちゃんと波があるんだなあとか思ってしまったのだが、少なくともこれらのモチーフが優勢になっているということは、時代にマッチした要素が何かしら存在したということなのだろう。
考えてみれば、現代ほど人の成功/失敗がゼロサムゲーム(ゲーム参加者全体の利益と損失の和が0になる)であると社会通念になった時代はないのかもしれない。一方で、すべてを手に入れたように極大の成功を収める人がいれば(たとえば、最盛期のホリエモンや小泉前首相)、一方ですべてを失って犯罪や自殺に走る人もいる。しかも、その成功/失敗を決めるゲームに参加するには、社会資本や文化資本などの元手と、それに対するさらなる投資(僕が言っていることに一番近い例を挙げれば、株式売買だろう)が必要である。まあ、とにかく何らかの投資(という犠牲)をして会社なりホームページなりの、自分とは違うものだけれど自分の延長的なアバター(要は自分の分身)を立ててなんらかのゲームに参加する、ということが極めて制度化されているという気はする(極端な例を挙げれば、裁判の弁護士)。逆に言えば、何らかのアバターを立てられず、自分の体力や容姿などをそのまま売る(しかない)者は、アイドルやタレント、スポーツ選手のように極端な社会的な人気を得るか、土方の作業員やトラックの運ちゃんのようにあまり良い目で見られない(もっとも、アイドルの場合は、「プロデュース」として、アイドルはプロデューサーのアバターになっている気もする)。
とまあ、かように犠牲を伴った召喚ものバトルロワイヤル賞品つき、というのはかなり時代にマッチしたモチーフを扱っているような気がするのである。たぶん、これらの製作者は現代社会への批評、などということは特に考えてないと思うのだが、それにも関わらず、現代社会の特徴を作品に「いつのまにか」内包してしまうという傾向性には興味深いものがある。エンターテインメントだから/だけど、という理屈を超えて、単に「そうなってしまう」という端的な事実性。果たして、それをどう扱い観察するのか、しないのかというのは考えるにたるテーマではないか。とまあ、ちょっと社会評論ぽい締めになりました。
とまあ、こんなことに気づいたので、なんで2004年に出された作品にこういうモチーフが多いのか調べてみた…のだが、あっさり答えが見つかってしまった。とりあえず、Wikipediaで調べたのだが、リンクで辿った『仮面ライダー龍騎』の項でまんまの記述を発見したのである。これらの作品のモチーフは確かに2002年に放映された『仮面ライダー龍騎』に影響されている。『龍騎』は僕は見ていないので、概要しか知らないのだが、13人のライダーがモンスターを召喚しながらバトルロワイヤルして(ちなみに、モンスターに食われてしまうライダーもいたと思う)、勝ち残ったものの願いが叶えられるという、まんまなモチーフである。『ローゼンメイデン』のマンガ原作以外の作品の2004年発表というのは、2002年にこれを見て、企画し、2003年いっぱいくらいで製作したということなのだろう。これを知って、安易なのかなあとか、年代ごとの作品のテーマやモチーフの趨勢にはちゃんと波があるんだなあとか思ってしまったのだが、少なくともこれらのモチーフが優勢になっているということは、時代にマッチした要素が何かしら存在したということなのだろう。
考えてみれば、現代ほど人の成功/失敗がゼロサムゲーム(ゲーム参加者全体の利益と損失の和が0になる)であると社会通念になった時代はないのかもしれない。一方で、すべてを手に入れたように極大の成功を収める人がいれば(たとえば、最盛期のホリエモンや小泉前首相)、一方ですべてを失って犯罪や自殺に走る人もいる。しかも、その成功/失敗を決めるゲームに参加するには、社会資本や文化資本などの元手と、それに対するさらなる投資(僕が言っていることに一番近い例を挙げれば、株式売買だろう)が必要である。まあ、とにかく何らかの投資(という犠牲)をして会社なりホームページなりの、自分とは違うものだけれど自分の延長的なアバター(要は自分の分身)を立ててなんらかのゲームに参加する、ということが極めて制度化されているという気はする(極端な例を挙げれば、裁判の弁護士)。逆に言えば、何らかのアバターを立てられず、自分の体力や容姿などをそのまま売る(しかない)者は、アイドルやタレント、スポーツ選手のように極端な社会的な人気を得るか、土方の作業員やトラックの運ちゃんのようにあまり良い目で見られない(もっとも、アイドルの場合は、「プロデュース」として、アイドルはプロデューサーのアバターになっている気もする)。
とまあ、かように犠牲を伴った召喚ものバトルロワイヤル賞品つき、というのはかなり時代にマッチしたモチーフを扱っているような気がするのである。たぶん、これらの製作者は現代社会への批評、などということは特に考えてないと思うのだが、それにも関わらず、現代社会の特徴を作品に「いつのまにか」内包してしまうという傾向性には興味深いものがある。エンターテインメントだから/だけど、という理屈を超えて、単に「そうなってしまう」という端的な事実性。果たして、それをどう扱い観察するのか、しないのかというのは考えるにたるテーマではないか。とまあ、ちょっと社会評論ぽい締めになりました。