車輪を再発見する人のブログ

反左翼系リベラルのブログ

賃金の下方硬直性

2010年01月04日 | 経済学

皆さん、明けましておめでとうございます。かなり更新をサボっていていつの間にか新年になりましたが、今年もよろしくお願いします。

ところで、最近賃金の下方硬直性について書いている記事をいくつか読んで驚いたのだが、この現象について誤解している人もいるようだ。賃金の下方硬直性というのは、何らかの原因で競争的な市場において決まる場合と違って賃金が変動しにくく、特に一度上がった賃金が低下しにくいことを言う。具体的には、労働組合のあるなしに関わらず、多くの常勤雇用の賃金は不況になっても下がりにくく、これが価格変化による市場の均衡を妨げ、不況の長期化や失業の大きな原因になっている。

そのため、賃金の下方硬直性を解消することが不況の長期化や失業問題を解決するひとつの重要な手段と言えるかもしれない。そこで、賃金の下方硬直性を解消するために、最低賃金の引き下げがいくつかの記事で指摘されていた。しかし、賃金の下方硬直性というのは現在雇用されている労働者の賃金が必要な額だけ低下せず、その結果失業者が多く出たり、底辺の労働者の賃金が必要以上に低下する減少である。つまり、問題の本質は保護されている者とそれ以外との間で市場競争で起こるよりもはるかに大きな賃金格差が生じてしまっていることにある。

だから、賃金の下方硬直性を解消するために最低賃金を下げるべきだというのは理論的に矛盾した主張だ。本当に賃金の下方硬直性を解消したければ労働者の賃下げを認めればいいだけである。アルバイトなどの時給は不況になれば二割とか下がったりするのに、高収入な労働者の賃金を保証することは不平等そのものだろう。

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資源分配と平等性

2009年10月04日 | 経済学

自由競争と平等に関してよく主張されることの一つに、平等に関してはいろいろな価値観があって一つには結論を定められないが効率的な資源分配は一つしかないというのがある。唯一の問題は、ほとんどの場合主張される資源分配が効率的な一つの資源分配ではないということである。

当然のことながら、経済全体を考えて最適な資源分配は一つしかない。しかしながら、雇用規制を維持するとか、すべての市場を競争的にしないなどの制約を加えれば、それぞれごとに無限の制約条件化での効率的な資源分配が存在する。だから、最適な資源分配は一つしかないが、条件化での資源分配には無限の可能性がある。

このとき、保護されている産業の経営者の利益を上げ労働者の賃金を上げる一方で、それ以外の産業の労働者の賃金を下げることは正しいだろうか。規制などの保護が維持されるという前提条件下においては、そのようにすることによって現在の資源が部分的に効率的に使われることになるかも知れない。しかし、問題は、結局のところそのような変化は最終的な最適な資源分配とは実のところ逆方向であるかも知れない。

つまり、制約条件下においては無限に効率的な資源分配を選べるし、さらには最適な資源分配の逆方向の資源分配さえも選ぶことが出来る。しかしながら、最適な資源分配を考えるならばそのような最適な資源分配とは逆方向への動きを積極的に推進することが本当に市場の効率性を本質的に増加させるのかどうかという点においては、疑問が生じるのではないだろうか。

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ただいま

2009年10月02日 | 経済学

いや、諸事情によりえらく間が空いてしまって申し訳ない。ただいま、帰ってきました。いつの間にか、総選挙も終わり。政権交代が起こって、書きたかったことも色々とあったのだが、中々書くことが出来なかった。現在の日本の抱える最大の問題は、一般大衆の意見とマスコミを中心とした特権的な正社員を中心としたエリート階層の意見との信じがたいほどの開きにあると考えている。この点において、民主党は結局は労働組合の御用政党でしかないので、国民の意見や国民生活ではなく、一部の特権階級の利害を代表することしか出来ないのではないかと危惧している。大戦後に構築された特権階級による非民主的な社会構造が打破されるにはまだ時間が掛かるのだろう。

と、話は代わってアゴラではまたもや消費者金融の話題で盛り上がっているようだ。いつもながら、この話題に成ると不思議なほど盛り上がる。同じような同じようなことを書いても仕方ないかもしれないが、少しはっきりさせておきたいことがあるのでまたこのことについて書くことになると思う。とりあえず、今日はこの当たりで。


正しすぎる赤木智弘

2009年06月22日 | 経済学

一部で非難を受けているらしい赤木氏のコラムを読んでみた。内容は非常に的を射ている。とりあえず、livedoorニュースより。

難病のために生活保護を受けていた北九州市の夫婦が、通院や買い物など、日常生活のために軽自動車を使っていたことから、生活保護を打ち切られていた問題で、5月29日に福岡地裁は「処分は違法」として生活保護停止処分の取り消しを求めた。(*1)

また、北九州市か!
一昨年の7月に52歳の男性が生活保護を取り消され、日記に「おにぎりを食べたい」と書き残して餓死した事件がおきたのも、北九州市である。
事件はマスコミで広く取り上げられ、大きな批判を受けて、少しは反省したかと思ったら、まだこんな弱いものイジメ、いや、むしろ殺人ごっことでも言われるべき馬鹿げた行為を続けているようだ。

私は、生活保護制度の大幅な拡充を求めている。
生活保護が憲法25条に記された「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」を保証するものである以上、多くの人が所有している物の所有を否定する、「車を所有しちゃダメ」「エアコンもダメ」のような規制は、憲法違反である。
「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」というのは、自分の考えで言えば、1人頭6畳程度の専有面積を持つ家に住み、電気ガス水道は当然として、エアコンや自動車等の、これまで生活保護行政で問題にされてきた物ももちろん認められるべきである。また、携帯電話やインターネットの利用も、それがこれだけ多くの国民に利用されている以上、認める必要がある。そうそう、国の勝手な都合でアナログ停波が決定したので、地デジ対応TVも「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」の範疇でいいだろう。
まぁ、予算の都合はともかく、原則的にはそのくらいの内容となって始めて、先進国にふさわしいセーフティーネットとして誇れる制度になるのではないかと、私は考えている。

そういうことをいうと「生活保護に頼って生活して、働かない人間が出てくる」という意見がでてくる。しかし、私は「働かない人間がいる」ことが、日本にとって問題だとは思わない。むしろ「働かないほうがマシな人間を、働かせないことができる」という効用に期待する。
多分、あなたの周りにも「仕事もろくすっぽ出来ないくせに、威張っている」ような人間がいるだろう。それが上司だとして、そんな人間のせいで、あなたの仕事が進まないとしたらどうだろうか?
世の中には残念ながら、経済的な生産能力がマイナスの人間というのがいる。しかし、仕事をしなければ生活できない日本社会においては、そうした人間に対しても必ず仕事を与えなければならないし、賃金が支払われなければならない。社会は踏んだり蹴ったりである。
ならば、そうした人間を仕事の場に出してマイナスを発生させ続けるよりは、家で酒でも飲んで寝ててもらった方がマシだとは考えられないだろうか?
働くべきではない人間が働かないことによって、社会全体の生産性が上がる。私はそういう形での社会貢献もあると考えている。

そして、そうした考え方を実践できるだけの、充実した生活保護制度ができたとすれば、最初に働かないでもらうのは、この馬鹿馬鹿しくも残酷な行為を行った、北九州市の福祉課の人間達である。
彼らは生活保護のなんたるかをまともに理解できる能力がないのにもかかわらず仕事をしていたために、さまざまな悲劇を産み出した。
彼らが働かなければ、52歳の男性は餓死せずにすんだかもしれないし、今回の老夫婦イジメもなかったかもしれない。
彼らの現在の給料よりも、月25万ぐらいの生活保護費の方が安いだろう。経費を減らして、なおかつ北九州市民の安全を守る、とってもいいアイデアだと思うのだが、どうだろうか?

内容ははっきり言って経済原理の本質を突いたものであるとしか言いようがない。世の中には優秀な人間がやらないと経済にダメージを与えてしまう仕事がある。例えば、経営者などが典型だろう。そのような仕事を無能な人間にやらせてしまうと結果として社会の生産性が下がってしまう。

この話をより一般的に考えるとすると生産性に対する賃金という視点から考えるのが妥当だろう。英語ではoverpayやunderpayといった表現がスポーツの世界でよく使われるが、個人成績に比べて年俸が高すぎたり、安すぎたりすることだ。同じようなことは普通の企業でも普通に起こっている。上げている成果に比べて賃金が高ければその人は会社からお金を奪い取っているのであり、成果に比べて賃金が安ければ搾取されていると言える。そして、現在の日本の抱える非常に大きな問題は中高年正社員が成果に比べて賃金が高すぎ、それが他の人の生活水準を下げていると言うことだ。

このような成果と賃金の関係を理解できず、きっと地位の高い人は優秀に違いないと考えている人は赤木氏を非難するのだろう。また、これは生活保護に関する上のような事件が起こる原因でもある。成果を賃金という視点で考えれられず、地位が能力を伴っているはずだと考えるために、平等なら同じように正社員を保護しましょうとなり、自由競争だと自己責任で失業者を苦しめないといけないとなる。高賃金を貰っている者は賃金に相応しい成果を上げているはずだという空想の世界でしか考えられないから、自分に都合のいい同じ二つの考えしか考えることが出来ない。

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会社の所有者は誰かという問題の盲点

2009年06月10日 | 経済学

会社は誰のものかという論争は昔から続いている。株主のものか、従業員などの関係者のものであるかが議論されてきた。しかし、この議論においては根本的な問題が無視されてきたように思う。従業員などの関係者以外の社会全体の利益という要因である。

株主にとっては、企業の長期的な価値を最大化することが株式を保有する目的である。それに対して、関係者、特に従業員にとっては自分がどれだけ安定し恵まれた待遇を得られるのかが一番重要である。そのため、株主にとっては企業が成長することは非常に重要であるが、従業員にとっては企業が成長するよりも、一人当たりの給与が最大化することが利益となることになる。

ここで社会全体にとっての利益というものを考えてみよう。そうすれば、社会にとっては賃金の高い仕事がたくさん生み出されることが重要である。だから、優れた企業には出来る限り速く大きく成長してもらうことが社会にとっては必要不可欠である。ということは、従業員にとって望ましいことは社会にとっては望ましくないことであることになる。これは現在の日本が抱えている非常に大きな問題であるが、一部の人間の高賃金を維持するために経済の成長が停滞し、特に生産性の高い企業が従業員の過剰な要求によって利益が圧迫され成長できない状態にある。

例えば、従業員一人当たり今1500万の付加価値を上げている企業があるとする。賃金が500万であれば資金に余裕がありどんどん成長できるし、事業を拡大することによって付加価値の額が1200万に少し減ったとしても、売り上げがそれを上回った形で上昇すれば最終的な利益は向上することになる。しかし、もし付加価値が1500万あるからといって従業員が1200万要求すれば、事業拡大の資金が枯渇する上、現在最も利益が上がっている事業以外に進出するのは非常に多きなリスクが絡み進出を躊躇することになるだろう。

これが現在日本で起こっていることである。最近、ブラック企業という反社会的な行為や低賃金で過剰労働によって成長している企業に対する批判がある。本来ならこのような企業が存在すること自体が社会にとって大きな負担であるのに、このような企業が成長することによってより社会に大きな負担が圧し掛かってきている。このようなことが起こっているのには生産性の高い企業が従業員の異常な要求のために停滞し、その代わりに生産性の低い企業が違法行為によって成長するという現実がある。

そういう意味で、一部の従業員だけに過剰な分け前を与えるやり方は社会全体にとって何重もの意味で負担となっている。スウェーデンにおいては、国家と全国規模の労働組合が中心となって高生産性企業の賃金を抑制し、低生産性企業の賃金を上昇させることによって、生産性の高い企業の成長と低生産性企業の退出を促し、社会全体の生産性を高めつつ、平均所得を上昇させる政策が取られてきた。国民全体を考えるのならばこのような政策が望まれるところだろう。会社は最終的には社会全体に貢献するためにあると言うことを理解する必要があるだろう。

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比較優位

2009年06月08日 | 経済学

日本とアメリカの学問や研究活動の違いの一つに研究補助系の仕事の量と質がある。アメリカの場合には、優秀な研究者が中心となって仕事の一部を他の人に任せて研究を進めていくということが盛んに行われている。このようなことが起こるのには、優秀な人材に対して他の研究者と比べて格段に多い予算と人材が与えられるからだ。優秀な研究者にとっては、自分がすべての作業をするよりも他の人に一部を任せたほうが効率的なので、比較優位の結果一部の作業を他の人に任せることになる。結果として、大学などでは多くの大学院生が研究補助の仕事によって学費だけではなく、生活費も賄えている。

日本の場合には年功序列であるために、どの地位にあるかによって研究環境が決まってくる。このやり方の決定的な問題点は、地位の高い人間が行えば高い賃金が払われ、地位の低い人間が行えば低い賃金しか払われないので、効率性や比較優位というような考え方が入り込む余地がないことである。結果として、能力が低くても高い地位によって高収入を得る研究者がたくさん発生し、多くの予算を飲み込んでしまっている。さらに、地位が重要であるために地位についているかどうかで決まるので、地位についているものとそうでないものとの格差が開き、補助的な仕事の地位が不当に低くなってしまっている。

現在、日本において博士の就職難が問題になっているが、日本以外の国においては高度教育の拡充が重点目標になっている。しかし、日本においてはすべてが保障された正社員とそれ以外とに労働市場が分かれているために、一度与えられた正社員の地位が延々に昇給しつつ維持されるために、高い待遇か非常に低い待遇かのどちらかに分かれてしまって、ちゃんとした市場が形成されていない。本来なら、賃金が適正であれば、高度な知識を身につけた労働者の雇用というのは、いくらでもあるのが普通なのだが、それが不足していると言う異常な状態に日本はあるのである。

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解雇規制の悪影響

2009年06月02日 | 経済学

昨年からの不景気もあって雇用が伸び悩んでいる。日本においては、フリーターの増加が問題になっているが、これは経済的に考えると社会にとって非常に大きな負担となっている。当然のことながら、日本においては家計であれ、政府からの援助であれ、教育に対しては非常に大きな額の投資が行われている。だから、日本でフリーターをやっている人もそれだけの教育を受けた人材であれば、その受けた教育を生かせる仕事をしている可能性が大いにある。

つまり、高いお金をかけて教育された人材がその教育投資を無駄にするような仕事をしていることが日本にとって非常に大きな負担となっている。こうなっているのは、当然のことながら日本においては解雇規制が厳しすぎて、大企業が雇用を増やそうとしないからである。つまり、中高年の高賃金を維持するために、若者の雇用が減っているために、結果として金銭的な負担だけでなく、人材活用の低下という形でも社会に大きな負担が圧し掛かっているのである。

このようなちゃんとした教育を受けた人材さえもフリーターをやっている状況は、低賃金労働を必要とする産業にとっては都合がいいかも知れないが、社会全体にとっては負担以外の何者でもないだろう。わざわざ多額の投資をして、それを無駄に捨て続けるという馬鹿なことをしているのである。このような一部の特権階級を守るために、経済を破壊するようなことをやめる必要があるだろう。

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教育と経済発展

2009年06月01日 | 経済学

経済発展には教育が不可欠であるという主張はよく聞くものである。これは一面の真理ではあるのであるが、現実の世界を考えると必ずしも正しいわけではないことが分かる。多くの発展途上国が教育に予算を割き、経済発展のための人材を育てようと苦心してきた。しかしながら、途上国とって現在大きな問題となっているのは頭脳流出である。教育、特に高等教育に予算を割いて高度な能力を持つ人材を育成しても、海外との人材獲得競争に負けて、あるいはそもそも国内に人材を活用できる産業がなくて、優秀な人材が海外に流出し教育予算が無駄になるということが起こっている。どちらも同じことだが、結局は国内に高度な教育を受けた人材を最大限活用できる産業が育っていないために、人材が活用できず結局は低い収益率しか上げられず経済発展に繋がらない。

このようなことを考えると、人材育成というのも重要であるがそもそもそのような人材を活用できる産業の存在というものが非常に重要なのではないだろうかという気がしてくる。このことは、先進国内と途上国を比較してみると分かるのであるが、高度な教育を受けた人材においては明らかに違いがあるかも知れないが、それ以外の部分においては先進国と途上国との間で経済水準を説明できるほどの差を見つけることは難しいように思う。それに、営業職など現在の高等教育による高度な教育を必須とする人材だけではなく、それ以外の仕事においても先進国においては高賃金の仕事がたくさん存在している。

そのことを考えると、そこまで教育水準が高くなくても優れた産業が存在すれば人材が活用され、より経済が発展するのかも知れない。当然、教育水準の高さが経済発展や、経済成長に影響を与えるのであろうが、それを極端に重視して世の中を見ることを正当化するのほどには影響力が強くないように思う。

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限界生産性と労働価値説

2009年05月29日 | 経済学

二十世紀の価値の議論と分配の議論の最大の問題は、行っている仕事による生産性の違いを軽視したことである。労働価値説を主張した社会主義や共産主義においては、資本家や経営者と対決し資本家や経営者の取り分を奪い取ることを善とした。それに対して、近代経済学においては限界生産性によって賃金が決まるとして、賃金は生産性の差、つまり労働者の能力の差であるとして、自由競争によって決まっている現在の賃金格差を肯定し、自由競争を続けることによって経済が成長するとした。つまり、どちらの理論も現在ある労働者間の賃金格差を肯定し、賃金が高いものは優秀で勤勉で、賃金が低いものは怠惰で無能であると結論つけた。これは、国家間においても当然のこととされ、植民地が経済発展しない原因は現地人にあると結論付けられた。

しかしながら、現実には生産性の違いを生じさせるのは労働者の能力だけではなかった。労働者の能力以外に、仕事のやり方の優劣による生産性の違いや、生産している商品の違いによる価格差があった。二十世紀の初めから二十一世紀までに、製造業の生産性は百倍向上したといわれている。この原因は、技術進歩や資本の増加だけではとても説明できず、マネジメントによって継続的に生産性が向上してきたことがこの結果をもたらしていると考えられる。だから、現在の労働者は同じ労働者であるにも関わらず、昔の労働者よりもはるかに高い生産性を達成し、昔の労働者には想像することさえ出来ないような生活水準を得ている。

また、生産している商品の違いも所得を決める要因であることが過去や現在の経済から知ることが出来る。十八世紀から十九世紀にかけて、白人植民地が経済成長する一方で、非白人がヨーロッパ人に支配された社会においては経済停滞が起こった。その原因は、アメリカ植民地などは、交易上高く売れる農産物を生産していたのに対して、機能の違う亜熱帯の植民地では他の強制労働による農産物との競争から低価格にしかならない商品を生産していたために経済成長しようがなかった。現在においても、日本でも産業によって賃金が違うが、テレビ局のような保護されている産業であれば低品質であっても高賃金が約束され、介護などにおいては劣悪な労働条件で低賃金であることが知られている。

つまり、現実の世界においては労働者の能力以外が大きく生産性に影響している。だから、もし経済を最も効率的に運用したいのであれば、その部分も含めて資源を最適なように分配できるような仕組みを作っていく必要があるだろう。そのようなことをしないで、非生産的な保護された労働者が自己責任といっても何の説得力もないだろう。

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労働価値説の続き

2009年05月28日 | 経済学

前の記事の労働価値説の話の続きであるが、資本家や経営者の貢献を否定して、労働者の労働から価値が生まれているとしつつ、他の労働者との間には絶対的な差を主張するような話はかなり昔からあった。ヨーロッパの都市国家における都市民の主張がまさにそうだし、その意味でその時代から次の工業化した時代の労働者貴族に受け継がれ、現在の日本の労働組合の主張へと受け継がれてきたといえるだろう。問題は、このような主張には客観的な根拠がないということだ。

歴史的に見れば、時代が経つにつれて、特に二十世紀においては生産量が急激に拡大した。この生産量の増加と所得の向上は生産性の上昇の結果であるとしか言いようがない。人間の能力が短期間にこれだけ伸びるとは考えられないからだ。そうすると、行っている仕事自体の生産性というものは非常に重要なものであることが分かる。どのような製品を生産するか、どのように作業を管理するかによって生産性が大きく変わってくるし、それが最終的には社会全体の所得を決定することになるだろう。

こう考えると、むしろ労働というのは他の労働者との間で交換が容易なものであるような気がしてくる。新古典派の限界生産性においては、労働者の賃金が限界生産性によって決まるという議論がされるのだが、ミクロで見てみると労働者の違いというものはそれほど大きくないのかもしれない。この前の、スウェーデンモデルの理論的支柱となっているレーン=メイドナー=モデルにおいては、むしろ労働者は同じようなものと考えられ、だから賃金を平均化して生産性の高い企業を成長させ、生産性の低い企業を退出させることが平等と経済成長をもたらすという考えに立っている。だから、生産性の違いが労働者の能力の差であるという主張には懐疑的にならざるを得ない気がする。

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