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車輪を再発見する人のブログ

反左翼系リベラルのブログ

労働価値説

2009年05月26日 | 経済学

労働価値説というのがある。みんな知っていると思うが、生産物の価値はそれに投入された労働の量によって決まるという考えだ。一般的には、共産主義は労働価値説に基づいて国家を運営し、共産主義思想の流れを汲む政党や労働組合はこの思想に基づいて資本家と対決していることになっている。

しかし、実はそのように考えると辻褄が合わない。というのも、もし生産物の価値が投入された労働の量によって決まり、それゆえ労働者にすべてが分配されなければならないのであれば、当然すべての人の時給は同じにならなければならない。しかしながら、現在資本家と対決し労働者の権利を追及している労働組合の組合員や、さらには十九世紀の工場労働者も実は他の労働者と比べて賃金が高く、もし労働価値説に基づいて所得を分配するのであればむしろそのような労働者から他の者へと所得を移転する必要がある。つまり、労働価値説によっては共産主義的な行動を説明することができない。

ここで、もしそのような労働者が労働価値説に基づいているのではなく、生産物が労働者の労働の価値だけから出来ており経営者や資本家は何も貢献していないという考えに基づいているのであれば辻褄が合う。つまり、経営者や資本家は何も貢献していないはずだから、少しでも取るのは搾取だ。それに対して、生産物の価値は労働者の労働から来るはずだから高価格で売れている製品を作っている労働者は優秀で勤勉な筈だ。賃金の低い無能で怠惰な労働者とは全然違う。そのような考えに基づいていると考えるのだ。つまり、経営者は資本家は何も貢献していないし、経営者や資本家の事業選択や製品選択などの質的な違いが最終的な価値に影響を与えるなんてありえないが、労働者の労働の質的な違いは厳然とあり、それがすべてを決めているに違いない。だから、賃金の高い労働者は優秀で勤勉であるに違いないし、賃金の低い労働者は無能で怠惰であるに違いない。

このように考えると、共産主義者や現在の労働組合の行動が合理的に説明できる。資本家は何も貢献していないのだから何も与えないのは当たり前だ。当然、重要な仕事をしている幹部に高い報酬を払うのは当然だから自分達の賃金は庶民の百倍にしておこう。労働組合にとっては、仕事の価値は労働者の労働から来るのだから経営者や株主には一銭もやらない。うちの労働者が高賃金を得るのは優れた仕事をしたからだから当然のことだ。というようなもんだろう。

このような論法の問題点は、経営者や資本家による質的に違う貢献を否定し、額に汗して働く労働者が生産を行っているといいながら、他の労働者との間においてはいくらでも質的な違いがありそれが結果の差に繋がっていると言う主張が論理的に意味不明だということだ。普通に考えれば、経営の仕事の方が質的な違いが絶対的な差を生みそうなのに、質的な差というのは高品質なものが疎らに散らばっていそうなのに、ある労働者の集団が全員他の集団より優れていてそれが決定的な要素となっていると言うのは実際問題としてあまりありそうにない。結局は、自分達に都合のいい屁理屈に過ぎないのだろう。

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派遣規制の是非

2009年05月22日 | 経済学

今日は派遣規制の問題を他の話と絡めてしてみたいと思う。派遣規制の議論は、十九世紀の自由貿易に関する議論に似ているところがあるとよく感じる。自由貿易者たちは、政府が介入して貿易を規制したり、関税を勝手にかけたりすることによって貿易から生じる両国の利益が損なわれることに徹底的に反対した。その論法は、こうだ。貿易を行われるのは、その貿易が両国に取って利益になるからだ。だから、貿易を政府が規制することを許せば貿易の利益が失われる。だから、貿易に対する介入は許せない。そのような理屈で、アジアやラテンアメリカ諸国による貿易に対する介入に徹底的に反対しつつ、欧米諸国は暴力によって現地の産業を破壊したり、プランテーション経営者が現地民を奴隷化することを続けた。

しかしこの主張の問題は、両国が最大限の恩恵を貿易から受けるにはどうすればいいかという議論が抜け落ちていることである。貿易は何らかの利益をもたらすかも知れない。しかし、欧米諸国が恣意的に経済に介入したり、暴力によって産業を破壊したり、さらには条約によって都合のいい条件を強制することを許した状態は理想からはかけ離れているのではないだろうか。つまり、現地社会の介入に対しては貿易が損なわれて双方の利益が損なわれるから駄目だと言いながら、欧米諸国の介入によって貿易から得られるであろう、あるいは産業が現地にもららしたであろう利益の減少は無視するというのは本当に長期的に考えて効率的なのだろうか。

このような理由で、現地政府による介入の場合は貿易から得られる利益の減少を危惧して貿易からの利益を損なうようなことはしてはならないとされ、逆に欧米諸国が行ってきたことに対しては長期的な影響が無視された。結果、他の要因を考慮すると欧米諸国が現地に介入することに対しては徹底的に寛容にしておき、現地政府が介入することを徹底的に否定すれば貿易からの利益によって双方が潤うだろうということになった。結果としては、アフリカやラテンアメリカはひたすら貧しくなり、欧米諸国は発展したのだが、これは現在の途上国が無知蒙昧で怠惰で、欧米諸国が知的・精神的に優れていた結果なのだろうかと思う。

話を戻すと、派遣規制や貸金法改正についてもそうであるが、派遣がなくなるということや、貸し出しが減る、あるいは借りにくくなることが経済的な不利益をもたらすだろうが、それらの質という面を考えなくてもいいのだろうか。現在の日本の派遣制度は世界的に見ても必要な規制がされておらず、労働者がほとんど保護されておらず中間搾取が非常に多い状態にある。少し前の消費者金融に関しても違法な取立てや脅迫を平気で行う犯罪者集団であったことは多くの人が知っていることである。このような質が劣悪で多大な悪影響を社会に与えている状態にあったとしても、規制すると供給が減って不利益を受ける人がいるから絶対規制するべきではないという主張が正しいのだろうか。規制しないで野放しにしたら、質がさらに悪化しそのことによる悪影響がどんどん増すのではないだろうか。逆に、規制によって質が改善したり、劣悪なものが排除されるのであれば一旦規制することによって長期的にはより良い状態へと移行していけるのではないだろうか。

結局のところ、十九世紀の欧米諸国による自由貿易論や、現在の派遣規制や貸金法改正反対の議論というのは、貿易や派遣、貸し出しが減ることに対しては絶対的な影響があることを前提とし、それ以外のことに対してはまるで何の変化もないかのような前提を置いているからそのような結論が必然的に出てくるといっていいと思う。そのような前提を置いているのだからそのような結論が出るのは当然のことなのであるが、問題はそのような前提自体が本当に適切なのかどうかということだ。どのようなものであっても貿易や派遣、貸し出しがないよりはあったほうがいいのだから、内容の悪化は一切考えないでおこうという態度で望ましい結果にたどり着けるようには思えないのだが。

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経営とエージェンシー問題

2009年05月21日 | 経済学

少し前の記事になるが、読売新聞の山崎元さんのコラムが面白かったので紹介と少しコメントをしたい。内容的には、山崎氏が日頃主張していることの繰り返しが多いのだが、現在の企業の問題を考える場合に、資本家と労働者という対立軸よりも、株主と経営者・従業員とのエージェンシー問題という視点から考えた方が有用な場合が多いのではないかと思う。

金融危機を巡る情勢は目まぐるしく変化しているが、最近の動きの中で、筆者が大いに「あきれた」のは、米国の複数の大手金融機関が公的資金を早期に返済したい意向を示したことだ。

これまでに報じられていて、筆者が知っている限りで、ゴールドマン・サックス、モルガン・スタンレー、それに先年メリル・リンチを吸収したバンク・オブ・アメリカが、こうした意向を示している。お気づきになると思うが、いずれも、かつては投資銀行であったか、かつての投資銀行を現在抱えている金融機関だ。

サブプライム問題のダメージが相対的に軽かったといわれているゴールドマン・サックスが公的資金を返済したいというのはいくらか分かるが、三菱東京UFJから出資を仰いだモルガン・スタンレーや、米政府から巨額の資本注入と不良資産の損失保証という救済を受けたバンク・オブ・アメリカまでが「公的資金返済」というのには、驚くしかない。彼らは、損失とリスクに耐えるための資本が不足していたのではなかったのか。

彼ら自身がこのような理由説明をしているわけではないから、以下は、筆者の推測だとお断りしておくが、割合自信のある推測だ。

彼らが公的資金を早期に返済したい理由は、経営者も含めてだが、社員に対するボーナス(ストック・オプションなどによるものも含む)や退職金を自由に支払いたいからだろう。

先般、AIGの幹部社員に対する巨額のボーナス支払いが、アメリカで大きな社会問題となり、オバマ大統領にまで痛罵される事態になったことに対して、彼の国の金融マンたちは一種の恐怖を抱いたに違いない。彼らにとって「命の次に大切なボーナス」を十分もらうことができないのではないか、という恐怖だ。

AIGのケースを先例として見ると、公的資金が入っている金融機関が社員に大きな額のボーナスを支払おうとしていることが世間に露見すると、政府から指導が入ったり、世間から強烈な反発を受けたりして(AIGはこのケースだった)、結局ボーナスが支払えなくなったり、これを返上しなければならなくなったりする公算が大きい。

アメリカの大手金融機関の個々の金融マンの心情を(推測によって)代弁すると、彼らは、近い将来会社が潰れることがあっても構わないから、当面の自分へのボーナス支払いを自由にして欲しい、と思っているだろう(下品ではあるが、経済合理的だ!)。

一般にウォール街のボーナスが巨額であり、そこで働く金融マンにとってボーナスが重要であるということは分かる。

しかし、今回彼らが言っているような公的資金返済に問題があるとすれば、一つには、金融機関が公的資金を返上し、しかも将来、公的資金を入れられずに済ませようと行動する結果、彼らがリスクを取れなくなって、「アメリカ版の貸し渋り」的な状況が起こる可能性があることだ。

あるいは別の可能性として、最後は政府に救済されればいいと考えて、薄い資本を顧みずにできるだけ大きなリスクを取ろうとする行動も考え得る。どちらも金融システムにとって好ましいことではない。

振り返ってみると、今回の金融危機が生じた背景には、成功報酬型の巨額ボーナスを原動力とする彼の国の金融マン達の過剰なリスク・テイクがあった。成功報酬型のボーナスは個人の「稼ぎ」を原資産とする一種のコール・オプションだが、あらゆる金融派生商品の中で、「金融マンのボーナス」ほど恐ろしいものはなかった、というのが筆者の実感だ。

彼の国の金融マン達が、この仕組みの旨みを「全然諦めていない」ことは確実だ。

相変わらずよく聞く主張に労働分配率を上げることによって労働者の取り分を増やすべきだというのがあるが、現実問題としてはほとんど不可能だ。資本分配率には個人事業主の収入や、企業の税金等の分が含まれている他、最低限の資本のコスト(つまり銀行などから借りた場合などとの比較でのコスト)、株主に占める年金基金等の機関投資家の存在を考えると、資本家はほとんど存在していないも同然である。日本の場合、上位0、1パーセントの富裕層が所得に占める割合は2パーセントなので金持ちの取り分とはその程度の額である。つまり、資本家が搾取しているから貧困層がいたりするのではないのである。

だから、結局のところ資本家ではなく、労働者間の問題が議論の中心になるべきだろう。そのとき重要になってくるのが、企業におけるエージェンシー問題である。企業は株主が所有していることになっているが、実際の経営は経営陣が行っている。また、従業員がステークホルダーとして影響力を持ってもいる。日本においても、アメリカにおいても、このような現実の結果従業員や経営者が株主から有利すぎる条件を引き出し富を得ているという現実がある。

アメリカでは、山崎氏のコラムにもあるように経営者や経営幹部がボーナスなどによって多額の報酬を得ている。しかし、報酬が高いからといって成果も伴っている訳ではない。日本と、ヨーロッパ、アメリカを比べても報酬に見合った形で企業の成長率が違う訳ではない。また、アメリカ国内でも報酬が高いほど企業運営が上手くいっている訳ではない。こうなるのは、報酬が高くなる理由の一つがお手盛りで従順な取締役がいる結果であることがある。つまり、監視が緩く経営がちゃんと監督されていない方が報酬が高くなりやすいという問題がある。

日本においては、年功序列制度の結果能力や成果の低い中高年正社員の賃金が異常に高くなっているという現実がある。これもまた従業員が力を持ち、株主から有利すぎる条件を引き出している事例である。そしてこのことが現在の日本の経済停滞の重要な要因になっていることは明らかだろう。

つまり、現実問題としては力の強い経営者や労働組合が過剰な待遇を手にすることによって株主から搾取しているという現実がある。そして、そのような現実の方が資本家などよりもはるかに大きな比重を占めていることがわかる。日本においては金持ちの所得に占める割合が2パーセントで、正社員と非正社員との賃金格差の平均が2倍以上という現実を考えるとどこが本当の問題であるかは明らかだろう。アメリカにおいては経営幹部の高収入が格差拡大の一因になっているが、経営陣も資本家ではないので、資本家や資本主義が格差を拡大していると言うのは意味不明な主張だろう。現実には、高所得の既得権層が、低所得者層から搾取しているのである。

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効率性と平等

2009年05月20日 | 経済学

昨日の、レーン=メイドナー=モデルの面白いところは、平等が効率性を高める点を指摘しているところだ。こうなるのは、労働者自身の能力による生産性の違いだけでなく、企業や組織の仕事のやり方の違いによる生産性の違いも存在しているからだ。また、能力の高い労働者が高い賃金を貰っている訳ではないという現実にも基づいている。

だから、経済全体の生産性を考える場合には、第一に社会に存在している仕事自体の生産性をいかにして最大限高めるのか、第二にその上で労働者をいかにして最終的な生産性を最大にするように仕事に割り当てるかを考える必要がある。この中で、同じ仕事間の賃金格差をなくすことによって、生産性の低い企業を退出させ、生産性の高い企業を成長させることによって社会に存在している仕事自体の生産性を高めようというのがレーン=メイドナー=モデルの考え方である。

このことから分かるように、例えその労働者の行っている仕事からの限界生産量が高かったとしても、その労働者の賃金を高くすることが必ずしも経済的ではないことが分かる。それは、その労働者の能力が高い結果限界生産量が増えている場合もあるが、ただ単にやっている仕事の違いによる生産性の違いがその労働者の限界生産性を上げているだけかもしれない。後者であるならば、その労働者は本当の意味で経済に貢献している訳ではなく、ただ単に他より優れた資源を利用しているから限界生産性が高くなっているだけである。

このことは、非常に重要で現在の日本においてテレビ局や大手出版会社、大手新聞などの賃金は基本的に非常に高額であるが、国際競争力があり日本の他の産業より経済に貢献している訳では全然ない。ただ単に、規制などによって保護され特権的な地位を獲得しているために、より高い値段で商品を売ることが出来ているだけである。つまり、経済全体から見ると不完全な競走という形で作っているものの価値が上がっているために労働者の賃金が高いのであって、仕事自体の生産性が高い訳でもなく労働者の能力が高い訳でもないのである。

このことから分かるように、経済全体の生産性を高めるには存在する仕事の生産性を高め、次に労働者をその仕事に出来る限り効率的に配分する必要がある。しかしながら、それは格差を容認すればいいということではないし、限界生産性の違いによって賃金を決めるべきであるということでさえない。資源配分が二つの段階を踏んでいるために、見かけの違いに惑わされないように資源を効率的に分配する方法を考えていく必要があるのである。

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レーン=メイドナー・モデル

2009年05月19日 | 経済学

今日はスウェーデンの経済政策の基本の一つになっているレーン=メイドナー・モデルを紹介する。同一労働同一賃金の原則もこの理論から導かれるものである。wikipedia より図へのリンク

レーン=メイドナー・モデル(Rehn-Meidner model)は、スウェーデンのブルーカラー労働組合の頂上団体である全国労働組合連合(LO)の経済学者であったイェスタ・レーンとルドルフ・メイドナーによって提唱された経済政策。

右図は、ある職種を雇用する国内企業を利潤率(棒グラフ)の順に並べたものである。このとき、賃金交渉が企業レベル(あるいは産業レベル)で分権的に行われているために、当該職種の賃金水準が線分ABのように利潤率に応じて高くなっていると仮定する。

ここで、労働組合と経営者団体の頂上団体の間で集権的な賃金交渉が行われ(ネオ・コーポらティズム)、企業間や業種間での賃金格差の縮小が実現し(連帯的賃金政策)、当該職種の賃金水準が線分abに設定されたとする(線分abが水平であれば、完全な「同一労働同一賃金」である)。さらに、新しい賃金水準は、インフレーションを引き起こさない程度の水準に抑制することが労使間で合意されたものとする。

この場合、当該職種に対する従前の賃金水準が線分ab以下であった企業1~企業4では、△MAaの労働コストが新たに発生し、経営合理化の圧力が強まる(場合によっては倒産に至る)。その結果、企業1~企業4によって解雇された労働者が失業する。

一方、当該職種に対する従前の賃金水準が線分abを上回っていた企業5~企業8では、△MBbの余剰が生じ、拡大再生産のための投資に振り向けることができる。

このとき、企業1~企業4において生じた失業者が企業5~企業8に吸収されるように、政府は積極的労働市場政策を実施する。これは、労使双方がインフレ抑制に協力する代わりに課せられた政府の義務として位置づけられる。

このように、労働力移動の流動性を高めることによって、インフレを惹起することなく国内経済全体の生産性が高度化され、国際競争力が高まる。

一言で言うと生産性の低い企業を市場から撤退させ、生産性の高い企業に労働者を移動させることによって国全体の生産性を上げると同時に、平等を達成できるということだ。ここで重要なのは、生産性の違いには労働者の能力だけではなく、その企業ごとの生産性格差も関係していると言うことだ。だから、その企業の生産性が高いからといって労働者に高い賃金を払うのは、能力の高くない労働者に高い賃金を支払う非論理的な政策であるということだ。さらに、高い賃金を支払うとその企業の成長が阻害され新しい雇用が生まれず、賃金格差も発生してしまう。だから、社会全体としては生産性の高い企業の賃金を上昇させないようにして成長させ雇用を生み出させ、生産性の低い企業を市場から退出させるのが合理的である。

日本においては、企業別組合になっているために一部の企業の正社員の賃金が高すぎ、優良企業が成長して雇用をどんどん生み出していくということが出来ないでいる。結局は、そのような状態は経済成長を押し下げるだけでなく、不平等さえ拡大してしまうことになる。だからこそ、同一労働同一賃金が重要になってくるとも言えるのである。

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金持ちと貧困の補足

2009年05月16日 | 経済学

二日前の記事は少し書きすぎた面もあった。そこで、少し補足するとまず根本的な問題として所得が高ければ能力や努力、貢献の要求水準が高くなり、逆に低ければそれらのものの要求水準が低くなるべきであるというのがある。つまり、所得水準自体の差が所得の低いものにとって非常に有利な要因であるということだ。だから、社会保障や所得再分配、公平性や平等を議論する場合において、所得が低いほど重視されるべきである。それは、所得が高いものが搾取しているということを必ずしも意味しないが、公平性や平等というものを考えると所得が低い層を重視するのが当然であるとは言えるだろう。

よくある主張に、所得の格差の問題において努力などの要因も考慮するべきだというのがある。これは、まさにその通りではあるのだが所得の違いを考えると、所得が低いほど要求水準は低くなり、所得が高いほど要求水準が高くなる必要がある。つまり、所得が低いのに貢献度が低く、努力していないのは大問題だが、所得が低い層に過剰な要求水準を求めるのは厳しすぎるかもしれない。

だから、所得が低いのは努力の要因もあるからその人にも責任があるといって責任をその人に押し付け、逆に所得の高い人が他の所得の高い人と比べて決定的に違うとはいえないのに給与が違うのは差別だというのは議論が転倒しているだろう。これは、まさに多くの社会が取ってきた政策そのものであるし、日本が取っている現在の政策でもあるが、所得の低い人にも責任があるから所得が低いのはその人が悪い、それに対して所得が高い人は所得が高いのに相応しい仕事をしているはずだからさらに支援すべきだというようなものだ。この主張の問題点は、努力や能力と、収入との相関関係を考え、高収入には高い要求水準が伴うべきだというごく当たり前のことを無視していることだ。

つまり、市場競争も大事だし、効率性も平等も大事だけれど、もし平等や公平性について考えるのであれば所得が低いほうが優先順位が高いはずだし、支援することによって効果が高いはずだから所得が低い層が優先されるべきだということである。これを、所得水準による要求水準の違いという側面を無視して、効率性と平等について考えたりするから変なことが起こる。所得が低いのには努力などの面でその人にも責任がある可能性があるから条件を厳しくしよう。所得が高い人は努力などで問題がある可能性が低いだろうから徹底的に保護しよう。そして、低所得者層から高所得者層へと再分配を行えば、効率的で平等な社会が訪れるだろう。そんなことはない。

同じように、途上国が貧しいのには途上国にも責任があると言うのにも、同じ構図がある。途上国に問題があったとしても、途上国にそのような問題が起こって現在の状況になったのは支配していた宗主国に責任がある。だから、途上国にも責任があるといって宗主国の責任を免除するのは意味不明だ。ヨーロッパ人がアフリカで徹底的に搾取したのには現地にも責任があるから途上国が悪い。だが、日本が台湾や朝鮮半島でやったことは現在大問題が起こっている訳ではないので現地には責任があるわけではない。だから、日本がやったことは悪魔の所業だ。問題は、現地にも責任があったとしても、現地の状況が悪くなるほど支配している国の責任は重くなっていくのであって軽くなっていくのではないということだ。

結局、所得の違いが問題を判断する重要な要因であるために、それを考慮すると所得が低いものに緩く、高いものに厳しくならざるを得ない。だから、貧しいのにも責任があると言うのは、努力とか能力とか平等とか色々な要因を考えたが、貧しいものにとって有利な条件である所得の違いは考慮しなかったという無茶苦茶な議論の結果でしかない。所得の違いを考慮すれば、所得の高いものに対する保護が正当化されるためにはほとんど不可能なくらいの好条件が重ならないと無理なのに対して、所得の低いものに対する保障は大抵の場合に正当化できることが明らかである。だから、所得の違い(場合によっては資産水準も含めて)に基づいて、それ以外の要因を無視して社会保障を構築するのが合理的なのである。

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金持ちと貧困

2009年05月14日 | 経済学

このブログ知らなかったのだが、かなり面白い記事を見つけた。いかにもありがちな意見なのだが、よく聞くのでこの機会に少し書いてみる。

世界にはアメリカや日本のような豊かな国々があります。
また、アフリカの多くの国々のように極めて貧しい国々もあります。
その中間にはBRICsのような新興国群があります。

もっとも日本は1990年ぐらいまでは少なくとも経済的には世界でトップクラスのリッチな国だったわけですが、その後はみなさんご存知のように経済大国としての地位はどんどん凋落して、今では香港やシンガポールなんかより国民一人当たりのGDPは下になってしまいましたけれども。
ところで、国民一人当たりのGDPと言うのは簡単に言えば国民一人の平均年収みたいなものです。

アフリカの多くの国々が最貧国です。
アジアにもカンボジアや北朝鮮のような最貧国があります。
南米にもボリビアのような非常に貧しい国々があります。

世界の最貧国では生まれてくる赤ちゃんは劣悪な衛生環境で次々と死亡します。
飢饉で国民が餓死することもあります。
また、独裁政権による虐殺や、国内での内紛も絶えません。

こう言った貧しい国々は世界の先進国に搾取されているから貧しいのだと言う考え方もあります。
また、以前、NIKEのアジアの工場で未成年労働者がいたことが大問題になったことがありました。
そこでもNIKEのような多国籍企業が途上国を搾取しているとのイメージができあがりました。

しかし、そう言ったことは実は事実と全く反します。
多国籍企業に比較的安い賃金で雇用されることが搾取と言うなら、今、世界で急速に成長し豊かになっている発展途上国はむしろ搾取されているからこそ豊かになっているのです。
インドや中国、最近ではベトナムなどは安価な労働力が目当ての多国籍企業がどんどん進出したから先進国の技術や資本が移転して豊かになって行ったのです。

その点、アフリカの最貧国はこう言ったグローバルな市場経済に組み込まれずに取り残されているからこそ貧しいままなのです。

ここで簡単な思考実験をしてみましょう。
例えばアフリカのウガンダやルワンダと言った最貧国が明日、この地球上から消滅してしまったとしたらどうなるのでしょうか?
一部の先進国や多国籍企業が搾取しているからこそこれらの国々は貧しいのだとすれば、搾取される人々がいなくなったら何か困りそうなものです。
想像力を働かせてよく考えてみてください。
そうです。
ウガンダやルワンダが明日なくなっても、世界の先進国もグローバル経済もほとんど全く何の影響も受けないのです。

貧しさのひとつの理由はこのような世界の貿易体制に組み込まれていないことなのです。

最貧国で生まれても養子や孤児としてアメリカなどの先進国で育ち成功する個人もたくさんいますから、最貧国が貧しいままなのはそこの国民のDNAのような生物学的問題だと言うのもまったく的外れでしょう。

実際問題として、最貧国がなかなか這い上がれないのは一にも二にも政治が腐敗しているからです。
一部の政治家や役人や軍人が自分やその身内だけで富を独占し、自分たちの権力を脅かしそうな自国民を見つけては次々と虐殺しています。
大日本帝国もそうであったように、時として自国のトップが一番の害悪なのです。

最近、ネットカフェ難民や派遣村のように日本でも何かと格差が話題になりますが、これも金持ちや大企業が搾取しているから彼らが貧しいと言うのは全くのデタラメです。
同じように思考実験をしてみましょう。
ネットカフェ難民と派遣村の住人が明日日本から消滅したとしてみましょう。
そうです。
実は金持ちも大企業もまったく何も困らないのです。
困らないどころか社会福祉の税負担が減って助かるぐらいなのです。
このように富める者が搾取していると言う考え方は論理的に完全に破綻しているのです。

だからと言って、貧しい国をほかっておいていいわけでも、日本の中の貧困問題を放置していいわけでもありません。
実際、世界の先進国は、最貧国を救うため(焼け石に水ですが)様々な援助をしています。
日本だって経済的に貧しい人や地域に様々な補助が税金から支払われています。

しかし、貧困問題の矛先を金持ちや大企業に向けることは全くもって何も問題を解決しないのです。
元イギリス首相のサッチャーが言ったように、金持ちをいじめて貧乏にしても、もともとの貧乏人はもっと貧乏になるだけなのです。

最近の日本国政府やマスコミを見ていると、日本はみんなでどんどん貧しくなる方向に進んでいるような気がして、僕はたいへん憂いています。

国内問題においても国際問題においてもよく耳にする国内や途上国の貧困に対して、先進国やお金持ちは責任がないという主張だ。このような主張は昔から延々と繰り返されてきて、最近の日本の派遣社員の問題に対する自己責任論においても出てきたものである。このような主張は、階級闘争論などの対極にあるようにも思えるが、実はそのような思想と補完的な位置にある。

過去から現在にかけて行われてきた平等と不平等に関する議論の抱える大きな問題は、貧困の原因の一つが富めるものによる搾取であり、貧しいものを支援することが必要だという主張が受け入れられてこなかったことである。格差に関する議論が始まると必ず努力の話が持ち出され貧しいものがちゃんと努力していないという主張が繰り返された。その結果、貧しいものは被害者ではなく怠惰な加害者として迫害されることになった。その一方で、労働組合のような特権的な集団が資本家に搾取されていると主張し出せば、その意見に従わないものは迫害されその主張が通ることになった。つまり、貧しいものを保護するのではなく、裕福なものの中の一部の搾取されているとされる層を優遇することによって平等な社会が訪れるという前提の元で政策が行われた。

だから、貧しいものが怠惰だとか、途上国が貧しいのは政治が腐敗しているとか勤勉ではないとかいう主張は昔から繰り返されている屁理屈の一種である。問題の本質は単純に金持ちから貧しいものへと所得を分配すればいいのに、努力や生産性などを考慮した結果、貧しいものを迫害し逆に裕福な者を支援することが正しいことであるという結論が昔から繰り返されてきたことである。だから、貧しいのは金持ちが悪いからではないという主張と、資本家との階級闘争を唱える左翼の主張とは表裏一体の関係にあるものであると言っていい。

現在の格差や貧困の大きな原因はそもそも富める者から貧しい者への所得再分配がほとんど行われていないことが原因である。逆に、貧しい者から富める者へと富が移転してしまっている。これは、歴史的には昔からあったことであるが、それが二十世紀においてもひたすら続いてきたことが現在の不平等の原因である。実際、途上国は先進国に極めて不利な条件で取引をすることを余儀なくされ搾取されたが、最貧国さえ少額の援助しか得ることが出来なかった。国内においても、社会福祉の大部分は中高所得者層に対する援助へと消えていき、貧困層への支援は低額に止まった。つまり、貧困や格差の本質的な問題は、そもそも支援自体がほとんど行われなかったことである。

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昨日の補足

2009年05月10日 | 経済学

昨日の記事がかなり分かりにくくて申し訳ないのだが、今日は少しその補足を。結局のところ人文科学の議論の大きな問題は少しの違いであっても違いがある限り非常に大きな影響を与えると主張されることである。貸金法改正に対する批判においてもそうであったのだが、上限金利規制をすると貸し出しが縮小して困る人が出てくるとよく言われた。当然そのような影響もあるのだろうが、現実問題としては他の効果との総合的な視点から善悪を考えていく必要がある。だから、部分的には悪影響があったとしても全体として好ましいのであれば行っていくべきであるし、逆に全体として負担が大きければやらないほうがいいだろう。そのような視点から考えずに、違法な取立てなどによって長年にわたって社会的な問題を継続的に起こしてきた業界を、一部に悪影響が出るかも知れないという理由で弁護し免罪するという考え方が多くの人には理解できなかったのだろう。

学者達はそのような総合的に判断するような考え方を情緒的と非難し、白黒はっきりつける判断の正しさを主張してきたが現実の世界においてそれが正しかったのかどうかは不明だ。問題は、少しでもいい変化がある、或いは悪影響があると判断されると極端な結論が出されたがそれが本当に正しかったのかどうか疑問が残ることだ。十九世紀においては、国家による介入が市場に与える悪影響が心配され、植民地諸国が関税などをかけることに対して徹底的な非難が行われ否定されたが、欧米諸国が暴力によって産業を破壊したり、条約によって植民地に一方的な条件を飲ませることはあまり前のように行われていた。貿易を規制すると双方の利益を損なうということだが、本当に欧米諸国の一方的な暴力と強制を黙認したままで、貿易だけを放任すれば双方の利益になるのだろうかと思う。

このように一部で少しでもいい影響がある、或いは他の部分で規制を認めれば悪影響があるという理屈で特定のものを弁護することを認めると現実問題として理想からは程遠いものが延々と認められていくという問題もある。結局、少しでもいい影響が残ればいいのだから、その範囲内でいくらでも理論や理想からかけ離れたことを正当化出来てしまう。そのようなやり方において、社会的に望ましい状態というものを実現することが可能なのだろうか。

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所得再分配の効率

2009年05月08日 | 経済学

最近忙しくて更新が減って来ているが、何とか更新していきたい。さて、最近取り上げている税金による所得再分配の話であるが、このような議論になると累進課税や福祉給付による労働意欲の低下を心配する声が上がってくる。そのような議論は学問の世界においても活発で税金が経済活動に与える影響や、福祉が労働供給に与える影響が長年研究されてきた。大まかな結論は、やはり何らかの影響が、特に過度に行うとかなり大きな影響があると言うものだ。

しかしながら、ここで注意すべきなのはそのような負の影響が、社会的平等の向上による社会効用の増大などの正の影響と比べてどうなのかということである。また、労働組合による労働者の保護や、その他の補助金などと比べた場合にどれだけ効率的なのかということを議論する必要がある。日本における解雇規制の議論のように、正社員の特権的な権利の段になると思考停止して他への影響を考えずに絶対的な善として、他の政策との善し悪しを考えることを否定するのは間違いだろう。しかしながら、税制の与える影響が厳しい視点で論じられているのに比べると、労働組合の影響は資本家や経営者と対峙する必要があると言う一言によってちゃんとした効果の程度が議論されていないのが現実である。

私の考えを述べると、資源配分を歪める労働規制などは出来る限り緩和して、公平性を高める政策は平等な負の所得税などの所得再分配政策によって行うのが良いのではないかと思う。税金によって所得再分配を行うというと労働供給の変動を気にする人もいるかと思うが、それ以外のやり方の場合には資源配分自体が歪むことになるので現実問題としては二重の意味で歪んでしまっていることになる。また、公平な所得再分配と比べて、高所得者層が保護され再分配されないどころか、所得が逆再分配されている面があることを考えると、非効率で効率性・公平性の両面で劣っているといえる。

だから、税制や福祉給付による歪みは有るだろうが、その歪みは現在のやり方に比べればはるかに少なく、さらには不平等な形を取っていないと考えられる。累進課税や生活保護になると途端に政策の負の面を過剰に気にしだし、現在の行われているそれ以外の社会的な制度が持つ異常な歪みを気にしないのは矛盾しているだろう。また、このような政策の考え方はスウェーデンが取っているものに近く、労働の流動化を図ることによって経済を活性化しつつ、公平性を出来る限り保つことが出来るのではないだろうかと考えている。

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所得税の効果の補足

2009年05月05日 | 経済学

所得税の効果の話の補足なのだが、一般的には所得税をかけると、特に累進的な所得税をかけると高所得者の労働意欲を削ぐ、またはそれが労働の供給量を減じるという議論がされる。この点に関してはこの前、所得効果と代替効果の両方の影響があるので所得税をかけたからといって労働供給量に悪影響があるとは限らないし、実際実証的にもそれが裏付けられている訳でない。

しかし、税金には税金を徴収するということがもたらす効果があると同時に、徴収された税金が使われることによってもたらされる効果もある。特に、税金には所得再分配が目的の一つとして考慮されている面が有るので、高所得者から徴収した税金が低所得者層に分配されることによって社会の不平等を解消し、社会の公平性を保つ働きがある。その結果、所得が上がるにしたがって課税される税率が上がっていき、逆に言うと所得が低いと税率が低い(さらには一定額が逆に政府から支給される制度がある国もある)ということになる。

だから、税金そのものの効果だけではなく、負担が所得の上昇に伴って上がっていくことによる税金の効果というのもある。この効果は、税率が急に変化するほど大きく、変化が緩やかであれば効果は少ない。だから、最高税率を元々越えているような人にとっては違いはないが、所得税の累進課税の階段を上っていく中高所得者層にとっては影響がある。また、低所得者層向けの給付が有る場合には、この効果はかなり大きなものと成ることになる。フリードマンが負の所得税を提唱したのも、福祉給付が持つそのような負の効果を緩和しようという意図があったからである。

だから、実質税率が上がっていくことによる効果は実は所得が低い方が大きな影響を与える面がある。だから、このような影響も考慮して制度を設計する必要があるがとりあえずのところよほど極端でもない限り、所得再分配を行うことは社会の公平性を高める有力な手段であるだろう。

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