経済発展には教育が不可欠であるという主張はよく聞くものである。これは一面の真理ではあるのであるが、現実の世界を考えると必ずしも正しいわけではないことが分かる。多くの発展途上国が教育に予算を割き、経済発展のための人材を育てようと苦心してきた。しかしながら、途上国とって現在大きな問題となっているのは頭脳流出である。教育、特に高等教育に予算を割いて高度な能力を持つ人材を育成しても、海外との人材獲得競争に負けて、あるいはそもそも国内に人材を活用できる産業がなくて、優秀な人材が海外に流出し教育予算が無駄になるということが起こっている。どちらも同じことだが、結局は国内に高度な教育を受けた人材を最大限活用できる産業が育っていないために、人材が活用できず結局は低い収益率しか上げられず経済発展に繋がらない。
このようなことを考えると、人材育成というのも重要であるがそもそもそのような人材を活用できる産業の存在というものが非常に重要なのではないだろうかという気がしてくる。このことは、先進国内と途上国を比較してみると分かるのであるが、高度な教育を受けた人材においては明らかに違いがあるかも知れないが、それ以外の部分においては先進国と途上国との間で経済水準を説明できるほどの差を見つけることは難しいように思う。それに、営業職など現在の高等教育による高度な教育を必須とする人材だけではなく、それ以外の仕事においても先進国においては高賃金の仕事がたくさん存在している。
そのことを考えると、そこまで教育水準が高くなくても優れた産業が存在すれば人材が活用され、より経済が発展するのかも知れない。当然、教育水準の高さが経済発展や、経済成長に影響を与えるのであろうが、それを極端に重視して世の中を見ることを正当化するのほどには影響力が強くないように思う。
まるで海外への頭脳流出がロスのように考えているようですが、これは極めて視野狭窄な話なのです。
海外に流出した頭脳は回り回って、全体の利益になりえるからです。
仮に流出した先が鎖国であればそれこそ教育コストが無駄と言えましょうが、そのような世界経済は現実的ではありません。
そして、指摘される「頭脳流出」というのは極めて極端な話なのです。
確かにTOP頭脳は先進国に流出しますが、教育ノウハウは簡単には流出しません。
そのいい事例がスイスで、職業技能集団は国内に留まります。
それは職能を発揮できる環境であることもありますが、教育制度の充実が社会において名誉・栄誉を創造するからです。
つまり、教育システムが社会の根幹にあって高い技能者は常に厚遇されるからなのです。
逆に教育環境が整備されていない極東アジア諸国では、職能技術者への畏敬の念が希薄になってしまいます。
これは、徒弟制度がなかった部分にも問題があるのでしょうが、社会全体が教育への配慮を行っている国ならば流出しないのです。
次に注意する必要があるのが
>教育水準が高くなくても優れた産業が存在すれば人材が活用され、より経済が発展するのかも知れない。
いわゆる原始的な生産活動の産業ならば、産業システムの優位性で人材活用が可能でしょう。しかし、現代社会の産業の高度化・汎用化・広域化は人材の質の依存度が高いというしかありません。
極めて分業的専業的な生産活動は、ルーティン化しつつも、非常時のフレキシブルな対応を必要とするのは、機械化による弊害とも言えるでしょう。
このような視点からすれば、やはり教育水準が根幹であるのです。
そして、重要なのは、教育が幸福感を創造することです。
経済的豊かさの限界は有限資源の世界において仕方のないことです。
そんな中で教育で物質的な幸福感だけではなく、精神的豊かさ・人間的豊かさの重要性を学ぶことが重要なのです。
教育を経済の視点だけで捉ええる近視眼は教育の本質から乖離したものです。経済を教育の視点を強くすることも、現実乖離です。
このように教育の福利的な効用も経済学で考える必要性があることも当然でしょう。
その視点を失った教育論であるならば、それは単なる経済の視野狭窄の見方に過ぎないでしょう。
雑文失礼しました
>まるで海外への頭脳流出がロスのように考えているようですが、これは極めて視野狭窄な話なのです。
ということですが、明らかにその国にとってはロス以外の何者でもありません。ここで議論しているのはその国が発展するかどうかの話なので、頭脳が流出することは明らかなロスであると考えられます。
その理由は、日本の対中国へのODAが最終的には、日本にも還元しえるように、
技術・情報は大規模に共有化し、一般化しえるからです。
おそらく瞬間的なロスだけで考えているのでしょうが、歴史的にみてもロスではありません。
そして、原理的にいえば、ロスになるのは、自国で囲い込むことの方が大きいことです。
当然のことですが、世界経済規模でいえば、優秀な技能・技術は高い技術水準の社会によって効率的に運用されるべきです。それが世界経済規模でいえば、もっと合理的な資源分配であることは、リカードの比較生産費だけでも明白でしょう。
単独の国家規模でロスであるにしても、それがもっとも合理的な資源活用法になることは、経済学の基礎です。
(まさか、リカードも知らずに、技術などを論じているとは思いませんが)
そして、議論の本題たる回答も提示しています。
グローバル化を止められない国際経済情勢において、どうやっても、日本だけで経済運営するのは不可能です。
さて、議題は案外、簡単に私の説明でも解決できます。
頭脳流出は歴史的には頻繁に行われますが、その頭脳が齎す利益とは非常に限られています。
ぶっちゃけ言えば、先端技術頭脳は、巨大な利益になりえないのです。
では、何が利益になりえるのか?
安定的な技術運用が可能なだけの技術力の基礎と、その基礎を支える基礎的技術水準です。
それをよくあらわしているのがアメリカであり、学術先進国だった国々です。
アメリカ・イギリスなどは、学術的には常に高いレベルでしたが、彼らは流入する頭脳で国益を形成しているとは言い切れません。
むしろ、産業として多くの結果を残すための基礎的な人民の能力が問われるわけです。
だからこそ、日本の戦後は、高い頭脳が海外にあっても、繁栄したのです。
高い頭脳が国富ではありません。利益をもたらす可能性ではありますが、その可能性を引き出すのは、人民の基礎的力であって、特異的頭脳ではないのです。
つまり、最初から、国家経済を考える上で、流動的な頭脳を問題にしているのがナンセンスともいえます。