以下は、下記の故・西部邁氏の本「マスコミ亡国論」からである。
活字が読める日本国民は全員、今すぐに最寄りの書店に購読に向かわなければならない。
世界中の人たちは、私の翻訳で、皆さんの国のマスコミも同様である事を知るだろう。
以下は前章の続きである。
日本人に擬態民主主義を植えつけた日教組教育
マスコミ人士が卑しい人格の持ち主だとまでは断言しない。
彼らは自分らの大衆路線が精神汚染をもたらすであろうことを懸念して、大義名分を求めもしたのである。
その大義名分がたとえばリクルートではカネをめぐる平等主義、女性スキャンダルでは女をめぐる人権主義なのであった。
つまり民主主義的観念体系における常套文句がまたしても使用されたわけである。
私たちの眼前にあるのは、民主主義にたいするシュミラクールつまり「擬態」であり「振り」なのではないか。
私たちの関心はノゾキでしかないのに、それに平等主義の振付がほどこされるということである。
偽装民主主義が私たちの精神に覆いかぶさっている。
また、民主主義そのものの本質の一部として「擬態」があるというふうにいってもよい。
民衆が主権をもちうるほどに優秀な存在だとみなすことは、いってみれば、人間が神の擬態をやっていることにほかならない。
デモクラシーの発足と同時にプラトンたちがその衆愚政治への転落を心配したのはそのためである。
トックビルが「多数者の専制」としてのデモクラシーによる個性の圧殺を憂えたのもそのためである。
この民主主義に内在する擬態という要素が戦後日本においてどうしてこうまで無視されるに至ったかについてはいくつもの理由があるが、率直にいって、教育の効果を第一に挙げるべきであろう。
いわゆる日教組教育といわれる民主教育を文字通り信じ、型通りに受け入れている日本人はかならずしも多いとはいえない。
多くの日本人が民主教育のなかで吐かれる平和、平等、福祉といった類いの美辞麗句にたいして空々しさを感じている。
しかし、小、中、高、大学、合わせて16年という長期にわたってその種の空文句を頭に詰め込まれ、それに応じて試験が行われ、試験の成績に応じてそれぞれの人生が可能性が定まるという民主主義的な言語システムに日本人は慣れ親しんでしまった。
それゆえ、擬態民主主義に沿っているかぎり人生を無難に過ごすことができ、ときとして褒賞すら与えられるといういわば精神的パブロフ反射運動が身についてしまったのではないか。
新聞記者こそそうした反射運動の達人である。
彼らはなんらか激しい感情をもって権力者のいかがわしさを批判しているのではない。
ただ、民主主義的な言語体系にもとづいて権力者のいかがわしさを批判しておけば、それだけで、記事としては無難であるのみならず販売部数も伸長していくということをわきまえているのだ。
この項続く。
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