以下は前章の続きである
裁判といえぬ裁判
容疑者は大部分が内務省の軍事法廷において裁判を受けたが、一部は内務省の「特別会議(オソ)」という名の欠席裁判で裁かれた。
若槻泰雄の前掲書によると、裁判は被告人の国籍、氏名、年齢などの人定尋問に始まり、検事の論告がある。
論告と言っても、取調べで無理やり自白させ署名させた供述書によるものか、強要された証人の供述書を読み上げるのである。
この間、5分から数10分、1時間以上はまれだった。
ほとんど被告人の反論も許されないまま審理が終わり10分ほど休憩ののち判決が下される。
まれに弁護人をつけることがあったが、弁護はしなかったので実質ゼロだった。
しかもハバロフスク裁判を除いてすべて非公開だった。
弁護人のいない裁判、審理らしき審理のない裁判を公開できるはずもなかったのだ。
だがこのような裁判でもソ連にとって十分ではなかった。
膨大な人びとを収容所や監獄に送り込むには非効率だったのである。
そこで考え出されたのが「特別会議(オソ)」である。
これは「欠席行政裁判」「書類裁判」と呼ぶべきもので、裁判を開くことなく、単に書類決裁だけで有罪を宣告したものである。
罪状についていえば、「戦犯」容疑で逮捕しながら、ほとんどはロシア共和国刑法第58条の「反革命罪」で重刑を科すという詐術を用いた。
犯罪の実行行為ではなく「企図」や「前職」を根拠にして、スパイ罪や資本主義幇助罪などに処したのだ。
カタソーノワ編の資料集『ソ連における日本人捕虜』によると、日本人「戦犯」の97%がこの58条組である。
ソ連の司法制度が西側の制度と比べていかに出鱈目なものであったか、これで十分だろう。
加えて日本人「戦犯」=無実の囚人説を補強する事実を指摘しておきたい。
ソ連は、ソ連が崩壊する直前の1991年10月18日に「政治的弾圧の犠牲者の名誉回復に関する法律(名誉回復法)」を制定した。
この法律の目的は、1917年のロシア革命以降ロシア連邦領内で政治的弾圧を受けたすべての犠牲者の名誉回復、その公民権の回復、暴政のその他の結果を除去すること、物的損失に現時点で応分の補償を確保すること、だった。
要するに、ソ連の政治犯は無実だということを認めたのである。
日本人「戦犯」受刑者も当然、この法律の対象になった。
実際に再審申請の結果、日本人受刑者2600人あまりのうち900人あまりが名誉回復されたのである。
では残りの者は有罪と追認されたのかというと、それは違う。
この名誉回復活動を椎進した斎藤六郎(全国抑留者補償協議会会長)が死亡して、この活動が途絶えたのである。
もし途絶えなければ、ほとんどの日本人受刑者は無実と認められたはずだ。
この稿続く。