以下は昨日の産経新聞、「正論」、からである。
私は、先日、BSフジのプライムニュースで、彼と西部邁氏が出演していたのを、偶然、知って観ていた。
私は、特に、西部邁氏には、とことん元気で、発言を続けて頂きたいから、僥倖のようにして、視聴していたのである。
佐伯啓思氏を初めて知ったのは、東京~大阪を頻繁に往来していた頃、新幹線の中に置いてあるWEDGEで知り、何度か言及して来た事はご存知のとおり。
題字以外の文中強調と*~*は私。
日本は自らの意思で将来を描け
京都大学名誉教授 佐伯啓思
平和・従米・繁栄がワンセット
戦後72年である。ただ1945年の8月15日には戦闘は終結したものの、その後、日本は連合国の占領下におかれるので、主権国家としての「戦後」は52年4月28日に始まる。戦後65年が正確なところであろう。
従って、占領下という、戦時中でもなく戦争終了後でもない、いかにも中途半端な「戦後」に生まれた者も、おおよそ高齢者というカテゴリーになだれ込み、年金やら介護やらで、社会と財政のお荷物になりつつある。
本人たちは、戦後日本を支え、平和国家を実現し、経済成長を達成したのは、この中途半端な戦後世代の努力の賜物だ、というかもしれない。
これまでの貢献とこれからの負荷と、どちらが大きいかは不明であるとしても、「戦後」を象徴する一つの世代が徐々に退場することに間違いはない。
実は、私もこの中途半端な戦後世代に属するので、この年になると、改めて戦後とはどういう時代だったのか、と考えたりもする。
戦後をかりに52年から始めるとすれば(沖縄ならば72年からということになるだろうが)、ひとまず大きくまとめると、それは、憲法上の平和主義と安全保障上の対米従属と経済上の物的繁栄がワンセットとなった時代であった。
52年の講和条約締結にさいして米国による憲法改正の打診を拒否して、平和憲法の維持と対米従属と経済第一主義を採用した吉田茂首相の選択から戦後は始まった。
*憲法改正反対をイデオロギーとしている連中は、現在の憲法を作り、日本に与えた米国自身が、既に、1952年の段階で、自分たちが恣意的に与えた憲法が、現実社会、現実の国際情勢に全く合わないものであることを痛感し、間違いだったと認めていた事を、この章で骨身に沁みて知らなければならない。
吉田茂は、ただものではないから...徹底的に叩き潰した日本に対して、ローマがカルタゴに対して行った復讐政策を更に実行し、与えた憲法に対して、米国に意趣返しをしたのである。*
いわゆる吉田ドクトリンと呼ばれる軽武装・経済中心路線である。 われわれは何かを選択したか
もっとも戦後にもいくつかの段階があり、それぞれの時点での選択肢があり、それぞれの時点での選択技があった。
第1段階は、高度成長とその終焉である。
70年代の初頭はまた、ベトナム戦争やブレトンウッズ体制の崩壊にみられる米国の凋落、世界的に石油ショックもあり環境や希少資源が問題とされた時代でもあった。
日本でも高度成長は終わりをつげ、その象徴である田中角栄氏が失脚した。
第2段階は、混乱の70年代を経て、日米間の緊密な経済協力へと行きつき、バブルに踊った80年代である。この虚飾の宴は90年代の初頭に終わる。
それはまた、世界的にみて冷戦の終結であり、グローバリズムの始まりでもあった。
第3段階は、米国主導のグローバリズムとIT革命、それに金融
中心経済に翻弄された90年代から2000年代にかけてである。
その結果が、08年のリーマンショックであったが、さらに日本の場合には、11年の東日本の大震災に見舞われる。
とりわけこの大震災は極めて重要な意味をもっていた。
それは、例外的な1回限りの事態ではなく、1995年の阪神大震災も含めて「巨大災害の時代」の始まりというべきであった。
「戦後」という時間をざっと眺めても、これぐらいの区切りは容易にできるだろう。
ではその時々で、われわれは何かを明確に選択してきたのだろうか。憲法改正もようやく論じられるようになったし、日米安保体制に関する議論も提起されたものの、大きくいえば平和憲法、対米従属、経済成長主義、という3点セットはほぼそのままである。
このサンフランシスコ体制とでもいうべき事態を、第1次安倍内閣の言葉を借りて「戦後レジーム」というならば、それは65年たっても継続している。
全てを問い直さねばならない
だが、今日、その全てがもはや自明のものではなくなっている。
中国との軋轢や北朝鮮問題、「イスラム国」などによるテロの拡散は平和憲法への重大な挑戦であり、米国のトランプ大統領の登場は、米国の政治そのものの信頼失墜を意味し、日本の人口減少や襾齢化によって、経済成長をもはや自明の価値とはできなくなった。
振り返れば、われわれは戦後のいくつかの節目で、自らの進路を自らで決定するという意思を示すことなく、ほとんど状況追随であり、とりわけ米国追随的にことを済ませてきた。
70年代の高度成長終焉後も、その後、多少の混乱と日米経済摩擦はあったものの、結局、80年代後半の米国への政策協カヘと至り、90年代のポスト冷戦とグローバル化の時代もまた、構造改革などを経て米国経済への追従となった。
しかし、今回はそういうわけにはいかない。
米国が切り開いたグローバル競争はあまりに問題を孕み、国際情勢は不安定に流動化している。
しかも先進国の先頭をきる人口減少と巨大災害という日本独特の事情を考慮すれば、われわれは、憲法、日米関係、グローバル競争による経済成長主義の全てを一度、問い直さねばならない。
世界の状況に追従するだけではうまくいかない。
答えは容易ではないにせよ、まずはそれらを論議の土俵に乗せる必要はある。
戦後初めて日本は、自らの意思で将来を構想しなければならない岐路に立たされているようにみえる。
その論議を若い世代に手渡すのも、退場しつつある中途半端な戦後世代の責任というべきであろう。
(さえき けいし)