文明のターンテーブルThe Turntable of Civilization

日本の時間、世界の時間。
The time of Japan, the time of the world

そうすると、一体シナは誰が治めるのでしょうか? そうです、光秀や秀吉など有力武将たちなのです。

2020年10月12日 15時33分38秒 | 全般
以下はラフの原稿である。
NHKの大河ドラマ、麒麟が来る、について。
ある回から大分、観る気がそがれている。
この興味深いドラマの制作者達の中にも自虐史観の持ち主達がいて、興ざめしたのである。
信長の偉大さについては後述する。
コロナ禍で中断、再開されてからは、本当の主人公は、旅芸人一座の女座長と医者の元で働く、おこまの二人の女性に、変わってしまっていると言っても過言ではない。
この二人に製作者達が語らせることは平和憲法の精神である、武力に対する嫌悪、戦争反対、武力放棄、その内、平和憲法遵守などと言い出しかねない程の偏向ぶりである。
これでは日本史を彩った武将たちも形無しだろう。
こんな物語を、
上記の女二人が、日本史上最大の偉人である信長よりも賢明で偉いかのような描き方をしている物語を、
一体、どこの、まともな人間が観られるか!
 
私は以前はNHKの大河ドラマは殆ど観なかった。
吉田松陰等をテーマにしたシリーズから観るようにはなった。
韋駄天は、朝日新聞が登場した後半からは全く観なくなった。
女城主直虎は、前半の主人公だった子役(役者として天賦の才能と言っていい)の存在に驚嘆して、結構、観た。
麒麟が来る、は、私が何度も言及する信長と帰蝶が登場するものだったから最初から楽しみに観ていた。
先ず、私が、信長を、日本史上、否、世界史上でも稀な大天才であると認識している理由を書く。
信長は、世界史上で唯一人、中国を正すことが出来た唯一の人間だからである。
 
GHQは日本占領統治を成功させるために、日本の報道機関を完璧に統制し、支配下に置いた。
日本人に自虐史観を植え付けるために使用したのが朝日新聞とNHKである事は歴然たる事実である。
つまり日本人を、彼らの支配にとって好都合に洗脳したのである。
NHKの報道部を支配している人間達は、今でもGHQが植え付けた自虐史観に囚われている。
GHQが日本永久弱体化の為に与えた、所謂、平和憲法を遵守する。
小学生にでも分かる現実に目を瞑っている、世界最低の愚かさが極まっている人間達である。
 
だが、時々、本物の技量を見せる時がある。
歴史ヒストリア、と言う番組は、結構、好きな番組で、かなり見ている。
大分、前になるが、織田信長の回があった。
読者は御存知の様に、私は、10年以上前に、京都を再発見し、週末のたびに、京都を散策していた。
2012年初頭から2年ほど前までは、京都に住んでいない人間としては、世界一の、京都訪問者だった。
京都市役所の前に在る本能寺、そもそも、京都のど真ん中、市役所の前に本能寺が在る事も、京都の凄さである。
予定外に、ぶらりと立ち寄った時の事である。
本能寺自体は、失礼ながら、京都の神社仏閣の中では何という事も無い寺である。
ただ、この日の私は、異様な感慨に囚われたのである。
今を生きる信長であると言及して来たのだから当然の事だったのかもしれないが。
 
信長が深く私の心に去来した。
私は深く信長の無念を思った。
日本史上最大と言っても良い天才が夭折した場所である。
彼の壮大な構想が潰えた場所。
歴史ヒストリアは、信長に重用されていた明智光秀が謀反を起こした理由を見事に解明した。
明智光秀は、その他の一般の領主達と同様に、一族の安泰と領民の安泰を願っていた人物である事に相違はないだろう。
彼は、信長が何者かを誰よりも知っていた。
だから、信長が、重臣である彼に話した事に、恐怖したのである。
信長は天下人の資質を持った人間である。
尋常ならざる器である事を明智光秀は誰よりも知っていた。
その信長が、光秀に、こう言ったのである。
「わしは、唐国に打って出て、唐国を統治しようと思う。何故なら、日本は狭い、家臣たちの功に応じて与えなければならない領地は、いずれ無くなるからだ…」
光秀は心底、恐怖したのである。
彼が、死も恐れず、信長の為に戦い、働いて来たのは、信長なら、戦国を統一できる。
明智一族の安泰、繁栄も為される、と確信していたからである。
それが、これで終わりではなく、今度は唐国に行かされる!
これは、全く彼の思考の範囲外の事であり、正に晴天の霹靂だった。
だが、彼は信長が、ただものではない事、正真正銘の異能の人である事を知りぬいていた。
このままでは自分は明国に行かされる。
それで彼は信長を討ったのである。
私の「直感」が正しかった事、あの日の、歴史ヒストリアは、珍しく真実を伝えた事を、以下の記事は証明している。
信長の時代、中国は明だったな、と検索して発見した記事である。
https://blog.goo.ne.jp/akechikenzaburotekisekai/e/dd45887bcc0ea039eb548f88d4774d05
もし、信長が天下統一していたら?(中国征服の戦略立案)
前回は信長がイエズス会を利用して中国征服に向けた艦隊の準備をするところまでのお話でした。
今回は侵攻軍の部隊編成や中国征服後の支配体制などをどのように考えたかのお話をします。
見本になるのが秀吉の「唐入り」(からいり:中国侵略のこと)の際の計画ですので、まず、それを見てみましょう。
文禄の役の緒戦で勝利しソウルを占領した頃に秀吉が関白秀次(秀吉のおい)に宛てた朱印状があります。
これは中国・日本・朝鮮の国割りの計画を書いたものです。
それによると次のように三国のそれぞれに天皇と秀吉一族を置く計画でした。
 【中国】 皇帝:後陽成天皇
      関白:豊臣秀次
 【日本】 天皇:良仁(よしひと)親王か八条宮
      関白:豊臣秀保(秀次の末弟)か宇喜多秀家
 【朝鮮】 国王:豊臣秀勝(秀次の次弟)か宇喜多秀家
 ★ Wikipedia「後陽成天皇」記事
 ★ Wikipedia「豊臣秀次」記事
 ★ Wikipedia「豊臣秀保」記事
 ★ Wikipedia「豊臣秀勝」記事
 ★ Wikipedia「宇喜多秀家」記事
これを見てわかるように秀吉は中国、日本、朝鮮のいずれも豊臣家が直接治める支配体制を考えていたわけです。
侵攻軍の部隊編成もこれに合わせて九州・中国・四国の大名を中心としつつも、その中には小西行長、加藤清正、黒田長政、福島正則、蜂須賀家政、宇喜多秀家、木下重賢などの秀吉寵臣が加わっており、さらに奉行として石田三成・大谷吉継・増田長盛・加藤光泰・前野長康が任命され、正に豊臣政権あげての体制となっていました(徳川家康は参加していませんでしたが)。
 ★ Wikipedia「小西行長」記事
 ★ Wikipedia「加藤清正」記事
 ★ Wikipedia「黒田長政」記事
 ★ Wikipedia「福島正則」記事
 ★ Wikipedia「石田三成」記事
 ★ Wikipedia「大谷吉継」記事
さて、それでは信長はどのような支配体制を考え、どのような侵攻軍の編成をとったでしょうか?
やはり中国、日本、朝鮮の織田家直接支配体制を考えたのでしょうか?
どうやらここに信長と秀吉の政策の決定的な違いがあったようです。
もう一度、フロイスの書いた信長の戦略を読み直してみましょう。
「毛利を平定し、日本六十六カ国の絶対君主となった暁には、一大艦隊を編成してシナを武力で征服し、諸国を自らの子息たちに分ち与える」
この文章で「子息たちに分ち与える」諸国とは何を指しているかです。
信長には20歳代半ばの息子が3人いました。
信忠、信雄、信孝です。
三人を中国・日本・朝鮮に割り振ればちょうど数があいます。
秀吉流に割り振るならば、中国に信忠、日本に信雄、朝鮮に信孝でしょうか。
しかし、文章中に朝鮮の文字はありません。
信長には朝鮮は眼中になかったようです。
諸国とは「日本六十六カ国」なのです。
つまり、日本国内を息子達に割り振って分け与えるのです。
そうすると、一体シナは誰が治めるのでしょうか?
そうです、光秀や秀吉など有力武将たちなのです。
当然、侵攻部隊はそれら武将たちの軍勢で編成されることになります。
ちょうど秀吉・柴田勝家など有力武将を毛利・上杉攻めに送り出し、安土・京都周辺を織田家直轄領に組み換えを図った「第二次構造改革」(拙著『本能寺の変 四二七年目の真実』参照)と同じ構図であり、信長の政策の当然の帰結だったのです。
おそらく信長はイエズス会を通じて得たスペイン・ポルトガルの海外植民地獲得の情報から学んだのです。
インカ帝国を侵略したピサロ、アステカ王国を侵略したコルテスなど「コンキスタドール」と呼ばれた武将の役割を光秀や秀吉に求めたのです。
織田家の血は流さずに領土を拡大するという戦略です。
ここが秀吉の実行した戦略との大きな、かつ根本的な違いです。
 ★ Wikipedia「大航海時代」記事
 ★ Wikipedia「コンキスタドール」記事
さて、この結果がどのように展開していくかは次回をお楽しみに。





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