文明のターンテーブルThe Turntable of Civilization

日本の時間、世界の時間。
The time of Japan, the time of the world

執拗な攻撃に音を上げた小川平二文部大臣は、侵略戦争を認め、南京事件まで認める…日本外交の弱腰がたたって、ついにそうなってしまった

2023年01月07日 17時26分26秒 | 全般

以下は月刊誌WiLL2月新春号からである。
石平さんと阿羅健一さんの対談特集である。
阿羅健一さんが私が永遠に愛する母校の先輩である事は既述の通り。
日本国民のみならず世界中の人達が必読。
江沢民が仕掛けた「南京事件」の大ウソ
2022年は南京事件から85年目。
毎年12月13日には、南京で記念式典が開催される。
日本よ、いつまで黙っているのか!
江沢民の反日政策

罠にはまった日本人

石平 
むしろ子供時代に教えられたのは、「三光作戦」です。
日本軍が中国で展開した残虐な作戦行動「焼きつくす(焼光)、殺しつくす(殺光)、奪いつくす(槍光)」を示す言葉。
では、南京事件はどうか。まったく教わっていないし、当時の中国共産党政権の認識では、南京事件はなかったに等しい。
阿羅 
「三光作戦」は台湾に逃れた国民党軍が敗走するとき、村々に食料を残さないためにやったことですが、日本軍についてはウソです。
石平 
南京事件を拡大させた日本人がいる。
元朝日新聞記者、本多勝一氏の「中国の旅』(1972年)!
阿羅 
現地の人の話を検証も裏取りもせず、南京事件があったと書いてしまった。
しかも事実誤認が多々見られました。
そこで批判が殺到したら、本多氏は「私は中国側の言うのをそのまま代弁しただけですから、抗議をするのであれば、中国側に直接やっていただけませんでしょうか」と言い訳している。
ジャーナリズムの精神に反する行為です。
石平 
恥を知れ!と言いたい。
私は中国の大学でも仕事をしたことがありますから、よくわかるのですが、海外からマスコミ関係者が取材や調査に来ると判明したら、一ヵ月前から中国共産党で対策チームを組織し、会議を開いて、どのように対処するかを話し合います。
そして組織内で役割分担を決め、シナリオをつくり、「お前がこういう役を演じろ」「お前がそのように言え」と事前に何10回も練習する。 
本多氏も同じような罠にはまったのでしょう。
日本の大手新聞社の記者が来るから、時の政府が現地の人々に「お前は70歳だから、日本軍が悪いことをしたのを見ただろう。それを話せ」と強制する。
断ることはできません。拘束されますから。
それで一所懸命、暗記する。でも、暗記だけではダメで自分の言葉で言わなければならない。
それが中国共産党のやり方です。
阿羅 
実に徹底しています。
石平 
そして、本多氏は中国共産党の“プロパガンダ”をそのまま執筆し、世に流布させてしまった。
時の共産党政権に利用されたのです。
実に罪が重い。

批判された教科書検定
阿羅 
『南京事件はなかった』でも触れていますが、日本政府が南京事件を正式に認めたのは、1982年のことです。
次年度から使われる高校教科書の検定結果が新聞各社で取り上げられたのですが、その教科書で、南京事件のことを次のように記述しました。 
「南京占領の後、日本軍は中国軍民多数を殺害、暴行、略奪、放火を行い南京大虐殺として国際的非難を浴びた。中国人の犠牲者は20万人に上るともいわれる」 
そこで、検定では「暴行、略奪、放火を行い」の記述と、犠牲者数が消され、逆に、「事件の発端は中国軍の激しい抵抗で損害の多く出た日本軍が激こうしたため」が加わり、日本軍の正当性を強調する形にしたのです。
そこに、当時の毎日新聞が、この検定に噛みついた。
「教科書統制、一段と強化」と。
石平 
毎日新聞の批判は的外れです。
阿羅 
ところが、その4日後、『人民日報』が毎日新聞の報道を伝えたのです。
日本の教科書検定が批判されている内容で、検定の内容を非難したものではありません。
ただし、中国のメディアが南京事件に触れるのは、このときが初めてだった。 
検定発表から1ヵ月後、各紙の批判も終息したと思われた7月26日、当時、中国の肖向前第一アジア局長が渡邊幸治駐中国公使を呼び寄せ、日本の教科書は侵略を進出に換え、南京事件も改めたと、突然、注文をつけてきたのです。 
さらに『工人日報』が南京事件の写真を掲載しました。
中国のメディアが日本批判の手段として南京事件を収り上げたのも初めてのことです。
写真には橋本欣五郎大佐が登場していますが、撮影者、撮影場所も不明でした。
実は南京戦のとき、橋本大佐は重砲兵を率いて南京から百キロほど離れた蕪湖へ進撃しており、南京には行っていません。
それを南京事件の責任者というのですから。
間に合わせのウソで日本を黙らせようとする。
石平 
南京事件についていかに関心を持っていなかったかがわかります。
阿羅 
しかし、中国メディアで報じられたことを契機に、日本国内では左派メディアを中心に教科書検定問題を取り上げ、国会でも、野党を中心に中国が書き換えに納得していないと責め立てた。
結局、執拗な攻撃に音を上げた小川平二文部大臣(当時、鈴木善幸内閣)は、侵略戦争を認め、南京事件まで認めるようになったのです。
石平 
日本外交の弱腰がたたって、ついにそうなってしまった。
阿羅 
そう、さらに不可解なのが、外務省です。
ひたすら文部省に教科書の書き換えを要求してくる。
外務省の強い主張に対し、文部省は三年ごとの改訂検定を一年早めることにします。
すると、外務省は二年繰り上げを求める。
検定の仕組みから一年が限度で、小川文部大臣や三角哲生事務次官は辞任までして抵抗しようとします。 
当時、加戸守行総務課長は小川大臣に「これは国家主権の問題です。完令な内政問題だと突っぱねてください!」と進言し、なんとか書き換えを拒否し続けます。
石平 
加戸さんは加計問題が騒がしいとき、「加計ありきではなかった」など重要な証言をしています。
背筋の通った本物のエリート官僚です。
阿羅 
鈴木首相は文部省を落とせないと見るや、強硬手段に出ます。
当時鈴木首相は外務省の木内昭胤(きうちあきたね)アジア局長を相談相手にしており、その相談内容については、橋本恕(ひろし)情報文化局長が談話を書いていた。
それが宮洋喜一官房長官の談話として発表されます(1982年8月26日)。 
「アジアの近隣諸国との友好、親善を進めるうえでこれらの批判に十分に耳を傾け、政府の責任において是正する」 
是正という表現は検定が間違っていたことを意味します。
鈴木首相が強硬手段に出たのも、談話発表の三ヵ月後に退陣が予定されており、最後の花道として日中友好を前面に押し出し、訪中を画策しようとしたからです。
しかし、改善という言葉を望んでいた文部省としては到底受け入れられませんでしたが、文部省が談話の内容を知ったのは、発表された後だったので、どうすることもできなかった。
石平
外務省がここまで中国に媚びへつらうのも不可解です。

“チャイナスクール”の弊害
阿羅 
中国は中国の意をくむ外交官は手厚くもてなし、言いなりにならない外交官は邪険に扱います。
実に露骨です。
阿南惟茂(これしげ)中国課員は文化大革命を“ジャリ革命“と呼び、駐日中国大使館から抗議され、内定していた大使館書記官を取り消されることもあった。
やがて外務省内では「中国課首席事務官ー中国謀長-アジア局長-駐中国大使」という出世街道ができます。 
その街道を歩むためには、中国との関係を良好にしなければならない。
要するに国益よりも保身が優先です。
中国関係独特のもので、彼らは”チャイナスクール”と呼ばれるようになります。
石平 
そのように中国に阿ったところで、日本に利することが何か一つでもありましたか。
ODA(政府開発援助)を通じて、中国に約三兆六千六百億円も拠出し、何一つ感謝の言葉をもらっていません。 
それよりも重要な問題は、日本の安全保障にかかわっているということ。
中国政府や中国国民が南京市民の三十万人が日本に殺されたことを事実だと認定すれば、報復のため、政府から国民一般に至るまで何十万人の日本人を殺しても構わないとなってしまう。
阿羅 
攻撃材料を与えてしまうわけですね。
石平 
中国が東京に核兵器を一発撃ち込むことだってあり得るかもしれない。
中国人は誰一人反対しません。むしろ賛成の大合唱です。
「日本は南京市民を虐殺しだのだから、その仕返しだ」と。
阿羅 
十数年前、日本で事件を起こした中国人が警察に捕まりました。
取り調べでその中国人は「日本人は南京で三十万人を殺したから、こんなことをやっても大丈夫だ」と答えたそうです。
石平 
南京事件を認めれば、中国が日本に軍事攻撃を仕掛けても、それによって日本人がどれほど犠牲者を出しても、正当化の根拠を与えてしまう。
だから外務省のやり方に憤りを覚えます。
日本国民の命をなんだと思っているのか!
阿羅 
外務省だけでなく二〇一〇年、日中歴史共同研究でも日本側は南京爭件を認め、鳩山由紀夫元首相は二〇一三年、南京まで行って謝罪している。
南京事件は戦時宣伝であることが明らかになっているのに、日本は情報戦で負け続けています。
石平さんの言うように、中国が日本を攻める口実を与えることになるわけですから、政治家も含めしっかり反論すべきです。
石平 
習近平政権下では十二月十三日、日本軍が入城した日を「南京大虐殺」の「犠牲者」を追悼する国家的記念日に制定し、毎年、記念行事を開催しています。
そのようにして反日教育が続けられています。
江沢民や習近平がいなくなっても中国共産党政権が続く限り、日本は南京事件を通じて責められ続ける。 
永遠に頭を下げ続けるつもりですか。
慰安婦問題では線引きができたのですから、南京事件も同じく毅然とした対応をしてもらいたい。

 

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中国メディアで報じられたことを契機に、日本国内では左派メディアを中心に教科書検定問題を取り上げ、国会でも、野党を中心に中国が書き換えに納得していないと責め立てた

2023年01月07日 17時18分31秒 | 全般

以下は月刊誌WiLL2月新春号からである。
石平さんと阿羅健一さんの対談特集である。
阿羅健一さんが私が永遠に愛する母校の先輩である事は既述の通り。
日本国民のみならず世界中の人達が必読。
江沢民が仕掛けた「南京事件」の大ウソ
2022年は南京事件から85年目。
毎年12月13日には、南京で記念式典が開催される。
日本よ、いつまで黙っているのか!
江沢民の反日政策

罠にはまった日本人

石平 
むしろ子供時代に教えられたのは、「三光作戦」です。
日本軍が中国で展開した残虐な作戦行動「焼きつくす(焼光)、殺しつくす(殺光)、奪いつくす(槍光)」を示す言葉。
では、南京事件はどうか。まったく教わっていないし、当時の中国共産党政権の認識では、南京事件はなかったに等しい。
阿羅 
「三光作戦」は台湾に逃れた国民党軍が敗走するとき、村々に食料を残さないためにやったことですが、日本軍についてはウソです。
石平 
南京事件を拡大させた日本人がいる。
元朝日新聞記者、本多勝一氏の「中国の旅』(1972年)!
阿羅 
現地の人の話を検証も裏取りもせず、南京事件があったと書いてしまった。
しかも事実誤認が多々見られました。
そこで批判が殺到したら、本多氏は「私は中国側の言うのをそのまま代弁しただけですから、抗議をするのであれば、中国側に直接やっていただけませんでしょうか」と言い訳している。
ジャーナリズムの精神に反する行為です。
石平 
恥を知れ!と言いたい。
私は中国の大学でも仕事をしたことがありますから、よくわかるのですが、海外からマスコミ関係者が取材や調査に来ると判明したら、一ヵ月前から中国共産党で対策チームを組織し、会議を開いて、どのように対処するかを話し合います。
そして組織内で役割分担を決め、シナリオをつくり、「お前がこういう役を演じろ」「お前がそのように言え」と事前に何10回も練習する。 
本多氏も同じような罠にはまったのでしょう。
日本の大手新聞社の記者が来るから、時の政府が現地の人々に「お前は70歳だから、日本軍が悪いことをしたのを見ただろう。それを話せ」と強制する。
断ることはできません。拘束されますから。
それで一所懸命、暗記する。でも、暗記だけではダメで自分の言葉で言わなければならない。
それが中国共産党のやり方です。
阿羅 
実に徹底しています。
石平 
そして、本多氏は中国共産党の“プロパガンダ”をそのまま執筆し、世に流布させてしまった。
時の共産党政権に利用されたのです。
実に罪が重い。

批判された教科書検定
阿羅 
『南京事件はなかった』でも触れていますが、日本政府が南京事件を正式に認めたのは、1982年のことです。
次年度から使われる高校教科書の検定結果が新聞各社で取り上げられたのですが、その教科書で、南京事件のことを次のように記述しました。 
「南京占領の後、日本軍は中国軍民多数を殺害、暴行、略奪、放火を行い南京大虐殺として国際的非難を浴びた。中国人の犠牲者は20万人に上るともいわれる」 
そこで、検定では「暴行、略奪、放火を行い」の記述と、犠牲者数が消され、逆に、「事件の発端は中国軍の激しい抵抗で損害の多く出た日本軍が激こうしたため」が加わり、日本軍の正当性を強調する形にしたのです。
そこに、当時の毎日新聞が、この検定に噛みついた。
「教科書統制、一段と強化」と。
石平 
毎日新聞の批判は的外れです。
阿羅 
ところが、その4日後、『人民日報』が毎日新聞の報道を伝えたのです。
日本の教科書検定が批判されている内容で、検定の内容を非難したものではありません。
ただし、中国のメディアが南京事件に触れるのは、このときが初めてだった。 
検定発表から1ヵ月後、各紙の批判も終息したと思われた7月26日、当時、中国の肖向前第一アジア局長が渡邊幸治駐中国公使を呼び寄せ、日本の教科書は侵略を進出に換え、南京事件も改めたと、突然、注文をつけてきたのです。 
さらに『工人日報』が南京事件の写真を掲載しました。
中国のメディアが日本批判の手段として南京事件を収り上げたのも初めてのことです。
写真には橋本欣五郎大佐が登場していますが、撮影者、撮影場所も不明でした。
実は南京戦のとき、橋本大佐は重砲兵を率いて南京から百キロほど離れた蕪湖へ進撃しており、南京には行っていません。
それを南京事件の責任者というのですから。
間に合わせのウソで日本を黙らせようとする。
石平 
南京事件についていかに関心を持っていなかったかがわかります。
阿羅 
しかし、中国メディアで報じられたことを契機に、日本国内では左派メディアを中心に教科書検定問題を取り上げ、国会でも、野党を中心に中国が書き換えに納得していないと責め立てた。
結局、執拗な攻撃に音を上げた小川平二文部大臣(当時、鈴木善幸内閣)は、侵略戦争を認め、南京事件まで認めるようになったのです。
石平 
日本外交の弱腰がたたって、ついにそうなってしまった。
阿羅 
そう、さらに可解なのが、外務省です。
ひたすら文部省に教科書の書き換えを要求してくる。
外務省の強い主張に対し、文部省は三年ごとの改訂検定を一年早めることにします。
すると、外務省は二年繰り上げを求める。
検定の仕組みから一年が限度で、小川文部大臣や三角哲生事務次官は辞任までして抵抗しようとします。 
当時、加戸守行総務課長は小川大臣に「これは国家主権の問題です。完令な内政問題だと突っぱねてください!」と進言し、なんとか書き換えを拒否し続けます。
石平 
加戸さんは加計問題が騒がしいとき、「加計ありきではなかった」など重要な証言をしています。
背筋の通った本物のエリート官僚です。
阿羅 
鈴木首相は文部省を落とせないと見るや、強硬手段に出ます。
当時鈴木首相は外務省の木内昭胤(きうちあきたね)アジア局長を相談相手にしており、その相談内容については、橋本恕(ひろし)情報文化局長が談話を書いていた。
それが宮洋喜一官房長官の談話として発表されます(1982年8月26日)。 
「アジアの近隣諸国との友好、親善を進めるうえでこれらの批判に十分に耳を傾け、政府の責任において是正する」 
是正という表現は検定が間違っていたことを意味します。
鈴木首相が強硬手段に出たのも、談話発表の三ヵ月後に退陣が予定されており、最後の花道として日中友好を前面に押し出し、訪中を画策しようとしたからです。
しかし、改善という言葉を望んでいた文部省としては到底受け入れられませんでしたが、文部省が談話の内容を知ったのは、発表された後だったので、どうすることもできなかった。
石平
外務省がここまで中国に媚びへつらうのも不可解です。

“チャイナスクール”の弊害
阿羅 
中国は中国の意をくむ外交官は手厚くもてなし、言いなりにならない外交官は邪険に扱います。
実に露骨です。
阿南惟茂(これしげ)中国課員は文化大革命を“ジャリ革命“と呼び、駐日中国大使館から抗議され、内定していた大使館書記官を取り消されることもあった。
やがて外務省内では「中国課首席事務官ー中国謀長-アジア局長-駐中国大使」という出世街道ができます。 
その街道を歩むためには、中国との関係を良好にしなければならない。
要するに国益よりも保身が優先です。
中国関係独特のもので、彼らは”チャイナスクール”と呼ばれるようになります。
石平 
そのように中国に阿ったところで、日本に利することが何か一つでもありましたか。
ODA(政府開発援助)を通じて、中国に約三兆六千六百億円も拠出し、何一つ感謝の言葉をもらっていません。 
それよりも重要な問題は、日本の安全保障にかかわっているということ。
中国政府や中国国民が南京市民の三十万人が日本に殺されたことを事実だと認定すれば、報復のため、政府から国民一般に至るまで何十万人の日本人を殺しても構わないとなってしまう。
阿羅 
攻撃材料を与えてしまうわけですね。
石平 
中国が東京に核兵器を一発撃ち込むことだってあり得るかもしれない。
中国人は誰一人反対しません。むしろ賛成の大合唱です。
「日本は南京市民を虐殺しだのだから、その仕返しだ」と。
阿羅 
十数年前、日本で事件を起こした中国人が警察に捕まりました。
取り調べでその中国人は「日本人は南京で三十万人を殺したから、こんなことをやっても大丈夫だ」と答えたそうです。
石平 
南京事件を認めれば、中国が日本に軍事攻撃を仕掛けても、それによって日本人がどれほど犠牲者を出しても、正当化の根拠を与えてしまう。
だから外務省のやり方に憤りを覚えます。
日本国民の命をなんだと思っているのか!
阿羅 
外務省だけでなく二〇一〇年、日中歴史共同研究でも日本側は南京爭件を認め、鳩山由紀夫元首相は二〇一三年、南京まで行って謝罪している。
南京事件は戦時宣伝であることが明らかになっているのに、日本は情報戦で負け続けています。
石平さんの言うように、中国が日本を攻める口実を与えることになるわけですから、政治家も含めしっかり反論すべきです。
石平 
習近平政権下では十二月十三日、日本軍が入城した日を「南京大虐殺」の「犠牲者」を追悼する国家的記念日に制定し、毎年、記念行事を開催しています。
そのようにして反日教育が続けられています。
江沢民や習近平がいなくなっても中国共産党政権が続く限り、日本は南京事件を通じて責められ続ける。 
永遠に頭を下げ続けるつもりですか。
慰安婦問題では線引きができたのですから、南京事件も同じく毅然とした対応をしてもらいたい。

 

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実は南京戦のとき、橋本大佐は重砲兵を率いて南京から百キロほど離れた蕪湖へ進撃しており、南京には行っていません。それを南京事件の責任者というのですから。間に合わせのウソで日本を黙らせようとする。

2023年01月07日 17時16分37秒 | 全般

以下は月刊誌WiLL2月新春号からである。
石平さんと阿羅健一さんの対談特集である。
阿羅健一さんが私が永遠に愛する母校の先輩である事は既述の通り。
日本国民のみならず世界中の人達が必読。
江沢民が仕掛けた「南京事件」の大ウソ
2022年は南京事件から85年目。
毎年12月13日には、南京で記念式典が開催される。
日本よ、いつまで黙っているのか!
江沢民の反日政策

罠にはまった日本人

石平 
むしろ子供時代に教えられたのは、「三光作戦」です。
日本軍が中国で展開した残虐な作戦行動「焼きつくす(焼光)、殺しつくす(殺光)、奪いつくす(槍光)」を示す言葉。
では、南京事件はどうか。まったく教わっていないし、当時の中国共産党政権の認識では、南京事件はなかったに等しい。
阿羅 
「三光作戦」は台湾に逃れた国民党軍が敗走するとき、村々に食料を残さないためにやったことですが、日本軍についてはウソです。
石平 
南京事件を拡大させた日本人がいる。
元朝日新聞記者、本多勝一氏の「中国の旅』(1972年)!
阿羅 
現地の人の話を検証も裏取りもせず、南京事件があったと書いてしまった。
しかも事実誤認が多々見られました。
そこで批判が殺到したら、本多氏は「私は中国側の言うのをそのまま代弁しただけですから、抗議をするのであれば、中国側に直接やっていただけませんでしょうか」と言い訳している。
ジャーナリズムの精神に反する行為です。
石平 
恥を知れ!と言いたい。
私は中国の大学でも仕事をしたことがありますから、よくわかるのですが、海外からマスコミ関係者が取材や調査に来ると判明したら、一ヵ月前から中国共産党で対策チームを組織し、会議を開いて、どのように対処するかを話し合います。
そして組織内で役割分担を決め、シナリオをつくり、「お前がこういう役を演じろ」「お前がそのように言え」と事前に何10回も練習する。 
本多氏も同じような罠にはまったのでしょう。
日本の大手新聞社の記者が来るから、時の政府が現地の人々に「お前は70歳だから、日本軍が悪いことをしたのを見ただろう。それを話せ」と強制する。
断ることはできません。拘束されますから。
それで一所懸命、暗記する。でも、暗記だけではダメで自分の言葉で言わなければならない。
それが中国共産党のやり方です。
阿羅 
実に徹底しています。
石平 
そして、本多氏は中国共産党の“プロパガンダ”をそのまま執筆し、世に流布させてしまった。
時の共産党政権に利用されたのです。
実に罪が重い。

批判された教科書検定
阿羅 
『南京事件はなかった』でも触れていますが、日本政府が南京事件を正式に認めたのは、1982年のことです。
次年度から使われる高校教科書の検定結果が新聞各社で取り上げられたのですが、その教科書で、南京事件のことを次のように記述しました。 
「南京占領の後、日本軍は中国軍民多数を殺害、暴行、略奪、放火を行い南京大虐殺として国際的非難を浴びた。中国人の犠牲者は20万人に上るともいわれる」 
そこで、検定では「暴行、略奪、放火を行い」の記述と、犠牲者数が消され、逆に、「事件の発端は中国軍の激しい抵抗で損害の多く出た日本軍が激こうしたため」が加わり、日本軍の正当性を強調する形にしたのです。
そこに、当時の毎日新聞が、この検定に噛みついた。
「教科書統制、一段と強化」と。
石平 
毎日新聞の批判は的外れです。
阿羅 
ところが、その4日後、『人民日報』が毎日新聞の報道を伝えたのです。
日本の教科書検定が批判されている内容で、検定の内容を非難したものではありません。
ただし、中国のメディアが南京事件に触れるのは、このときが初めてだった。 
検定発表から1ヵ月後、各紙の批判も終息したと思われた7月26日、当時、中国の肖向前第一アジア局長が渡邊幸治駐中国公使を呼び寄せ、日本の教科書は侵略を進出に換え、南京事件も改めたと、突然、注文をつけてきたのです。 
さらに『工人日報』が南京事件の写真を掲載しました。
中国のメディアが日本批判の手段として南京事件を収り上げたのも初めてのことです。
写真には橋本欣五郎大佐が登場していますが、撮影者、撮影場所も不明でした。
実は南京戦のとき、橋本大佐は重砲兵を率いて南京から百キロほど離れた蕪湖へ進撃しており、南京には行っていません。
それを南京事件の責任者というのですから。
間に合わせのウソで日本を黙らせようとする。
石平 
南京事件についていかに関心を持っていなかったかがわかります。
阿羅 
しかし、中国メディアで報じられたことを契機に、日本国内では左派メディアを中心に教科書検定問題を取り上げ、国会でも、野党を中心に中国が書き換えに納得していないと責め立てた。
結局、執拗な攻撃に音を上げた小川平二文部大臣(当時、鈴木善幸内閣)は、侵略戦争を認め、南京事件まで認めるようになったのです。
石平 
日本外交の弱腰がたたって、ついにそうなってしまった。
阿羅 
そう、さらに可解なのが、外務省です。
ひたすら文部省に教科書の書き換えを要求してくる。
外務省の強い主張に対し、文部省は三年ごとの改訂検定を一年早めることにします。
すると、外務省は二年繰り上げを求める。
検定の仕組みから一年が限度で、小川文部大臣や三角哲生事務次官は辞任までして抵抗しようとします。 
当時、加戸守行総務課長は小川大臣に「これは国家主権の問題です。完令な内政問題だと突っぱねてください!」と進言し、なんとか書き換えを拒否し続けます。
石平 
加戸さんは加計問題が騒がしいとき、「加計ありきではなかった」など重要な証言をしています。
背筋の通った本物のエリート官僚です。
阿羅 
鈴木首相は文部省を落とせないと見るや、強硬手段に出ます。
当時鈴木首相は外務省の木内昭胤(きうちあきたね)アジア局長を相談相手にしており、その相談内容については、橋本恕(ひろし)情報文化局長が談話を書いていた。
それが宮洋喜一官房長官の談話として発表されます(1982年8月26日)。 
「アジアの近隣諸国との友好、親善を進めるうえでこれらの批判に十分に耳を傾け、政府の責任において是正する」 
是正という表現は検定が間違っていたことを意味します。
鈴木首相が強硬手段に出たのも、談話発表の三ヵ月後に退陣が予定されており、最後の花道として日中友好を前面に押し出し、訪中を画策しようとしたからです。
しかし、改善という言葉を望んでいた文部省としては到底受け入れられませんでしたが、文部省が談話の内容を知ったのは、発表された後だったので、どうすることもできなかった。
石平
外務省がここまで中国に媚びへつらうのも不可解です。

“チャイナスクール”の弊害
阿羅 
中国は中国の意をくむ外交官は手厚くもてなし、言いなりにならない外交官は邪険に扱います。
実に露骨です。
阿南惟茂(これしげ)中国課員は文化大革命を“ジャリ革命“と呼び、駐日中国大使館から抗議され、内定していた大使館書記官を取り消されることもあった。
やがて外務省内では「中国課首席事務官ー中国謀長-アジア局長-駐中国大使」という出世街道ができます。 
その街道を歩むためには、中国との関係を良好にしなければならない。
要するに国益よりも保身が優先です。
中国関係独特のもので、彼らは”チャイナスクール”と呼ばれるようになります。
石平 
そのように中国に阿ったところで、日本に利することが何か一つでもありましたか。
ODA(政府開発援助)を通じて、中国に約三兆六千六百億円も拠出し、何一つ感謝の言葉をもらっていません。 
それよりも重要な問題は、日本の安全保障にかかわっているということ。
中国政府や中国国民が南京市民の三十万人が日本に殺されたことを事実だと認定すれば、報復のため、政府から国民一般に至るまで何十万人の日本人を殺しても構わないとなってしまう。
阿羅 
攻撃材料を与えてしまうわけですね。
石平 
中国が東京に核兵器を一発撃ち込むことだってあり得るかもしれない。
中国人は誰一人反対しません。むしろ賛成の大合唱です。
「日本は南京市民を虐殺しだのだから、その仕返しだ」と。
阿羅 
十数年前、日本で事件を起こした中国人が警察に捕まりました。
取り調べでその中国人は「日本人は南京で三十万人を殺したから、こんなことをやっても大丈夫だ」と答えたそうです。
石平 
南京事件を認めれば、中国が日本に軍事攻撃を仕掛けても、それによって日本人がどれほど犠牲者を出しても、正当化の根拠を与えてしまう。
だから外務省のやり方に憤りを覚えます。
日本国民の命をなんだと思っているのか!
阿羅 
外務省だけでなく二〇一〇年、日中歴史共同研究でも日本側は南京爭件を認め、鳩山由紀夫元首相は二〇一三年、南京まで行って謝罪している。
南京事件は戦時宣伝であることが明らかになっているのに、日本は情報戦で負け続けています。
石平さんの言うように、中国が日本を攻める口実を与えることになるわけですから、政治家も含めしっかり反論すべきです。
石平 
習近平政権下では十二月十三日、日本軍が入城した日を「南京大虐殺」の「犠牲者」を追悼する国家的記念日に制定し、毎年、記念行事を開催しています。
そのようにして反日教育が続けられています。
江沢民や習近平がいなくなっても中国共産党政権が続く限り、日本は南京事件を通じて責められ続ける。 
永遠に頭を下げ続けるつもりですか。
慰安婦問題では線引きができたのですから、南京事件も同じく毅然とした対応をしてもらいたい。

 

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毎日新聞の批判は的外れ…ところが、その4日後、『人民日報』が毎日新聞の報道を伝えた…ただし、中国のメディアが南京事件に触れるのは、このときが初めてだった

2023年01月07日 17時13分43秒 | 全般

以下は月刊誌WiLL2月新春号からである。
石平さんと阿羅健一さんの対談特集である。
阿羅健一さんが私が永遠に愛する母校の先輩である事は既述の通り。
日本国民のみならず世界中の人達が必読。
江沢民が仕掛けた「南京事件」の大ウソ
2022年は南京事件から85年目。
毎年12月13日には、南京で記念式典が開催される。
日本よ、いつまで黙っているのか!
江沢民の反日政策

罠にはまった日本人

石平 
むしろ子供時代に教えられたのは、「三光作戦」です。
日本軍が中国で展開した残虐な作戦行動「焼きつくす(焼光)、殺しつくす(殺光)、奪いつくす(槍光)」を示す言葉。
では、南京事件はどうか。まったく教わっていないし、当時の中国共産党政権の認識では、南京事件はなかったに等しい。
阿羅 
「三光作戦」は台湾に逃れた国民党軍が敗走するとき、村々に食料を残さないためにやったことですが、日本軍についてはウソです。
石平 
南京事件を拡大させた日本人がいる。
元朝日新聞記者、本多勝一氏の「中国の旅』(1972年)!
阿羅 
現地の人の話を検証も裏取りもせず、南京事件があったと書いてしまった。
しかも事実誤認が多々見られました。
そこで批判が殺到したら、本多氏は「私は中国側の言うのをそのまま代弁しただけですから、抗議をするのであれば、中国側に直接やっていただけませんでしょうか」と言い訳している。
ジャーナリズムの精神に反する行為です。
石平 
恥を知れ!と言いたい。
私は中国の大学でも仕事をしたことがありますから、よくわかるのですが、海外からマスコミ関係者が取材や調査に来ると判明したら、一ヵ月前から中国共産党で対策チームを組織し、会議を開いて、どのように対処するかを話し合います。
そして組織内で役割分担を決め、シナリオをつくり、「お前がこういう役を演じろ」「お前がそのように言え」と事前に何10回も練習する。 
本多氏も同じような罠にはまったのでしょう。
日本の大手新聞社の記者が来るから、時の政府が現地の人々に「お前は70歳だから、日本軍が悪いことをしたのを見ただろう。それを話せ」と強制する。
断ることはできません。拘束されますから。
それで一所懸命、暗記する。でも、暗記だけではダメで自分の言葉で言わなければならない。
それが中国共産党のやり方です。
阿羅 
実に徹底しています。
石平 
そして、本多氏は中国共産党の“プロパガンダ”をそのまま執筆し、世に流布させてしまった。
時の共産党政権に利用されたのです。
実に罪が重い。

批判された教科書検定
阿羅 
『南京事件はなかった』でも触れていますが、日本政府が南京事件を正式に認めたのは、1982年のことです。
次年度から使われる高校教科書の検定結果が新聞各社で取り上げられたのですが、その教科書で、南京事件のことを次のように記述しました。 
「南京占領の後、日本軍は中国軍民多数を殺害、暴行、略奪、放火を行い南京大虐殺として国際的非難を浴びた。中国人の犠牲者は20万人に上るともいわれる」 
そこで、検定では「暴行、略奪、放火を行い」の記述と、犠牲者数が消され、逆に、「事件の発端は中国軍の激しい抵抗で損害の多く出た日本軍が激こうしたため」が加わり、日本軍の正当性を強調する形にしたのです。
そこに、当時の毎日新聞が、この検定に噛みついた。
「教科書統制、一段と強化」と。
石平 
毎日新聞の批判は的外れです。
阿羅 
ところが、その4日後、『人民日報』が毎日新聞の報道を伝えたのです。
日本の教科書検定が批判されている内容で、検定の内容を非難したものではありません。
ただし、中国のメディアが南京事件に触れるのは、このときが初めてだった。 
検定発表から1ヵ月後、各紙の批判も終息したと思われた7月26日、当時、中国の肖向前第一アジア局長が渡邊幸治駐中国公使を呼び寄せ、日本の教科書は侵略を進出に換え、南京事件も改めたと、突然、注文をつけてきたのです。 
さらに『工人日報』が南京事件の写真を掲載しました。
中国のメディアが日本批判の手段として南京事件を収り上げたのも初めてのことです。
写真には橋本欣五郎大佐が登場していますが、撮影者、撮影場所も不明でした。
実は南京戦のとき、橋本大佐は重砲兵を率いて南京から百キロほど離れた蕪湖へ進撃しており、南京には行っていません。
それを南京事件の責任者というのですから。
間に合わせのウソで日本を黙らせようとする。
石平 
南京事件についていかに関心を持っていなかったかがわかります。
阿羅 
しかし、中国メディアで報じられたことを契機に、日本国内では左派メディアを中心に教科書検定問題を取り上げ、国会でも、野党を中心に中国が書き換えに納得していないと責め立てた。
結局、執拗な攻撃に音を上げた小川平二文部大臣(当時、鈴木善幸内閣)は、侵略戦争を認め、南京事件まで認めるようになったのです。
石平 
日本外交の弱腰がたたって、ついにそうなってしまった。
阿羅 
そう、さらに可解なのが、外務省です。
ひたすら文部省に教科書の書き換えを要求してくる。
外務省の強い主張に対し、文部省は三年ごとの改訂検定を一年早めることにします。
すると、外務省は二年繰り上げを求める。
検定の仕組みから一年が限度で、小川文部大臣や三角哲生事務次官は辞任までして抵抗しようとします。 
当時、加戸守行総務課長は小川大臣に「これは国家主権の問題です。完令な内政問題だと突っぱねてください!」と進言し、なんとか書き換えを拒否し続けます。
石平 
加戸さんは加計問題が騒がしいとき、「加計ありきではなかった」など重要な証言をしています。
背筋の通った本物のエリート官僚です。
阿羅 
鈴木首相は文部省を落とせないと見るや、強硬手段に出ます。
当時鈴木首相は外務省の木内昭胤(きうちあきたね)アジア局長を相談相手にしており、その相談内容については、橋本恕(ひろし)情報文化局長が談話を書いていた。
それが宮洋喜一官房長官の談話として発表されます(1982年8月26日)。 
「アジアの近隣諸国との友好、親善を進めるうえでこれらの批判に十分に耳を傾け、政府の責任において是正する」 
是正という表現は検定が間違っていたことを意味します。
鈴木首相が強硬手段に出たのも、談話発表の三ヵ月後に退陣が予定されており、最後の花道として日中友好を前面に押し出し、訪中を画策しようとしたからです。
しかし、改善という言葉を望んでいた文部省としては到底受け入れられませんでしたが、文部省が談話の内容を知ったのは、発表された後だったので、どうすることもできなかった。
石平
外務省がここまで中国に媚びへつらうのも不可解です。

“チャイナスクール”の弊害
阿羅 
中国は中国の意をくむ外交官は手厚くもてなし、言いなりにならない外交官は邪険に扱います。
実に露骨です。
阿南惟茂(これしげ)中国課員は文化大革命を“ジャリ革命“と呼び、駐日中国大使館から抗議され、内定していた大使館書記官を取り消されることもあった。
やがて外務省内では「中国課首席事務官ー中国謀長-アジア局長-駐中国大使」という出世街道ができます。 
その街道を歩むためには、中国との関係を良好にしなければならない。
要するに国益よりも保身が優先です。
中国関係独特のもので、彼らは”チャイナスクール”と呼ばれるようになります。
石平 
そのように中国に阿ったところで、日本に利することが何か一つでもありましたか。
ODA(政府開発援助)を通じて、中国に約三兆六千六百億円も拠出し、何一つ感謝の言葉をもらっていません。 
それよりも重要な問題は、日本の安全保障にかかわっているということ。
中国政府や中国国民が南京市民の三十万人が日本に殺されたことを事実だと認定すれば、報復のため、政府から国民一般に至るまで何十万人の日本人を殺しても構わないとなってしまう。
阿羅 
攻撃材料を与えてしまうわけですね。
石平 
中国が東京に核兵器を一発撃ち込むことだってあり得るかもしれない。
中国人は誰一人反対しません。むしろ賛成の大合唱です。
「日本は南京市民を虐殺しだのだから、その仕返しだ」と。
阿羅 
十数年前、日本で事件を起こした中国人が警察に捕まりました。
取り調べでその中国人は「日本人は南京で三十万人を殺したから、こんなことをやっても大丈夫だ」と答えたそうです。
石平 
南京事件を認めれば、中国が日本に軍事攻撃を仕掛けても、それによって日本人がどれほど犠牲者を出しても、正当化の根拠を与えてしまう。
だから外務省のやり方に憤りを覚えます。
日本国民の命をなんだと思っているのか!
阿羅 
外務省だけでなく二〇一〇年、日中歴史共同研究でも日本側は南京爭件を認め、鳩山由紀夫元首相は二〇一三年、南京まで行って謝罪している。
南京事件は戦時宣伝であることが明らかになっているのに、日本は情報戦で負け続けています。
石平さんの言うように、中国が日本を攻める口実を与えることになるわけですから、政治家も含めしっかり反論すべきです。
石平 
習近平政権下では十二月十三日、日本軍が入城した日を「南京大虐殺」の「犠牲者」を追悼する国家的記念日に制定し、毎年、記念行事を開催しています。
そのようにして反日教育が続けられています。
江沢民や習近平がいなくなっても中国共産党政権が続く限り、日本は南京事件を通じて責められ続ける。 
永遠に頭を下げ続けるつもりですか。
慰安婦問題では線引きができたのですから、南京事件も同じく毅然とした対応をしてもらいたい。

 

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本多氏は中国共産党の“プロパガンダ”をそのまま執筆し、世に流布させた…時の共産党政権に利用されたのです。実に罪が重い。

2023年01月07日 17時08分36秒 | 全般

以下は月刊誌WiLL2月新春号からである。
石平さんと阿羅健一さんの対談特集である。
阿羅健一さんが私が永遠に愛する母校の先輩である事は既述の通り。
日本国民のみならず世界中の人達が必読。
江沢民が仕掛けた「南京事件」の大ウソ
2022年は南京事件から85年目。
毎年12月13日には、南京で記念式典が開催される。
日本よ、いつまで黙っているのか!
江沢民の反日政策

罠にはまった日本人

石平 
むしろ子供時代に教えられたのは、「三光作戦」です。
日本軍が中国で展開した残虐な作戦行動「焼きつくす(焼光)、殺しつくす(殺光)、奪いつくす(槍光)」を示す言葉。
では、南京事件はどうか。まったく教わっていないし、当時の中国共産党政権の認識では、南京事件はなかったに等しい。
阿羅 
「三光作戦」は台湾に逃れた国民党軍が敗走するとき、村々に食料を残さないためにやったことですが、日本軍についてはウソです。
石平 
南京事件を拡大させた日本人がいる。
元朝日新聞記者、本多勝一氏の「中国の旅』(1972年)!
阿羅 
現地の人の話を検証も裏取りもせず、南京事件があったと書いてしまった。
しかも事実誤認が多々見られました。
そこで批判が殺到したら、本多氏は「私は中国側の言うのをそのまま代弁しただけですから、抗議をするのであれば、中国側に直接やっていただけませんでしょうか」と言い訳している。
ジャーナリズムの精神に反する行為です。
石平 
恥を知れ!と言いたい。
私は中国の大学でも仕事をしたことがありますから、よくわかるのですが、海外からマスコミ関係者が取材や調査に来ると判明したら、一ヵ月前から中国共産党で対策チームを組織し、会議を開いて、どのように対処するかを話し合います。
そして組織内で役割分担を決め、シナリオをつくり、「お前がこういう役を演じろ」「お前がそのように言え」と事前に何10回も練習する。 
本多氏も同じような罠にはまったのでしょう。
日本の大手新聞社の記者が来るから、時の政府が現地の人々に「お前は70歳だから、日本軍が悪いことをしたのを見ただろう。それを話せ」と強制する。
断ることはできません。拘束されますから。
それで一所懸命、暗記する。でも、暗記だけではダメで自分の言葉で言わなければならない。
それが中国共産党のやり方です。
阿羅 
実に徹底しています。
石平 
そして、本多氏は中国共産党の“プロパガンダ”をそのまま執筆し、世に流布させてしまった。
時の共産党政権に利用されたのです。
実に罪が重い。

批判された教科書検定
阿羅 
『南京事件はなかった』でも触れていますが、日本政府が南京事件を正式に認めたのは、一九八二年のことです。
次年度から使われる高校教科書の検定結果が新聞各社で取り上げられたのですが、その教科書で、南京事件のことを次のように記述しました。 
「南京占領の後、日本軍は中国軍民多数を殺害、暴行、略奪、放火を行い南京大虐殺として国際的非難を浴びた。中国人の犠牲者は20万人に上るともいわれる」 
そこで、検定では「暴行、略奪、放火を行い」の記述と、犠牲者数が消され、逆に、「事件の発端は中国軍の激しい抵抗で損害の多く出た日本軍が激こうしたため」が加わり、日本軍の正当性を強調する形にしたのです。
そこに、当時の毎日新聞が、この検定に噛みついた。
「教科書統制、一段と強化」と。
石平 
毎日新聞の批判は的外れです。
阿羅 
ところが、その四日後、『人民日報』が毎日新聞の報道を伝えたのです。
日本の教科書検定が批判されている内容で、検定の内容を非難したものではありません。
ただし、中国のメディアが南京事件に触れるのは、このときが初めてだった。 
検定発表から1ヵ月後、各紙の批判も終息したと思われた七月二十六日、当時、中国の肖向前第一アジア局長が渡邊幸治駐中国公使を呼び寄せ、日本の教科書は侵略を進出に換え、南京事件も改めたと、突然、注文をつけてきたのです。 
さらに『工人日報』が南京事件の写真を掲載しました。
中国のメディアが日本批判の手段として南京事件を収り上げたのも初めてのことです。
写真には橋本欣五郎大佐が登場していますが、撮影者、撮影場所も不明でした。
実は南京戦のとき、橋本大佐は重砲兵を率いて南京から百キロほど離れた蕪湖へ進撃しており、南京には行っていません。
それを南京事件の責任者というのですから。
間に合わせのウソで日本を黙らせようとする。
石平 
南京事件についていかに関心を持っていなかったかがわかります。
阿羅 
しかし、中国メディアで報じられたことを契機に、日本国内では左派メディアを中心に教科書検定問題を取り上げ、国会でも、野党を中心に中国が書き換えに納得していないと責め立てた。
結局、執拗な攻撃に音を上げた小川平二文部大臣(当時、鈴木善幸内閣)は、侵略戦争を認め、南京事件まで認めるようになったのです。
石平 
日本外交の弱腰がたたって、ついにそうなってしまった。
阿羅 
そう、さらに可解なのが、外務省です。
ひたすら文部省に教科書の書き換えを要求してくる。
外務省の強い主張に対し、文部省は三年ごとの改訂検定を一年早めることにします。
すると、外務省は二年繰り上げを求める。
検定の仕組みから一年が限度で、小川文部大臣や三角哲生事務次官は辞任までして抵抗しようとします。 
当時、加戸守行総務課長は小川大臣に「これは国家主権の問題です。完令な内政問題だと突っぱねてください!」と進言し、なんとか書き換えを拒否し続けます。
石平 
加戸さんは加計問題が騒がしいとき、「加計ありきではなかった」など重要な証言をしています。
背筋の通った本物のエリート官僚です。
阿羅 
鈴木首相は文部省を落とせないと見るや、強硬手段に出ます。
当時鈴木首相は外務省の木内昭胤(きうちあきたね)アジア局長を相談相手にしており、その相談内容については、橋本恕(ひろし)情報文化局長が談話を書いていた。
それが宮洋喜一官房長官の談話として発表されます(1982年8月26日)。 
「アジアの近隣諸国との友好、親善を進めるうえでこれらの批判に十分に耳を傾け、政府の責任において是正する」 
是正という表現は検定が間違っていたことを意味します。
鈴木首相が強硬手段に出たのも、談話発表の三ヵ月後に退陣が予定されており、最後の花道として日中友好を前面に押し出し、訪中を画策しようとしたからです。
しかし、改善という言葉を望んでいた文部省としては到底受け入れられませんでしたが、文部省が談話の内容を知ったのは、発表された後だったので、どうすることもできなかった。
石平
外務省がここまで中国に媚びへつらうのも不可解です。

“チャイナスクール”の弊害
阿羅 
中国は中国の意をくむ外交官は手厚くもてなし、言いなりにならない外交官は邪険に扱います。
実に露骨です。
阿南惟茂(これしげ)中国課員は文化大革命を“ジャリ革命“と呼び、駐日中国大使館から抗議され、内定していた大使館書記官を取り消されることもあった。
やがて外務省内では「中国課首席事務官ー中国謀長-アジア局長-駐中国大使」という出世街道ができます。 
その街道を歩むためには、中国との関係を良好にしなければならない。
要するに国益よりも保身が優先です。
中国関係独特のもので、彼らは”チャイナスクール”と呼ばれるようになります。
石平 
そのように中国に阿ったところで、日本に利することが何か一つでもありましたか。
ODA(政府開発援助)を通じて、中国に約三兆六千六百億円も拠出し、何一つ感謝の言葉をもらっていません。 
それよりも重要な問題は、日本の安全保障にかかわっているということ。
中国政府や中国国民が南京市民の三十万人が日本に殺されたことを事実だと認定すれば、報復のため、政府から国民一般に至るまで何十万人の日本人を殺しても構わないとなってしまう。
阿羅 
攻撃材料を与えてしまうわけですね。
石平 
中国が東京に核兵器を一発撃ち込むことだってあり得るかもしれない。
中国人は誰一人反対しません。むしろ賛成の大合唱です。
「日本は南京市民を虐殺しだのだから、その仕返しだ」と。
阿羅 
十数年前、日本で事件を起こした中国人が警察に捕まりました。
取り調べでその中国人は「日本人は南京で三十万人を殺したから、こんなことをやっても大丈夫だ」と答えたそうです。
石平 
南京事件を認めれば、中国が日本に軍事攻撃を仕掛けても、それによって日本人がどれほど犠牲者を出しても、正当化の根拠を与えてしまう。
だから外務省のやり方に憤りを覚えます。
日本国民の命をなんだと思っているのか!
阿羅 
外務省だけでなく二〇一〇年、日中歴史共同研究でも日本側は南京爭件を認め、鳩山由紀夫元首相は二〇一三年、南京まで行って謝罪している。
南京事件は戦時宣伝であることが明らかになっているのに、日本は情報戦で負け続けています。
石平さんの言うように、中国が日本を攻める口実を与えることになるわけですから、政治家も含めしっかり反論すべきです。
石平 
習近平政権下では十二月十三日、日本軍が入城した日を「南京大虐殺」の「犠牲者」を追悼する国家的記念日に制定し、毎年、記念行事を開催しています。
そのようにして反日教育が続けられています。
江沢民や習近平がいなくなっても中国共産党政権が続く限り、日本は南京事件を通じて責められ続ける。 
永遠に頭を下げ続けるつもりですか。
慰安婦問題では線引きができたのですから、南京事件も同じく毅然とした対応をしてもらいたい。

 

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2023年01月07日 17時06分23秒 | 全般

以下は月刊誌WiLL2月新春号からである。
石平さんと阿羅健一さんの対談特集である。
阿羅健一さんが私が永遠に愛する母校の先輩である事は既述の通り。
日本国民のみならず世界中の人達が必読。
江沢民が仕掛けた「南京事件」の大ウソ
2022年は南京事件から85年目。
毎年12月13日には、南京で記念式典が開催される。
日本よ、いつまで黙っているのか!
江沢民の反日政策

罠にはまった日本人

石平 
むしろ子供時代に教えられたのは、「三光作戦」です。
日本軍が中国で展開した残虐な作戦行動「焼きつくす(焼光)、殺しつくす(殺光)、奪いつくす(槍光)」を示す言葉。
では、南京事件はどうか。まったく教わっていないし、当時の中国共産党政権の認識では、南京事件はなかったに等しい。
阿羅 
「三光作戦」は台湾に逃れた国民党軍が敗走するとき、村々に食料を残さないためにやったことですが、日本軍についてはウソです。
石平 
南京事件を拡大させた日本人がいる。
元朝日新聞記者、本多勝一氏の「中国の旅』(1972年)!
阿羅 
現地の人の話を検証も裏取りもせず、南京事件があったと書いてしまった。
しかも事実誤認が多々見られました。
そこで批判が殺到したら、本多氏は「私は中国側の言うのをそのまま代弁しただけですから、抗議をするのであれば、中国側に直接やっていただけませんでしょうか」と言い訳している。
ジャーナリズムの精神に反する行為です。
石平 
恥を知れ!と言いたい。
私は中国の大学でも仕事をしたことがありますから、よくわかるのですが、海外からマスコミ関係者が取材や調査に来ると判明したら、一ヵ月前から中国共産党で対策チームを組織し、会議を開いて、どのように対処するかを話し合います。
そして組織内で役割分担を決め、シナリオをつくり、「お前がこういう役を演じろ」「お前がそのように言え」と事前に何10回も練習する。 
本多氏も同じような罠にはまったのでしょう。
日本の大手新聞社の記者が来るから、時の政府が現地の人々に「お前は70歳だから、日本軍が悪いことをしたのを見ただろう。それを話せ」と強制する。
断ることはできません。拘束されますから。
それで一所懸命、暗記する。でも、暗記だけではダメで自分の言葉で言わなければならない。
それが中国共産党のやり方です。
阿羅 
実に徹底しています。
石平 
そして、本多氏は中国共産党の“プロパガンダ”をそのまま執筆し、世に流布させてしまった。
時の共産党政権に利用されたのです。
実に罪が重い。

批判された教科書検定
阿羅 
『南京事件はなかった』でも触れていますが、日本政府が南京事件を正式に認めたのは、一九八二年のことです。
次年度から使われる高校教科書の検定結果が新聞各社で取り上げられたのですが、その教科書で、南京事件のことを次のように記述しました。 
「南京占領の後、日本軍は中国軍民多数を殺害、暴行、略奪、放火を行い南京大虐殺として国際的非難を浴びた。中国人の犠牲者は20万人に上るともいわれる」 
そこで、検定では「暴行、略奪、放火を行い」の記述と、犠牲者数が消され、逆に、「事件の発端は中国軍の激しい抵抗で損害の多く出た日本軍が激こうしたため」が加わり、日本軍の正当性を強調する形にしたのです。
そこに、当時の毎日新聞が、この検定に噛みついた。
「教科書統制、一段と強化」と。
石平 
毎日新聞の批判は的外れです。
阿羅 
ところが、その四日後、『人民日報』が毎日新聞の報道を伝えたのです。
日本の教科書検定が批判されている内容で、検定の内容を非難したものではありません。
ただし、中国のメディアが南京事件に触れるのは、このときが初めてだった。 
検定発表から1ヵ月後、各紙の批判も終息したと思われた七月二十六日、当時、中国の肖向前第一アジア局長が渡邊幸治駐中国公使を呼び寄せ、日本の教科書は侵略を進出に換え、南京事件も改めたと、突然、注文をつけてきたのです。 
さらに『工人日報』が南京事件の写真を掲載しました。
中国のメディアが日本批判の手段として南京事件を収り上げたのも初めてのことです。
写真には橋本欣五郎大佐が登場していますが、撮影者、撮影場所も不明でした。
実は南京戦のとき、橋本大佐は重砲兵を率いて南京から百キロほど離れた蕪湖へ進撃しており、南京には行っていません。
それを南京事件の責任者というのですから。
間に合わせのウソで日本を黙らせようとする。
石平 
南京事件についていかに関心を持っていなかったかがわかります。
阿羅 
しかし、中国メディアで報じられたことを契機に、日本国内では左派メディアを中心に教科書検定問題を取り上げ、国会でも、野党を中心に中国が書き換えに納得していないと責め立てた。
結局、執拗な攻撃に音を上げた小川平二文部大臣(当時、鈴木善幸内閣)は、侵略戦争を認め、南京事件まで認めるようになったのです。
石平 
日本外交の弱腰がたたって、ついにそうなってしまった。
阿羅 
そう、さらに可解なのが、外務省です。
ひたすら文部省に教科書の書き換えを要求してくる。
外務省の強い主張に対し、文部省は三年ごとの改訂検定を一年早めることにします。
すると、外務省は二年繰り上げを求める。
検定の仕組みから一年が限度で、小川文部大臣や三角哲生事務次官は辞任までして抵抗しようとします。 
当時、加戸守行総務課長は小川大臣に「これは国家主権の問題です。完令な内政問題だと突っぱねてください!」と進言し、なんとか書き換えを拒否し続けます。
石平 
加戸さんは加計問題が騒がしいとき、「加計ありきではなかった」など重要な証言をしています。
背筋の通った本物のエリート官僚です。
阿羅 
鈴木首相は文部省を落とせないと見るや、強硬手段に出ます。
当時鈴木首相は外務省の木内昭胤(きうちあきたね)アジア局長を相談相手にしており、その相談内容については、橋本恕(ひろし)情報文化局長が談話を書いていた。
それが宮洋喜一官房長官の談話として発表されます(1982年8月26日)。 
「アジアの近隣諸国との友好、親善を進めるうえでこれらの批判に十分に耳を傾け、政府の責任において是正する」 
是正という表現は検定が間違っていたことを意味します。
鈴木首相が強硬手段に出たのも、談話発表の三ヵ月後に退陣が予定されており、最後の花道として日中友好を前面に押し出し、訪中を画策しようとしたからです。
しかし、改善という言葉を望んでいた文部省としては到底受け入れられませんでしたが、文部省が談話の内容を知ったのは、発表された後だったので、どうすることもできなかった。
石平
外務省がここまで中国に媚びへつらうのも不可解です。

“チャイナスクール”の弊害
阿羅 
中国は中国の意をくむ外交官は手厚くもてなし、言いなりにならない外交官は邪険に扱います。
実に露骨です。
阿南惟茂(これしげ)中国課員は文化大革命を“ジャリ革命“と呼び、駐日中国大使館から抗議され、内定していた大使館書記官を取り消されることもあった。
やがて外務省内では「中国課首席事務官ー中国謀長-アジア局長-駐中国大使」という出世街道ができます。 
その街道を歩むためには、中国との関係を良好にしなければならない。
要するに国益よりも保身が優先です。
中国関係独特のもので、彼らは”チャイナスクール”と呼ばれるようになります。
石平 
そのように中国に阿ったところで、日本に利することが何か一つでもありましたか。
ODA(政府開発援助)を通じて、中国に約三兆六千六百億円も拠出し、何一つ感謝の言葉をもらっていません。 
それよりも重要な問題は、日本の安全保障にかかわっているということ。
中国政府や中国国民が南京市民の三十万人が日本に殺されたことを事実だと認定すれば、報復のため、政府から国民一般に至るまで何十万人の日本人を殺しても構わないとなってしまう。
阿羅 
攻撃材料を与えてしまうわけですね。
石平 
中国が東京に核兵器を一発撃ち込むことだってあり得るかもしれない。
中国人は誰一人反対しません。むしろ賛成の大合唱です。
「日本は南京市民を虐殺しだのだから、その仕返しだ」と。
阿羅 
十数年前、日本で事件を起こした中国人が警察に捕まりました。
取り調べでその中国人は「日本人は南京で三十万人を殺したから、こんなことをやっても大丈夫だ」と答えたそうです。
石平 
南京事件を認めれば、中国が日本に軍事攻撃を仕掛けても、それによって日本人がどれほど犠牲者を出しても、正当化の根拠を与えてしまう。
だから外務省のやり方に憤りを覚えます。
日本国民の命をなんだと思っているのか!
阿羅 
外務省だけでなく二〇一〇年、日中歴史共同研究でも日本側は南京爭件を認め、鳩山由紀夫元首相は二〇一三年、南京まで行って謝罪している。
南京事件は戦時宣伝であることが明らかになっているのに、日本は情報戦で負け続けています。
石平さんの言うように、中国が日本を攻める口実を与えることになるわけですから、政治家も含めしっかり反論すべきです。
石平 
習近平政権下では十二月十三日、日本軍が入城した日を「南京大虐殺」の「犠牲者」を追悼する国家的記念日に制定し、毎年、記念行事を開催しています。
そのようにして反日教育が続けられています。
江沢民や習近平がいなくなっても中国共産党政権が続く限り、日本は南京事件を通じて責められ続ける。 
永遠に頭を下げ続けるつもりですか。
慰安婦問題では線引きができたのですから、南京事件も同じく毅然とした対応をしてもらいたい。

 

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本多勝一…私は中国側の言うのをそのまま代弁しただけですから、抗議をするのであれば、中国側に直接やっていただけませんでしょうか

2023年01月07日 17時01分13秒 | 全般

以下は月刊誌WiLL2月新春号からである。
石平さんと阿羅健一さんの対談特集である。
阿羅健一さんが私が永遠に愛する母校の先輩である事は既述の通り。
日本国民のみならず世界中の人達が必読。
江沢民が仕掛けた「南京事件」の大ウソ
2022年は南京事件から85年目。
毎年12月13日には、南京で記念式典が開催される。
日本よ、いつまで黙っているのか!
江沢民の反日政策

罠にはまった日本人

石平 
むしろ子供時代に教えられたのは、「三光作戦」です。
日本軍が中国で展開した残虐な作戦行動「焼きつくす(焼光)、殺しつくす(殺光)、奪いつくす(槍光)」を示す言葉。
では、南京事件はどうか。まったく教わっていないし、当時の中国共産党政権の認識では、南京事件はなかったに等しい。
阿羅 
「三光作戦」は台湾に逃れた国民党軍が敗走するとき、村々に食料を残さないためにやったことですが、日本軍についてはウソです。
石平 
南京事件を拡大させた日本人がいる。
元朝日新聞記者、本多勝一氏の「中国の旅』(1972年)!
阿羅 
現地の人の話を検証も裹取りもせず、南京事件があったと書いてしまった。
しかも事実誤認が多々見られました。
そこで批判が殺到したら、本多氏は「私は中国側の言うのをそのまま代弁しただけですから、抗議をするのであれば、中国側に直接やっていただけませんでしょうか」と言い訳している。
ジャーナリズムの精神に反する行為です。
石平 
恥を知れ!と言いたい。
私は中国の大学でも仕事をしたことがありますから、よくわかるのですが、海外からマスコミ関係者が取材や調査に来ると判明したら、一ヵ月前から中国共産党で対策チームを組織し、会議を開いて、どのように対処するかを話し合います。
そして組織内で役割分担を決め、シナリオをつくり、「お前がこういう役を演じろ」「お前がそのように言え」と事前に何10回も練習する。 
本多氏も同じような罠にはまったのでしょう。
日本の大手新聞社の記者が来るから、時の政府が現地の人々に「お前は70歳だから、日本軍が悪いことをしたのを見ただろう。それを話せ」と強制する。
断ることはできません。拘束されますから。
それで一所懸命、暗記する。でも、暗記だけではダメで自分の言葉で言わなければならない。
それが中国共産党のやり方です。
阿羅 
実に徹底しています。
石平 
そして、本多氏は中国共産党の“プロパガンダ”をそのまま執筆し、世に流布させてしまった。
時の共産党政権に利用されたのです。
実に罪が重い。

批判された教科書検定
阿羅 
『南京事件はなかった』でも触れていますが、日本政府が南京事件を正式に認めたのは、一九八二年のことです。
次年度から使われる高校教科書の検定結果が新聞各社で取り上げられたのですが、その教科書で、南京事件のことを次のように記述しました。 
「南京占領の後、日本軍は中国軍民多数を殺害、暴行、略奪、放火を行い南京大虐殺として国際的非難を浴びた。中国人の犠牲者は20万人に上るともいわれる」 
そこで、検定では「暴行、略奪、放火を行い」の記述と、犠牲者数が消され、逆に、「事件の発端は中国軍の激しい抵抗で損害の多く出た日本軍が激こうしたため」が加わり、日本軍の正当性を強調する形にしたのです。
そこに、当時の毎日新聞が、この検定に噛みついた。
「教科書統制、一段と強化」と。
石平 
毎日新聞の批判は的外れです。
阿羅 
ところが、その四日後、『人民日報』が毎日新聞の報道を伝えたのです。
日本の教科書検定が批判されている内容で、検定の内容を非難したものではありません。
ただし、中国のメディアが南京事件に触れるのは、このときが初めてだった。 
検定発表から1ヵ月後、各紙の批判も終息したと思われた七月二十六日、当時、中国の肖向前第一アジア局長が渡邊幸治駐中国公使を呼び寄せ、日本の教科書は侵略を進出に換え、南京事件も改めたと、突然、注文をつけてきたのです。 
さらに『工人日報』が南京事件の写真を掲載しました。
中国のメディアが日本批判の手段として南京事件を収り上げたのも初めてのことです。
写真には橋本欣五郎大佐が登場していますが、撮影者、撮影場所も不明でした。
実は南京戦のとき、橋本大佐は重砲兵を率いて南京から百キロほど離れた蕪湖へ進撃しており、南京には行っていません。
それを南京事件の責任者というのですから。
間に合わせのウソで日本を黙らせようとする。
石平 
南京事件についていかに関心を持っていなかったかがわかります。
阿羅 
しかし、中国メディアで報じられたことを契機に、日本国内では左派メディアを中心に教科書検定問題を取り上げ、国会でも、野党を中心に中国が書き換えに納得していないと責め立てた。
結局、執拗な攻撃に音を上げた小川平二文部大臣(当時、鈴木善幸内閣)は、侵略戦争を認め、南京事件まで認めるようになったのです。
石平 
日本外交の弱腰がたたって、ついにそうなってしまった。
阿羅 
そう、さらに可解なのが、外務省です。
ひたすら文部省に教科書の書き換えを要求してくる。
外務省の強い主張に対し、文部省は三年ごとの改訂検定を一年早めることにします。
すると、外務省は二年繰り上げを求める。
検定の仕組みから一年が限度で、小川文部大臣や三角哲生事務次官は辞任までして抵抗しようとします。 
当時、加戸守行総務課長は小川大臣に「これは国家主権の問題です。完令な内政問題だと突っぱねてください!」と進言し、なんとか書き換えを拒否し続けます。
石平 
加戸さんは加計問題が騒がしいとき、「加計ありきではなかった」など重要な証言をしています。
背筋の通った本物のエリート官僚です。
阿羅 
鈴木首相は文部省を落とせないと見るや、強硬手段に出ます。
当時鈴木首相は外務省の木内昭胤(きうちあきたね)アジア局長を相談相手にしており、その相談内容については、橋本恕(ひろし)情報文化局長が談話を書いていた。
それが宮洋喜一官房長官の談話として発表されます(1982年8月26日)。 
「アジアの近隣諸国との友好、親善を進めるうえでこれらの批判に十分に耳を傾け、政府の責任において是正する」 
是正という表現は検定が間違っていたことを意味します。
鈴木首相が強硬手段に出たのも、談話発表の三ヵ月後に退陣が予定されており、最後の花道として日中友好を前面に押し出し、訪中を画策しようとしたからです。
しかし、改善という言葉を望んでいた文部省としては到底受け入れられませんでしたが、文部省が談話の内容を知ったのは、発表された後だったので、どうすることもできなかった。
石平
外務省がここまで中国に媚びへつらうのも不可解です。

“チャイナスクール”の弊害
阿羅 
中国は中国の意をくむ外交官は手厚くもてなし、言いなりにならない外交官は邪険に扱います。
実に露骨です。
阿南惟茂(これしげ)中国課員は文化大革命を“ジャリ革命“と呼び、駐日中国大使館から抗議され、内定していた大使館書記官を取り消されることもあった。
やがて外務省内では「中国課首席事務官ー中国謀長-アジア局長-駐中国大使」という出世街道ができます。 
その街道を歩むためには、中国との関係を良好にしなければならない。
要するに国益よりも保身が優先です。
中国関係独特のもので、彼らは”チャイナスクール”と呼ばれるようになります。
石平 
そのように中国に阿ったところで、日本に利することが何か一つでもありましたか。
ODA(政府開発援助)を通じて、中国に約三兆六千六百億円も拠出し、何一つ感謝の言葉をもらっていません。 
それよりも重要な問題は、日本の安全保障にかかわっているということ。
中国政府や中国国民が南京市民の三十万人が日本に殺されたことを事実だと認定すれば、報復のため、政府から国民一般に至るまで何十万人の日本人を殺しても構わないとなってしまう。
阿羅 
攻撃材料を与えてしまうわけですね。
石平 
中国が東京に核兵器を一発撃ち込むことだってあり得るかもしれない。
中国人は誰一人反対しません。むしろ賛成の大合唱です。
「日本は南京市民を虐殺しだのだから、その仕返しだ」と。
阿羅 
十数年前、日本で事件を起こした中国人が警察に捕まりました。
取り調べでその中国人は「日本人は南京で三十万人を殺したから、こんなことをやっても大丈夫だ」と答えたそうです。
石平 
南京事件を認めれば、中国が日本に軍事攻撃を仕掛けても、それによって日本人がどれほど犠牲者を出しても、正当化の根拠を与えてしまう。
だから外務省のやり方に憤りを覚えます。
日本国民の命をなんだと思っているのか!
阿羅 
外務省だけでなく二〇一〇年、日中歴史共同研究でも日本側は南京爭件を認め、鳩山由紀夫元首相は二〇一三年、南京まで行って謝罪している。
南京事件は戦時宣伝であることが明らかになっているのに、日本は情報戦で負け続けています。
石平さんの言うように、中国が日本を攻める口実を与えることになるわけですから、政治家も含めしっかり反論すべきです。
石平 
習近平政権下では十二月十三日、日本軍が入城した日を「南京大虐殺」の「犠牲者」を追悼する国家的記念日に制定し、毎年、記念行事を開催しています。
そのようにして反日教育が続けられています。
江沢民や習近平がいなくなっても中国共産党政権が続く限り、日本は南京事件を通じて責められ続ける。 
永遠に頭を下げ続けるつもりですか。
慰安婦問題では線引きができたのですから、南京事件も同じく毅然とした対応をしてもらいたい。

 

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「三光作戦」は台湾に逃れた国民党軍が敗走するとき、村々に食料を残さないためにやったことですが、日本軍についてはウソです。

2023年01月07日 16時59分00秒 | 全般

以下は月刊誌WiLL2月新春号からである。
石平さんと阿羅健一さんの対談特集である。
阿羅健一さんが私が永遠に愛する母校の先輩である事は既述の通り。
日本国民のみならず世界中の人達が必読。
江沢民が仕掛けた「南京事件」の大ウソ
2022年は南京事件から85年目。
毎年12月13日には、南京で記念式典が開催される。
日本よ、いつまで黙っているのか!
江沢民の反日政策

罠にはまった日本人

石平 
むしろ子供時代に教えられたのは、「三光作戦」です。
日本軍が中国で展開した残虐な作戦行動「焼きつくす(焼光)、殺しつくす(殺光)、奪いつくす(槍光)」を示す言葉。
では、南京事件はどうか。まったく教わっていないし、当時の中国共産党政権の認識では、南京事件はなかったに等しい。
阿羅 
「三光作戦」は台湾に逃れた国民党軍が敗走するとき、村々に食料を残さないためにやったことですが、日本軍についてはウソです。
石平 
南京事件を拡大させた日本人がいる。
元朝日新聞記者、本多勝一氏の「中国の旅』(1972年)!
阿羅 
現地の人の話を検証も裹取りもせず、南京事件があったと書いてしまった。
しかも事実誤認が多々見られました。
そこで批判が殺到したら、本多氏は「私は中国側の言うのをそのまま代弁しただけですから、抗議をするのであれば、中国側に直接やっていただけませんでしょうか」と言い訳している。
ジャーナリズムの精神に反する行為です。
石平 
恥を知れ!と言いたい。
私は中国の大学でも仕事をしたことがありますから、よくわかるのですが、海外からマスコミ関係者が取材や調査に来ると判明したら、一ヵ月前から中国共産党で対策チームを組織し、会議を開いて、どのように対処するかを話し合います。
そして組織内で役割分担を決め、シナリオをつくり、「お前がこういう役を演じろ」「お前がそのように言え」と事前に何10回も練習する。 
本多氏も同じような罠にはまったのでしょう。
日本の大手新聞社の記者が来るから、時の政府が現地の人々に「お前は70歳だから、日本軍が悪いことをしたのを見ただろう。それを話せ」と強制する。
断ることはできません。拘束されますから。
それで一所懸命、暗記する。でも、暗記だけではダメで自分の言葉で言わなければならない。
それが中国共産党のやり方です。
阿羅 
実に徹底しています。
石平 
そして、本多氏は中国共産党の“プロパガンダ”をそのまま執筆し、世に流布させてしまった。
時の共産党政権に利用されたのです。
実に罪が重い。

批判された教科書検定
阿羅 
『南京事件はなかった』でも触れていますが、日本政府が南京事件を正式に認めたのは、一九八二年のことです。
次年度から使われる高校教科書の検定結果が新聞各社で取り上げられたのですが、その教科書で、南京事件のことを次のように記述しました。 
「南京占領の後、日本軍は中国軍民多数を殺害、暴行、略奪、放火を行い南京大虐殺として国際的非難を浴びた。中国人の犠牲者は20万人に上るともいわれる」 
そこで、検定では「暴行、略奪、放火を行い」の記述と、犠牲者数が消され、逆に、「事件の発端は中国軍の激しい抵抗で損害の多く出た日本軍が激こうしたため」が加わり、日本軍の正当性を強調する形にしたのです。
そこに、当時の毎日新聞が、この検定に噛みついた。
「教科書統制、一段と強化」と。
石平 
毎日新聞の批判は的外れです。
阿羅 
ところが、その四日後、『人民日報』が毎日新聞の報道を伝えたのです。
日本の教科書検定が批判されている内容で、検定の内容を非難したものではありません。
ただし、中国のメディアが南京事件に触れるのは、このときが初めてだった。 
検定発表から1ヵ月後、各紙の批判も終息したと思われた七月二十六日、当時、中国の肖向前第一アジア局長が渡邊幸治駐中国公使を呼び寄せ、日本の教科書は侵略を進出に換え、南京事件も改めたと、突然、注文をつけてきたのです。 
さらに『工人日報』が南京事件の写真を掲載しました。
中国のメディアが日本批判の手段として南京事件を収り上げたのも初めてのことです。
写真には橋本欣五郎大佐が登場していますが、撮影者、撮影場所も不明でした。
実は南京戦のとき、橋本大佐は重砲兵を率いて南京から百キロほど離れた蕪湖へ進撃しており、南京には行っていません。
それを南京事件の責任者というのですから。
間に合わせのウソで日本を黙らせようとする。
石平 
南京事件についていかに関心を持っていなかったかがわかります。
阿羅 
しかし、中国メディアで報じられたことを契機に、日本国内では左派メディアを中心に教科書検定問題を取り上げ、国会でも、野党を中心に中国が書き換えに納得していないと責め立てた。
結局、執拗な攻撃に音を上げた小川平二文部大臣(当時、鈴木善幸内閣)は、侵略戦争を認め、南京事件まで認めるようになったのです。
石平 
日本外交の弱腰がたたって、ついにそうなってしまった。
阿羅 
そう、さらに可解なのが、外務省です。
ひたすら文部省に教科書の書き換えを要求してくる。
外務省の強い主張に対し、文部省は三年ごとの改訂検定を一年早めることにします。
すると、外務省は二年繰り上げを求める。
検定の仕組みから一年が限度で、小川文部大臣や三角哲生事務次官は辞任までして抵抗しようとします。 
当時、加戸守行総務課長は小川大臣に「これは国家主権の問題です。完令な内政問題だと突っぱねてください!」と進言し、なんとか書き換えを拒否し続けます。
石平 
加戸さんは加計問題が騒がしいとき、「加計ありきではなかった」など重要な証言をしています。
背筋の通った本物のエリート官僚です。
阿羅 
鈴木首相は文部省を落とせないと見るや、強硬手段に出ます。
当時鈴木首相は外務省の木内昭胤(きうちあきたね)アジア局長を相談相手にしており、その相談内容については、橋本恕(ひろし)情報文化局長が談話を書いていた。
それが宮洋喜一官房長官の談話として発表されます(1982年8月26日)。 
「アジアの近隣諸国との友好、親善を進めるうえでこれらの批判に十分に耳を傾け、政府の責任において是正する」 
是正という表現は検定が間違っていたことを意味します。
鈴木首相が強硬手段に出たのも、談話発表の三ヵ月後に退陣が予定されており、最後の花道として日中友好を前面に押し出し、訪中を画策しようとしたからです。
しかし、改善という言葉を望んでいた文部省としては到底受け入れられませんでしたが、文部省が談話の内容を知ったのは、発表された後だったので、どうすることもできなかった。
石平
外務省がここまで中国に媚びへつらうのも不可解です。

“チャイナスクール”の弊害
阿羅 
中国は中国の意をくむ外交官は手厚くもてなし、言いなりにならない外交官は邪険に扱います。
実に露骨です。
阿南惟茂(これしげ)中国課員は文化大革命を“ジャリ革命“と呼び、駐日中国大使館から抗議され、内定していた大使館書記官を取り消されることもあった。
やがて外務省内では「中国課首席事務官ー中国謀長-アジア局長-駐中国大使」という出世街道ができます。 
その街道を歩むためには、中国との関係を良好にしなければならない。
要するに国益よりも保身が優先です。
中国関係独特のもので、彼らは”チャイナスクール”と呼ばれるようになります。
石平 
そのように中国に阿ったところで、日本に利することが何か一つでもありましたか。
ODA(政府開発援助)を通じて、中国に約三兆六千六百億円も拠出し、何一つ感謝の言葉をもらっていません。 
それよりも重要な問題は、日本の安全保障にかかわっているということ。
中国政府や中国国民が南京市民の三十万人が日本に殺されたことを事実だと認定すれば、報復のため、政府から国民一般に至るまで何十万人の日本人を殺しても構わないとなってしまう。
阿羅 
攻撃材料を与えてしまうわけですね。
石平 
中国が東京に核兵器を一発撃ち込むことだってあり得るかもしれない。
中国人は誰一人反対しません。むしろ賛成の大合唱です。
「日本は南京市民を虐殺しだのだから、その仕返しだ」と。
阿羅 
十数年前、日本で事件を起こした中国人が警察に捕まりました。
取り調べでその中国人は「日本人は南京で三十万人を殺したから、こんなことをやっても大丈夫だ」と答えたそうです。
石平 
南京事件を認めれば、中国が日本に軍事攻撃を仕掛けても、それによって日本人がどれほど犠牲者を出しても、正当化の根拠を与えてしまう。
だから外務省のやり方に憤りを覚えます。
日本国民の命をなんだと思っているのか!
阿羅 
外務省だけでなく二〇一〇年、日中歴史共同研究でも日本側は南京爭件を認め、鳩山由紀夫元首相は二〇一三年、南京まで行って謝罪している。
南京事件は戦時宣伝であることが明らかになっているのに、日本は情報戦で負け続けています。
石平さんの言うように、中国が日本を攻める口実を与えることになるわけですから、政治家も含めしっかり反論すべきです。
石平 
習近平政権下では十二月十三日、日本軍が入城した日を「南京大虐殺」の「犠牲者」を追悼する国家的記念日に制定し、毎年、記念行事を開催しています。
そのようにして反日教育が続けられています。
江沢民や習近平がいなくなっても中国共産党政権が続く限り、日本は南京事件を通じて責められ続ける。 
永遠に頭を下げ続けるつもりですか。
慰安婦問題では線引きができたのですから、南京事件も同じく毅然とした対応をしてもらいたい。

 

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ユネスコはその映画を見直すべきです。とにかく中国という国はウソを平然とつきます。毛沢東時代私たちが受けた歴史教育の90%がウソだった。

2023年01月07日 16時53分30秒 | 全般

以下は月刊誌WiLL2月新春号からである。
石平さんと阿羅健一さんの対談特集である。
阿羅健一さんが私が永遠に愛する母校の先輩である事は既述の通り。
日本国民のみならず世界中の人達が必読。
江沢民が仕掛けた「南京事件」の大ウソ
2022年は南京事件から85年目。
毎年12月13日には、南京で記念式典が開催される。
日本よ、いつまで黙っているのか!
江沢民の反日政策
石平 
江沢民元国家主席が亡くなりましたけど、天安門事件で西側諸国から制裁を受け、中国は外交的に孤立状態に陥っていました。
しかし、日本を巧みに利用し、どこよりも早く経済制裁を解除させ、1991年には、海部俊樹首相が訪中しています。
思う存分に日本を利用した指導者だった。
阿羅 
翌92年には天皇・皇后両陛下も中国を訪問された。
石平 
それによって中国は国際社会に復帰する足掛かりを得たのです。
そうやって日本の人恩を受けながら、江沢民は恩を仇で返すように「反日」を利用しまくった。
「愛国主義教育運動」を展開し、中国国内に抗日戦争紀念館を増設しています。 
そして歴史問題で日本を叩く時に必ず持ち出してきたのが、南京事件。
もはや国策となっており、江沢民以降、南京事件は靖國参拝と並んで日本叩きの最強カードの一つになっている。 
実は中国では次の二つがタブー視されている。
一つは「南京事件」。
30万人も虐殺されたなんてウソだ、疑問だと言えば、半殺しの目にあう。
もう一つが台湾統一。
これを否定したら、確実に抹殺される(笑)。
中国人は「台湾は我が国の神聖なる領土」であると思い込んでいるからです。
この二つは”宗教的信念”にまで高まっていると言っても過言ではありません。
阿羅 
そういえば、2021年末、上海にある専門学校「上海震旦(しんたん)職業学院」の女性教師、宋庚一氏が、授業中、「南京事件の犠牲者が30万人だったというデータの裏付けはない」と発言。
中国政府の見解を疑問視し、その上で「永遠に憎しみ続けるべきではなく、戦争がなぜ起きたのかを、改めて考えることが重要だ」と至極まともな主張をした。
ネットでこの発言が拡散し、物議を醸しました。
「無知で恥知らずだ」などという批判が相次ぎ、学校側は、社会に悪影響を与えたとして、宋氏を除籍処分にしています。
南京事件は事実無根
石平 
南京事件は中国人のナショナリズムを剌激します。
阿羅 
日本は中国からの攻撃に完令に受け身になっている。
南京では『南京大虐殺における国際安全区の研究』『侵害と交渉一日本軍の南京での残虐行為における第三国の権益』など、『南京大虐殺』シリーズの新刊8冊が発表されています。
南京大学出版社の編集審定者である楊金栄氏によると『南京大虐殺』シリーズは、2014年以降、10数ヵ国・地域での海外出版ルートを開拓、英語版、スペイン謡版、韓国語版などを刊行しており、ドイツ語版事業も企画されている。
そうやって世界中に発信しています。
石平 
ありもしない南京事件について、日本は声を大にして反論すべきです。
そんな中、阿羅さんは最近、同時に2冊の本を出された。
阿羅 
『決定版 南京事件はなかった目覚めよ外務省!』(展転社)、『決定版「南京事件」日本人50人の証言』(扶桑社)です。
当時のジャーナリストや軍人、画家、写真家などの声を集めた『50人の証言』は、小学館から刊行した『南京事件』日本人48人の証言』をもとにしていますが、今回は軍人2人の証言も加えて、増補改訂しました。
石平 
それは素晴らしい。
阿羅さんが南京事件を調べる中で、事実無根であるという結論に至った根拠は何でしょうか。
阿羅 
1946年、中国と米国の検察官が4月5日から6月8日まで中国に行き、合同の戦争犯罪証拠調査を行っています。
中国からの証拠提出、証人尋問もありましたが、結果的に、法廷は南京事件を認めます。
その理由を法廷は、「殺害された一般人と捕虜の総数は、20万人以上であったことが示されている。これら見積もりが誇張でないことは、埋葬隊とその他の団体が埋葬した遺体が、15万5千人に及んだ事実によって証明されている」と述べ、15万5千人の埋葬記録があるとしています。
埋葬記録があるのなら、それをチェックしてみようと思ったのです。
石平 
するとー?
阿羅 
法廷に提出された埋葬記録によると、崇善堂(すうぜんどう)という慈善団体が11万2千余体を埋葬、紅卍字会(こうまんじかい)という慈善団体も4万3千余体を埋葬、あわせると15万5千体になる。このほか7万余人が虐殺されたという証拠が法廷に提出され、それによって法廷は20万人の殺害を認めています。

偽証・虚偽証言を丸のみ

石平 
そうなると埋葬記録そのものを見る必要があります。
阿羅 
ええ。中国には昔から慈善団体がたくさんありました。
捨てられた赤ん坊を育てたり、身寄りのない老人を世話したり、冬になれば炊き出しを行い、行き倒れになった死体を埋葬するなど、そういう活動をする組織です。
南京でも実に50近くの慈善団体があり、しかもほとんどが民問団体で、寄付金によって賄われていた。 
崇善堂は清の時代から下町で赤ちゃんを養育し、そのための施設を持ち、世話する女性がいました。
ところが、南京が戦場になる頃、世話する女性は南京を離れており、寄付金も集まりません。
南京陥落後からしばらくして、南京市から資金を援助されると、ほそぼそと赤ちゃんの養育を再開します。
そんな状況で、シャベルや荷車、人夫を抱える余裕なんてありませんから、何10万人も埋葬することなど到底できません。 
実際に南京陥落後の宣教師の日記や手紙、日本外交官の記録、日本と中国の新聞など、どこにも崇善堂が埋葬活動をした記録はない。
石平 
となると、合同調査なんて言っていますけどー。
阿羅 
ウソなんです。
崇善堂が11万2千余体を埋葬した記録とは架空のものなのです。
戦後、南京で戦争裁判が開かれると、中国の検察官が主導し、デマ宣伝に合わせ、1938年に埋葬したという文書を作成します。
いつ、どこで遺体を発見し、男女子供の数はそれぞれいくつで、埋葬した場所はどこか、と事実であるかのように偽造する。
崇善堂にかかわる人も埋葬活動に従事したと証言し、その文書が東京裁判に提出されます。
それらを東京裁判はそっくり認め、判決文に書いてしまった。
石平
中国側の偽造・虚偽証言を丸のみしてしまった。
阿羅 
裁判に対する中国の姿勢に驚かざるを得ないとともに、東京裁判の判決がいかに杜撰であるか、改めて驚きます。
そして、この判決が、日本に南京事件という十字架を背負わせることになるわけです。

歴史教育の90%がウソ

石平 
私自身、四川省に生まれ、北京大学で学びましたが、高校3年生まで南京事件に関して一度も聞かされたことがありません。
学校ではもちろん教えられていなかったのです。
阿羅 
中国の中学校歴史教科書に南京事件が初めて記述されたのは、1979年です。
建国からすでに30年も経っていますからね。
石平
そう、私が大学生の頃、南京事件が盛んに言われるようになった。
でも、話を聞いても矛盾だらけで、本当にあったのか疑問でした。 
4年生のときのことですが、学生寮で暮らしていました。
一部屋に2段ベッドが4つ並び、8人の共同生活です。その中の1人が南京出身者でした。 
彼に「祖父母から南京事件のことを聞いたことがあるか?」と尋ねたら、「一切ない」と。
彼の一族は、先祖代々、南京亟内で商売をしていました。
しかも祖父は8人兄弟で、みな南京市民だったのですが、1人も殺されていない。
30万人虐殺されたというのなら、1人くらいいてもおかしくありません。
阿羅 
貴重な証言ですね。
南京事件の関係資料が2015年、ユネスコの世界記憶遺産に登録されましたが一刻も早く撤回させるべきです。 
立命館大学の北村稔名誉教授が指摘されていますが、世界記憶遺産に登録される際、資料の中に谷寿夫中将に対する「死刑判決書正本」が含まれており、その判決書には大虐殺の証拠の一つとして、「日本軍が現場で撮影した都市住民皆殺しの映画を、わが軍の勝利の後に押収した」と記されているとのことです。 
この映画は、1938年に制作された『戦線後方記録映画南京』(撮影・白井茂 編集・秋元憲 音楽・江文也 現地録音・藤井愼一 解説・徳川夢声)で、現在では日本でDVDに復刻されており、完全版を見ることができます。 
映像には、193712月17日の入城式に始まる南京市内の状況が詳細に映し出されていますが、なんと正月の準備をする穏やかな日本兵たち、電線の復旧をする中国人技師、1938年1月1日の南京自治委員会成立式典に参集した大量の市民とその傍を行進する日本海軍軍楽隊、便衣兵(市内に潜む平服の兵士)でないことを証明する安全居住証の交付場面などが”活写”されているのです。
「虐殺なんてあり得ない」― 大写しにされる市民たちの穏やかな表情こそ何よりの[証拠]ではありませんか。 
映画は谷寿夫中将の裁判当日、多くの傍聴人の目の前で上映されました。
そんな映画を大虐殺の証拠の一つに挙げる「死刑判決書正本」は、まったくのデタラメ。 
北村氏によれば、裁判での映画上映に係わる一連の経緯は、当時の国民党の機関紙「中央日報」の影印版や中国共産党が刊行した『南京大屠殺史料集』に収録される国民政府公文書心ら再現できるとのことです。
石平 
ユネスコはその映画を見直すべきです。
とにかく中国という国はウソを平然とつきます。
毛沢東時代私たちが受けた歴史教育の90%がウソだった。
南京事件もウソだとわかっても、まったく驚きません。
ああまたウソをついたのかと、そんな印象です。
阿羅 
1995年、初めて南京を訪れた際、「侵華日軍南京大屠殺遇難同凰紀念館」にも立ち寄りました。
その頃は小さく、真っ暗で汚い記念館でしたね。 
1997年、南京へ行った時、案内人がつきました。年齢は60歳くらいだったと思いますが、日本語が達者だった。
私はその人に「今までは南京事件なんて話は中国国内でなかったのに、なぜ今になって言うのですか」と聞いたのです。
その答えが「日中友好を考えて言わなかった」と。
1998年、上海に行った時、両親が中国共産党員だった通訳者にも聞いてみたら、やはり「日中友好だ」と言う。
そう教育されているのでしょうか(笑)。
石平 
ウソも方便というやつだ(笑)
1970年代以前、中国では「日中友好」なんて意識はまったくない。
抗日映画がたくさんつくられていましたが、登場する日本人将校は鼻の下にちょびヒゲをつけ、威圧的な態度を取る悪役として描かれており、口を開けば「バカヤロウー」。
だから、私が最初に覚えた日本語は「バカヤロウ」(笑)。
とにかく日本を軍国主義的な敵国だと見なしていた。
「日中友好」が言われるのは、1972年、田中角栄が訪中して以降です。
阿羅 
その通りです。

 

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私自身、四川省に生まれ、北京大学で学びましたが、高校3年生まで南京事件に関して一度も聞かされたことがありません。学校ではもちろん教えられていなかったのです。

2023年01月07日 16時51分39秒 | 全般

以下は月刊誌WiLL2月新春号からである。
石平さんと阿羅健一さんの対談特集である。
阿羅健一さんが私が永遠に愛する母校の先輩である事は既述の通り。
日本国民のみならず世界中の人達が必読。
江沢民が仕掛けた「南京事件」の大ウソ
2022年は南京事件から85年目。
毎年12月13日には、南京で記念式典が開催される。
日本よ、いつまで黙っているのか!
江沢民の反日政策
石平 
江沢民元国家主席が亡くなりましたけど、天安門事件で西側諸国から制裁を受け、中国は外交的に孤立状態に陥っていました。
しかし、日本を巧みに利用し、どこよりも早く経済制裁を解除させ、1991年には、海部俊樹首相が訪中しています。
思う存分に日本を利用した指導者だった。
阿羅 
翌92年には天皇・皇后両陛下も中国を訪問された。
石平 
それによって中国は国際社会に復帰する足掛かりを得たのです。
そうやって日本の人恩を受けながら、江沢民は恩を仇で返すように「反日」を利用しまくった。
「愛国主義教育運動」を展開し、中国国内に抗日戦争紀念館を増設しています。 
そして歴史問題で日本を叩く時に必ず持ち出してきたのが、南京事件。
もはや国策となっており、江沢民以降、南京事件は靖國参拝と並んで日本叩きの最強カードの一つになっている。 
実は中国では次の二つがタブー視されている。
一つは「南京事件」。
30万人も虐殺されたなんてウソだ、疑問だと言えば、半殺しの目にあう。
もう一つが台湾統一。
これを否定したら、確実に抹殺される(笑)。
中国人は「台湾は我が国の神聖なる領土」であると思い込んでいるからです。
この二つは”宗教的信念”にまで高まっていると言っても過言ではありません。
阿羅 
そういえば、2021年末、上海にある専門学校「上海震旦(しんたん)職業学院」の女性教師、宋庚一氏が、授業中、「南京事件の犠牲者が30万人だったというデータの裏付けはない」と発言。
中国政府の見解を疑問視し、その上で「永遠に憎しみ続けるべきではなく、戦争がなぜ起きたのかを、改めて考えることが重要だ」と至極まともな主張をした。
ネットでこの発言が拡散し、物議を醸しました。
「無知で恥知らずだ」などという批判が相次ぎ、学校側は、社会に悪影響を与えたとして、宋氏を除籍処分にしています。
南京事件は事実無根
石平 
南京事件は中国人のナショナリズムを剌激します。
阿羅 
日本は中国からの攻撃に完令に受け身になっている。
南京では『南京大虐殺における国際安全区の研究』『侵害と交渉一日本軍の南京での残虐行為における第三国の権益』など、『南京大虐殺』シリーズの新刊8冊が発表されています。
南京大学出版社の編集審定者である楊金栄氏によると『南京大虐殺』シリーズは、2014年以降、10数ヵ国・地域での海外出版ルートを開拓、英語版、スペイン謡版、韓国語版などを刊行しており、ドイツ語版事業も企画されている。
そうやって世界中に発信しています。
石平 
ありもしない南京事件について、日本は声を大にして反論すべきです。
そんな中、阿羅さんは最近、同時に2冊の本を出された。
阿羅 
『決定版 南京事件はなかった目覚めよ外務省!』(展転社)、『決定版「南京事件」日本人50人の証言』(扶桑社)です。
当時のジャーナリストや軍人、画家、写真家などの声を集めた『50人の証言』は、小学館から刊行した『南京事件』日本人48人の証言』をもとにしていますが、今回は軍人2人の証言も加えて、増補改訂しました。
石平 
それは素晴らしい。
阿羅さんが南京事件を調べる中で、事実無根であるという結論に至った根拠は何でしょうか。
阿羅 
1946年、中国と米国の検察官が4月5日から6月8日まで中国に行き、合同の戦争犯罪証拠調査を行っています。
中国からの証拠提出、証人尋問もありましたが、結果的に、法廷は南京事件を認めます。
その理由を法廷は、「殺害された一般人と捕虜の総数は、20万人以上であったことが示されている。これら見積もりが誇張でないことは、埋葬隊とその他の団体が埋葬した遺体が、15万5千人に及んだ事実によって証明されている」と述べ、15万5千人の埋葬記録があるとしています。
埋葬記録があるのなら、それをチェックしてみようと思ったのです。
石平 
するとー?
阿羅 
法廷に提出された埋葬記録によると、崇善堂(すうぜんどう)という慈善団体が11万2千余体を埋葬、紅卍字会(こうまんじかい)という慈善団体も4万3千余体を埋葬、あわせると15万5千体になる。このほか7万余人が虐殺されたという証拠が法廷に提出され、それによって法廷は20万人の殺害を認めています。

偽証・虚偽証言を丸のみ

石平 
そうなると埋葬記録そのものを見る必要があります。
阿羅 
ええ。中国には昔から慈善団体がたくさんありました。
捨てられた赤ん坊を育てたり、身寄りのない老人を世話したり、冬になれば炊き出しを行い、行き倒れになった死体を埋葬するなど、そういう活動をする組織です。
南京でも実に50近くの慈善団体があり、しかもほとんどが民問団体で、寄付金によって賄われていた。 
崇善堂は清の時代から下町で赤ちゃんを養育し、そのための施設を持ち、世話する女性がいました。
ところが、南京が戦場になる頃、世話する女性は南京を離れており、寄付金も集まりません。
南京陥落後からしばらくして、南京市から資金を援助されると、ほそぼそと赤ちゃんの養育を再開します。
そんな状況で、シャベルや荷車、人夫を抱える余裕なんてありませんから、何10万人も埋葬することなど到底できません。 
実際に南京陥落後の宣教師の日記や手紙、日本外交官の記録、日本と中国の新聞など、どこにも崇善堂が埋葬活動をした記録はない。
石平 
となると、合同調査なんて言っていますけどー。
阿羅 
ウソなんです。
崇善堂が11万2千余体を埋葬した記録とは架空のものなのです。
戦後、南京で戦争裁判が開かれると、中国の検察官が主導し、デマ宣伝に合わせ、1938年に埋葬したという文書を作成します。
いつ、どこで遺体を発見し、男女子供の数はそれぞれいくつで、埋葬した場所はどこか、と事実であるかのように偽造する。
崇善堂にかかわる人も埋葬活動に従事したと証言し、その文書が東京裁判に提出されます。
それらを東京裁判はそっくり認め、判決文に書いてしまった。
石平
中国側の偽造・虚偽証言を丸のみしてしまった。
阿羅 
裁判に対する中国の姿勢に驚かざるを得ないとともに、東京裁判の判決がいかに杜撰であるか、改めて驚きます。
そして、この判決が、日本に南京事件という十字架を背負わせることになるわけです。

歴史教育の90%がウソ

石平 
私自身、四川省に生まれ、北京大学で学びましたが、高校3年生まで南京事件に関して一度も聞かされたことがありません。
学校ではもちろん教えられていなかったのです。
阿羅 
中国の中学校歴史教科書に南京事件が初めて記述されたのは、1979年です。
建国からすでに30年も経っていますからね。
石平
そう、私が大学生の頃、南京事件が盛んに言われるようになった。
でも、話を聞いても矛盾だらけで、本当にあったのか疑問でした。 
4年生のときのことですが、学生寮で暮らしていました。
一部屋に2段ベッドが4つ並び、8人の共同生活です。その中の1人が南京出身者でした。 
彼に「祖父母から南京事件のことを聞いたことがあるか?」と尋ねたら、「一切ない」と。
彼の一族は、先祖代々、南京亟内で商売をしていました。
しかも祖父は8人兄弟で、みな南京市民だったのですが、1人も殺されていない。
30万人虐殺されたというのなら、1人くらいいてもおかしくありません。
阿羅 
貴重な証言ですね。
南京事件の関係資料が2015年、ユネスコの世界記憶遺産に登録されましたが一刻も早く撤回させるべきです。 
立命館大学の北村稔名誉教授が指摘されていますが、世界記憶遺産に登録される際、資料の中に谷寿夫中将に対する「死刑判決書正本」が含まれており、その判決書には大虐殺の証拠の一つとして、「日本軍が現場で撮影した都市住民皆殺しの映画を、わが軍の勝利の後に押収した」と記されているとのことです。 
この映画は、1938年に制作された『戦線後方記録映画南京』(撮影・白井茂 編集・秋元憲 音楽・江文也 現地録音・藤井愼一 解説・徳川夢声)で、現在では日本でDVDに復刻されており、完全版を見ることができます。 
映像には、193712月17日の入城式に始まる南京市内の状況が詳細に映し出されていますが、なんと正月の準備をする穏やかな日本兵たち、電線の復旧をする中国人技師、1938年1月1日の南京自治委員会成立式典に参集した大量の市民とその傍を行進する日本海軍軍楽隊、便衣兵(市内に潜む平服の兵士)でないことを証明する安全居住証の交付場面などが”活写”されているのです。
「虐殺なんてあり得ない」― 大写しにされる市民たちの穏やかな表情こそ何よりの[証拠]ではありませんか。 
映画は谷寿夫中将の裁判当日、多くの傍聴人の目の前で上映されました。
そんな映画を大虐殺の証拠の一つに挙げる「死刑判決書正本」は、まったくのデタラメ。 
北村氏によれば、裁判での映画上映に係わる一連の経緯は、当時の国民党の機関紙「中央日報」の影印版や中国共産党が刊行した『南京大屠殺史料集』に収録される国民政府公文書心ら再現できるとのことです。
石平 
ユネスコはその映画を見直すべきです。
とにかく中国という国はウソを平然とつきます。
毛沢東時代私たちが受けた歴史教育の90%がウソだった。
南京事件もウソだとわかっても、まったく驚きません。
ああまたウソをついたのかと、そんな印象です。
阿羅 
1995年、初めて南京を訪れた際、「侵華日軍南京大屠殺遇難同凰紀念館」にも立ち寄りました。
その頃は小さく、真っ暗で汚い記念館でしたね。 
1997年、南京へ行った時、案内人がつきました。年齢は60歳くらいだったと思いますが、日本語が達者だった。
私はその人に「今までは南京事件なんて話は中国国内でなかったのに、なぜ今になって言うのですか」と聞いたのです。
その答えが「日中友好を考えて言わなかった」と。
1998年、上海に行った時、両親が中国共産党員だった通訳者にも聞いてみたら、やはり「日中友好だ」と言う。
そう教育されているのでしょうか(笑)。
石平 
ウソも方便というやつだ(笑)
1970年代以前、中国では「日中友好」なんて意識はまったくない。
抗日映画がたくさんつくられていましたが、登場する日本人将校は鼻の下にちょびヒゲをつけ、威圧的な態度を取る悪役として描かれており、口を開けば「バカヤロウー」。
だから、私が最初に覚えた日本語は「バカヤロウ」(笑)。
とにかく日本を軍国主義的な敵国だと見なしていた。
「日中友好」が言われるのは、1972年、田中角栄が訪中して以降です。
阿羅 
その通りです。

 

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裁判に対する中国の姿勢に驚かざるを得ないとともに、東京裁判の判決がいかに杜撰であるか…この判決が、日本に南京事件という十字架を背負わせることになるわけです。

2023年01月07日 16時49分50秒 | 全般

以下は月刊誌WiLL2月新春号からである。
石平さんと阿羅健一さんの対談特集である。
阿羅健一さんが私が永遠に愛する母校の先輩である事は既述の通り。
日本国民のみならず世界中の人達が必読。
江沢民が仕掛けた「南京事件」の大ウソ
2022年は南京事件から85年目。
毎年12月13日には、南京で記念式典が開催される。
日本よ、いつまで黙っているのか!
江沢民の反日政策
石平 
江沢民元国家主席が亡くなりましたけど、天安門事件で西側諸国から制裁を受け、中国は外交的に孤立状態に陥っていました。
しかし、日本を巧みに利用し、どこよりも早く経済制裁を解除させ、1991年には、海部俊樹首相が訪中しています。
思う存分に日本を利用した指導者だった。
阿羅 
翌92年には天皇・皇后両陛下も中国を訪問された。
石平 
それによって中国は国際社会に復帰する足掛かりを得たのです。
そうやって日本の人恩を受けながら、江沢民は恩を仇で返すように「反日」を利用しまくった。
「愛国主義教育運動」を展開し、中国国内に抗日戦争紀念館を増設しています。 
そして歴史問題で日本を叩く時に必ず持ち出してきたのが、南京事件。
もはや国策となっており、江沢民以降、南京事件は靖國参拝と並んで日本叩きの最強カードの一つになっている。 
実は中国では次の二つがタブー視されている。
一つは「南京事件」。
30万人も虐殺されたなんてウソだ、疑問だと言えば、半殺しの目にあう。
もう一つが台湾統一。
これを否定したら、確実に抹殺される(笑)。
中国人は「台湾は我が国の神聖なる領土」であると思い込んでいるからです。
この二つは”宗教的信念”にまで高まっていると言っても過言ではありません。
阿羅 
そういえば、2021年末、上海にある専門学校「上海震旦(しんたん)職業学院」の女性教師、宋庚一氏が、授業中、「南京事件の犠牲者が30万人だったというデータの裏付けはない」と発言。
中国政府の見解を疑問視し、その上で「永遠に憎しみ続けるべきではなく、戦争がなぜ起きたのかを、改めて考えることが重要だ」と至極まともな主張をした。
ネットでこの発言が拡散し、物議を醸しました。
「無知で恥知らずだ」などという批判が相次ぎ、学校側は、社会に悪影響を与えたとして、宋氏を除籍処分にしています。
南京事件は事実無根
石平 
南京事件は中国人のナショナリズムを剌激します。
阿羅 
日本は中国からの攻撃に完令に受け身になっている。
南京では『南京大虐殺における国際安全区の研究』『侵害と交渉一日本軍の南京での残虐行為における第三国の権益』など、『南京大虐殺』シリーズの新刊8冊が発表されています。
南京大学出版社の編集審定者である楊金栄氏によると『南京大虐殺』シリーズは、2014年以降、10数ヵ国・地域での海外出版ルートを開拓、英語版、スペイン謡版、韓国語版などを刊行しており、ドイツ語版事業も企画されている。
そうやって世界中に発信しています。
石平 
ありもしない南京事件について、日本は声を大にして反論すべきです。
そんな中、阿羅さんは最近、同時に2冊の本を出された。
阿羅 
『決定版 南京事件はなかった目覚めよ外務省!』(展転社)、『決定版「南京事件」日本人50人の証言』(扶桑社)です。
当時のジャーナリストや軍人、画家、写真家などの声を集めた『50人の証言』は、小学館から刊行した『南京事件』日本人48人の証言』をもとにしていますが、今回は軍人2人の証言も加えて、増補改訂しました。
石平 
それは素晴らしい。
阿羅さんが南京事件を調べる中で、事実無根であるという結論に至った根拠は何でしょうか。
阿羅 
1946年、中国と米国の検察官が4月5日から6月8日まで中国に行き、合同の戦争犯罪証拠調査を行っています。
中国からの証拠提出、証人尋問もありましたが、結果的に、法廷は南京事件を認めます。
その理由を法廷は、「殺害された一般人と捕虜の総数は、20万人以上であったことが示されている。これら見積もりが誇張でないことは、埋葬隊とその他の団体が埋葬した遺体が、15万5千人に及んだ事実によって証明されている」と述べ、15万5千人の埋葬記録があるとしています。
埋葬記録があるのなら、それをチェックしてみようと思ったのです。
石平 
するとー?
阿羅 
法廷に提出された埋葬記録によると、崇善堂(すうぜんどう)という慈善団体が11万2千余体を埋葬、紅卍字会(こうまんじかい)という慈善団体も4万3千余体を埋葬、あわせると15万5千体になる。このほか7万余人が虐殺されたという証拠が法廷に提出され、それによって法廷は20万人の殺害を認めています。

偽証・虚偽証言を丸のみ

石平 
そうなると埋葬記録そのものを見る必要があります。
阿羅 
ええ。中国には昔から慈善団体がたくさんありました。
捨てられた赤ん坊を育てたり、身寄りのない老人を世話したり、冬になれば炊き出しを行い、行き倒れになった死体を埋葬するなど、そういう活動をする組織です。
南京でも実に50近くの慈善団体があり、しかもほとんどが民問団体で、寄付金によって賄われていた。 
崇善堂は清の時代から下町で赤ちゃんを養育し、そのための施設を持ち、世話する女性がいました。
ところが、南京が戦場になる頃、世話する女性は南京を離れており、寄付金も集まりません。
南京陥落後からしばらくして、南京市から資金を援助されると、ほそぼそと赤ちゃんの養育を再開します。
そんな状況で、シャベルや荷車、人夫を抱える余裕なんてありませんから、何10万人も埋葬することなど到底できません。 
実際に南京陥落後の宣教師の日記や手紙、日本外交官の記録、日本と中国の新聞など、どこにも崇善堂が埋葬活動をした記録はない。
石平 
となると、合同調査なんて言っていますけどー。
阿羅 
ウソなんです。
崇善堂が11万2千余体を埋葬した記録とは架空のものなのです。
戦後、南京で戦争裁判が開かれると、中国の検察官が主導し、デマ宣伝に合わせ、1938年に埋葬したという文書を作成します。
いつ、どこで遺体を発見し、男女子供の数はそれぞれいくつで、埋葬した場所はどこか、と事実であるかのように偽造する。
崇善堂にかかわる人も埋葬活動に従事したと証言し、その文書が東京裁判に提出されます。
それらを東京裁判はそっくり認め、判決文に書いてしまった。
石平
中国側の偽造・虚偽証言を丸のみしてしまった。
阿羅 
裁判に対する中国の姿勢に驚かざるを得ないとともに、東京裁判の判決がいかに杜撰であるか、改めて驚きます。
そして、この判決が、日本に南京事件という十字架を背負わせることになるわけです。

歴史教育の90%がウソ

石平 
私自身、四川省に生まれ、北京大学で学びましたが、高校3年生まで南京事件に関して一度も聞かされたことがありません。
学校ではもちろん教えられていなかったのです。
阿羅 
中国の中学校歴史教科書に南京事件が初めて記述されたのは、1979年です。
建国からすでに30年も経っていますからね。
石平
そう、私が大学生の頃、南京事件が盛んに言われるようになった。
でも、話を聞いても矛盾だらけで、本当にあったのか疑問でした。 
4年生のときのことですが、学生寮で暮らしていました。
一部屋に2段ベッドが4つ並び、8人の共同生活です。その中の1人が南京出身者でした。 
彼に「祖父母から南京事件のことを聞いたことがあるか?」と尋ねたら、「一切ない」と。
彼の一族は、先祖代々、南京亟内で商売をしていました。
しかも祖父は8人兄弟で、みな南京市民だったのですが、1人も殺されていない。
30万人虐殺されたというのなら、1人くらいいてもおかしくありません。
阿羅 
貴重な証言ですね。
南京事件の関係資料が2015年、ユネスコの世界記憶遺産に登録されましたが一刻も早く撤回させるべきです。 
立命館大学の北村稔名誉教授が指摘されていますが、世界記憶遺産に登録される際、資料の中に谷寿夫中将に対する「死刑判決書正本」が含まれており、その判決書には大虐殺の証拠の一つとして、「日本軍が現場で撮影した都市住民皆殺しの映画を、わが軍の勝利の後に押収した」と記されているとのことです。 
この映画は、1938年に制作された『戦線後方記録映画南京』(撮影・白井茂 編集・秋元憲 音楽・江文也 現地録音・藤井愼一 解説・徳川夢声)で、現在では日本でDVDに復刻されており、完全版を見ることができます。 
映像には、193712月17日の入城式に始まる南京市内の状況が詳細に映し出されていますが、なんと正月の準備をする穏やかな日本兵たち、電線の復旧をする中国人技師、1938年1月1日の南京自治委員会成立式典に参集した大量の市民とその傍を行進する日本海軍軍楽隊、便衣兵(市内に潜む平服の兵士)でないことを証明する安全居住証の交付場面などが”活写”されているのです。
「虐殺なんてあり得ない」― 大写しにされる市民たちの穏やかな表情こそ何よりの[証拠]ではありませんか。 
映画は谷寿夫中将の裁判当日、多くの傍聴人の目の前で上映されました。
そんな映画を大虐殺の証拠の一つに挙げる「死刑判決書正本」は、まったくのデタラメ。 
北村氏によれば、裁判での映画上映に係わる一連の経緯は、当時の国民党の機関紙「中央日報」の影印版や中国共産党が刊行した『南京大屠殺史料集』に収録される国民政府公文書心ら再現できるとのことです。
石平 
ユネスコはその映画を見直すべきです。
とにかく中国という国はウソを平然とつきます。
毛沢東時代私たちが受けた歴史教育の90%がウソだった。
南京事件もウソだとわかっても、まったく驚きません。
ああまたウソをついたのかと、そんな印象です。
阿羅 
1995年、初めて南京を訪れた際、「侵華日軍南京大屠殺遇難同凰紀念館」にも立ち寄りました。
その頃は小さく、真っ暗で汚い記念館でしたね。 
1997年、南京へ行った時、案内人がつきました。年齢は60歳くらいだったと思いますが、日本語が達者だった。
私はその人に「今までは南京事件なんて話は中国国内でなかったのに、なぜ今になって言うのですか」と聞いたのです。
その答えが「日中友好を考えて言わなかった」と。
1998年、上海に行った時、両親が中国共産党員だった通訳者にも聞いてみたら、やはり「日中友好だ」と言う。
そう教育されているのでしょうか(笑)。
石平 
ウソも方便というやつだ(笑)
1970年代以前、中国では「日中友好」なんて意識はまったくない。
抗日映画がたくさんつくられていましたが、登場する日本人将校は鼻の下にちょびヒゲをつけ、威圧的な態度を取る悪役として描かれており、口を開けば「バカヤロウー」。
だから、私が最初に覚えた日本語は「バカヤロウ」(笑)。
とにかく日本を軍国主義的な敵国だと見なしていた。
「日中友好」が言われるのは、1972年、田中角栄が訪中して以降です。
阿羅 
その通りです。

 

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2023年01月07日 16時48分04秒 | 全般

以下は月刊誌WiLL2月新春号からである。
石平さんと阿羅健一さんの対談特集である。
阿羅健一さんが私が永遠に愛する母校の先輩である事は既述の通り。
日本国民のみならず世界中の人達が必読。
江沢民が仕掛けた「南京事件」の大ウソ
2022年は南京事件から85年目。
毎年12月13日には、南京で記念式典が開催される。
日本よ、いつまで黙っているのか!
江沢民の反日政策
石平 
江沢民元国家主席が亡くなりましたけど、天安門事件で西側諸国から制裁を受け、中国は外交的に孤立状態に陥っていました。
しかし、日本を巧みに利用し、どこよりも早く経済制裁を解除させ、1991年には、海部俊樹首相が訪中しています。
思う存分に日本を利用した指導者だった。
阿羅 
翌92年には天皇・皇后両陛下も中国を訪問された。
石平 
それによって中国は国際社会に復帰する足掛かりを得たのです。
そうやって日本の人恩を受けながら、江沢民は恩を仇で返すように「反日」を利用しまくった。
「愛国主義教育運動」を展開し、中国国内に抗日戦争紀念館を増設しています。 
そして歴史問題で日本を叩く時に必ず持ち出してきたのが、南京事件。
もはや国策となっており、江沢民以降、南京事件は靖國参拝と並んで日本叩きの最強カードの一つになっている。 
実は中国では次の二つがタブー視されている。
一つは「南京事件」。
30万人も虐殺されたなんてウソだ、疑問だと言えば、半殺しの目にあう。
もう一つが台湾統一。
これを否定したら、確実に抹殺される(笑)。
中国人は「台湾は我が国の神聖なる領土」であると思い込んでいるからです。
この二つは”宗教的信念”にまで高まっていると言っても過言ではありません。
阿羅 
そういえば、2021年末、上海にある専門学校「上海震旦(しんたん)職業学院」の女性教師、宋庚一氏が、授業中、「南京事件の犠牲者が30万人だったというデータの裏付けはない」と発言。
中国政府の見解を疑問視し、その上で「永遠に憎しみ続けるべきではなく、戦争がなぜ起きたのかを、改めて考えることが重要だ」と至極まともな主張をした。
ネットでこの発言が拡散し、物議を醸しました。
「無知で恥知らずだ」などという批判が相次ぎ、学校側は、社会に悪影響を与えたとして、宋氏を除籍処分にしています。
南京事件は事実無根
石平 
南京事件は中国人のナショナリズムを剌激します。
阿羅 
日本は中国からの攻撃に完令に受け身になっている。
南京では『南京大虐殺における国際安全区の研究』『侵害と交渉一日本軍の南京での残虐行為における第三国の権益』など、『南京大虐殺』シリーズの新刊8冊が発表されています。
南京大学出版社の編集審定者である楊金栄氏によると『南京大虐殺』シリーズは、2014年以降、10数ヵ国・地域での海外出版ルートを開拓、英語版、スペイン謡版、韓国語版などを刊行しており、ドイツ語版事業も企画されている。
そうやって世界中に発信しています。
石平 
ありもしない南京事件について、日本は声を大にして反論すべきです。
そんな中、阿羅さんは最近、同時に2冊の本を出された。
阿羅 
『決定版 南京事件はなかった目覚めよ外務省!』(展転社)、『決定版「南京事件」日本人50人の証言』(扶桑社)です。
当時のジャーナリストや軍人、画家、写真家などの声を集めた『50人の証言』は、小学館から刊行した『南京事件』日本人48人の証言』をもとにしていますが、今回は軍人2人の証言も加えて、増補改訂しました。
石平 
それは素晴らしい。
阿羅さんが南京事件を調べる中で、事実無根であるという結論に至った根拠は何でしょうか。
阿羅 
1946年、中国と米国の検察官が4月5日から6月8日まで中国に行き、合同の戦争犯罪証拠調査を行っています。
中国からの証拠提出、証人尋問もありましたが、結果的に、法廷は南京事件を認めます。
その理由を法廷は、「殺害された一般人と捕虜の総数は、20万人以上であったことが示されている。これら見積もりが誇張でないことは、埋葬隊とその他の団体が埋葬した遺体が、15万5千人に及んだ事実によって証明されている」と述べ、15万5千人の埋葬記録があるとしています。
埋葬記録があるのなら、それをチェックしてみようと思ったのです。
石平 
するとー?
阿羅 
法廷に提出された埋葬記録によると、崇善堂(すうぜんどう)という慈善団体が11万2千余体を埋葬、紅卍字会(こうまんじかい)という慈善団体も4万3千余体を埋葬、あわせると15万5千体になる。このほか7万余人が虐殺されたという証拠が法廷に提出され、それによって法廷は20万人の殺害を認めています。

偽証・虚偽証言を丸のみ

石平 
そうなると埋葬記録そのものを見る必要があります。
阿羅 
ええ。中国には昔から慈善団体がたくさんありました。
捨てられた赤ん坊を育てたり、身寄りのない老人を世話したり、冬になれば炊き出しを行い、行き倒れになった死体を埋葬するなど、そういう活動をする組織です。
南京でも実に50近くの慈善団体があり、しかもほとんどが民問団体で、寄付金によって賄われていた。 
崇善堂は清の時代から下町で赤ちゃんを養育し、そのための施設を持ち、世話する女性がいました。
ところが、南京が戦場になる頃、世話する女性は南京を離れており、寄付金も集まりません。
南京陥落後からしばらくして、南京市から資金を援助されると、ほそぼそと赤ちゃんの養育を再開します。
そんな状況で、シャベルや荷車、人夫を抱える余裕なんてありませんから、何10万人も埋葬することなど到底できません。 
実際に南京陥落後の宣教師の日記や手紙、日本外交官の記録、日本と中国の新聞など、どこにも崇善堂が埋葬活動をした記録はない。
石平 
となると、合同調査なんて言っていますけどー。
阿羅 
ウソなんです。
崇善堂が11万2千余体を埋葬した記録とは架空のものなのです。
戦後、南京で戦争裁判が開かれると、中国の検察官が主導し、デマ宣伝に合わせ、1938年に埋葬したという文書を作成します。
いつ、どこで遺体を発見し、男女子供の数はそれぞれいくつで、埋葬した場所はどこか、と事実であるかのように偽造する。
崇善堂にかかわる人も埋葬活動に従事したと証言し、その文書が東京裁判に提出されます。
それらを東京裁判はそっくり認め、判決文に書いてしまった。
石平
中国側の偽造・虚偽証言を丸のみしてしまった。
阿羅 
裁判に対する中国の姿勢に驚かざるを得ないとともに、東京裁判の判決がいかに杜撰であるか、改めて驚きます。
そして、この判決が、日本に南京事件という十字架を背負わせることになるわけです。

歴史教育の90%がウソ

石平 
私自身、四川省に生まれ、北京大学で学びましたが、高校3年生まで南京事件に関して一度も聞かされたことがありません。
学校ではもちろん教えられていなかったのです。
阿羅 
中国の中学校歴史教科書に南京事件が初めて記述されたのは、1979年です。
建国からすでに30年も経っていますからね。
石平
そう、私が大学生の頃、南京事件が盛んに言われるようになった。
でも、話を聞いても矛盾だらけで、本当にあったのか疑問でした。 
4年生のときのことですが、学生寮で暮らしていました。
一部屋に2段ベッドが4つ並び、8人の共同生活です。その中の1人が南京出身者でした。 
彼に「祖父母から南京事件のことを聞いたことがあるか?」と尋ねたら、「一切ない」と。
彼の一族は、先祖代々、南京亟内で商売をしていました。
しかも祖父は8人兄弟で、みな南京市民だったのですが、1人も殺されていない。
30万人虐殺されたというのなら、1人くらいいてもおかしくありません。
阿羅 
貴重な証言ですね。
南京事件の関係資料が2015年、ユネスコの世界記憶遺産に登録されましたが一刻も早く撤回させるべきです。 
立命館大学の北村稔名誉教授が指摘されていますが、世界記憶遺産に登録される際、資料の中に谷寿夫中将に対する「死刑判決書正本」が含まれており、その判決書には大虐殺の証拠の一つとして、「日本軍が現場で撮影した都市住民皆殺しの映画を、わが軍の勝利の後に押収した」と記されているとのことです。 
この映画は、1938年に制作された『戦線後方記録映画南京』(撮影・白井茂 編集・秋元憲 音楽・江文也 現地録音・藤井愼一 解説・徳川夢声)で、現在では日本でDVDに復刻されており、完全版を見ることができます。 
映像には、193712月17日の入城式に始まる南京市内の状況が詳細に映し出されていますが、なんと正月の準備をする穏やかな日本兵たち、電線の復旧をする中国人技師、1938年1月1日の南京自治委員会成立式典に参集した大量の市民とその傍を行進する日本海軍軍楽隊、便衣兵(市内に潜む平服の兵士)でないことを証明する安全居住証の交付場面などが”活写”されているのです。
「虐殺なんてあり得ない」― 大写しにされる市民たちの穏やかな表情こそ何よりの[証拠]ではありませんか。 
映画は谷寿夫中将の裁判当日、多くの傍聴人の目の前で上映されました。
そんな映画を大虐殺の証拠の一つに挙げる「死刑判決書正本」は、まったくのデタラメ。 
北村氏によれば、裁判での映画上映に係わる一連の経緯は、当時の国民党の機関紙「中央日報」の影印版や中国共産党が刊行した『南京大屠殺史料集』に収録される国民政府公文書心ら再現できるとのことです。
石平 
ユネスコはその映画を見直すべきです。
とにかく中国という国はウソを平然とつきます。
毛沢東時代私たちが受けた歴史教育の90%がウソだった。
南京事件もウソだとわかっても、まったく驚きません。
ああまたウソをついたのかと、そんな印象です。
阿羅 
1995年、初めて南京を訪れた際、「侵華日軍南京大屠殺遇難同凰紀念館」にも立ち寄りました。
その頃は小さく、真っ暗で汚い記念館でしたね。 
1997年、南京へ行った時、案内人がつきました。年齢は60歳くらいだったと思いますが、日本語が達者だった。
私はその人に「今までは南京事件なんて話は中国国内でなかったのに、なぜ今になって言うのですか」と聞いたのです。
その答えが「日中友好を考えて言わなかった」と。
1998年、上海に行った時、両親が中国共産党員だった通訳者にも聞いてみたら、やはり「日中友好だ」と言う。
そう教育されているのでしょうか(笑)。
石平 
ウソも方便というやつだ(笑)
1970年代以前、中国では「日中友好」なんて意識はまったくない。
抗日映画がたくさんつくられていましたが、登場する日本人将校は鼻の下にちょびヒゲをつけ、威圧的な態度を取る悪役として描かれており、口を開けば「バカヤロウー」。
だから、私が最初に覚えた日本語は「バカヤロウ」(笑)。
とにかく日本を軍国主義的な敵国だと見なしていた。
「日中友好」が言われるのは、1972年、田中角栄が訪中して以降です。
阿羅 
その通りです。

 

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Utrolig Japan sett fra perspektivet av forskjeller med Kina og Korea

2023年01月07日 16時02分18秒 | 全般

Følgende er fra Mr. Sekiheis seriespalte i februarutgaven av 21. desember-utgaven av magasinet Hanada.
Utrolig Japan sett fra perspektivet av forskjeller med Kina og Korea" (Society: Status of Women 《Upper》)
Fra denne måneden vil denne spalten utvikle en "Society Edition" med temaet "Utrolig Japan sett fra perspektivet av forskjeller med Kina og Korea."
Jeg vil fokusere på det tradisjonelle førmoderne samfunnet og undersøke forskjellene mellom Japan og Kina og Korea.
I den første og neste delen av den sosiale delen vil jeg først se på «kvinner».
Siden det menneskelige samfunn er sammensatt av menn og kvinner, kan vi naturlig forstå naturen og overlegenheten til et samfunn ved å se på kvinners stilling og behandling i det samfunnet.
Og fra dette perspektivet er det tradisjonelle kinesiske samfunnet, spesielt det i Ming- og Qing-dynastiene, genuint forferdelig.
Til sammen varte Ming- og Qing-dynastiene i mer enn 540 år, og for kvinnene på fastlands-Kina som levde i den perioden, var disse lange årene virkelig dager med endeløst helvete, den mørke middelalderen.
Som kjent i Japan ble han-kinesiske kvinner tvunget til fotbinding i Kina under Ming- og Qing-dynastiene.
Når en jente når en alder av tre eller fire, bøyes tærne bakover og bindes tett med tøy av foreldrene, og utviklingen hennes er fullstendig hemmet.
Når jentene blir voksne, er føttene deformert, og de har problemer med å gå.
Denne opprørende praksisen, unik for Han-kineserne, hadde allerede begynt i det nordlige Song-dynastiet og ble en skikk i løpet av de 500 årene av Ming- og Qing-dynastiene.
Den grusomme og brutale skikken med å lemleste kvinners kropper og deformere kroppsdelene deres med vilje hadde slått rot i mer enn 500 år.
Det alene er nok til å vise hvor pervertert og umenneskelig det mørke samfunnet i Kina var på den tiden.
Og på den tiden var kvinner avhengige av menn resten av livet, og levde som slaver.
Før ekteskapet måtte kvinner adlyde sine fedre; etter ekteskapet måtte de adlyde sine ektemenn, og kvinner hadde ingen sosiale rettigheter, verdighet eller frihet.
Den fullstendige sosiale segregeringen skapte dette totale tapet av kvinners verdighet og frihet mot dem.
I den berømte boken "A History of China from the Perspective of Sex" av den amerikanske forskeren Susan Mann beskriver hun "segregeringen av kvinner" i det kinesiske samfunnet under Ming- og Qing-dynastiene:
Kvinner (hjemme) var fullstendig forbudt å omgås andre menn enn deres ektemenn og unge sønner. Kvinner kunne ikke sitte ved samme bord som menn. Men selvfølgelig ble det også forbudt for kvinner å besøke templer og se skuespill og festivaler. Alle disse tingene var tillatt for ingen utflukter tidlig på våren, ingen sightseeing, lystbesøk, ingen besøk til venners hus.
Denne uttalelsen, basert på akademisk forskning, indikerer at kvinner i Kina i den perioden ble frarøvet all frihet og ikke lenger behandlet som mennesker.
Selv om de var medlemmer av familien og samfunnet, ble de faktisk holdt i sosial innesperring for livet, som «fanger».
I ekstreme tilfeller kan de til og med bli fratatt sin minste menneskerettighet til å «leve».
I datidens konfucianske etikk kunne en gift kvinne bli skilt etter ektemannens skjønn, men dersom mannen hennes døde og ble enke, fikk hun i utgangspunktet ikke gifte seg på nytt.
Hvis mannen hennes dør og hun får barn, må enkekvinnen leve i sitt ekteskapshjem resten av livet, oppdra barna sine og tjene ektemannens foreldre.
I Kina kalles det "Shǒujié", og en kvinne som har ført et så ulykkelig liv, kalles "Jiéfù.
Videre, hvis en kvinne ikke har barn når mannen hennes dør, er det ikke lenger bare én måte for henne å få lov til å være kone.
Det vil si å ta sitt eget liv som martyr for mannen sin.
Det kalles "Xùnjié", og kvinner som dør på en slik måte kalles "Liè fù" og blir hedret av det keiserlige hoffet og lokale regjeringskontorer.
Faktisk har moderne forskning avslørt at under Ming- og Qing-dynastiene var antallet kvinner som ble "Jiéfù" og "Liè fù" i titusenvis hvert år.
En enkel beregning antyder at mer enn 5 millioner kvinner led en så hard skjebne under Ming- og Qing-dynastiene.
Den umenneskelige behandlingen av kvinner under Ming- og Qing-dynastiene antyder at det kinesiske samfunnet på den tiden var et rent barbarisk samfunn som neppe fortjente navnet "sivilisasjon". Likevel var ikke den nærliggende koreanske halvøya mye annerledes.
Selv om de koreanske dynastiene, omtrent samtidige med Kinas Ming- og Qing-dynastier, ikke introduserte praksisen med fotbinding fra fastlandet, var deres sosiale segregering av kvinner enda mer alvorlig enn i Ming og Qing Kina.
Praksisen med å tvinge kvinner til å fremføre "Jiéfù" eller "Liè fù" var ikke forskjellig fra han-kineserne.
Selv i den førmoderne tiden skilte Japan seg fullstendig fra Ming og Qing Kina og the koreanske dynastier.
For eksempel var statusen og behandlingen av kvinner i det japanske samfunnet under Edo-perioden ganske forskjellig fra de på det mørke kontinentet og den mørke halvøya. Likevel vil jeg overlate detaljene til den følgende artikkelen.

 

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Uskomaton Japani Kiinan ja Korean välisten erojen näkökulmasta

2023年01月07日 16時00分26秒 | 全般

Seuraava on Mr. Sekihein sarjakolumnista Hanada-lehden helmikuun numerossa 21. joulukuuta.
Uskomaton Japani Kiinan ja Korean välisten erojen näkökulmasta katsottuna" (Society: Status of Women 《Upper》)
Tästä kuukaudesta lähtien tässä kolumnissa kehitetään "Society Edition", jonka teema on "Uskomaton Japani Kiinan ja Korean välisten erojen näkökulmasta".
Keskityn perinteiseen esimoderniin yhteiskuntaan ja tarkastelen Japanin ja Kiinan eroja Korean kanssa.
Sosiaalisen osion ensimmäisessä ja seuraavassa osassa tarkastelen ensin "naisia".
Koska ihmisyhteiskunta koostuu miehistä ja naisista, voimme luonnollisesti ymmärtää yhteiskunnan luonteen ja paremmuuden tarkastelemalla naisten asemaa ja kohtelua siinä yhteiskunnassa.
Ja tästä näkökulmasta perinteinen kiinalainen yhteiskunta, erityisesti Ming- ja Qing-dynastioiden yhteiskunta, on todella kauhea.
Yhdessä Ming- ja Qing-dynastiat kestivät yli 540 vuotta, ja tuona aikana eläville Manner-Kiinan naisille nämä pitkät vuodet olivat todellakin loputtoman helvetin päiviä, pimeää keskiaikaa.
Kuten Japanissa hyvin tiedetään, han-kiinalaiset naiset pakotettiin jalkasidontaan Kiinassa Ming- ja Qing-dynastioiden aikana.
Kun tyttö saavuttaa kolmen tai neljän vuoden iän, hänen varpaansa taivutetaan taaksepäin ja vanhemmat sitovat tiukasti kankaalla, ja hänen kehitystään hidastuu.
Kun tytöt saavuttavat aikuisiän, heidän jalkansa ovat epämuodostuneet ja heidän on vaikea edes kävellä.
Tämä törkeä hankiinalaisille ainutlaatuinen käytäntö oli alkanut jo Pohjois-Song-dynastian aikana ja siitä tuli käytäntö Ming- ja Qing-dynastioiden 500 vuoden aikana.
Julma ja julma tapa silpoa naisten ruumiita ja muuttaa heidän ruumiinosiaan tahallaan oli juurtunut yli 500 vuoden ajan.
Se yksin riittää osoittamaan, kuinka kieroutunut ja epäinhimillinen Kiinan pimeä yhteiskunta oli tuolloin.
Ja niinä päivinä naiset olivat riippuvaisia miehistä koko loppuelämänsä ja elivät orjina.
Ennen avioliittoa naisten piti totella isäänsä; avioliiton jälkeen heidän oli toteltava aviomiehiään, eikä naisilla ollut sosiaalisia oikeuksia, ihmisarvoa tai vapautta.
Täydellinen sosiaalinen erottelu aiheutti tämän naisten arvon ja vapauden täydellisen menettämisen heitä vastaan.
Amerikkalaisen Susan Mannin kuuluisassa kirjassa "Kiinan historia sukupuolen näkökulmasta" hän kuvailee "naisten eristäytymistä" kiinalaisessa yhteiskunnassa Ming- ja Qing-dynastioiden aikana:
Naiset (kotona) olivat täysin kiellettyjä olemasta tekemisissä muiden miesten kuin aviomiehiensä ja nuorten poikiensa kanssa. Naiset eivät voineet istua samassa pöydässä miesten kanssa. Mutta tietysti naisia kiellettiin myös vierailemasta temppeleissä ja katsomasta näytelmiä ja festivaaleja. Kaikki nämä asiat eivät olleet sallittuja varhain keväällä, ei nähtävyyksien katselua, huvinhakua, ei vierailuja ystävien luona.
Tämä akateemiseen tutkimukseen perustuva lausunto osoittaa, että naisilta Kiinassa tuona aikana riistettiin kaikki vapaus, eikä heitä enää kohdeltu ihmisinä.
Vaikka he olivat perheen ja yhteiskunnan jäseniä, he itse asiassa pidettiin sosiaalisissa eristyksissä koko elämän ajan, kuten "vankeina".
Äärimmäisissä tapauksissa heiltä voidaan jopa riistää vähimmäisihmisoikeus "elää".
Kungfutselaisen etiikan mukaan naimisissa oleva nainen saattoi erota miehensä harkinnan mukaan, mutta jos hänen miehensä kuoli ja jäi leskeksi, hän ei periaatteessa saanut mennä uudelleen naimisiin.
Jos hänen miehensä kuolee ja hän saa lapsia, leskeksi jääneen naisen on asuttava aviokodissaan koko loppuelämänsä, kasvattaen lapsiaan ja palvellen miehensä vanhempia.
Kiinassa sitä kutsutaan nimellä "Shǒujié", ja naista, joka on elänyt niin onnettoman elämän, kutsutaan "Jiéfùksi".
Lisäksi jos naisella ei ole lapsia miehensä kuoltua, hänellä ei ole enää vain yhtä tapaa olla vaimo.
Se tarkoittaa oman henkensä ottamista marttyyrina miehelleen.
Sitä kutsutaan nimellä "Xùnjié", ja tällä tavalla kuolevia naisia kutsutaan nimellä "Liè fù", ja keisarillinen tuomioistuin ja paikallishallinnon virastot kunnioittavat heitä.
Itse asiassa nykyaikainen tutkimus on paljastanut, että Ming- ja Qing-dynastioiden aikana naisten määrä, joista tuli "Jiéfù" ja "Liè fù", oli kymmeniä tuhansia joka vuosi.
Yksinkertainen laskelma viittaa siihen, että yli 5 miljoonaa naista koki niin ankaran kohtalon Ming- ja Qing-dynastioiden aikana.
Naisten epäinhimillinen kohtelu Ming- ja Qing-dynastioiden aikana viittaa siihen, että tuon aikakauden kiinalainen yhteiskunta oli pelkkä barbaarinen yhteiskunta, joka tuskin ansaitsi "sivilisaation" nimeä. Silti naapuri Korean niemimaa ei ollut paljon erilainen.
Vaikka korealaiset dynastiat, jotka olivat suunnilleen Kiinan Ming- ja Qing-dynastioiden aikalaisia, eivät ottaneet käyttöön jalkasidontakäytäntöä mantereelta, heidän naisten sosiaalinen erottelu oli vielä ankarampaa kuin Ming- ja Qing-Kiinassa.
Käytäntö pakottaa naiset esittämään "Jiéfù" tai "Liè fù" ei eronnut han-kiinalaisten käytännöstä.
Jopa esimodernilla aikakaudella Japani erosi täysin Ming- ja Qing-Kiinasta ja thKorean dynastiat.
Esimerkiksi naisten asema ja kohtelu japanilaisessa yhteiskunnassa Edon aikana olivat melko erilaisia kuin pimeällä mantereella ja pimeällä niemimaalla. Jätän kuitenkin yksityiskohdat seuraavaan artikkeliin.

 

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Otroligt Japan sett ur perspektivet av skillnader med Kina och Korea

2023年01月07日 15時58分31秒 | 全般

Följande är från Mr Sekiheis seriekolumn i februarinumret av numret av 21 december av Hanada magazine.
Otroligt Japan sett ur perspektivet av skillnader med Kina och Korea" (Society: Status of Women 《Upper》)
Från och med den här månaden kommer denna kolumn att utveckla en "Society Edition" med temat "Otroligt Japan sett ur perspektivet av skillnader med Kina och Korea."
Jag kommer att fokusera på det traditionella förmoderna samhället och undersöka skillnaderna mellan Japan och Kina och Korea.
I den första och nästa delen av den sociala delen kommer jag först att titta på "kvinnor".
Eftersom det mänskliga samhället är sammansatt av män och kvinnor kan vi naturligtvis förstå ett samhälles natur och överlägsenhet genom att titta på kvinnors ställning och behandling i det samhället.
Och ur detta perspektiv är det traditionella kinesiska samhället, särskilt det från Ming- och Qing-dynastierna, verkligen fruktansvärt.
Tillsammans varade Ming- och Qing-dynastierna i mer än 540 år, och för kvinnorna på det kinesiska fastlandet som levde under den perioden var dessa långa år verkligen dagar av oändligt helvete, den mörka medeltiden.
Som bekant i Japan tvingades hankinesiska kvinnor till fotbindning i Kina under Ming- och Qingdynastierna.
När en flicka når tre eller fyra års ålder böjs hennes tår bakåt och binds hårt med tyg av föräldrarna, och hennes utveckling hämmas ordentligt.
När flickorna når vuxen ålder är deras fötter deformerade och de har svårt att ens gå.
Denna upprörande praxis, unik för hankineserna, hade redan börjat under den norra Song-dynastin och blev en sed under de 500 åren av Ming- och Qing-dynastierna.
Den grymma och brutala seden att stympa kvinnors kroppar och deformera deras kroppsdelar med flit hade slagit rot i mer än 500 år.
Bara det räcker för att visa hur perverterat och omänskligt det mörka samhället i Kina var på den tiden.
Och på den tiden var kvinnor beroende av män resten av livet och levde som sina slavar.
Före äktenskapet var kvinnor tvungna att lyda sina fäder; efter äktenskapet var de tvungna att lyda sina män, och kvinnor hade inga sociala rättigheter, värdighet eller frihet.
Den fullständiga sociala segregationen skapade denna totala förlust av kvinnors värdighet och frihet mot dem.
I den berömda boken "A History of China from the Perspective of Sex" av den amerikanska forskaren Susan Mann beskriver hon "segregeringen av kvinnor" i det kinesiska samhället under Ming- och Qing-dynastierna:
Kvinnor (hemma) var totalt förbjudna att umgås med andra män än sina män och unga söner. Kvinnor kunde inte sitta vid samma bord som män. Men naturligtvis förbjöds kvinnor också att besöka tempel och se pjäser och festivaler. Alla dessa saker var tillåtna för inga utflykter tidigt på våren, ingen sightseeing, nöjessökande, inga besök i vänners hus.
Detta uttalande, baserat på akademisk forskning, indikerar att kvinnor i Kina under den perioden berövades all frihet och inte längre behandlades som människor.
Även om de var medlemmar av familjen och samhället, hölls de i själva verket i social instängd livet ut, som "fångar".
I extrema fall kan de till och med berövas sin minsta mänskliga rättighet att "leva".
I den tidens konfucianska etik kunde en gift kvinna skiljas efter sin mans eget gottfinnande, men om hennes man dog och blev änka fick hon i princip inte gifta om sig.
Om hennes man dör och hon får barn, måste änkekvinnan bo i sitt äktenskapliga hem resten av sitt liv, uppfostra sina barn och tjäna sin mans föräldrar.
I Kina kallas det "Shǒujié", och en kvinna som har levt ett så olyckligt liv kallas "Jiéfù.
Dessutom, om en kvinna inte har några barn när hennes man dör, finns det inte längre bara ett sätt för henne att få vara hustru.
Det är att ta sitt liv som martyr för sin man.
Det kallas "Xùnjié", och kvinnor som dör på ett sådant sätt kallas "Liè fù" och hedras av det kejserliga hovet och lokala regeringskontor.
I själva verket har modern forskning avslöjat att under Ming- och Qing-dynastierna uppgick antalet kvinnor som blev "Jiéfù" och "Liè fù" till tiotusentals varje år.
En enkel beräkning tyder på att mer än 5 miljoner kvinnor led ett så hårt öde under Ming- och Qing-dynastierna.
Den omänskliga behandlingen av kvinnor under Ming- och Qing-dynastierna tyder på att det kinesiska samhället på den tiden var ett rent barbariskt samhälle som knappast förtjänade namnet "civilisation". Ändå var den angränsande koreanska halvön inte mycket annorlunda.
Även om de koreanska dynastierna, ungefär samtida med Kinas Ming- och Qing-dynastier, inte introducerade bruket av fotbindning från fastlandet, var deras sociala segregation av kvinnor ännu allvarligare än i Ming och Qing Kina.
Bruken att tvinga kvinnor att utföra "Jiéfù" eller "Liè fù" var inte annorlunda än hankinesernas.
Även i den förmoderna eran skilde sig Japan helt från Ming och Qing Kina och the koreanska dynastier.
Till exempel var statusen och behandlingen av kvinnor i det japanska samhället under Edo-perioden helt annorlunda än dem på den mörka kontinenten och den mörka halvön. Ändå lämnar jag detaljerna till följande artikel.

 

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