映画と自然主義 労働者は奴隷ではない.生産者でない者は、全て泥棒と思え

自身の、先入観に囚われてはならない
社会の、既成概念に囚われてはならない
周りの言うことに、惑わされてはならない

ボヴァリー夫人 - MADAME BOVARY - (ジャン・ルノワール 1933年 フランス 99分)

2013年01月18日 07時09分00秒 | ジャン・ルノワール
ボヴァリー夫人 (MADAME BOVARY) -1933年 フランス 99分-

監督  ジャン・ルノワール
原作  ギュスターヴ・フローベール
脚本  ジャン・ルノワール
音楽  ジュゼッペ・ベッチェ

出演  ヴァランティーヌ・テシエ
    ピエール・ルノワール
    アリス・ティッソ
    エレナ・マンソン


190分の編集の作品が、興業の都合で99分にきられてしまい、辛うじて話の筋書きが分かるかどうか、それすら怪しいと言うべきか.結果として断片的な出来事の連なりだけで、感じた心で描かれた出来事を考える、そうした心の連なりは望むべくもない.これでは映画ということはできず、ジャン・ルノワールの映画、として捉える物は何も無いと思える.
幸いにして、私は原作を読んでいないので、原作に惑わされることはなく、何とか映画を観てと言う観点で書けそうなので、お金を払って買ってしまった、その分くらいは書いておこう.

田舎の娘にしては過ぎた美貌に恵まれた女性と言うべきか、農場の一人娘のエンマは、片田舎では名士と言える、医者のシャルルと恋に落ちる.妻のいるシャルルに色目を使って誘惑したと言うべきなのだけど、盲人の歌にある『たまには晴れた日の陽気が、娘っ子に恋を夢見させるとさ』、この意味で、恋で良いでしょう.
やがてシャルルの妻は病死して、エンマとシャルルは結婚する.
田舎の暮らしよりも、街(都会)の暮らしに憧れ、社交界の華やかな暮らしを夢見るエンマは、金持ちの貴公子ロドルフと恋に落ちる.けれども、夫の破産を予想してロドルフに駆け落ちを持ちかけたエンマは、彼に捨てられる.
ルーアンの街で再会したレオンと、エンマは恋に落ち、毎週ルーアンに出かけ週に一度の密会に明け暮れることになる.レオンは若い美男子、やがて彼は別の女性と結婚することになる、そうした想いを抱きつつも.

出入り商人のルルウに対する負債によって破産したエンマは、レオンにお金の工面を依頼するけれど、敵わず、別れる.若い彼に金の工面は無理、お金の切れ目が縁の切れ目と言って良いのか.
エンマはロドルフを訪れ、彼は再会を喜ぶのだけど、エンマがお金の無心をしに来たのを知ると、態度を変えた.金は無いの一点張りで、取り合ってくれないロドルフに、これは銀、これは金にダイヤモンド、叫びながら部屋の中の調度品を投げつける.
わざと、私は描かれた順序を変えたのだけど.エンマは公証人ギヨマンを訪れる.彼はお金の件は了承したのだけれど、条件は体と引き換えであった.

エンマの女性としての魅力は、ロドルフにとっては全くお金を工面するのに値しなかった.(金は無いの一点張り)
他方、ギヨマンは体と引き換えに、金を用意すると言ったのだけど、エンマは体は売らないと拒否し、自ら死を選ぶ.

エンマの女性としての魅力、美貌は、ある者にとっては一文の値打ちもなく、ある者にとっては、8000フランの価値があったのだけど.
エンマは体は売らないと拒否し、自ら死を選ぶのだけど、彼女の死は、人にはお金に変えることのできない大切なものがあるはず、こう訴えかけると共に、お金によって幸せを夢見た彼女自信が、お金に換えることのできない大切なものを、全く持ち合わせていなかったことを物語る.
彼女がお金と引き換えに身体を与えるのを拒んだのも、以前に関係があった好しみでお金を無心した相手が、お金を拒んだのも同じことである.身体と引き換えにお金を望んではいけないと、彼女自身が言ったのであるから.
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旧態依然とした司祭に対して、例えば薬屋のオメは新しい物の考え方を示す.イポリットに手術を勧めるのも、ある意味でその一つとも言えるのだけれど.
農事共振大会で長年真面目に勤め上げた、老婦人が表彰される.彼女は貰ったお金を全部、教会に寄進するという.決して彼女はお金のためだけに、長年働いてきたのではない.
手術は失敗した.手術前にイポリットは、「何も困ってはいない」こう言っていたのだけど、今の状態に満足しているのなら、無理に手術する必要はなかった.
決して、新しい技術、新しい物の考え方を拒否するものではないのだけど、それよりも、新しかろうが古かろうが、自分の満足の行く生き方を求めること、そこに、お金で買えない大切な物があるはず、こう問いかけているのでしょう.

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2016/02/25 追記

上流階級とは金持ち、上流階級の生活に憧れて、夫人は貴族のプレーボーイと関係を持った.
次に彼女は、若い男に貢いだ.彼女はお金によって幸せを得ようとしたのだが.
お金によって幸せに慣れるかどうか、それは彼女自身が示したと言える.公証人に身体を与えれば、相手は必要なだけのお金をくれると言ったのだけど、彼女は拒否して死の道を選んだのだった.
お金のために嫌いな男と関係をもつのは嫌、お金のために不幸な思いをするのは嫌だった.
こう考えると、実に単純明瞭な答えが求まる作品でした.
『奥様のためです.皆していることですから』、この小間使いの言葉をどう捕らえるか、そんな風に考えると解らなくなってしまうけど.

夫は妻を幸せにしようと頑張って仕事をして、無理な手術を行って失敗してしまった.他方、夫人は夫が頑張れば頑張るほど、上流階級の生活、お金で幸せを求める生活にのめり込んでいってしまった.
『あなたは良い人よ』、今際の際に夫人はこう言う.夫を良い人だと思い、そして自分の過ちを反省したのなら、全ての財産を失ったにしても、二人で生活をやり直す道が残されていたはず.にもかかわらず、彼女は死の道を選んだ.
夫が手術に失敗したときもそうであった.訴えられるかも知れない、損害賠償を求められるかも知れない、そう思った夫人は貴族の男に連れて逃げてくれと頼んだ.
夫人は、お金で苦労をすることが出来ない人間.夫と一緒に苦労して苦難を乗り越えることが出来ない人間で、このような人は夫がどんなに努力をしても、残念ながら幸せにすることは出来ないと言わざるを得ない.
逆に考えれば、共に努力して苦難を乗り越えて行く、そこに幸せがあるはずで、お金が沢山あった方が良いに決まっているけど、お金その物に幸せがあるわけではない.

そして、もう一つ付け加えれば、
お金にしか幸せを求めることが出来ない世の中、あるいは、生活のためにお金を稼ぐことに必死にならなければならない世の中は、不幸な世の中だと言える.


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