映画と自然主義 労働者は奴隷ではない.生産者でない者は、全て泥棒と思え

自身の、先入観に囚われてはならない
社会の、既成概念に囚われてはならない
周りの言うことに、惑わされてはならない

群れ (ユルマズ・ギュネイ、ゼキ・ウクテン -トルコ-)

2013年01月19日 02時40分40秒 | ユルマズ・ギュネイ
(1978 122min)
総指揮 ユルマズ・ギュネイ
監督 ゼキ・ウクテン

クルド族というのはトルコ東部から、イラク北部、イラン西部、アルメニア等旧ソ連の国境地帯の山間部に住む遊牧民族で、監督自身がそうです.第一次大戦後トルコ帝国崩壊に際して、クルド族の国家樹立の話があったのですが、立ち消えとなってしまい、この映画の撮られた当時、トルコにおいて彼らは、勝手に山間部を越境してきた人間として扱われ、トルコ国民として認められていませんでした.
民族問題に絡む反体制活動から、投獄されていたユルマズ・ギュネイを支援するため、フランスの映画界のグループがフランス政府に圧力をかけ、フランス政府がトルコ政府に圧力をかけて、監督自身が獄中より指示を出して撮影されたのが、群れ、敵であったと記憶します.

難しく考えなくても、民族問題は、まず、その民族自身が自分達で考え、そして、民族同士が助け合って行かなければならないのは、容易に理解できる事ではないでしょうか.
けれども、描かれたクルド人の実態はと言えば、
妻の部族と、夫の部族が啀み合っている.部族というより、単に家族同士が、啀み合っていると言ってもよいでしょう.
病気の妻は、医者にかかろうとしない.夫以外に肌を見せないという、民族の戒律を頑なに守り、結局、死んでしまった.
建築中のビルで暮らすクルド人の仲間達.仲間達のはずなのだけど、病死した妻を外に放り出した.

つまり、自分達自身のことを考え、そして民族同士が助け合って行く、人としてのもっとも基本的な考え方に、クルド人自身が欠けているのだ、と、この映画は訴えかけているのです.
時代の変化に合せて行くにしても、昔ながらの生活を守るにしても、まず自分達が、一人の人間としての考え方を、改めて行かなければならない.
一つの部族、あるいは一つの民族の掟を守る行為、それが、その部族、民族を守る行為であるかと言えば、逆でした.
彼ら自身が部族の掟を破った者を、仲間外れにして迫害しました.その行為は、異なる部族同士、異なる国民同士が、相手を迫害する行為と何ら変わらないことを、喋らなくなった妻の姿が物語っていると言ってよいでしょう.

クルド人同士が、互いに互いの考え方を理解し合うものが無くて、他の民族に対して、あるいはトルコという国家に対して、自分達を理解しろ、と言っても無理.この視点に立って、この映画は撮られています.

医者に肌を見せることを拒み、死んでしまった妻は、おきてを破り好きな男と一緒になりはしたけれど、古い因習からは逃れることができなかったのですが.
好き合った男女が一緒に幸せに暮らすことは、全世界に共通したことです.人間の共通した認識を元に、古い因習に囚われることなく、啀み合うのではなく助け合って行くことを、考えて行かなければならないはずである.


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