2012年10月6日 長野県
妻籠城址
長野県木曽郡南木曽町
妻籠城は木曽谷の南を固めた規模の大きな山城です。天正12年、徳川の大軍に難攻不落を誇ったと伝えられます。
妻籠城は、いつ誰によって築かれたか明らかではないが、室町中期には築城されていたと推測される。妻籠城は、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いの折、ここも戦場となり、木曽義昌の家臣山村甚兵衛良勝が籠って、徳川家康配下の菅沼、保科らの軍勢を退けている。また、慶長5年(1600年)の関が原の戦いの時も、軍勢がはいってここを固めたが、元和2年(1616年)には廃城となった。妻籠城は典型的な山城で、空堀・帯回輪、さらには南木曽岳にのびる妻の神土塁という土塁も備えており、規模の大きな構えであったことが知れる。主郭へは徒歩10分で、北は木曽川と遠く駒ケ岳を望み、南は妻籠宿から馬籠峠まで一望できる。
妻籠城はいつ誰によって築かれたのかは明らかではない。伝承では木曽家村が室町時代に築いたと言われているが、戦国時代に木曽氏の南の抑えとして、木曽義昌によって整備されたものと予想される。天正13年(1584)の小牧・長久手の戦いの折り、ここも戦場になり義昌の家臣、山村甚兵衛良勝(たかかつ)が家康配下の菅沼、諏訪、保科の率いる伊奈・諏訪の軍勢を退けている。
また慶長5年(1600)関ヶ原の戦いの際に美濃に進軍していた徳川秀忠は、この城に着いた時、関ヶ原での戦いで父・家康率いる軍勢の勝利で終わった事を知ったと言われています。妻籠城は典型的な山城で、木曽川と蘭川の合流する断崖上に位置し、いくつかの平地、空堀、帯曲輪、さらには南木曽岳に延びる「妻の神土塁」という土塁をも備えており、江戸時代の古絵図によると規模の大きな構えであった事が知れる。現在でもいわゆる主郭と言われる所は整地され公園になっているが、帯曲輪や空堀などはまだ原型をとどめている。
▲帯曲輪
▲堀切
▲土橋
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