2016年3月13日 神奈川県
小田原城 100名城
神奈川県小田原市城内
室町時代、西相模に進出した大森氏が築いた山城が前身。これを早雲が攻め取ってのち、北条氏の居城として関東に君臨した。徳川氏の関東入国とともに功臣大久保忠世が領有し、その子忠隣は改易、72年目にまた大久保忠朝に復した。その間、稲葉氏(稲葉正勝・正則)が近世城郭として整備、度々の震災で復興・改修を重ねた。現在は天守閣が昭和35年、常盤木門が昭和46年に復興、銅門が平成9年に復元。ほかに隅櫓などが復興されている。 じゃらん
▲隅櫓
▲二の丸御殿跡
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銅(あかがね)門
馬屋曲輪(うまやくるわ)から二の丸に通じる位置にあり、二の丸の正門にあたります。渡櫓門(わたりやぐらもん)、内仕切門(うちじきりもん)と土塀で周囲を囲む枡形門(ますがたもん)の構造を持ちます。渡櫓門にはその名の由来となった銅板の装飾が映えます(平成9年復元)。
▲常盤木門が見える
▼馬出門
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小田原城 二の丸観光案内所
以前は小田原町図書館とのこと。詳細不明
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▲銅門土塀模型
▼常盤木門
小田原城本丸には常盤木門、鉄門の2つの城門がありました。このうち常盤木門は本丸の正門にあたり、重要な防御拠点であったために、他の門と比べても大きく、堅固に造られていました。多聞櫓と渡櫓門を配し、多聞櫓は武器等の貯蔵庫として用いられていました。本丸の正面に位置し、小田原城の城門の中でも大きく堅固に造られていました。古絵図などの記録から、江戸時代初期から設けられていたことが分かります。元禄16年(1703年)の大地震で崩壊した後、宝永3年(1706年)に、多門櫓と渡櫓から構成される桝形門形式で再建されたものが、明治3年(1870年)の小田原城廃城まで姿をとどめていたといわれています。
常盤木とは常緑樹の意で、門の傍らには往時から松が植えられており、また、松の木が常に緑色をたたえて何十年も生長することになぞらえ、小田原城が永久不変に繁栄することを願って、常盤木門と名付けられたといわれています。現在の常盤木門は、市制30周年事業として再建したもので、昭和46年(1971年)3月に完成しました。 小田原市ホームページ
▲この石碑には「常盤木門」と刻まれている
▲天守閣は改修工事中でした・・・
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▲三の丸土塁跡
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2016年3月13日~14日
職場の仲間と箱根湯元への温泉旅行で小田原城を訪れる。翌日は朝からの雨で、早々に帰宅。あちこちと旅行計画を立てえいただけに残念でした。ちなみに 大涌谷は未だに立ち入り禁止!
▲モチーフは 富士山、箱根山、小田原城、酒匂川の渡し
▼箱根登山鉄道 小田原駅
▲ホームから小田原城が見える
▲ 宿泊したホテルのベランダから
cosmophantom
今月3日に、小田原城の北条五代祭りに行って来ました。
北条氏政役の高嶋政伸を始めとして、色々と見どころがあったので、祭り見物お勧めです。
ウォークさんこんにちは。
栄華を誇った関東の強者北条氏でしたが、20万余りの秀吉軍に陥落いたしました。
北条五代祭りに、是非行って見たいと思いますよ。豪華な衣装を身につけた武者の行列なのでしょうね!