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見付宿の町並み~静岡県磐田市

2011-07-04 18:39:55 | 町並み

2011年6月13日 静岡県

見付宿の町並み

静岡県磐田市

見附宿(みつけしゅく、みつけじゅく) は、東海道五十三次の28番目の宿場である。現在の静岡県磐田市中心部。「見附」の名は、京から来て初めて富士山が見える場所であることから付けられたと、江戸時代の言葉遊びで尤もらしく語られた[要出典]。西北方向には一の谷中世墳墓群がある。もともとは10世紀に遠江国の国府が置かれた土地であるが、鎌倉期には国衙と守護所が置かれ、中世の東海道屈指の規模を持つ宿場町となった。16世紀頃には町人による自治も行われていたが、藩政期に入ると自治権は失われ、単なる宿場町の1つとなっていった。天竜川の左岸にあたるが、大井川と違って水深があったため主に船が使われており、大井川ほどの難所ではなかった。しかし川止めのときは島田宿などと同様に、足止めされた人々で賑わったとされる。また遠江国分寺や見附天神の門前町であり、姫街道の分岐点でもあった。東海道本線敷設にあたり、見附宿の南方の中泉村に中泉駅が設置された。見附と中泉は1940年に合併して磐田町となり、1948年に市制施行した。Wikipedia

遠州見付宿 木戸跡

▼ 見附東木戸

旧見付学校

見付学校を第12中学区内第1番小学校にと地元の熱意で、明治7年(1874)堂宮棟梁伊藤平右衛門の設計で着手、翌8年開校しました。基礎の石垣は遠州横須賀城の石垣を利用し、間口12間・奥行き5間の木造洋風建てに屋上2層の楼を完成させました。玄関はエンタシス様式の飾柱、分銅付の窓の日本最古の現存木造洋風校舎です。 明治16年(1883)に2階天井裏を改築し、現在の3階2層になりました。磐田市教育委員会文化財課

▼旧見付宿脇本陣大三河屋門

江戸時代、宿場には街道を往来する大名や公家が宿泊する施設として、本陣が決められていました。脇本陣は、本陣を補うための宿泊施設で、本陣に次ぐ規模・格式を持っていました。大三河屋は、はじめ旅籠屋でしたが、文化2年(1805)に脇本陣になりました。 この門は、2本の本柱に冠木(かぶき=門柱の上部を貫く横木)を渡し、その上に梁(はり=上部の重みを支えるため、あるいは柱を固定するために柱上に架する水平材)と切妻屋根を載せています。武家や商家の屋敷の門には棟門(むなもん=本柱2本で控柱がなく、切妻造り・平入りの門。寺院の塔頭・住宅などの門に多く用いられる)が使われますが、脇本陣の玄関を飾るためか、小さいながら薬医門(やくいもん)の形をした門です。  屋根は桟瓦(さんかわら=方形で中央が谷をなし波状の瓦・普通の瓦。江戸時代の発明)葺きの切妻造りで、大棟(おおむね=降棟・隅棟=屋頂の水平な棟)の両先端には小型の鯱を配置し、大棟両端から降棟が付けられ、その先端部には獅子を表した飾り瓦である留蓋(とめぶた)が置かれています。降棟によって、重厚で落ち着きのある印象を与え、由緒ある脇本陣の伝統をかもし出しています。  かつて見付から中泉の中津川家に移築され同家の門として使用されていましたが、平成17年、市に寄贈され、平成19年に移築復元しました。 平成19年3月  磐田市教育委員会

姫街道は「本坂通」と呼ばれる東海道の脇往還で、公の道程は浜松宿から御油宿までです。見付宿からは、兜塚古墳(かぶとづかこふん)の脇をぬけて、池田の渡しから、本坂通に抜けます。見付宿から池田にかけては、池田近道と呼ばれ、姫街道と呼ばれるようになるのは、明治以降のことです。通行禁止の高札が立てられていましたが、江戸時代の道中絵図などにも紹介され、多くの旅人に利用されたようです。 磐田市観光協会ホームページ

▲先出の木戸跡は東側でここは西側 

▼ 府八幡宮

府八幡宮は、奈良時代に桜井王が遠江国司として赴任したとき国内がよく治まるよ うにと、仲哀天皇、神功皇后、応神天皇の三神を祭り建立したと伝えられています大鳥 居をくぐり参道を歩くと、楼門、中門を経て拝殿・本殿へと続きます。冒頭部分

▼サッカーボールのモニュメント

歩道にはジュビロ磐田の選手たちの足型陶板が埋め込まれています。

▲ 磐田駅:東海旅客鉄道 静岡県磐田市中泉

☆cosmophantom


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