2011年6月13日 静岡県
袋井宿(東海道)の町並み
静岡県袋井市
袋井宿(ふくろいしゅく、ふくろいじゅく) は旧東海道の宿場で、東海道五十三次の宿場の数では江戸から数えても京から数えても27番目で中間点にあたる。他の宿場より少し遅れて元和2年(1616年)までに整備された。現在の静岡県袋井市中心部にあたる。周辺に遠州三山をはじめ歴史ある寺や神社が点在し、それらのいわば門前町の形で栄えた。
掛川宿→袋井宿→見付宿
▼名栗
「東海道中膝栗毛」の一節に次のようにあります。 「はやくもなくりのたてばにつく ここは花ござをおりてあきなふ 道ばたにひらくさくらの枝ならでみなめいめいにをれる花ござ」江戸時代には旅人が休息する場所(立場)として知られ特に花茣蓙は有名でした。 北西一帯に広がる坂尻遺跡には奈良時代郡家(ぐうけ)(郡役所)や駅家(うまや)が置かれていたらしく古くから東西交通の要衝の地であったことがわかります。
▼東海道案内図と浮世絵(袋井宿)
▲袋井宿まで4.2km
▼名栗の先にある松並木
久津部一里塚跡(静岡県袋井市広岡)
▲江戸から60里
一里塚とは、街道両側の一里(約4km)ごとに土を盛り上げて道のりの目じるしにした江戸時代の塚のことで、多くは榎(えのき)や桧がその上に植えられていました。久津部一里塚は江戸からちょうど六〇里にあたり、明治時代までは老松が立っていました。現在は街道両側の塚とも残っていませんが、現在地付近がその跡と言われています。昭和四七年には袋井東小学校創立百年を記念して一里塚碑が立てられるなどして現在にいたっています。ここに、歴史を末永く後世に伝えるために新たに塚を設置しました。 平成十二年八月改修
▲袋井東小学校
袋井小学校創立百年記念 東海道久津部一里塚跡碑
徳川幕府は慶長九年(1604)二月(昭和四十七年より三百六十八 年前)東海・東山・北陸三道に一里塚を築かしめて旅人の便をはか った。当時本村久津部の地は、江戸より六十里の地点であったか ら、道をはさんで両側に高かく土を盛り松を植えて一里塚を築い た。その北側のものは袋井東小学校前の石川金平氏宅地で、国道 より三間ばかり北へ入ったところであった。南側にあったものは 現在地である。明治十年(1887)に伐るまでは老松がそびえていて 旅人のよい目じるしになっていたとのことであるが、袋井東小学 校創立百年を記念に復元をいたした次第である。 平成十二年八月改修 (昭和四十七年説明板設置)
▼東海道どまん中東小学校(静岡県袋井市広岡)
▼町中の浮世絵 隷書、双筆とは字体のことか?
▲隷書東海道53次袋井 初代歌川広重 寛永2年(1849)
▲左 双筆東海道53次袋井 3代歌川豊国 右不明
▼東新屋道標
▼袋井宿と天橋/袋井宿石碑
袋井宿は元和2(1616)年に設置されました。いわゆる「東海道五十三次」でいえば品川宿から数えて27番目の宿駅にあたります。天橋(阿麻橋)は袋井宿の東の入口にかかっていた土橋で、有名な広重の版画「出茶屋ノ図」にその姿が描かれています。天保14(1843)年の調査によれば、宿内の町並みは西端の中川まで5町15間。人口843人、家数は本陣3軒、旅籠屋の50軒を含め195軒でした。平成元年六月四日袋井市教育委員会 記載内容
これより袋井宿
▼袋井宿道標
▼袋井 出茶屋ノ図
▼袋井宿東本陣跡
袋井宿には三軒の本陣が置かれていました。その場所から東、中、西本陣と呼ばれ「東海道宿村大概帳」には次のように記されています。
一、宿内惣家数百九拾五軒
内
本陣 凡建坪弐百九拾坪半 門構・玄関附 宇新町 壱軒
同 凡建坪弐百拾九坪 門構・玄関附 宇本町 壱軒
同 凡建坪百六拾六坪半 門構・玄関附 同 壱軒
三軒の本陣は東海道往還通に面して北側に建てられていました。3本陣のうち東本陣は「壱番御本陣」とも呼ばれ、代々八郎左衛門を名乗っていた田代家が営んでいました。田代家は本陣の運営とともに宿役人として書状・荷物の継ぎ立てを行った問屋場の最高責任者である問屋をも勤めています。本陣の構造上の特色は門構えと玄関があり、また内部に「上段の間」が設けられていたことです。東本陣の場合、敷地全体の坪数1068坪、塀を除いた建坪288坪、間口13間半、奥行き31間もあり、その規模の大きさがうかがわれます。平成12年7月28日袋井市教育委員会
本陣の宿泊
袋井宿東本陣の利用状況は、元和四年(1618)から寛永十一年(1634)までの十七年間の状況を記した袋井指定文化財「本陣御宿帳」からうかがい知ることができます。袋井宿が開設されてから二年後に始まる幕藩体制初期の宿帳は大変貴重なものです。
その記載は極めて簡略で、利用の月日、休・泊の別、休泊料、そして利用者のみの記載となっています。この十七年間のすべてについて、月毎にその休泊の状況を整理すると、全体として宿泊と休憩はいずれも30回を超えています。若干休憩が多いようですが、ほぼ半々となっており、宿の設置は他の宿より十五年遅れましたが、開設当初から宿泊の利用がかなり盛んであったと考えられます。また、年間を通しての利用回数をみると、20~40回程度の年が大半で、寛永三年(1626)と寛永十一年(1634)は将軍の上洛の影響によって70回を超えて利用されていることは注目されます。また月別の利用をみると、他の月に比べて十二月の利用が多くなっています。参勤交代が制度化されて以降は、外様大名の交代期四月と、譜代大名の交代期六月が多くなっているようですが、残念ながらこの宿帳は寛永十一年までで終わっているため、その翌年に武家諸法度が改訂され、参勤交代が制度化されて移行の状況を知ることはできません。
十七年間で繰り返し東本陣を利用したのは伊勢国神戸城一万五千石の一柳直盛と三河国宝飯郡形原五千石の松平清直で、領地と江戸を往復するのに利用したと考えられます。
本陣の利用
大名が本陣を利用するにはそれなりの手続きがありました。まず各本陣に対して休泊の予約を伝え、利用可能なら本陣から調書を提出します。この後、他の大名との差合を避けるために先触れを発し、家臣は大名の発籠に先立って現地に入り、宿割りを行い、関札を掲げ、玄関には定紋付きの幕を張り、提灯を灯し、本陣当主は礼装して宿はずれまで出迎えます。行列の出発は午前四時頃が習慣であったため、準備の時間を考えると午前一時~二時の起床であったと考えられます。
本陣の経営
本陣の主たる収入は休泊料ですが、この休泊料には特に定められたものはなく、「御祝儀」と呼ぶにふさわしい性格のものでした。東本陣を数多く利用した一柳直盛と松平清直は一貫文から二貫文(千文~二千文)でしたが、金銭だけでなく、袷羽織・帷子(たれまく)・反物・色紙などで支払われることも多かったようです。また幕府から下賜金や各種の補助がありましたが、建坪200坪を超える大建造物を、常に休泊に応じられるように維持することは大変な苦労でした。「きせるなどは50本出せば10本返ってくるのはまれである」といわれたように、本陣備え付けの椀・皿などの什器類から、はては屏風・布団・衣類にいたるまで持ち去られ、これらの補充に要する出費もかなりのものだったようです。
本陣の経営は享保の頃からしだいに苦しくなり、戊辰戦争時には利用率が若干多くなりますが、明治維新以降、田代家は本陣を廃業し、伝馬所(明治元年6月に問屋場から名称変更)の元締役となりました。郵便業務の開幕とともに、その取次所も兼ねることなり、東本陣の建物は、最初の袋井郵便局となりました。
▼此処はどまん中袋井宿
州山名郡袋井宿
掛川宿へ二里16町(約9.7キロ)
見付宿へ1里半(約6キロ)
当所うなぎすっぽん名物
袋井宿の名は、すでに弘安の頃(1278~88年)に書かれた「遺塵和歌集」の長唄の一節に見ることができます。江戸時代の袋井宿は、徳川家康公により東海道の宿駅制度が定められてから15年後の元和2年(1616年)八月四日に開設されました。江戸日本橋から数えても京都三条大橋から数えても27番目、東海道五十三次のちょうど「どまん中」の宿です。以後若干省略
▼問屋場(人馬会所)跡
袋井宿で、人馬の継立業務を行っていたところ。文化年間(1806~17)には、街道の北、中本陣の西側にあったといわれています。
▼時空を越える道との対話:名所旧跡案内
▼高札風説明板(秋葉山常夜灯、高札場、土手)
秋葉山常夜灯
日伏の神様、秋葉山三尺坊大権現に対する庶民信仰は、江戸時代に入って盛んになりました。特に東海から関東地方にかけて数多くの秋葉講が生まれ、各地に分社や常夜灯が建てられました。公園入口の常夜灯はもと東海道の北側にあり、南側約50mの円信寺跡には、1800年(寛政12年)に建立された常夜灯が今も残っています。平成11年4月袋井市
高札場
幕府が人々を治めるため、忠孝、毒物、駄賃、火付けなどに関する法令や禁令を掲示した場所を高札場と呼び、1711年(正徳元年)以降に整えられました。高札場は、町の辻や橋のたもと、街道の追分(分岐点)、渡船場、港、関所など全国いたるところに設けられ、幕府の権威を誇示する役割をも果たしていました。平成11年4月袋井市
土手(土塁)
いくつかの中小河川をひかえた袋井宿は、背の高い土手(土塁)に囲まれていたといわれています。大正時代に撮影された宿入口の写真に、石垣で補強された高さ2mをこえる土手が写っています。土手の内側には桝形(宿の警護所)がありました。袋井宿の景観をイメージしていただけるよう、階段の両脇に土手を再現しました。平成11年4月袋井市
▲どまん中ふくろいのモニュメント
▼春興五十三駄之内袋井など
春興五十三駄之内 袋井
葛飾北斎が生涯に描いた十一種類の東海道風景がの一つ。画面上部に三首の狂歌が添えられています。大きな荷物を背負った馬と大黒様を思わせる旅人。お茶を差し出す女将の姿は、どまん中袋井宿の「おもてなしの心」を表しています。
東海道五十三次之内 袋井之図
「保永堂版東海道五十三次之内 袋井」を模した出茶屋を背景に、荷を背負い、杖をつき、先を急ぐ女性の旅人を描いています。おそらく伊勢参りに行くのでしょう。当時、女性の旅は伊勢参りがほとんどでした。
▼旧澤野医院 袋井市指定文化財
旧澤野医院は、澤野家が江戸時代末期から昭和初期までに建築し、使用してきた建物群です。病棟、居宅、渡り廊下、洋館の4棟は地域医療を担ってきた建物であり、貴重な文化遺産として平成11年4月23日に袋井市指定文化財に指定されました。澤野家は享保12(1727)年に作られた「山名郡川井村差出明細帳」に内科医としてその名が記され、すでに地域医療を担っていたと考えられます。旧澤野医院は、旧東海道に面する敷地幅(間口)10.5間を有し、間口幅としては大きな部類に属します。奥行きも29間あり、さらに西側に12.5間、9間の短形敷地が設けられていたと考えられます。この敷地内に、街道に接して病棟(洋風2階建て)が建ち、これに接続して居宅(和風建築平屋)、さらに東側に突出した生活空間の建物(炊事場、風呂場など)、西側には渡り廊下によってつながれている洋館が建てられています。各建物の特徴は居宅が純和風に対して、病棟と渡り廊下、洋館は洋風となっています。澤野医院の最盛期にはさらに多くの建物があったと考えられます。また、内庭及び南面の築庭についても同時期のもので、その後若干の変更が見られます。各建物の建築磁器は明らかではありませんが、構造、形式から見ると、居宅は幕末から明治期、洋館と病棟については昭和初期の建築と考えられます。これらの建物と敷地は旧東海道に面する医療建築として、その類例が少なく、近代の医療行政や制度、医業の流れを知る上では貴重な存在と言って過言ではありません。
▼蔦屋版東海道 袋井
松の枝に吊した茶釜で湯を沸かす出茶屋の女主人、キセルをくゆらし、しょざいなく高札を見入る駕篭かき、床几に腰掛け、茶をすする職人風の二人づれ、馬子はいないが、荷物と女性を乗せた馬は軽尻であろうか。街道は遠くの村々へと続き、夕日にはえる山並みとともに、袋井市域のおだやかな夕暮れを思わせます。
木原一里塚は、江戸から数えて61里目の一里塚です。「東海道宿村大概帳」(逓信総合博物館蔵)には「(袋井)宿より見附迄之間壱里塚壱ヶ所、木立松。但、左右之塚共木原村地内」と記され、「東海道分間延絵図」(東京国立博物館蔵)や「東海道分間絵図」(東京国立博物館蔵)などには、塚の上に松や榎が描かれています。本来の一里塚はこの場所から約60m東にありましたが、現存していません。記載内容
cosmophantom
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