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地名アラカルト

各地の難読地名や珍しい地名についての由来やエピソードなどについて調べてみたいと思います。

岡山県の難読小学校名 いくつ読めますか ③

2019年01月27日 21時09分48秒 | Weblog
①倉敷市立万寿小学校 浜町2丁目
②倉敷市立船穂小学校  船穂町船穂
③倉敷市立呉妹小学校  真備(まび)町妹(せ)
④倉敷市立箭田小学校 真備町箭田         
⑤津山市立河辺小学校 国分寺
⑥笠岡市立神内小学校  神島
⑦笠岡市立神島外小学校 神島外浦    
⑧井原(いばら)市立出部小学校 上出部町      
⑨高梁市立川面小学校  川面町          
⑩高梁市立巨瀬小学校  巨瀬町

読みなど

① ます 明治22年6月,窪屋郡浜・富久など5村が合併し万寿村成立(~昭和2年)。村名は中世にあった荘園の万寿庄に由来するという。
② ふなお 明治22年6月,浅口郡船穂・水江・柳井原の3村が合併し船穂村成立(~昭和15町制~平成17)。村名は『和名抄』にみえる船穂(布奈保)郷の郷名に由来。Funaho→Fnnaoで「h」の欠落。フナホ(舟帆)の当て字ともいわれ,高梁(たかはし)川河口の上代の舟の停泊地であったとみられる。
③ くれせ 明治22年6月,尾崎村と妹村が合併し呉妹村成立(~昭和27年~平成17)。セは山の背,クレは呉服を作る生糸を生産したことによるという(『JR・第三セ』)。村名は消滅したが,小学校のほか,備中呉妹駅(井原鉄道井原線)にその名を残す。
④ やた 小田川の左岸に位置。明治22年6月,箭田村が単独村政施行(昭和25年町制~27年~平成17)。村名は,当地に仁徳天皇の皇后八田皇女のために置かれた御子代(みこしろ,皇室の私有民)の一つと伝えられる下道郡八田(也多)郷があったからともいう。
⑤ かわなべ 明治22年6月,河辺・国分寺,日上(ひかみ)・瓜生原(うりゅうばら)の4村が合併し河辺村成立(~昭和29年)。村名は河辺神社に由来か。旧村名はすべて町名として存続。
⑥ こうのうち 明治22年6月,小田郡神島内浦・横島・入江新田が合併し神島内浦(こうのしまうち)村成立(~昭和28)。校名は昭和26年現校名に改称。校名は神島内浦(こうのしまうち)村の略称と思われる。
⑦ こうのしまそと 明治22年6月,小田郡神島外浦と白石島が合併し神島外村成立(~昭和27年町制~30年)。神島は神島神社から。神島外浦は,かつては島であったが,現在は陸続きとなっている。
⑧ いずえ 明治22年6月,上出部・下出部・笹賀(ささか)の3村が合併し出部村成立(~昭和17年~28年井原市制)。村名は『和名抄』にみえる後月郡出部郷に因む。天皇家に直属する部民の役所の出先機関があったという意の地名という。旧村名はすべて町名として存続。出部は超難読地名のため,下出部町にある井原鉄道井原線の駅名は「出部」の地名を平仮名書きに「いずえ駅」となっている。「部」を「え」と読む地名は他にないのではないかと思う。
⑨ かわも 明治22年6月,川面町が単独村制施行(~昭和29)。村名は高梁川の川沿の意からかという。JR伯備線の駅名は備中川面駅。
⑩ こせ 明治22年6月,上房郡巨瀬村が単独村制施行(~昭和29年)。村名は古代の巨瀬郷に因むと思われる。

岡山県の難読小学校名 いくつ読めますか ②

2019年01月27日 10時48分11秒 | Weblog
①岡山市立興除小学校 南区中畦(なかうね)
②岡山市立妹尾小学校 南区妹尾
③岡山市立第一藤田小学校 南区藤田
④岡山市立東疇小学校 南区東畦   
⑤岡山市立箕島小学校 南区箕島
⑥岡山市立灘崎(なださき)小学校迫川分校 南区迫川
⑦倉敷市立天城小学校 藤戸町天城
⑧倉敷市立乙島小学校  玉島乙島
⑨倉敷市立沙美小学校 玉島黒崎
⑩倉敷市立連島神亀小学校  神田3丁目     

 読みなど

① こうじょ  明治38年4月,東興除・西興除の2村が合併し興除村成立(~昭和46年)。当地は文政年間(1818~30)から数次にわたって行われた児島湾の開拓村で興除新田と呼ばれ,備前藩に編入された際,興除村と命名された。村名は藩の儒者小原梅坡の提案により『管子』のなかの「興利除外」即ち利を興し害を除き豊饒(ほうじょう)の語から選んだといわれている(『岡山地名事典』)。
② せのお 明治22年9月,都宇郡妹尾村が単独村制施行(29町制~昭和46)。村名はこの地の丘に居館を設け,瀬戸内海における平家方の有力な拠点をつくった平家の武将妹尾太郎兼康(1123~1183)に因むという。妹背(いもせ)という言葉が妹と背が混合して使われ,妹尾が発生したともいう。
③ ふじた 明治45年4月,児島湾干拓地第2地区が藤田村村制施行(~昭和50)。村名は藤田伝三郎(1841~1912)の藤田組が遠浅の児島湾を干拓・開墾し,機械化農業への端緒を開いたことに由来する。第二藤田小,第三藤田小まであり。
④ ひがしうね 藩政村。東疇は,興除新田の東部にあたる耕地であることに因む。明治22年6月,児玉郡東疇・中疇・内尾の3村が合併し東興除村成立(~38年)。疇は19画。
⑤ みしま 平安期から見える地名。藩政村。明治22年6月,都宇郡箕島村が単独村制施行(~35年)。村名は,児島湾が深く湾入していたころ,箕の形をした砂島があり,干拓するにつれて陸地になったことに因むという(『岡山地名事典』)。
⑥ はざかわ 狭い谷(迫)の川の意の字名であろうという。
⑦ あまき 城名に因む。元久年間(1204~06)に清海大膳が桜山に城を築いたと伝えられ,この城に嘉吉2年(1442)尼子の家臣天野六郎左衛門が居城したことから,天野の城という意で,天城と称されたという。また,海(あま)は天(あま)に通じ,海に面して城が構えられていたので,天城と名付けられたともいう(『岡山地名事典』)。
⑧ おとしま 明治22年6月,浅口郡乙島村が単独村制施行(~35年)。かつては島であったが,近世の初め干拓されて本土と陸続きになった。乙は小さくて愛らしいの意の乙か(乙姫<おとひめ>)。
⑨ さみ 沙美は字名で,風光明媚な浜辺からつけられた地名という。県下における海水浴場の始まりともいわれている。
⑩ つらじましんき 連島は,干拓,開発されるまでは交通不便な孤島であった。
 昭和55年開校。4字校名。校名は(鶴新田水門笠石の刻文より)
  「龜島(かめじま)高く聳(そび)え 鶴田遠く連なる
  爰(ここ)にその地を卜(ぼく)し 新たに良田を闢(ひら)く
  神龜(しんき)海を鎭め 靈鶴天(れいかくてん)を護まもる
  風于汐于(かぜにしおに) 閘(こう)萬年に堅し」に因むという(同校HP)。