寒い夜に思い出すちょっと悲しい思い出です。
前回のブログで久しぶりに名前を挙げた上野治郎さん。若くして癌で亡くなられたガレージセール時代の仲間です。舞鶴の郵便局員をやっていて主に関西の集まりや、東京の全国展には必ず参加出席され、上野さんの交流は幅広いものだったと思います。私が初めて会ったのは趣味誌合同新年会という名の切手とカード、鉄道といった趣味の話題で盛り上がり、朝まで語り合うMY ALBUM誌発行の神原卓志さんが発起人の集まりでした。福山で古本屋を営み始める大事な人生の折り返し点にあるにも関わらず郵趣界に多大なご尽力をいただきました。話を元に戻しまして古いお付き合いだった上野さん。切手のガレージセールが立ち上がりお付き合いは更に深まりました。当時は「田中派」とよばれたバザー渡り歩き飲み歩きの仲間に加わっていただき、東京へお出でいただいた折りには田中屋さんや大阪のマサさん、ジョーさん、オサムさん等々といつも一緒でした。それが高じて私がマサさんと「ピンさん」こと田中さんと立ち上げたYTT切手まつりに参加いただくようになりました。更に全国規模で活躍出来るようYTU切手まつりに名前を変更してからは上野さんもエンジン全開でいつも一緒に活動していました。浅草の雷門区民会館で開催の最後は入場人数50人に達するマイナーイベントとしては最高潮の盛り上がりを作っていただきました。先程申し上げた「田中派」が切手市場や今の私の郵趣界との関わりを非常に大きなものにします。田中派会長を自負した時代の昔話は又の機会にします。上野さんの話に戻しましょう。そういった関係を続けつつ上野さんはいつも酒はやらないのにお付き合いが良く、東京滞在に必ず利用していたKKRホテルまでマサさんと3人でタクシーでご一緒したこともありました。広島の集いは私も一時期参加させていただきました。当時地方本部長だった天野さんに毎度ご案内いただき、マサさんと私が広島で活動出来る舞台を提供して下さいました。既に活躍なさっていた上野さんは私がデビューする前は品物を預かって下さり、自分のショップで売って下さいました。そんなある日、検査も兼ねて入院することになったので広島行きの荷物はそっくりお返ししますとの電話が入りました。電話ではいつも「もしもし舞鶴の上野です」と言ってくる声が元気なく、明らかに病気の人でした。また東京でYTU切手まつりをやろうと何回も言われました。それが最後の会話です。今でも浅草の切手市場夜の部で飲むと治郎さんを思い出します。あの頃のYTUが在って切手市場の運営に全力で走り回る自分が成り立っています。治郎さんの名が刻まれたYTUが封印された冬の出来事。何年前かは忘れてしまいましたがご冥福を祈ります。
前回のブログで久しぶりに名前を挙げた上野治郎さん。若くして癌で亡くなられたガレージセール時代の仲間です。舞鶴の郵便局員をやっていて主に関西の集まりや、東京の全国展には必ず参加出席され、上野さんの交流は幅広いものだったと思います。私が初めて会ったのは趣味誌合同新年会という名の切手とカード、鉄道といった趣味の話題で盛り上がり、朝まで語り合うMY ALBUM誌発行の神原卓志さんが発起人の集まりでした。福山で古本屋を営み始める大事な人生の折り返し点にあるにも関わらず郵趣界に多大なご尽力をいただきました。話を元に戻しまして古いお付き合いだった上野さん。切手のガレージセールが立ち上がりお付き合いは更に深まりました。当時は「田中派」とよばれたバザー渡り歩き飲み歩きの仲間に加わっていただき、東京へお出でいただいた折りには田中屋さんや大阪のマサさん、ジョーさん、オサムさん等々といつも一緒でした。それが高じて私がマサさんと「ピンさん」こと田中さんと立ち上げたYTT切手まつりに参加いただくようになりました。更に全国規模で活躍出来るようYTU切手まつりに名前を変更してからは上野さんもエンジン全開でいつも一緒に活動していました。浅草の雷門区民会館で開催の最後は入場人数50人に達するマイナーイベントとしては最高潮の盛り上がりを作っていただきました。先程申し上げた「田中派」が切手市場や今の私の郵趣界との関わりを非常に大きなものにします。田中派会長を自負した時代の昔話は又の機会にします。上野さんの話に戻しましょう。そういった関係を続けつつ上野さんはいつも酒はやらないのにお付き合いが良く、東京滞在に必ず利用していたKKRホテルまでマサさんと3人でタクシーでご一緒したこともありました。広島の集いは私も一時期参加させていただきました。当時地方本部長だった天野さんに毎度ご案内いただき、マサさんと私が広島で活動出来る舞台を提供して下さいました。既に活躍なさっていた上野さんは私がデビューする前は品物を預かって下さり、自分のショップで売って下さいました。そんなある日、検査も兼ねて入院することになったので広島行きの荷物はそっくりお返ししますとの電話が入りました。電話ではいつも「もしもし舞鶴の上野です」と言ってくる声が元気なく、明らかに病気の人でした。また東京でYTU切手まつりをやろうと何回も言われました。それが最後の会話です。今でも浅草の切手市場夜の部で飲むと治郎さんを思い出します。あの頃のYTUが在って切手市場の運営に全力で走り回る自分が成り立っています。治郎さんの名が刻まれたYTUが封印された冬の出来事。何年前かは忘れてしまいましたがご冥福を祈ります。