
人間というのは「ややこしい存在」だなあと思う。
少しましに言うと「妙な存在」だなあと思う。
人間は自身のルーツを探ろうとして「宇宙の起源」を探究する。
そしてビッグバン、多元宇宙論、など我々の宇宙について素晴らしい研究を進める。
宇宙と物質についての美しい法則、不可解な方程式の解明に日々叡智を注ぐ。
一方で人間は地球、あるいは国、地域、という社会に属して、政治、経済、芸術、文化・文明という「生活」を繰り広げる。
ここには、美しい法則も方程式も存在せず、不条理が渦巻き、それに翻弄されながら生きている。
愛憎、嫉妬、貪欲、傲慢、快楽、裏切りから・・・信頼、誠実、献身、友情、愛情などなどが渦巻く世界に生きている。
不条理な戦争・殺戮、貧困・飢餓、人間疎外に苦しむかと思えば、経済的に成功し、才能を発揮し、人間関係にも愛情にも恵まれた生涯を送ったりもする。
宇宙に対峙する人間は、その壮大な運行やそ法則の美しさ、無限の荘厳さ、不可解さに感動し、また戸惑う。
社会に対峙する人間はその猥雑卑小な現実に失望し、苦笑いしまた馬鹿笑いもし、幸福も感じながら生きている。
こうみてくると、どうもニーチェの永劫回帰がまた浮かんでくるのだ。
宇宙の荘厳に対峙するときは、壮大な歓喜に充たされた永劫回帰。
社会に対峙する時は、ツァラトゥストラが嘔吐を感じ、それを受容する為には7日間病床に伏したという猥雑卑小な永劫回帰。
しかし人間はいつも永劫回帰の実存的主体者として「存在」する。
その存在は無力でもあり全能でもあるかのようだ。
そして人間は「生きるに値する価値」を求め続けているように思える。
また「自己実現」を果たさんとして挑戦し続けているように見える。
それを見失う社会・世界は人間にとって不幸な状況であるといえる。
その究極が人間の「戦力的数字化」・・・つまり戦争である。
1930年代の世界的混乱を集結させたのは第二次世界大戦であった。
現代世界の混乱を集結させる為に第三次世界大戦という選択肢は有り得ない。
世界は核兵器を保有してしまったからだ。
ヨーロッパ、中東、東アジア、混沌とする世界情勢はどのように終息していくだろうか。
その為にますます必要なのは、人間を中心にすえた哲学なんだろうなあと思う。