
今の時代に「祟りと怨霊」を恐れたり信じたりしている人はいないだろう。
しかし古代日本、縄文時代、弥生時代・・・つまり古事記・日本書紀が編纂された頃、人心を脅かしていたものは「祟りと怨霊」であった。
そのために権力者も陰陽道や呪術に力を求めた。
なぜ権力者が怨霊と、その祟りを怖れたかというと。
無実の罪を被せて政敵を死に追いやったり、策謀で政敵を失脚させて流罪にしたりした為、その恨みを怖れたからに他ならない。
わかりやすいのは菅原道真の北野天満宮・天神さんの由来だ。
藤原氏の策謀によって九州大宰府に流された菅原道真はその二年後に憤死する。
その後、落雷に打たれたり、疫病により、策謀をめぐらした藤原氏四兄弟が全滅する。
これを菅原道真の怨霊の祟りと怖れて、北野天満宮に道真を祀りあげて怨霊を鎮めた。
このように、万葉の昔から神社の「神」とは「恐ろしい祟りをなす怨霊」のことであった。
神社に祀りあげられている「神」はすなわち「怨霊」であり「鬼」と同義であった。
ここを押さえて、古代日本史と神社を見ていかないと、日本の古代史を見誤ることになる。
「神」になるには二つの条件が必要だと、柳田國男氏は述べている。
一つは人に秀でた才能、技術、政治力など、人にはない徳を持っていること。
もう一つは、不幸な死に方をしていること、執念・怨念を持つ死に方をしていること。
この二つの条件を満たしているのが、神社に祀りあげられている「神」なのだ。
「神」とは祟りをなす怖ろしい存在であり、それは「鬼」と同義であった。
さらに「鬼」はしばしば「童子・童女」・・・小さな童の姿をしている。
こういう観点から日本古代史とその祭祀である神社をみると、常識とは正反対であるが、真実の歴史が見えてくる。
梅原猛氏は、この「実存哲学」的手法から、聖徳太子と法隆寺の謎に迫っている。
法隆寺は聖徳太子一族の墓であるという見解。
聖徳太子は十七条の憲法、官位十二階を制定し、仏教を導入した、比類なき政治力と徳を体現した人物だ。
しかし太子の死は不思議なものであった。
妃と共に寝所に入って、あくる朝には出てこなかったと記録されている。
これは自殺か毒殺かであろうと言われている。
さらに聖徳太子の一族は息子の山背大兄王の時に一族25人が法隆寺の地で自害して、系譜は絶たれた。
自害は美談で、実は惨殺されたのだろうという説が根強い。
これらの記録から梅原猛氏は法隆寺の薬師三尊は聖徳太子とその家族、46体仏は、山背大兄王をはじめとする太子一族であろうと述べている。
そして法隆寺は太子の怨霊を封じ込めた墓である、と述べている。
こうしてみてくると、神社の祭神は「不幸な死」に見舞われた者、あるいは執念・怨念をもって死んでいった者ということが露になってくる。
大国主、大物主、事代主、神功皇后、応神天皇、崇人天皇、平将門・・・など。
こうしてみて行くと、古事記、日本書紀が隠匿した歴史の闇が見えてくるような気がする。
そして歴史の闇に隠された事実こそ、真実の日本古代史であろうと思われる。