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写真付きで日記や趣味を書く日々を過ごしながら・・・

故障続き・・・

2015年03月14日 | 趣味
携帯の故障で***の営業所に行ってきた。まだ仕事に慣れていない感じの若い男性で声も低くよく聞き取れなく「故障していますので少々お待ちください」と言って先輩の女性店員に聞きに行く。

何回もその行動を繰り返しどこかに電話していた。結局故障しているので5000円で新しい携帯とお取替えをしますがどうしますかということになった。

私は殆ど携帯は使わないので、故障した場所が頻繁に使うところではないので5000円もったいないと思い中止した。

故障は続くものである。まだ買ったばかりのロックミシン用の小型の掃除機が故障して動かなくなった。まだ保証期間なのですぐ店に持っていく・・・新しい物と取り替えてもらった。それがこれ ↓

           

先日縫った同じデザインでもう一枚色違いで作ってみた。

           
なぜこんなに斜めに写したかというとテーブルの上が片付いていなかったのが理由だ。

故障続きのものがもう一つそれはW7のPCの調子がイマイチ悪い。PCの寿命は何年ぐらいなのだろう。

騙しだまし使っているがいつプッツンになるかと落ち着かない。次はW8かなぁ~

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子供が見た戦争とは・・・

2015年03月11日 | 趣味
1945年3月10日東京大空襲から70年を迎える。1938年生まれの私は4月に小学1年生になる年だった。
子供の目を通した戦争とは・・・という意味で10年前にHPに書いた記事を見つけた。これを書く少し前からパソコンを初めてこの中に出てくる絵はパソコンで書いたものである。PC画の第一歩で絵を描くのが楽しくなった頃である。(10年前のものである

          

「戦後60年を迎えて」…戦時中・戦後あの頃の私は…  

 こんな言葉を聴いたことがありませんか…「欲しがりません勝つまでは」 私たちの合言葉だった。

小学校入学前の年まで戦時中は川崎の溝口に住んでいた。川崎には軍需工場があったため、敵機に狙われることが多く日夜空襲警報が鳴りひびき、防空壕と家を行き来する日々だった。防空壕に逃げる私たちは低く飛ぶ飛行機から機銃掃射を受けることが度々あった。

 ある日の夕方いつものように警報がなり、近くの防空壕に飛び込んだ瞬間、ものすごい爆音とともに防空壕が揺れた。いつもの焼夷弾とは違う爆音だった。この防空壕は家の近くにある小高い山の麓に穴を掘り30人ぐらいが入れるように作られていた。山の周りにはいくつかの同じような防空壕があった。

私たちが避難しているすぐ後ろの防空壕に爆弾が落ちたのだ。
「山が崩れるよ~…」と叫ぶ声。周りの壁土が落ちてくる。そんな中で本当に恐怖を感じると泣くことも涙も出てこないのだ。 ただ息を止めてじっと母の体にしがみついていたことを覚えている。

翌朝裏山に行くと防空壕はすり鉢のような大きな穴があいていた。そこに避難していた沢山の人たちが亡くなってしまった。その中には昨日まで一緒に遊んでいた翔子ちゃんも居たのだ。火山噴火の跡のような防空壕を見て、「次は自分たちだ…」 と思った母はすぐ山梨の父方の親戚を頼って疎開をすることにした。

 田舎に疎開したお陰で家族は生き延びることができた。しかし今までの住んでいた家とは大違いで鶏小屋のすぐ横にある物置のような所で、6畳一間に母と3人の子供、そして少しばかりの家具があった。鶏の泣き声とにおいに困惑したが、あの敵機来襲の音、焼夷弾から逃れる怖さを考えると鶏の泣き声や匂いなど比較の類ではない。
           

お風呂は家の外にドラム缶を置いて川の水を汲みこんで沸かすのである。川の水を貯めたり燃木を探すのは子供の仕事であった。キラキラ光る星空を眺めながらの入浴、今露天風呂に入るとあの頃のことを思い出す。ドラム缶のお風呂も週1回ぐらいで後は近所に「もらい湯」をした。 
                  

 終戦の年、私は尋常小学校に入学する。3年生ぐらいまで疎開っ子としての田舎での生活が続く。子供にとっての戦後の苦しみはやはり食べ物であろう。お弁当はサツマイモかトウモロコシの粉で作ったお焼きなどで、銀シャリのおにぎりなどは夢の夢である。釜のふたを開けると麦や刻んだ芋ばかり、お米も日用品もすべて配給制なので不足し、母は自分の着物とお米と物々交換をするのである。

しかしどんなに苦しい時でも子供は遊びの名人、大人は生きることに精一杯で子供の相手などしていられない。川で泳ぎ、土手を転がり、山中を駆け回る、お腹がすくと他所の桑畑に入り桑の実を食する。土手に生えているイタドリという草の茎を食べたこともある。手や口の中を紫に染めて遊びまわった。

今も麦飯は私は苦手である。あの当時、麦ばかりのご飯を食べ続けたから……あの時代を過ごしてきた私には腹八分目(健康にはいいというが)はどうも通用しない、食べ物がある時にはお腹一杯食べておくことが自然と身についてしまい、いまだに食べ過ぎる傾向にある。そして早食いでもある。

 ここまで書き終わった時点で、 ふと 私は二人の息子にこういう話をしたことがなかったことに気づいた。何かに記して残しておく事が必要だと思った。甲府の大空襲のこと、母から聞いた話、悲惨なことばかりだが実際にあったことなのである。

                 

甲府が大空襲にあった夜、私は疎開先の山の中腹から甲府方面の空が真っ赤に染まっているのを見た。その日甲府市内は全焼したのであった。翌日夜が明けると母は食料をあるだけ背負って、親、姉妹を探しに行ったのである。歩いていく途中道路には死人が横たわり、傷つき血を流しながらうづくまっている人、川には風船を膨らませたような死体が一杯浮かんでいたそうだ。燃えさかる熱さを逃れみんな川に飛び込んだのだ。


母の実家はもちろん跡形もなく焼け野原になっていた。どこをどう探せばよいのか途方にくれていた時、死体はトラックに積んで太田町公園に運んでいる事を耳にし、すぐ駆けつける。その光景は話では到底言い表せないと後に母は話してくれた。山のように積まれた死体を覗き込んで捜すなどという死体の数ではなかったという。

半分諦め掛けて実家の跡地に戻ると、泥の中から這い出してきたような姿の親、姉妹がいた。どこをどう逃げ回ったのか火に追われ市内から遠く離れた田舎の田んぼの中に逃げていたそうだ。

甲府の大空襲の光景を見てきた母は、その後ずーと後まで寝ているとき魘されるのである。音として書き表せないような振り絞った悲痛な声を出していた。心の傷跡の大きさを考えるとそれを乗り越えてきた私達より上の世代の人たちの力強さと忍耐力と頑張りに頭の下がる思いがする。

 世界のどこかで常に弱いものが犠牲になっている今日この頃、戦いはやめてほしいと願わずにはいられない。人間一人の命は権力者であれ孤児であれ同じ重みがあるということを忘れてはいけない。イラク問題・テロとの戦い 理由はいろいろあるだろうが、 一人々が自分の大切な家族にあの悲惨な思いをさせてはいけないと思えば、戦争など起こるはずがない。戦争は二度と繰り返してはいけない。

 書きたいことはいっぱいあるが……例えば防空壕での酸欠事件・ おにぎりが消えた・ ジープとチョコレート 次回にまた書こうと思っている。


           

この記事をやっと探して11日になってしまったが、戦争を知らない人たちの方が多くなり最近の世相の流れが心配になったので載せることにした。戦争は双方が傷つくだけどんな理由が有るにせよ武力による威嚇又は武力の行使をしてはならない。

『東京大空襲の写真が凄まじい件 』残酷非道な写真がありますので見る見ないは各自の判断で・・・・・
      https://www.youtube.com/watch?v=tXzyusfuFTo
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千葉県立柏の葉公園で放射線基準値超え(千葉日報ウェブより)

2015年03月08日 | 日記
原発事故四年目にして千葉でもこの状態である。

千葉県は6日、柏市の「県立柏の葉公園」で、国の基準値(毎時0・23マイクロシーベルト)を上回る空間放射線量が検出されたと発表した。県は安全確保のため、基準値を超えた園内6カ所周辺を立ち入り禁止とした。

 県公園緑地課によると、県は今月、園内の307カ所で空間放射線量を測定。基準値を超えたのは西洋庭園北側脇の植栽など6カ所で、地上50センチ地点では0・24~0・35マイクロシーベルトが検出された。

 県は今後、国のガイドラインに基づき除染作業を行う方針。chibanippo.co.jp



今日も霧雨の一日である。午前中は仕事場の整理整頓ロックミシンの分解、午後雨がやんだので飲料水を買いに行く。
車がなくなったので重いものは自転車でひと箱持ち帰るのがやっとである。自転車に乗れるうちはいいがもうボツボツ宅配に頼らなければならない。

お隣さんの馬酔木の花を福の神さんの真似をして写してみたが?・・・・

          

                              

          
                        葉の上の雨雫が輝いている。

日陰のアジサイの葉もこんなに開いてきた。

          



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トンチンカン会話

2015年03月05日 | 日記
            

リハビリ病院から帰宅したGは着替えながら突然私に「おーい!河津桜の写真を撮りに行ってこいよ」と言う。
何年か前二人で”河津桜まつり”に行ったことはあるが、3月のはじめで桜も終わる頃だろう。

「誰と行くの?」

「一人で行けばいいじゃあないか。今日午後予定があるのか」

「別に予定はないが直ぐというわけにもいかないわよ」・・・この時点で私はまだ伊豆の河津だと思っている。チョット嬉しい気分!

「遠出だし準備もいるし・・・」

「自転車で行けばそれほど時間はかからないだろう」 エッ!自転車で行く河津かいな! _l ̄l○lll ガクッ

「++病院の裏庭に2本の河津桜が咲いていたよ。カメラを持って行ってきたら・・・」

というわけでお互いの頭に浮かんでいる場所の食い違いである。せっかくなのですぐ自転車を飛ばす。

            

            

河津桜にしては色が薄いし花が小さいので本当かどうかわからないが桜であることは確かだ。ついでに周りの花や実も・・・・

            

            これは金柑かな?

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深夜の歌声・・・を聴きながら

2015年03月02日 | 日記
寝つきの悪い私はベットに入るとラジオを付ける。スイッチオンしたら優しい声でしんみりとうたいあげているこの歌が聴こえてきた。

歌手大橋花子さんが坂本九さんの娘であることも知らなかった。この歌は坂本九さんの作詞曲で九さんが父親のことを歌ったものだそうである。九さんがこの歌を歌った時の表情を見て子供の花子さんは涙がとまらなかったと話していた。

そこで坂本九さんの歌う「親父」を聴きたくて探したが見つからなかった。大島花子さんが父親を思い出しながら歌うこの歌声もいいものだ。

         親父/大島花子×笹子重治(坂本九作詞曲)
         

父親大好きの父親っ子だった私は昔を思い出して泣けてきた。家族思いの優しい父にはたくさんの思い出があり一コマ一コマ浮かんできて懐かしくて涙が止まらない・・・そんなゆうべだった。

お年寄りや子供たちから好かれて穏やかな温もりのある父だった。私は若い頃から男性を見るとき常に父と比べてしまうことが多かった。父の愛は誰にも越えられないだろう。

だから婚期が遅くなったのかもしれない?。。。。とは言っても私だって恋愛らしき経験も何度かあったし、この人となら結婚したいと思った人もいたが事情があってその人とは成し遂げられなかった。

昨夜はこの歌からいろいろ思い出してしまい寝付かれなかった。そんな歌でした。
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