読書の記録

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ぼくらの文章教室

2013年04月24日 | 言語・文学論・作家論・読書論

ぼくらの文章教室

高橋源一郎

 

駄文を書き垂らしているようなこんなブログに猛省を強いる内容である。

 

ここに登場する文章たちは、いわば「命と交換するような形で」書かれた文章ばかりだ。書き手の人と形、体と心。それがべたっと文章の姿になって表れている。ひとつひとつのことばやくだりに、書き手のすさまじいまでの魂の痕跡がある。

こんなのと比べると、美麗辞句を駆使したような技巧的ないわゆる「名文」は、貧しい張りぼてでしかない。

前半で紹介される文章の作り手は、そもそもが尋常でない。

自殺を決心し、遺書を書くために字を覚えだした64才のおばあさんの文章が出てくる。痴呆が進むことを自覚しながらその痴呆状態を文体に残していく晩年の小島信夫の作品が紹介される。そして行政に見捨てられ餓死していく母子の日記がとりあげられる。

 

これらはもはや「名文」とは呼べない。「超文」とでもいおうか。彼らの文章は、ほとんどトラウマに近い衝撃を読み手に与える。

なお、この「超文」の作り手の一人として、故スティーブ・ジョブスもとりあげられている。ジョブスも尋常ではない。

だが、尋常ではない人生が「超文」をつくるということだろうか。

尋常ではない人生を送った人間には、「超文」は無理なのだろうか。

 

本書は、そこから静かに、普通の人生の人の「超文」が紹介されていく。

普通の人生といっても、一見普通ではないように見える。世界を放浪してきた人とか、職人のところに弟子入りして働き出した13才の少年とか。

だが、誰しも多かれ少なかれ、また規模の大小はあっても何かしらエピソードは持っているはずである。

むしろ大事なことは、それをどう語るかにある。

ここで紹介される「超文」は、一見「特異」なことを、むしろ「普通」であるかのようにえがいている。

この「特異」なことを「普通」であるように書くというのは、韜晦趣味とか、あるいは自制してあえて「普通」に書くというのではない。そんな貧乏根性では「超文」にはならない。

「超文」を支えるのは、その自分に起こった出来事、めぐり合いに対し見つめる視線である。

平たくいえば、心の底から「普通」のことだと思う、ということである。

そして、その「普通」のことに感謝する。「普通」で有り続けることを努力しようと思う。

特異な社会背景、特異な事件、特異なめぐり合わせに対し「普通」を貫くこと。ここに「超文」の秘訣がある。

 

もちろん、文章だけ「超文」にするなんてことはできない。

「超文」が書けるということは、その人は「超人」の境地に達しているのである。

要するに、自分自身の人生観、ものの見方、自己意識なのである。

これは幸福論なんかでも同じで、今の自分の境遇をこれでよし、と思えないかぎり、人は絶対に幸せにはなれない、ということと同意である。

自分を特異でありたい、と思っているうちは、「超文」は書けない。特異なことを特異なこととしてえがいてやろうと思ううちはゼッタイに「超文」にならない。すなわち「超人」でないからである。

 

 

その「超人」の姿の例として、哲学者の鶴見俊輔をあげている。

プラグマティズムとして知られる鶴見俊輔は、徹底的に自分の経験、自分の知見、自分の人生から語る。

しかし決して自分がたりに堕しない。大きなこの世界の真理、人間の罪と誇りへと遡及していく。

その語り口はきわめて淡白である。大向こうなどねらわず、簡潔である。小手先のレトリックなどほどこさず、まったく「普通」なのである。

しかし、だからこそ、そこにはウソがまったくないように感じ取れる。そして、直接的なコトバの連なりだけで、あくまで等身大に語っているようで、気がつけば大きな真理に運ばれている。

校長先生のエピソードも、日米戦争の小文も、その個人的経験が小さな人間の真理となり、それが世界の巨大な理不尽に勝利していく大きな感動となって読み手にせまる。

これは自分自身が体験したことへの「自信」につきると思う。

それが他のヒトの経験していない特異かどうかとか、派手で壮大かどうかとは関係がない。そのことに自分自身が「自信」をもっていればよい。

語りが派手に虚飾に彩られながらくどくど語られるのは、そのことに自信がないからといってもいいくらいである。

理想論とか教条論でものを語ったり悟らせる人が多いが、これらは一種の枠にはめようという思考であり、必然的にこれは自分自身の体験は一段下の価値として設定される。己の人生体験、自分が選択してきたことに「自信」をもてば、おのずと虚飾など必要とせず、「普通」の態度になる。

 

それが「超人」である。そんな超人が書いた文章が「超文」である。

 

つまり、本書は「文章教室」をうたっているが、実は「人生教室」なのである。「超人」になるための書なのである。


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