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ことばというもの

2008-08-14 | 表現・ココロ・カラダ・コトバ
 思うところあって、演劇時代の最後に一度だけ参加した演劇系のワークショップにまた出ています。

 当時は3ヶ月週3回の長期で、精神的に追い込んでからだとことばを再構築するようなやりかたでかなりきつかったから、正直何故今また行くのか自分でもよくわからない部分がある。けれど得るものがあったから行きたいと思ったんだろうし。
 今は1週間だけの短期になってしまい、やりかたを変えたとはきいていたけれど、楽しいだけのところではないので初日だけ出てあと出てこない方や申し込んでお金も払っておいて来ない方も。おかげで2日目以降の外部からの参加は、私と、翻訳で劇団に関わっておられる大学の先生がお一人という超少人数。

 昨日も相手と出会うレッスンの続き。役も何もなく、ただ離れて向かい合って立ち、片方が相手を迎えに行って自分がもといたところへつれてきて、向き直って「おかえり」と言う。そのことばを「言われたと思ったら」、相手も「ただいま」と言う。ただそれだけ。
 演劇系の、と書いたのは、それまで受けてきた演劇のレッスンとは根本的に違い、役という設定なしにそこにいて、そのことばをきちんと言うことを求められるから。(追記:「きちんと言う」とはちゃんと相手を見ること・動機(自分)はいらない・ことばをとにかく言う・他者から始まる、他者を変えることが行為・リズムで言うetc・・・)
行為だけなら、ときになんとかできることも。けれど日常何気なく言っているはずのコトバが素直にor自然に言えなくて往生した。

 昨日のワークが終わって、皆お話しモードだったので‘夜お茶’をして終電で帰り、夏休みなので久々に夜更かしをして今朝は10時に起きた。しばらくして玄関で物音。近くのスーパーの朝市に行った母が帰ってきたらしいので迎えに出る。

 廊下を歩いている途中で、昨日のワークが頭をよぎって
半覚醒状態のまま、行為をする自分と、自意識ではなくそれを観察する自分がいた。

「おかえり」「ただいま」

母の「ただいま」が私の中にすとん、と落ちてきて
数え切れないほど繰り返された行為なのに、荷物を受け取ってキッチンへ向かう途中で涙がこみ上げた。

うまく書けないのがもどかしいのだけれど。
ああ、こういうことかなと思った。

追記:今日のワークで「ただいま」はよかったといってもらえたのは
   なんというか、この経験のせいもあるんじゃないかという気が。
   …違うのかなあ…?

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