
敗戦記念日(8/15)が近づくにつれて、日本では「あの戦争」(日中戦争・アジア太平洋戦争)に関する報道が多くなってくる。今年もそうだ。だが私の中で、年々、何か違和感のようなものが膨らみつつある。しかも加速度的に。
「あの戦争」の終結(1945年)から74年。戦争時代を記憶する人は、77-78歳以上だろう。そして、彼らの多くが持つ戦争の記憶は、被害の記憶、辛かった記憶だろう。当然のことだ。悲惨で、強烈な体験をされた方々も数多くいるのだから。
他方で、出征するなどして残虐行為等の「加害体験」を持つ生存者は、数少なくなっている。ご存命なら90代半ば以上のはずで、既に亡くなっているケースの方がだんぜん多いはずだ。しかも、そうした加害体験はこれまで、私的な場での自慢話や武勇伝として披露されることはあっても、公の場で話されたり、実名で文書として残されることは、極めて少なかった。
「あの戦争」に関して、敗戦直後から、被害面の方が加害面より圧倒的に多く報道された。しかも、年を経て、その差はかえって広がっているではないか。昨今の戦争体験に関する新聞の投書などでも、ほとんどが被害体験や辛かった記憶に関することだ。
報道する側では、〈「戦争加害」に関する報道をすると、クレームや反対意見が殺到しそうだから、面倒なことは避けたい〉との思惑も増大しているのではないか。問題は、現場の報道人というより、報道機関上層部にあるのかもしれないが。一部のマスコミは頑張っているのだが、残念ながら、現在のマスコミ報道を漫然と受け入れるだけでは「あの戦争」の実相は見えてこない。
私たちは、「あの戦争」の実相を捉えたいのか、そうではないのか? もし真剣に「捉えたい」と思うのなら、まずそうした問題意識を明確にし、その上で、 被害面も加害面も併せた全体像を追求する必要があるのではないか。
関心のある方は、以下も読んでいただきたい。
当ブログ「中国帰還者連絡会とは何か?」2019.7.26
その関連で、社会民主党の機関紙「社会新報」に署名記事を寄稿した。同紙編集部の許可を得たので、以下に転載する。併せて読んでいただけると、嬉しく思う。
*「週刊金曜日」2019.8.9号に寄稿した記事「撫順戦犯管理所の歴史的意味--日本人加害兵士らへの中国人の思いとは」も、関心のある方は読んでいただきたい。
【「社会新報」2019.7.26】 *無断転載禁止
ルポライター・星徹
撫順・大連にて --中国帰還者連絡会の人々を想う
歴史の事実を曲げてはいけない
私は今年6月下旬、中国遼寧省の大連理工大学外国語学院日本語科から招かれ、教員や大学院生・市民らとの6日間にわたり交流した。
訪中の主な目的は、中国帰還者連絡会(略称:中帰連=メモ参照)と撫順戦犯管理所について意見交換することだ。拙著『私たちが中国でしたこと─中国帰還者連絡会の人びと─ [増補改訂版]』(緑風出版・2006年)に関心を持っていただいたようだ。
今回、同学院の人たちと省内の撫順戦犯管理所旧址(きゅうし)を訪れた。私にとって、2000年9月に中帰連の20人と共に訪問して以来だ。
「彼ら」の熱い思い
管理所の長く暗い廊下を歩いてゆくと、19年前に「彼ら」が元職員の方々と泣き笑いの顔で握手した姿が脳裏をよぎる。鈴木良雄、渡部信一、綿貫好男、金澤正夫……。中帰連の人たちは若くても70代後半、多くは80歳を超えていた。現在、会員のほとんどは亡くなっている。
あの当時、管理所隣の共同住宅に故・呉浩然(ウー・ハオラン)指導員の自宅があった。中帰連の数人は、部屋に通されると遺影の前にひざまずき、「呉先生、お会いしたかったです!」と涙ながらに何度も呼びかけた。開本徳正がいち早く遺影を抱きしめ、お礼の言葉を繰り返した。遺影は隣の仲間に手渡され、彼もまたお礼を繰り返す……。
呉指導員は日本人入所者にいつも優しく、親身になって指導してくれた──。
そう中帰連の多くの人たちは語っていた。
日本人入所者は、1950年夏から56年夏まで、それ以前の皇国史観に基づく教育や日本軍隊内での非人間的な教育とは対照的に、本来の人間性を取り戻すための教育を受けた。また、人類的視点に基づく学習を自主的に進め、入所者同士で議論した。
そして、戦時中の罪行を被害者の立場に立って暴露し[坦白(たんぱい)]、自らの罪と真剣に向き合うこと[認罪]を目指した。
当時の職員によると、日本人入所者の多くは当初、自己中心的な言動に終始し、中国人を見下し、反省のかけらもなかったという。だが、徐々に変わっていった。
生涯認罪の覚悟
大連に戻り、私は大学内で講演した。本来であれば、中帰連の人たちが話をすべきだ。だが、それはもう難しい。彼らの思いを胸に、精いっぱい話をした。
三尾豊(元憲兵・撫順戦犯管理所・1998年没)は43年、「満州国」の天津で逮捕した中国人男性を拷問し、彼を含む4人をハルビン郊外の七三一部隊に送り込み、死に至らしめた。
撫順戦犯管理所で認罪はした。だが、帰国して〈以前の認罪は不十分だった〉と思うようになった。90年代、自らの罪行の証言を精力的に進めた。遺族に繰り返し謝罪し、大病を抱えながらも、裁判に協力し続けた。だが、力尽きた。
篠塚(旧姓:田村)良雄(七三一部隊元少年隊員・撫順・2014年没)は、「満州国」七三一部隊で中国人などへの生体実験・生体解剖に複数回かかわった。帰国後も過去の罪行を暴露し続け、遺族らの裁判に協力した。
「わしらは、人間としてやるべきでないことをやってしまった。闇から闇に葬るわけにはいかない。せめてもの償いです」
あの時のことを思い出すと、つらくて夜も眠れなくなる、とよく言っていた。
つらそうに目をつぶり、証言し続ける彼の姿を、決して忘れない。
湯浅謙(元軍医・太原戦犯管理所・2010年没)は、中国山西省で生体解剖をくり返した。管理所で遺族の手紙を読み、生涯認罪し続けることを決意。帰国後、貧しい人たちのために医師を続け、自らの体験を600回近く講演した。
「星さん、私はもうカネなんか要らないんだよ」
湯浅は、よくそんなことを言っていた。
彼だけではない。私の出会った中帰連の人たちは皆、人としてもっと大切なものを追い求めていた。
そんな話を交え、私は時間の限り話をした。だが、語り尽せなかった。
洗脳批判の的外れ
中帰連の人たちは、当然ながら、一様ではなかった。
帰国後、管理所での証言や反省の言動を覆した人もいる。それとは逆に、管理所では表面を取り繕い、罪行のほんの一部しか坦白しなかったが、帰国後に徐々に認罪意識を深め、強かんを含め全ての罪行を暴露し続けた人もいる。
目指した認罪レベルにも、実際の到達度にも、各人に違いがあったであろう。
歴史を改ざんし〝美しい日本〟を創作したい人たちは「中帰連の人たちは中国で洗脳されて帰ってきた」と誹謗(ひぼう)中傷を投げかけた。
だが、戦前・戦中の皇国日本の〝常識〟を疑うことなく戦後も生き続けた人たちと、そのうさんくささを見破り、生まれ変わろうと努力し続けた人たちの、どちらが洗脳されていただろうか。
中帰連の人たちが偉かったのではない。そのことは、彼ら自身が一番よく分かっていた。彼らは生涯、自らの罪を背負い続けたのだ。
「歴史の事実を曲げてはいけない」
彼らが私たちに伝えたかったのは、そうしたことではないか。
【メモ=中国帰還者連絡(中帰連)】
日本敗戦後の1950年7月、ソ連のシベリア地域などに抑留されていた元日本軍将兵・憲兵・「満州国」高官など約970人は、中国遼寧省の撫順戦犯管理所に移送された。
山西省の太原戦犯管理所でも、52年12月、同省内に残留した日本人のうち約140人を収容した。
周恩来総理は両管理所の幹部らに対し、入所者を人道的に扱うよう指示した。
起訴されたのは45人だけで、寛大な判決を受けた。元入所者らは帰国翌年の57年、中帰連を結成し、「反戦平和」「日中友好」を訴え、罪行を暴露し続けた。