当ブログでこれまで、中国帰還者連絡会に関する文章を3本発表した。以下。
当ブログ2019.7.26「中国帰還者連絡会とは何か?」
当ブログ2019.8.8「撫順・大連にて――中国帰還者連絡会の人々を想う」
当ブログ2019.8.18「中帰連から私たちが「受け継ぐ」べきもの」
「週刊金曜日」(2019年8月9・16日合併号)に、今年6月訪中に関する記事(2ページ)を寄稿した。編集部の許可を得て、以下に転載する。ただし、当ブログへの転載に際し、「*」部分を入れた。また、ルビは当該文字直後の( )内に入れた。
《以下、無断転載禁止》
【敗戦特集 記憶されない歴史は繰り返される】
撫順戦犯管理所の歴史的意味 日本人加害兵士らへの中国人の思いとは 星徹
【リード文】
中国人を虐殺するなど罪を犯した日本人が、再教育を受けた場所が中国にはある。筆者が再訪すると、かつて日本人の世話をしたという91歳の元看護師が迎えてくれた。
【本文】
今年6月下旬、中国遼寧省の撫順戦犯管理所旧址(きゅうし)を再訪した。
19年前にも、中国帰還者連絡会(中帰連、囲み[*下記]参照)の方々と共にここを訪れた。彼らはかつて世話になった中国人職員らの元に駆け寄り、目に涙を溜め、恩人の手を握りしめた。元職員らは彼らに優しく声をかけ、笑顔で応えた。
渡部信一(わたなべ・のぶいち)さん(当時83歳・故人)は、医師や趙ユィ英(ヂャオ=ユィイン/*ユィ=左側が「毎」に近く下が「母」、右側は「流」の右部分)さんら元看護師の手を握りしめ、目に涙を溜めて、深々と腰を折り曲げた。
「自分がいかに罪深いかわかりました。本当に感謝しています」
渡部さんは歯科医となって出征し、中国人への生体解剖に手を染めた。そして、シベリア抑留を経て、撫順戦犯管理所へと送られた。
職員らの恨みと矜持
今回の訪中で、筆者は元看護師の趙さんと撫順市内で再会した。91歳になるという。
趙さんは、1950年初夏に瀋陽の看護学校を卒業し、新設される撫順戦犯管理所へ行くよう中国政府機関から指示された。クラスメイトの2人と共に管理所を訪れると、ソ連から移送される日本人戦犯の看護を担当するよう要請された。
「最初は少し嫌だと思いましたが、使命感から興奮していたのを覚えています」
趙さんはそう当時をふり返る。幼少期から「満州国」支配下の瀋陽で暮らし、日本に恨みを持っていたという。
ソ連から移送された1000人近い日本人の中には、旧日本軍の軍服を着て、威張っている人も多くいた。部屋の中に「戦犯管理所」と書かれた貼り紙を見つけると、「俺たちは戦犯じゃない!」と騒ぎ立て、暴れ出す人が続出した。そんな日本人の言動に日々接し、趙さんら職員の不満は溜まっていった。
そのうち、職員の中で「私たちは何も悪いことをしていないのに、なぜ日本人戦犯に奉仕しなければいけないのか」などと不満が噴出するようになった。職員の多くは、日本の軍隊や警察・憲兵に身内や知人を殺されるなどして、大きな恨みを持っていたからだ。
「日本兵に家族7人が殺された看守もいました」
この看守は、日本人入所者の反抗的態度に接し、宿舎に戻って泣き伏したという。
炊事員の男性は、10歳の時に山東省の自宅が日本軍に襲われ、目の前で父は銃剣で突き殺され、姉は強かんされたうえ殺された。彼は入所者の中についに加害兵士を見つけ、その男に詰め寄った。だが、職員に止められた。(注1)
趙さんは言う。
「最初のうち、私にも反発する気持ちがありました。しかし、管理所内で教育を受け、私たちの思想は徐々に転換していきました」
少し遅れて、入所者は帝国主義などに関する学習を進め、自らの罪行(ざいこう)と真剣に向き合うようになった。彼らの認識は徐々に深まり、態度にも表れるようになった。
趙さんは、当時の渡部さんのことをよく覚えていた。
「渡部さんのことでは、私たち医務部はとても苦労しました」
彼は54年秋に重病となり、10ヵ月あまり病床にあった。その間、趙さんら医務員は献身的に治療を続けた。だが、妄想の症状も出て、暴れた時期もあったという。
その後、渡部さんは回復し、認罪(にんざい)を深めていった。
指導員らも後に迫害
趙さんは「日本の人たちをまともな人間に立ち直らせることができた」と胸を張る。だが、中国人の受けとめは一様ではない。
56年夏、入所者の大多数は起訴免除・釈放され、日本へ帰国した。ちょうどその頃から中国国内では反右派闘争が始まり、65年頃からは文化大革命の嵐が吹き荒れた。
戦犯管理所の元幹部・職員の中には、「日本人を甘やかしすぎた」などと罵倒され、失脚するなど苦難を味わった人も多くいる。
呉浩然(ウー=ハオラン)指導員(故人)は、父と叔父が「満州国」内で虐待を受けて獄死したにもかかわらず、日本人収容者に優しく接し、親身になって指導し続けた。だが、それがアダとなり、後に失脚し、投獄や下放(かほう/注2)の処分を受けるなど、苦難に満ちた後半生を送った(存命中に名誉回復)。
大連理工大学外国語学院日本語科の周桂香(ジョウ=グイシアン)副教授は、「中国国内では『日本人戦犯(容疑者)を優遇しすぎた』『もっと厳しく処分すべきだった』と主張する人も少なくない」と筆者に語った。周さんは、90年から撫順戦犯管理所や中帰連の人たちと関わってきた。
彼女は「戦犯管理所の歴史と中帰連の歴史の真実について、中国の人たちにもっと知ってもらいたい」と力を込めた。
(注1)中国帰還者連絡会編『私たちは中国でなにをしたか』(新風書房・1995年)に所収の新井正代投稿文を参照。
(注2)共産主義思想に問題があるとして、地方に住まわせ、失脚させるような制度。
【囲み記事】
中国帰還者連絡会とは何か?
日本敗戦後にソ連シベリア地域などに抑留された元日本軍将兵・憲兵・警察官・「満州国」関係者などが次々と帰国する中、1950年にまだ残留していた数少ない日本人のうち約970人が選ばれ、同年7月に貨物列車で中国へと移送された。米ソ対立が先鋭化する中、ソ連首脳から中国首脳への提案が実行に移されたという。
7月21日の早朝、「彼ら」は遼寧省の撫順戦犯管理所に収容された。このうち、約260人は陸軍第59師団の将兵、約200人は同第39師団の将兵であり、大きな割合を占めた。両師団長や旧「満州国」高官らも含まれていた。
彼らは、朝鮮戦争中の一時期を除いて56年夏まで、この管理所で教育を受けた。職員らは、周恩来総理の指示の下、彼らを人道的に扱うよう努めた。
入所者は、徐々に本来の人間性を取り戻し、学習を重ねる中で、自らの考えや行為の過ちに気づくようになった。そして、加害事実を暴露し[坦白(たんぱい)]、自らの罪と真剣に向き合うこと[認罪(にんざい)] を目指した。ただし、その到達度には、個人差が大きかったようだ。
54年3月から、検察官らも加わり、調査・尋問が行なわれた。
周総理は、1人の死刑も無期懲役も出さない、起訴は少数にすべき、との方針も示した。
山西省の太原戦犯管理所でも、同省内に残留した日本人戦犯容疑者約140人を52年12月に受け入れ、同じような政策を実行した。
56年6月から7月にかけて、瀋陽と太原で特別軍事法廷が開かれた。起訴されたのは45人だけで、しかも寛大な判決だった。他の千余名は起訴免除・即時釈放が言い渡され、日本への帰国が許された。
「彼ら」は帰国の翌年、中国帰還者連絡会を結成した。〈日本軍国主義に反対し、日中友好を実現する〉ことを誓い合い、日本の侵略戦争の実態を暴露し続けた。高齢のため2002年に解散。 (星徹)
通訳 大連理工大学外国語学院の周桂香副教授と大学院生ら。
写真撮影/筆者
■ほし とおる・ルポライター。著書に『私たちが中国でしたこと─中国帰還者連絡会の人びと─ [増補改訂版]』(緑風出版)など。
当ブログ2019.7.26「中国帰還者連絡会とは何か?」
当ブログ2019.8.8「撫順・大連にて――中国帰還者連絡会の人々を想う」
当ブログ2019.8.18「中帰連から私たちが「受け継ぐ」べきもの」
「週刊金曜日」(2019年8月9・16日合併号)に、今年6月訪中に関する記事(2ページ)を寄稿した。編集部の許可を得て、以下に転載する。ただし、当ブログへの転載に際し、「*」部分を入れた。また、ルビは当該文字直後の( )内に入れた。
《以下、無断転載禁止》
【敗戦特集 記憶されない歴史は繰り返される】
撫順戦犯管理所の歴史的意味 日本人加害兵士らへの中国人の思いとは 星徹
【リード文】
中国人を虐殺するなど罪を犯した日本人が、再教育を受けた場所が中国にはある。筆者が再訪すると、かつて日本人の世話をしたという91歳の元看護師が迎えてくれた。
【本文】
今年6月下旬、中国遼寧省の撫順戦犯管理所旧址(きゅうし)を再訪した。
19年前にも、中国帰還者連絡会(中帰連、囲み[*下記]参照)の方々と共にここを訪れた。彼らはかつて世話になった中国人職員らの元に駆け寄り、目に涙を溜め、恩人の手を握りしめた。元職員らは彼らに優しく声をかけ、笑顔で応えた。
渡部信一(わたなべ・のぶいち)さん(当時83歳・故人)は、医師や趙ユィ英(ヂャオ=ユィイン/*ユィ=左側が「毎」に近く下が「母」、右側は「流」の右部分)さんら元看護師の手を握りしめ、目に涙を溜めて、深々と腰を折り曲げた。
「自分がいかに罪深いかわかりました。本当に感謝しています」
渡部さんは歯科医となって出征し、中国人への生体解剖に手を染めた。そして、シベリア抑留を経て、撫順戦犯管理所へと送られた。
職員らの恨みと矜持
今回の訪中で、筆者は元看護師の趙さんと撫順市内で再会した。91歳になるという。
趙さんは、1950年初夏に瀋陽の看護学校を卒業し、新設される撫順戦犯管理所へ行くよう中国政府機関から指示された。クラスメイトの2人と共に管理所を訪れると、ソ連から移送される日本人戦犯の看護を担当するよう要請された。
「最初は少し嫌だと思いましたが、使命感から興奮していたのを覚えています」
趙さんはそう当時をふり返る。幼少期から「満州国」支配下の瀋陽で暮らし、日本に恨みを持っていたという。
ソ連から移送された1000人近い日本人の中には、旧日本軍の軍服を着て、威張っている人も多くいた。部屋の中に「戦犯管理所」と書かれた貼り紙を見つけると、「俺たちは戦犯じゃない!」と騒ぎ立て、暴れ出す人が続出した。そんな日本人の言動に日々接し、趙さんら職員の不満は溜まっていった。
そのうち、職員の中で「私たちは何も悪いことをしていないのに、なぜ日本人戦犯に奉仕しなければいけないのか」などと不満が噴出するようになった。職員の多くは、日本の軍隊や警察・憲兵に身内や知人を殺されるなどして、大きな恨みを持っていたからだ。
「日本兵に家族7人が殺された看守もいました」
この看守は、日本人入所者の反抗的態度に接し、宿舎に戻って泣き伏したという。
炊事員の男性は、10歳の時に山東省の自宅が日本軍に襲われ、目の前で父は銃剣で突き殺され、姉は強かんされたうえ殺された。彼は入所者の中についに加害兵士を見つけ、その男に詰め寄った。だが、職員に止められた。(注1)
趙さんは言う。
「最初のうち、私にも反発する気持ちがありました。しかし、管理所内で教育を受け、私たちの思想は徐々に転換していきました」
少し遅れて、入所者は帝国主義などに関する学習を進め、自らの罪行(ざいこう)と真剣に向き合うようになった。彼らの認識は徐々に深まり、態度にも表れるようになった。
趙さんは、当時の渡部さんのことをよく覚えていた。
「渡部さんのことでは、私たち医務部はとても苦労しました」
彼は54年秋に重病となり、10ヵ月あまり病床にあった。その間、趙さんら医務員は献身的に治療を続けた。だが、妄想の症状も出て、暴れた時期もあったという。
その後、渡部さんは回復し、認罪(にんざい)を深めていった。
指導員らも後に迫害
趙さんは「日本の人たちをまともな人間に立ち直らせることができた」と胸を張る。だが、中国人の受けとめは一様ではない。
56年夏、入所者の大多数は起訴免除・釈放され、日本へ帰国した。ちょうどその頃から中国国内では反右派闘争が始まり、65年頃からは文化大革命の嵐が吹き荒れた。
戦犯管理所の元幹部・職員の中には、「日本人を甘やかしすぎた」などと罵倒され、失脚するなど苦難を味わった人も多くいる。
呉浩然(ウー=ハオラン)指導員(故人)は、父と叔父が「満州国」内で虐待を受けて獄死したにもかかわらず、日本人収容者に優しく接し、親身になって指導し続けた。だが、それがアダとなり、後に失脚し、投獄や下放(かほう/注2)の処分を受けるなど、苦難に満ちた後半生を送った(存命中に名誉回復)。
大連理工大学外国語学院日本語科の周桂香(ジョウ=グイシアン)副教授は、「中国国内では『日本人戦犯(容疑者)を優遇しすぎた』『もっと厳しく処分すべきだった』と主張する人も少なくない」と筆者に語った。周さんは、90年から撫順戦犯管理所や中帰連の人たちと関わってきた。
彼女は「戦犯管理所の歴史と中帰連の歴史の真実について、中国の人たちにもっと知ってもらいたい」と力を込めた。
(注1)中国帰還者連絡会編『私たちは中国でなにをしたか』(新風書房・1995年)に所収の新井正代投稿文を参照。
(注2)共産主義思想に問題があるとして、地方に住まわせ、失脚させるような制度。
【囲み記事】
中国帰還者連絡会とは何か?
日本敗戦後にソ連シベリア地域などに抑留された元日本軍将兵・憲兵・警察官・「満州国」関係者などが次々と帰国する中、1950年にまだ残留していた数少ない日本人のうち約970人が選ばれ、同年7月に貨物列車で中国へと移送された。米ソ対立が先鋭化する中、ソ連首脳から中国首脳への提案が実行に移されたという。
7月21日の早朝、「彼ら」は遼寧省の撫順戦犯管理所に収容された。このうち、約260人は陸軍第59師団の将兵、約200人は同第39師団の将兵であり、大きな割合を占めた。両師団長や旧「満州国」高官らも含まれていた。
彼らは、朝鮮戦争中の一時期を除いて56年夏まで、この管理所で教育を受けた。職員らは、周恩来総理の指示の下、彼らを人道的に扱うよう努めた。
入所者は、徐々に本来の人間性を取り戻し、学習を重ねる中で、自らの考えや行為の過ちに気づくようになった。そして、加害事実を暴露し[坦白(たんぱい)]、自らの罪と真剣に向き合うこと[認罪(にんざい)] を目指した。ただし、その到達度には、個人差が大きかったようだ。
54年3月から、検察官らも加わり、調査・尋問が行なわれた。
周総理は、1人の死刑も無期懲役も出さない、起訴は少数にすべき、との方針も示した。
山西省の太原戦犯管理所でも、同省内に残留した日本人戦犯容疑者約140人を52年12月に受け入れ、同じような政策を実行した。
56年6月から7月にかけて、瀋陽と太原で特別軍事法廷が開かれた。起訴されたのは45人だけで、しかも寛大な判決だった。他の千余名は起訴免除・即時釈放が言い渡され、日本への帰国が許された。
「彼ら」は帰国の翌年、中国帰還者連絡会を結成した。〈日本軍国主義に反対し、日中友好を実現する〉ことを誓い合い、日本の侵略戦争の実態を暴露し続けた。高齢のため2002年に解散。 (星徹)
通訳 大連理工大学外国語学院の周桂香副教授と大学院生ら。
写真撮影/筆者
■ほし とおる・ルポライター。著書に『私たちが中国でしたこと─中国帰還者連絡会の人びと─ [増補改訂版]』(緑風出版)など。