■放射能 マリーが愛した光線@フランケンシュタインの誘惑 E+ 選 #9
このタイトルで「キュリー夫人」のことだとつながらなかった
「キュリー夫人」と言えば“科学者の夫を支えた賢い妻”として
これまで何冊も児童書にも書かれてきたけれども
放射能について書かれた本があっただろうか 記憶がない
この番組に出てくるイラストレーションの画風は
『ムジカ・ピッコリーノ』の高橋昂也さんと似ていた
【内容抜粋メモ】
●プロローグ
「この番組には人間や動物を使った実験や
科学的事件の被害者の映像が含まれています」
科学は人間に夢を見せる一方で、時に残酷な結果を突きつける
理想の人間を作ろうとした青年フランケンシュタインが怪物を生み出してしまったように
今から200年前 一冊の小説が世に出ました 主人公は科学を志す若き男
彼は死体をつなぎ合わせて命を吹き込みました
生み出されたのは醜悪な怪物
主人公は 恐ろしい復讐を受けることになります
その小説の名は「フランケンシュタイン」
大量殺戮兵器「原子爆弾」
ガンから命を救う「放射線治療」
巨大なエネルギーを生み出す「原子力発電」
これらはすべて「放射能」の発見から始まった
見つけたのは世界で最も有名な女性科学者マリー・キュリー
研究の先駆者として 女性初のノーベル賞を受賞
しかしその偉業の陰で 悲惨な死を遂げた多くの被害者たちがいた
マリーは放射能の危険性を認識しながら 続出する被害にあえて背を向けた
自らの研究成果「放射能」を我が子のように愛し続けたマリー
●第1章 世界で最も有名な女性科学者
1867年 マリーはポーランドのワルシャワに生まれた
幼い頃から科学への関心と才能を発揮し、24歳でパリのソルボンヌ大学に入学
1891年 女性の進学が珍しかった当時、研究者としての道を歩み始める
1895年 物理学者ピエール・キュリーと結婚
ピエールが勤めていた 専門学校の物置小屋を実験室代わりにして 研究テーマを探していた
「不思議な光線」
マリーが目を付けたのは、当時発見されたばかりの不思議な光線だった
1895年 物理学者ヴィルヘルム・レントゲンがX線を発見
目に見えないこの光線は 人体の内部まで見ることができる
レントゲンは、これを「新種の光線」と題した論文で発表
不思議な光線に世界が熱狂した
1896年 アンリ・ベクレルは、X線に似た性質の別の光線が
ウランから放出されているのを発見した
目に見えない光線の研究にエジソンら、世界中の科学者が取り組み始めた
まだ20代だったマリーもこの光線の研究に没頭していく
研究者としての地位を確立しようと邁進するマリーに
様々な助言を与え、実験や計測をともに行ったピエール
「光線のエネルギーはどこから得られているのか?」
マリーはエネルギーが生まれる原因を突き止めようと
ウランに熱を加えたり、湿り気を与えたりするなど
あらゆる条件のもとで光線の強さを計測した
この光線の強さをの計測にはピエールの知識と技術が不可欠だった
当時最先端の測定器が使われた
徹底した実験と緻密な計測
どんな条件でも光線の強さは変わらなかった
そこからマリーが導き出した結論は科学界に衝撃を与えた
1898年 マリーは論文を発表
それは、全ての物質を構成する「原子」の概念を根底から覆してしまった
原子は古代ギリシャ以来、物質の最小単位であり
決して変化しないと考えられていた
しかしマリーは断言した
マリー:
光線の源になるエネルギーが他には存在しない
これはウランそのもの
つまり、原子そのものが変化して、この光線を発していることを意味する
マリーの説は常識を完全に否定してしまったのである
「マリー研究の拠点 キュリー博物館@パリ」
ロナウド・ウィン館長:
マリーの発見は原子とは何かに迫りました
全ての物質は原子で構成されています
原子そのものが変化するとすれば
物質も、この世界そのものも不変ではあり得ないということになります
これは全く新しい考えでした
(「諸行無常」なら、もっと前からあっただろうに
白人じゃない、“科学的ではない”から問題視されなかったか
不思議な光線の研究は、原子の新しい概念を導き出した
マリーはこの光線の自然に発生する性質を
「放射能(radioactivite ラジオアクティビテ 光線を自然発生する性質)」と名付けた
「未知の放射性元素」
さらに、ある鉱石の中から はるかに強い放射線が出ていることを発見
当時、存在が明らかになっていた80以上の元素全てについて
放射線の強さを計ったマリーは
それらとは違う未知の放射性元素が存在するはずだと考えた
鉱石を一つずつ細かく砕き、蒸留して成分を分離
4年の歳月をかけて調べた鉱石は実に8トン
その中にわずか0.1g だけ含まれていた
未知の放射性元素を取り出すことに成功した
その元素は「ウラン」と同じく、見えない放射線を発し
放射能の強さはその100万倍にも達した
マリーはこの鉱石を「ラジウム(radium)」と命名した
放射能、ラジウム どちらも「光」を意味するラテン語に由来する
1903年 放射能の研究が評価され、マリーとピエールは2人でノーベル賞を受賞した
マリーは世界初の女性ノーベル賞受賞者として歴史に名を刻んだ
■第2章 マリーと夫 放射能への愛
マリーとピエールは、自分たちが発見した放射性元素ラジウムの性質について
様々な実験を試みている
例えばピエールは、ラジウムを自分の腕に貼り、経過観察
ピエールの腕は火傷のように赤くただれた
これはラジウムから発せられる「放射線」によって
細胞がダメージを受けた状態による「放射線障害」
この結果に対する2人の反応は意外なものだった
知人に当てたピエールの手紙:火傷ができて嬉しい 妻も私と同様に喜んでいる
「医療への可能性」
細胞を破壊してしまうラジウムの放射線は、病気の治療に利用できると考えたのだ
ラジウムを使えば がん細胞を殺すことができるかもしれない
マイナスをプラスに変える 逆転の発想だった
2人は生体への影響をさらに調べるため
マウスをラジウムと一緒に容器に入れて観察した
全てのマウスが9時間以内に死んだ
マウスの肺からは、非常に強い放射線が検出され
白血球の多くは破壊されていた
それでも2人は ラジウムは何かの役に立つはずだと研究を続けた
ロナウド館長:
科学者のこのような態度には、ある種の感動を覚えます
科学的な好奇心に駆られ、人類に役立つ結果を導き出すには
自分の体を使ってでも実験しています
ラジウムが病気の治療に使えるかもしれないという
光の面だけしか目に入らなかったのです
科学は人類の幸福に貢献する為にあると2人は信じていました
(科学や医療の名のもとにネズミを大量に殺し続けても?
マリー:
人生には恐れなければならないものは何もありません
理解しなければならないものがあるだけです
マリーが残した実験ノート、日記を丹念に取材し
伝記を執筆した作家・ジャーナリスト バーバラ・ゴールドスミスさん
バーバラ:
科学は、彼女にとってキリスト教で言う聖杯のような
この上なく神聖なものだったのです
マリーは科学に執着し、愛し、常に科学に身を捧げていたのです
「ラジウムに産業界が注目」
ピエールがマリーに提案したことがある
ピエール:
我が家の生活は苦しい その上娘が生まれた
ラジウムの発見者として特許を取るという考えもある
マリー:
できないわ そんなこと 科学の精神に反するもの
そこから利益を引き出すなんて 私にはとんでもないわ
2人は特許を取らず、ラジウムを取り出す技術を全面的に公開した
自分たちのラジウムに関する情報を公開し、研究が進むように
他の研究室にサンプルを提供した
放射能の研究を人類の幸福のため、社会のために
もっと発展させるのだという信念があった
2人は放射能とラジウムの研究にますますのめり込んだ
「ラジウムの青白い光」
ラジウムは、暗闇で青白く光る性質がある
マリー・キュリー著『自伝的ノート』より
「暗闇を打ち消そうとするかのようなその光は、いつも私たちをうっとりさせました」
夫ピエールは、ノーベル賞受賞記念講演でこう言いました
ピエール:ラジウムは使い方次第で人類にとって大きな害になる可能性もある
マリーも その危険性を理解していました
■第3章 愛が壊れるとき
1906年 ノーベル賞受賞から3年
マリーは一度の流産を経て、2人目の娘を出産 長女イレーヌ 次女エーヴ
子どもの世話に追われていた
4月19日
夫はマリーに「もう少し実験室に顔を出すよう」に言った
しかしマリーは「行けるかどうか分からない 無理を言って困らせないでほしい」と言う
放射能の研究を続ける中で 数年前から体調不良に悩まされ
足取りがおぼつかなくなっていたピエールは一人 仕事に向かった
2頭立ての馬車がすぐそばを通りかかる
重い荷物を積んでいた馬車の車輪はピエールの頭蓋骨を砕いた
即死だった 享年46歳
ピエールの遺体と対面し 茫然自失するマリーの様子を 次女エーヴはこう記している
「マリーは身じろぎもしなかった まるで人形のようになってしまった」
愛する夫 何より科学に身を捧げる同志の喪失だった
マリーはピエールが死んだ時に身につけていた服をずっと取っておいた
そこにはピエールの脳の欠片がこびりついていた
その腐った残骸を瞬きもせずに見つめ、触り、我を忘れてキスをした
天才としての独創的な発想を生み出していた脳
「再び研究漬けの日々」
ピエールとともに進めていた放射能の研究を一人黙々と続けた
マリーの日記より
「あなたの誇りとなることだけが私の生きる支えです」
マリーの娘達は ピエールが死んだその日から
母の人格がガラッと変わったのを目の当たりにした
マリーは研究に身を捧げ、放射能だけに執着した
(もっとも愛する者の喪失で、心を病んでいたのでは?
マリーは、朝から夜中の2時、3時まで実験室にこもった
学会に出席するために何日か家を空けることもあった
母との時間を失った娘たち
長女はマリーにこんな手紙を送っている
「私の優しいお母さん いつ私たちたちのもとに戻ってくるのですか?
お母さんが戻ってくればとても幸せです 私はとても抱きつきたいからです」
しかしマリーが見ていたのは科学だけだった
この頃マリーは子ども達について日記にこう綴っている
「どちらも優しく、可愛く、いい子です
ですが娘たちでは私の生命力を呼び覚ますことはできないのです」
■第4章 ラジウム狂想曲
特許を取らなかったことが後押しし、その利用が広がって行くラジウム
がん治療に役立つというキュリー夫妻の発表をきっかけに
1910年代には多くの病院でラジウム治療が実践されるようになった
ラジウムは「生命の万能薬」「魔法の力」ともてはやされ
様々な商品にラジウムが配合された
(なんてこった! だから最新科学、最新医療をなんて信じられないんだ
金と結びつくとろくなことにならない
美しい肌をつくると言われたラジウム入りの化粧品(ヤバイ・・・
強壮剤になるというふれこみの「ラジウムウォーター」を作るポット
ラジウムパン、入浴剤など ラジウム商品が続々と登場した
そうした商品の中から恐ろしい事件が発生する
「ラジウム時計」
文字盤をラジウム入りの塗料で塗り、暗闇でも見えるようにしたものだった
(そういう目覚まし時計、昔使ってたな さすがにラジウムじゃないだろうけど
特にアメリカで大量に生産された
当時のラジウム時計の工場
「ラジウムガール」
1920年には400万個のラジウム時計を生産
文字盤を塗る工員だけで 2000人以上が働いた その多くが若い女性だった
彼女たちは 細かい塗装を施すため ラジウムが付いた筆を舐めて尖らせた
一人一日何百という文字盤を塗った
その女性たちが 次々と病に倒れた
顎にできた腫瘍
がん細胞の腐敗が起こり、激しい痛みの中で死んでいった
彼女たちは後に「ラジウムガール」と呼ばれた
被害関係者:
被害者のほとんどは高校生でした
顎に大きな腫瘍ができたり
骨の癌を発症したりして死んでいったのです
公衆衛生学の専門家で、ラジウムガール被害について研究したロス・ミュルナー教授:
ラジウムは、体に取り込むと、骨に沈着し、長期間にわたり放射線を出し続けます
そして顎が崩壊し、壊死します
さらに崩壊が進むと、下顎が完全に取れてしまいました
ニュージャージー州 ラジウム時計の工場跡地
かつては高い放射線が検出され
除染作業には 10年の歳月を要した
当時の状況を知る人物を訪ねた
母親が時計の塗装をしていたロナルド・ウィリアムスさん
彼の母はイリノイ州にあった工場で3年間働いた
筆先を舐めずに仕事をしていたため幸いにも被害を免れた
ロナルド:
女性たちはみんな健康的で、若々しく
おしゃれをしたり高収入を得たいと思っていました
より多くの文字盤を塗って、少しでも稼ごうとして筆の先を舐めたのです
会社側は何度も繰り返し「ラジウムは危険じゃない」と言っていたそうです
母達は騙されていたのです
1925年 ラジウムガールの被害が初めて小さな記事で報じられた
24歳の工員マーガレット・カーロウが会社を相手取り 訴訟を起こした
これをきっかけに病気の原因の調査が本格的に始まった
亡くなった被害者を解剖したところ、肺などの器官や骨から
高い放射線が検出された
ラジウム被害に関する調査をまとめた報告書:
女性たちを死に至らしめた謎の病気の原因は、微小な放射性物質である
ラジウム時計に使われていたラジウムが非常に少量であったため
当時の科学者たちはそれが人間を死に至らしめるなどと考えもしませんでした
しかし調査の結果、ほとんどの科学者がラジウムが原因だと認めました
さらに報告書の発表後にも女性たちが次々と亡くなっていき
ラジウムの危険性は一層明白になりました
(これはマリーの研究のせいもあるけど
それに乗じていろんな商品を作った企業の責任も重大
ピエールは害になる可能性も指摘していたわけだし
「ラジウム産業」に恩恵を与え、人類に貢献したと考えていたマリーは
ラジウムガールの被害についてアメリカの新聞が行ったインタビューにこう答えている
マリー:
体内に入ってしまったラジウムを除去する方法はありません
最適な方法は、仕事を辞め、雇われていた工場から限りなく離れた場所に住むことです
「放射線障害」
その頃、マリーはパリのラジウム研究所の初代所長として
放射能の研究に邁進していた
しかし、マリー自身、いくつもの体調不良に襲われていた
貧血、慢性的な疲労感、指先はただれ、ひび割れていた
研究所では ラジウムによる指先の火傷は、科学の戦場で勝ち取った勲章だった
(マッドドクター?! 天才となんとかは紙一重とか
マリーと一緒に研究をした学生や研究者たちは
放射線の火傷の跡のある手を見せて自慢していました
それは、貴重な物質を取り扱っている誇り
最先端の科学者である証明だったのです
体調を崩した職員には短い休暇を与え、山の新鮮な空気を吸ってくるよう勧めた
(治療法が見つかる前の結核患者と同じアドバイス
かつての同僚にも被害者が出た モーリス・ドムニトロー
20年間ラジウムを使い続け、突然激しい疲労感と手足の痛みに襲われて入院
ひと月も待たずに悪性貧血で死亡した
死の間際「放射性のガスに殺された」と漏らしたと言う
彼の死因について報告書を作らせたマリーは、そこにこう書いた
「彼は新鮮な空気を十分にとることができなかった」
放射能の危険性を認識していたにも関わらず
マリーはなぜ そこに科学者の目を向けることができなかったのか
マリーは知人にこう語った
「放射能も私が産んだ子どもなの
その子の教育のために、自分の力の全て
自分の研究生活の全てを捧げようと思っているわ」
バーバラ:
マリーは自分の発見したラジウムを溺愛していたのです
それ以外のことはすべて二の次でした
ラジウム、放射能はマリーにとって我が子同然
ピエールという同志を失ってからも心を満たしてくれるものでした
危険性があるからといって失うわけにはいかなかったのです
マリーはラジウムと放射能にひたすら執着したのです
「2度目のノーベル化学賞を受賞」
研究を続けたマリーは1911年 再びノーベル化学賞を受賞
この賞を2度受賞した科学者は 2018年までに4人しかいません
(ノーベル賞って、必ずしも平和や幸福に基づく観点から選ばれるものじゃないんだな
新しいモノを見つけた人に「イイねv」みたいな感覚
やがて世間や他の科学者たちが 放射能の危険性に気づき始めました(遅いよ
ラジウムガール達が働いていた会社では
男性社員たちには その危険性を警告していました(ここにまで性差別!?
女性達とは対照的に 男性たちは 鉛のエプロンで 身を守っていました
また 同時代のドイツの物理学者 リーゼ・マイトナーは
直接手で触れないように放射線対策をとっていたといいます
しかしマリーは 最後まで放射線の死の側面から目を逸らし続けたのです
■第5章 マリーが切り開いた核の時代
年を重ねるごとにマリーの体は蝕まれていった
肝臓と腎臓の障害、極度の貧血、絶え間ない耳鳴り
視力も衰え、両目とも白内障の恐れがあった
日に日に弱っていく中で、親しい友人にだけ漏らした告白がある
マリー:
私の白内障の本当の原因は ラジウムかもしれないの
ふらついて 歩くのに苦労するのも ラジウムのせいかもしれない
1934年7月4日 マリー 死去 享年66歳
死因は「放射線被曝」による再生不良貧血
母の愛を渇望していた長女はマリーの背中を追って科学の道に進んでいた
科学者の夫と共に、母が切り開いた放射能の研究を進め
1935年 夫妻でノーベル化学賞を受賞
しかし、イレーヌ夫妻もまた「放射線障害」で亡くなった
マリーの発見は、世界中の科学者を「原子」そのものの研究へと向かわせた
それはその後の世界のありようを変えてしまう「禁断の扉」でもあった
「原子爆弾」
原子は「原子核」を持ち、その原子核が分裂する際、大きなエネルギーを発する これが原子力
1945年8月6日
人類は 原子力を大量破壊兵器として利用する原子爆弾を完成させ 初めて実戦で使用
広島に投下された原子爆弾は、爆心地から2kmの建物ほとんど全てを吹き飛ばし
一瞬にして人々の命を奪った
原爆投下後の広島
さらに、大量に放出された「放射線」の影響が生き延びた人々にも後々までつきまとう
その後も核兵器の開発・拡散は続いた
バーバラ:
マリーは、自分が愛した発見は、必ず世界を良い方向に導くと信じていました
まさか悪い方向に行くなんて そんな可能性を考えていたでしょうか
それはキノコ雲となってしまいました
彼女が知ったら後悔したでしょう 自分がその扉を開いてしまったことを
(もっと罪深いのは、放射能、原子爆弾が 一瞬にして大勢を殺すと知っていながら
今なお大量に持ち続けている 世界中の国々だ
「原子力発電」
核分裂のエネルギーを利用した「原子力発電」が
1950年代以降 各国で実用化され、各国で実用化される
放射性物質を燃料に 巨大な電力を生み出すが
ひとたび制御不能になれば大惨事を引き起こす
※東京電力ホームページより引用
1986年 チェルノブイリ
2011年 福島
バーバラ:
起きたことを元に戻すのは難しいのです
我々は今後、何世代にもわたって
この恐ろしい力と付き合っていかなければなりません
人類は放射能の恐怖と切り離せない「核の時代」へと突き進んでいったのだ
科学上の偉大な発見は、時に世界をこれまでとはまったく違うものに変えてしまいます
「パリの国立図書館」
ここにマリーの研究ノートが保管されているが
マイクロフィルムの閲覧でしか許されていない
今なお放射性物質の影響が残っているのだという
ラジウム被害が続出している渦中にあった 晩年のマリー
慣れ親しんだラジウムの光を じっと見つめ こう呟いたと言う
マリー:なんて美しいんでしょう
<次週の番宣>
*
ラジウムもウランも 自然の物質
自然はすべからく美しく、我々を魅了するが
使い方によっては 地球そのものも
滅ぼしてしまう力があることを忘れてはならない
【ブログ内関連記事】
・『学習漫画 世界の伝記4 エジソン』(集英社)
・『学習漫画 世界の伝記17 ノーベル』(集英社)
・『学習漫画 世界の伝記27 アインシュタイン』(集英社)
・毎年恒例上映 『31年目のチェルノブイリ』@ポレポレ東中野(2017.4.27)
・NHKアーカイブス「チェルノブイリが語ること~原発事故30年の教訓~」
このタイトルで「キュリー夫人」のことだとつながらなかった
「キュリー夫人」と言えば“科学者の夫を支えた賢い妻”として
これまで何冊も児童書にも書かれてきたけれども
放射能について書かれた本があっただろうか 記憶がない
この番組に出てくるイラストレーションの画風は
『ムジカ・ピッコリーノ』の高橋昂也さんと似ていた
【内容抜粋メモ】
●プロローグ
「この番組には人間や動物を使った実験や
科学的事件の被害者の映像が含まれています」
科学は人間に夢を見せる一方で、時に残酷な結果を突きつける
理想の人間を作ろうとした青年フランケンシュタインが怪物を生み出してしまったように
今から200年前 一冊の小説が世に出ました 主人公は科学を志す若き男
彼は死体をつなぎ合わせて命を吹き込みました
生み出されたのは醜悪な怪物
主人公は 恐ろしい復讐を受けることになります
その小説の名は「フランケンシュタイン」
大量殺戮兵器「原子爆弾」
ガンから命を救う「放射線治療」
巨大なエネルギーを生み出す「原子力発電」
これらはすべて「放射能」の発見から始まった
見つけたのは世界で最も有名な女性科学者マリー・キュリー
研究の先駆者として 女性初のノーベル賞を受賞
しかしその偉業の陰で 悲惨な死を遂げた多くの被害者たちがいた
マリーは放射能の危険性を認識しながら 続出する被害にあえて背を向けた
自らの研究成果「放射能」を我が子のように愛し続けたマリー
●第1章 世界で最も有名な女性科学者
1867年 マリーはポーランドのワルシャワに生まれた
幼い頃から科学への関心と才能を発揮し、24歳でパリのソルボンヌ大学に入学
1891年 女性の進学が珍しかった当時、研究者としての道を歩み始める
1895年 物理学者ピエール・キュリーと結婚
ピエールが勤めていた 専門学校の物置小屋を実験室代わりにして 研究テーマを探していた
「不思議な光線」
マリーが目を付けたのは、当時発見されたばかりの不思議な光線だった
1895年 物理学者ヴィルヘルム・レントゲンがX線を発見
目に見えないこの光線は 人体の内部まで見ることができる
レントゲンは、これを「新種の光線」と題した論文で発表
不思議な光線に世界が熱狂した
1896年 アンリ・ベクレルは、X線に似た性質の別の光線が
ウランから放出されているのを発見した
目に見えない光線の研究にエジソンら、世界中の科学者が取り組み始めた
まだ20代だったマリーもこの光線の研究に没頭していく
研究者としての地位を確立しようと邁進するマリーに
様々な助言を与え、実験や計測をともに行ったピエール
「光線のエネルギーはどこから得られているのか?」
マリーはエネルギーが生まれる原因を突き止めようと
ウランに熱を加えたり、湿り気を与えたりするなど
あらゆる条件のもとで光線の強さを計測した
この光線の強さをの計測にはピエールの知識と技術が不可欠だった
当時最先端の測定器が使われた
徹底した実験と緻密な計測
どんな条件でも光線の強さは変わらなかった
そこからマリーが導き出した結論は科学界に衝撃を与えた
1898年 マリーは論文を発表
それは、全ての物質を構成する「原子」の概念を根底から覆してしまった
原子は古代ギリシャ以来、物質の最小単位であり
決して変化しないと考えられていた
しかしマリーは断言した
マリー:
光線の源になるエネルギーが他には存在しない
これはウランそのもの
つまり、原子そのものが変化して、この光線を発していることを意味する
マリーの説は常識を完全に否定してしまったのである
「マリー研究の拠点 キュリー博物館@パリ」
ロナウド・ウィン館長:
マリーの発見は原子とは何かに迫りました
全ての物質は原子で構成されています
原子そのものが変化するとすれば
物質も、この世界そのものも不変ではあり得ないということになります
これは全く新しい考えでした
(「諸行無常」なら、もっと前からあっただろうに
白人じゃない、“科学的ではない”から問題視されなかったか
不思議な光線の研究は、原子の新しい概念を導き出した
マリーはこの光線の自然に発生する性質を
「放射能(radioactivite ラジオアクティビテ 光線を自然発生する性質)」と名付けた
「未知の放射性元素」
さらに、ある鉱石の中から はるかに強い放射線が出ていることを発見
当時、存在が明らかになっていた80以上の元素全てについて
放射線の強さを計ったマリーは
それらとは違う未知の放射性元素が存在するはずだと考えた
鉱石を一つずつ細かく砕き、蒸留して成分を分離
4年の歳月をかけて調べた鉱石は実に8トン
その中にわずか0.1g だけ含まれていた
未知の放射性元素を取り出すことに成功した
その元素は「ウラン」と同じく、見えない放射線を発し
放射能の強さはその100万倍にも達した
マリーはこの鉱石を「ラジウム(radium)」と命名した
放射能、ラジウム どちらも「光」を意味するラテン語に由来する
1903年 放射能の研究が評価され、マリーとピエールは2人でノーベル賞を受賞した
マリーは世界初の女性ノーベル賞受賞者として歴史に名を刻んだ
■第2章 マリーと夫 放射能への愛
マリーとピエールは、自分たちが発見した放射性元素ラジウムの性質について
様々な実験を試みている
例えばピエールは、ラジウムを自分の腕に貼り、経過観察
ピエールの腕は火傷のように赤くただれた
これはラジウムから発せられる「放射線」によって
細胞がダメージを受けた状態による「放射線障害」
この結果に対する2人の反応は意外なものだった
知人に当てたピエールの手紙:火傷ができて嬉しい 妻も私と同様に喜んでいる
「医療への可能性」
細胞を破壊してしまうラジウムの放射線は、病気の治療に利用できると考えたのだ
ラジウムを使えば がん細胞を殺すことができるかもしれない
マイナスをプラスに変える 逆転の発想だった
2人は生体への影響をさらに調べるため
マウスをラジウムと一緒に容器に入れて観察した
全てのマウスが9時間以内に死んだ
マウスの肺からは、非常に強い放射線が検出され
白血球の多くは破壊されていた
それでも2人は ラジウムは何かの役に立つはずだと研究を続けた
ロナウド館長:
科学者のこのような態度には、ある種の感動を覚えます
科学的な好奇心に駆られ、人類に役立つ結果を導き出すには
自分の体を使ってでも実験しています
ラジウムが病気の治療に使えるかもしれないという
光の面だけしか目に入らなかったのです
科学は人類の幸福に貢献する為にあると2人は信じていました
(科学や医療の名のもとにネズミを大量に殺し続けても?
マリー:
人生には恐れなければならないものは何もありません
理解しなければならないものがあるだけです
マリーが残した実験ノート、日記を丹念に取材し
伝記を執筆した作家・ジャーナリスト バーバラ・ゴールドスミスさん
バーバラ:
科学は、彼女にとってキリスト教で言う聖杯のような
この上なく神聖なものだったのです
マリーは科学に執着し、愛し、常に科学に身を捧げていたのです
「ラジウムに産業界が注目」
ピエールがマリーに提案したことがある
ピエール:
我が家の生活は苦しい その上娘が生まれた
ラジウムの発見者として特許を取るという考えもある
マリー:
できないわ そんなこと 科学の精神に反するもの
そこから利益を引き出すなんて 私にはとんでもないわ
2人は特許を取らず、ラジウムを取り出す技術を全面的に公開した
自分たちのラジウムに関する情報を公開し、研究が進むように
他の研究室にサンプルを提供した
放射能の研究を人類の幸福のため、社会のために
もっと発展させるのだという信念があった
2人は放射能とラジウムの研究にますますのめり込んだ
「ラジウムの青白い光」
ラジウムは、暗闇で青白く光る性質がある
マリー・キュリー著『自伝的ノート』より
「暗闇を打ち消そうとするかのようなその光は、いつも私たちをうっとりさせました」
夫ピエールは、ノーベル賞受賞記念講演でこう言いました
ピエール:ラジウムは使い方次第で人類にとって大きな害になる可能性もある
マリーも その危険性を理解していました
■第3章 愛が壊れるとき
1906年 ノーベル賞受賞から3年
マリーは一度の流産を経て、2人目の娘を出産 長女イレーヌ 次女エーヴ
子どもの世話に追われていた
4月19日
夫はマリーに「もう少し実験室に顔を出すよう」に言った
しかしマリーは「行けるかどうか分からない 無理を言って困らせないでほしい」と言う
放射能の研究を続ける中で 数年前から体調不良に悩まされ
足取りがおぼつかなくなっていたピエールは一人 仕事に向かった
2頭立ての馬車がすぐそばを通りかかる
重い荷物を積んでいた馬車の車輪はピエールの頭蓋骨を砕いた
即死だった 享年46歳
ピエールの遺体と対面し 茫然自失するマリーの様子を 次女エーヴはこう記している
「マリーは身じろぎもしなかった まるで人形のようになってしまった」
愛する夫 何より科学に身を捧げる同志の喪失だった
マリーはピエールが死んだ時に身につけていた服をずっと取っておいた
そこにはピエールの脳の欠片がこびりついていた
その腐った残骸を瞬きもせずに見つめ、触り、我を忘れてキスをした
天才としての独創的な発想を生み出していた脳
「再び研究漬けの日々」
ピエールとともに進めていた放射能の研究を一人黙々と続けた
マリーの日記より
「あなたの誇りとなることだけが私の生きる支えです」
マリーの娘達は ピエールが死んだその日から
母の人格がガラッと変わったのを目の当たりにした
マリーは研究に身を捧げ、放射能だけに執着した
(もっとも愛する者の喪失で、心を病んでいたのでは?
マリーは、朝から夜中の2時、3時まで実験室にこもった
学会に出席するために何日か家を空けることもあった
母との時間を失った娘たち
長女はマリーにこんな手紙を送っている
「私の優しいお母さん いつ私たちたちのもとに戻ってくるのですか?
お母さんが戻ってくればとても幸せです 私はとても抱きつきたいからです」
しかしマリーが見ていたのは科学だけだった
この頃マリーは子ども達について日記にこう綴っている
「どちらも優しく、可愛く、いい子です
ですが娘たちでは私の生命力を呼び覚ますことはできないのです」
■第4章 ラジウム狂想曲
特許を取らなかったことが後押しし、その利用が広がって行くラジウム
がん治療に役立つというキュリー夫妻の発表をきっかけに
1910年代には多くの病院でラジウム治療が実践されるようになった
ラジウムは「生命の万能薬」「魔法の力」ともてはやされ
様々な商品にラジウムが配合された
(なんてこった! だから最新科学、最新医療をなんて信じられないんだ
金と結びつくとろくなことにならない
美しい肌をつくると言われたラジウム入りの化粧品(ヤバイ・・・
強壮剤になるというふれこみの「ラジウムウォーター」を作るポット
ラジウムパン、入浴剤など ラジウム商品が続々と登場した
そうした商品の中から恐ろしい事件が発生する
「ラジウム時計」
文字盤をラジウム入りの塗料で塗り、暗闇でも見えるようにしたものだった
(そういう目覚まし時計、昔使ってたな さすがにラジウムじゃないだろうけど
特にアメリカで大量に生産された
当時のラジウム時計の工場
「ラジウムガール」
1920年には400万個のラジウム時計を生産
文字盤を塗る工員だけで 2000人以上が働いた その多くが若い女性だった
彼女たちは 細かい塗装を施すため ラジウムが付いた筆を舐めて尖らせた
一人一日何百という文字盤を塗った
その女性たちが 次々と病に倒れた
顎にできた腫瘍
がん細胞の腐敗が起こり、激しい痛みの中で死んでいった
彼女たちは後に「ラジウムガール」と呼ばれた
被害関係者:
被害者のほとんどは高校生でした
顎に大きな腫瘍ができたり
骨の癌を発症したりして死んでいったのです
公衆衛生学の専門家で、ラジウムガール被害について研究したロス・ミュルナー教授:
ラジウムは、体に取り込むと、骨に沈着し、長期間にわたり放射線を出し続けます
そして顎が崩壊し、壊死します
さらに崩壊が進むと、下顎が完全に取れてしまいました
ニュージャージー州 ラジウム時計の工場跡地
かつては高い放射線が検出され
除染作業には 10年の歳月を要した
当時の状況を知る人物を訪ねた
母親が時計の塗装をしていたロナルド・ウィリアムスさん
彼の母はイリノイ州にあった工場で3年間働いた
筆先を舐めずに仕事をしていたため幸いにも被害を免れた
ロナルド:
女性たちはみんな健康的で、若々しく
おしゃれをしたり高収入を得たいと思っていました
より多くの文字盤を塗って、少しでも稼ごうとして筆の先を舐めたのです
会社側は何度も繰り返し「ラジウムは危険じゃない」と言っていたそうです
母達は騙されていたのです
1925年 ラジウムガールの被害が初めて小さな記事で報じられた
24歳の工員マーガレット・カーロウが会社を相手取り 訴訟を起こした
これをきっかけに病気の原因の調査が本格的に始まった
亡くなった被害者を解剖したところ、肺などの器官や骨から
高い放射線が検出された
ラジウム被害に関する調査をまとめた報告書:
女性たちを死に至らしめた謎の病気の原因は、微小な放射性物質である
ラジウム時計に使われていたラジウムが非常に少量であったため
当時の科学者たちはそれが人間を死に至らしめるなどと考えもしませんでした
しかし調査の結果、ほとんどの科学者がラジウムが原因だと認めました
さらに報告書の発表後にも女性たちが次々と亡くなっていき
ラジウムの危険性は一層明白になりました
(これはマリーの研究のせいもあるけど
それに乗じていろんな商品を作った企業の責任も重大
ピエールは害になる可能性も指摘していたわけだし
「ラジウム産業」に恩恵を与え、人類に貢献したと考えていたマリーは
ラジウムガールの被害についてアメリカの新聞が行ったインタビューにこう答えている
マリー:
体内に入ってしまったラジウムを除去する方法はありません
最適な方法は、仕事を辞め、雇われていた工場から限りなく離れた場所に住むことです
「放射線障害」
その頃、マリーはパリのラジウム研究所の初代所長として
放射能の研究に邁進していた
しかし、マリー自身、いくつもの体調不良に襲われていた
貧血、慢性的な疲労感、指先はただれ、ひび割れていた
研究所では ラジウムによる指先の火傷は、科学の戦場で勝ち取った勲章だった
(マッドドクター?! 天才となんとかは紙一重とか
マリーと一緒に研究をした学生や研究者たちは
放射線の火傷の跡のある手を見せて自慢していました
それは、貴重な物質を取り扱っている誇り
最先端の科学者である証明だったのです
体調を崩した職員には短い休暇を与え、山の新鮮な空気を吸ってくるよう勧めた
(治療法が見つかる前の結核患者と同じアドバイス
かつての同僚にも被害者が出た モーリス・ドムニトロー
20年間ラジウムを使い続け、突然激しい疲労感と手足の痛みに襲われて入院
ひと月も待たずに悪性貧血で死亡した
死の間際「放射性のガスに殺された」と漏らしたと言う
彼の死因について報告書を作らせたマリーは、そこにこう書いた
「彼は新鮮な空気を十分にとることができなかった」
放射能の危険性を認識していたにも関わらず
マリーはなぜ そこに科学者の目を向けることができなかったのか
マリーは知人にこう語った
「放射能も私が産んだ子どもなの
その子の教育のために、自分の力の全て
自分の研究生活の全てを捧げようと思っているわ」
バーバラ:
マリーは自分の発見したラジウムを溺愛していたのです
それ以外のことはすべて二の次でした
ラジウム、放射能はマリーにとって我が子同然
ピエールという同志を失ってからも心を満たしてくれるものでした
危険性があるからといって失うわけにはいかなかったのです
マリーはラジウムと放射能にひたすら執着したのです
「2度目のノーベル化学賞を受賞」
研究を続けたマリーは1911年 再びノーベル化学賞を受賞
この賞を2度受賞した科学者は 2018年までに4人しかいません
(ノーベル賞って、必ずしも平和や幸福に基づく観点から選ばれるものじゃないんだな
新しいモノを見つけた人に「イイねv」みたいな感覚
やがて世間や他の科学者たちが 放射能の危険性に気づき始めました(遅いよ
ラジウムガール達が働いていた会社では
男性社員たちには その危険性を警告していました(ここにまで性差別!?
女性達とは対照的に 男性たちは 鉛のエプロンで 身を守っていました
また 同時代のドイツの物理学者 リーゼ・マイトナーは
直接手で触れないように放射線対策をとっていたといいます
しかしマリーは 最後まで放射線の死の側面から目を逸らし続けたのです
■第5章 マリーが切り開いた核の時代
年を重ねるごとにマリーの体は蝕まれていった
肝臓と腎臓の障害、極度の貧血、絶え間ない耳鳴り
視力も衰え、両目とも白内障の恐れがあった
日に日に弱っていく中で、親しい友人にだけ漏らした告白がある
マリー:
私の白内障の本当の原因は ラジウムかもしれないの
ふらついて 歩くのに苦労するのも ラジウムのせいかもしれない
1934年7月4日 マリー 死去 享年66歳
死因は「放射線被曝」による再生不良貧血
母の愛を渇望していた長女はマリーの背中を追って科学の道に進んでいた
科学者の夫と共に、母が切り開いた放射能の研究を進め
1935年 夫妻でノーベル化学賞を受賞
しかし、イレーヌ夫妻もまた「放射線障害」で亡くなった
マリーの発見は、世界中の科学者を「原子」そのものの研究へと向かわせた
それはその後の世界のありようを変えてしまう「禁断の扉」でもあった
「原子爆弾」
原子は「原子核」を持ち、その原子核が分裂する際、大きなエネルギーを発する これが原子力
1945年8月6日
人類は 原子力を大量破壊兵器として利用する原子爆弾を完成させ 初めて実戦で使用
広島に投下された原子爆弾は、爆心地から2kmの建物ほとんど全てを吹き飛ばし
一瞬にして人々の命を奪った
原爆投下後の広島
さらに、大量に放出された「放射線」の影響が生き延びた人々にも後々までつきまとう
その後も核兵器の開発・拡散は続いた
バーバラ:
マリーは、自分が愛した発見は、必ず世界を良い方向に導くと信じていました
まさか悪い方向に行くなんて そんな可能性を考えていたでしょうか
それはキノコ雲となってしまいました
彼女が知ったら後悔したでしょう 自分がその扉を開いてしまったことを
(もっと罪深いのは、放射能、原子爆弾が 一瞬にして大勢を殺すと知っていながら
今なお大量に持ち続けている 世界中の国々だ
「原子力発電」
核分裂のエネルギーを利用した「原子力発電」が
1950年代以降 各国で実用化され、各国で実用化される
放射性物質を燃料に 巨大な電力を生み出すが
ひとたび制御不能になれば大惨事を引き起こす
※東京電力ホームページより引用
1986年 チェルノブイリ
2011年 福島
バーバラ:
起きたことを元に戻すのは難しいのです
我々は今後、何世代にもわたって
この恐ろしい力と付き合っていかなければなりません
人類は放射能の恐怖と切り離せない「核の時代」へと突き進んでいったのだ
科学上の偉大な発見は、時に世界をこれまでとはまったく違うものに変えてしまいます
「パリの国立図書館」
ここにマリーの研究ノートが保管されているが
マイクロフィルムの閲覧でしか許されていない
今なお放射性物質の影響が残っているのだという
ラジウム被害が続出している渦中にあった 晩年のマリー
慣れ親しんだラジウムの光を じっと見つめ こう呟いたと言う
マリー:なんて美しいんでしょう
<次週の番宣>
*
ラジウムもウランも 自然の物質
自然はすべからく美しく、我々を魅了するが
使い方によっては 地球そのものも
滅ぼしてしまう力があることを忘れてはならない
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・毎年恒例上映 『31年目のチェルノブイリ』@ポレポレ東中野(2017.4.27)
・NHKアーカイブス「チェルノブイリが語ること~原発事故30年の教訓~」